デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
1款 埼玉学友会
■綱文

第45巻 p.123-127(DK450043k) ページ画像

大正3年2月11日(1914年)

是日栄一、当会ノ例会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

委員日誌(三)(DK450043k-0001)
第45巻 p.123 ページ画像

委員日誌(三)            (埼玉学生誘掖会所蔵)
二月十一日(水)○大正三年
 此日例により此舎ホールに於て、埼玉学生学友会開催せらる、先輩並ニ多数会員来舎ありき、渋沢会頭の懇切なる訓話、及び川島海軍中将、和田垣法学博士の講演あり○下略


学友会報 埼玉学友会編 第二二号・第一―九頁大正四年二月 講演 青淵先生訓示(DK450043k-0002)
第45巻 p.123-127 ページ画像

学友会報 埼玉学友会編  第二二号・第一―九頁大正四年二月
  講演
    青淵先生訓示
 臨場の諸君並学生諸子、本日の学友会総会は幸に天気も快晴であり諸君と共に一堂に会することを得たのは私の最も愉快に存ずるところであります。
 昨年の総会に於ても同じく此の席に於て勅語を捧読し、賞品を授与し続いて愚見を述べて諸君の将来を誡めたのでありました、其の時申した如く人間と云ふものは年々同じ事を繰返す、似たやうな事をやつて居ると御話しましたが、是は学友会に関係して吾々老人も同じ事を繰返すが社会も亦同じ事を繰返して居る、政治界も同じ事を繰返して居る、元来人間と云ふものは同じ事を繰返すべき習癖を有つて居るものと見へる。
 昨年は丁度此の席に於て諸君に向つて「元気を進める」ことに付て御話をしましたが、今日も矢張り同じ事を言はねばならぬ、故に吾々ばかりが同じ事を繰返すのでなくて、世の中総てが同じやうな事を繰返して行くものである、と私は感じて居ります、併し其の時も申した通り同じ事を繰返して行く中に常に向上進歩の道を開いて行くのが肝要であります、人間は必ずしも変つた歳月のみを迎へる訳にはいかぬもので、幾年経つても、何代経つても人は人である、それ故に同じ事を繰返して行きつゝも一歩々々進んで行きたいものである、政治界の有様は去年に比較して今年はどれ程進んだであらう、少しも進んだやうに思はれぬのは甚だ残念千万である、それは別として諸君は自己の本分として年一年同じ事を繰返す中にも、一方には向上進歩せられるやうに只管希望するのである。
 - 第45巻 p.124 -ページ画像 
 昨年は丁度本多日生師と井上博士が御出で下さつて御講演を煩はしたと覚へて居ります、今日は川島中将閣下の尊臨を得ましたから、軍事に関する有益なる御話が伺へることゝ思ひます、又和田垣博士も未だ御見へにはならぬが必ず御出で下さることゝ思ひます、随て諸君は定めし耳新しい御話を後で伺へることと思ひますから、私が諸君に対する訓誡的談話は長いことは申しませぬ。
 さて去年は武蔵武士を出版したに付て其の武蔵武士の広告的演説をしたのである、爾来一年を経過いたしましたから、諸君の中、悉くとは申さぬが或は御覧になつた方々は、吾々が之を調査せしめた意思、又之が調査に従事された人々の意思のある所は幾らか了解されたらうと思ひます、蓋し玆に集まられた諸君の中には、将来或は軍人になる方もあらう、併し学友会の多くは実業界の人である、此の実業界の者から見れば斯様な書物を出版したのは何う云ふ意味であるかと云ふことは昨年も稍や其要領は御話して置きましたが、第一武蔵武士の序文にも書いて置きました通り、我が埼玉県は三百年間徳川幕府の下に在つては小さい藩々に分れて居つて、所謂犬牙交錯、一県を統一したやうな風習も気風も行はれて居らなかつた、自ら各地区々と云ふ有様であつて甚だ面白くなかつた、併し幸にも今日は東京に於て学問をする埼玉県の青年諸君が此の誘掖会に於て共に蛍雪の労を取られる以上は只学問のみを互に研究するに止めず、成るべく好い気風を作りたいと思ひます、更に進んで天下の学生に向つても同様の気風を進めて行きたい、即ち埼玉気質、誘掖会気質と云ふものを造つて行きたい、又今日の学問は多くは科学であつて、先づ智恵を進めると云ふことが第一である、勿論人間は智恵がなければ役に立たぬから最も必要ではあるけれども、併し学校の科学で智恵を進めるばかりが人として満足すべき事柄ではない、其の精神と云ふものは唯智識とか才能ばかりに存するものでない、物質軽んずべからず、精神最も重んずべしと斯う考へなければならぬ、其の精神は学校でのみ注入すべきものでない、勿論其の家庭々々に於て日常好い精神を注入するのが必要であるが、今日の有様では昔の気風は漸々に移り変つて行く世の中であるから、此の文明的良い家庭が必ず各自にあるとは解し難い、斯う云ふ相集つた所では成るべく好い一つの気風なるものを作つて家庭に若し不足がありとすれば之を少し補ふやうにしたい、是が埼玉学生誘掖会の起つた所以である、そこで此の武蔵武士を著述した趣意は何うかと云ふに、勿論古今の歴史を繙いて見れば多士済々たる人物の記述するに遑がないほどである、其中で我に近い祖先、即ち埼玉県に於ては如何なる人物が輩出したるか、即ち我が故郷の昔を追慕するの情である、玆に於て近代の人で何う云ふ人物が出たらうかと考へて見ると、塙保己一伝の如きは既に県庁で心配されて出来て居るのである、古今と云ふても少し遠くを詮索して見やう、畠山重忠と云ふ「お人」を詳しく調べて見たら宜からうと云ふのが動機で武蔵武士になつたのである、此のことは昨年詳く述べまして重複しますから略しますが、併し其の時代の武蔵の国は武を以て天下に冠たりと云ふても宜い位であつた、所謂士気旺盛と云ふものは、其の頃に於ける我が埼玉県にあつたと言つても過
 - 第45巻 p.125 -ページ画像 
言ではない、ところが段々世が移り変りて学問は科学に傾き、即ち智育に傾く結果として動ともすると人が文弱に流れる、淫靡に流れる、狡猾の智恵ばかり進んで真誠の士気が欠けることは最も識者の憂慮して居るところである、吾々も共に其れを憂苦とするのである、玆に於て文学者よりも、国学者よりも、寧ろ少し遠くはあるけれど士気旺盛なりし人を取調べたら宜からうと云ふのが武蔵武士を著述した所以であります。
此の武蔵武士は今の学生諸君には関係が甚だ遠いやうであるけれども精神を発達させたいと云ふ主意から云へば遠いやうで遠くないと云ふことを御理解あるやうに願ひたい、就中、畠山重忠は沈勇で、且つ膂力人に秀でて居つた武士であつた、源頼朝が兵を挙げた時に、重忠の父重能、伯父の有重は京都の平家に仕へて居つた。然るに其の時重忠は十七歳でありましたが、自分で意思を決して初めの間は父や伯父に従ふて源氏に弓を引かうとしたこともある、又三浦義澄・和田義盛などは一族であつたからして、是等の諌めに従ふて或は和睦をせんとしたが遂に事が破れて、衣笠城で三浦義澄等を滅したのも彼の重忠である、是は重忠が十八歳位の時である、其の後義経に従ふて木曾義仲を亡ぼし、京都へ往つた時は二十一歳と書いてある、其の時の戦であるが、大串次郎重親を鎧のまゝ陸へ〓り上げたそうである、是等を以て考へて見ても、何の位彼の力は有つたのだか判らない、其の後鵯越に於て馬を背負つて坂を下つたそうであるが、是等は到底常人の出来る業でない、私共も米一俵位なら背負つたこともあるが、馬はおろか犬でも背負ふことは出来ない、そして彼は武力ばかりかと思ふと、そうでもない、「静」の舞ひに応じて重忠が鼓を撃つた、又尺八も吹いたと云ふ、而して謙遜の徳義の多い人であつた、唯だ不幸にも頼朝薨去の後、北条家に致されて彼の死んだのが四十二歳である、実に重忠の如きは武士の鑑であると思ひます、斯る武人こそ今日の人が尊崇して然るべしと思ひます、諸君は此の「武蔵武士」に就て重忠一代の言行を能く観察せられて、之に肖るやうな方針を取ることを相互に奨励されんことを只管希望して止まぬ次第であります。
 扨て是より私は青年の元気と云ふことに付て一つ意見を述べて見たいと思ふのである、近頃動ともすると新聞に雑誌に近年の青年は元気に乏しい、元気に欠如して居ると云ふことが申してあります、併し私は若い諸君の為めに寧ろ弁護者の位置に立つて、いや現代の青年の元気が乏しいと云ふのは酷である甚だ観察が謬つて居ると申して居るのであります、併し或点に於ては元気が乏しいと云はれても一言も云へない実がないではない、併し先づ其れより先きに、抑も此の元気と云ふものは何であるかを研究せねばならぬ、尤も元気だとか元気旺盛と云ふても大体は判かつて居るけれども、どうも甚だぼんやりした字である、元の字は元日の元の字、気の字は厭気の気の字、即ち余程悪い気になる、故に元気と云ふ字は誠に誤り易い字である、元気が旺盛であるとか、元気が旺盛でないとか、甚だ淫靡に流れるとか惰□《(不明)》であるとか云ふ元気の有無は判らぬ言葉になる、私の考へでは、から威張りに威張つたり、又は論語にある「暴虎憑河」の類のみが元気ではない
 - 第45巻 p.126 -ページ画像 
と思ひます、若し血気の勇と云ふやうに解釈したならば、其れは元気の誤解であつて甚だ不元気に成つて了うのである、今申す文字の上からは一寸解釈しにくいが、何事にも負けぬ気になつて、人に勝つことを元気と解釈するのは、是も亦元気を誤解して居ると云はねばならぬ然らば真の元気と云ふものは何う云ふものであるか、即ち今申す畠山重忠の十七・八より二十一・二の時代が真の元気であつただらうと思ふ、飽くまでも沈勇でありながらすわと云へば必ず人に先んずる力を有つて居る、そうして容子は柔和そうに見へ内剛毅にして外温和である、悪くすると今の元気と云ふものは内心頗る臆病でも外面だけは何だか剛直らしく見せる、昨日あたり日比谷に出かけた人々は多くはそう云ふ種類のものではあるまいか、諸君は或は是等のものを元気と思はれるかも知れませぬが私は是等は元気を誤解したものと思ふのである、斯ふ云ふ元気を鼓吹するやうであつたならば、それこそ元気は忽ち壊乱して人心は暴戻に走るものと、斯う覚悟しなければならぬ、故に元気を極めて事実的に明かに言ひ現はすと、畠山重忠の若い時の動作が乃ち真の元気の模範と云ふべきものと私は思ひます、兎に角諸君は元気なるものを、今言ふ通りに御覧になつて間違ひなからうと思ひます、此の元気を色々に講義して行つて、学問的に吟味して行つたならばそれは限りのないことであります、併し極く手短かに申すと畠山重忠の行動の如き内心に富んだる元気の発動が真の元気の本体と見て差支なからうと思ひます。
そこで今日学生の元気が段々に衰へて来たと云ふ説に対しては―私は弁護するけれども―併し事実に於て左様な傾きのあることは免れぬと思ふ、故に一方から、どうして然うなるかと云ふことを考へて見たい乃ち是には二つの理由があると思ふ、其の一つは智恵を進めると云ふことが自然と元気を鈍らせる、若しくは弱らせるとも云へる、其の二つとしては教育の確立せぬ事……之が元気を鈍らせる、弱らせる原因だらうと思ひます、併し今日の社会は何うしても科学を修めて智識を段々に増進して行かなければならぬから、多少元気を損ずるとしても是は已むを得ませぬ、昔のやうに単に「書は姓名を記すに足れり」と云ふだけでは今日の世の中に処して行くことは出来ぬ、世は日進月歩次ぎから次ぎに発明に発明を重ねて行くもので、世の中の人は其れ其れ智恵を相当に具へねばならぬから、各方面から一途に智識を増すやうな工夫を与へる、是等が自然と元気を減損する事実は争ふべからざることである、故に其の間に処して元気を鈍らせぬやうに心掛けねばならぬのである、されば此の性質々々に依て階級を多く刻んで、そうして学問をさせるやうに自己修養の出来るやうにして行つたならば、此の元気を侵害することが余程少いだらうと思はれる、勿論今日の学生の気風が完全だと言はぬ、まだまだ大に改良の余地があらうと思ひます、私は素より学者ではないが、何に致せ学生の元気を振興せしむるには確立した教育が必要であらうと思ひます、故に諸君も今の間に自ら是ではならぬと云ふことに深く省みる所あれば、此の元気をして旺盛ならしむことは出来ぬことはないのである、近古維新前の有名な御方々は其の元気なるものは旺盛なものでありました、旧幕の昔から
 - 第45巻 p.127 -ページ画像 
今日までの有名なる人々を考へて見ると、各々特色はあるけれども、又畠山重忠一流とは云はれぬけれども、例へば水戸黄門光圀卿、或は松平定信卿、斯う云ふ人々は殊に元気が旺盛であつたに相違ない、光圀卿は十八歳に兄の頼重卿に代りて家督を襲いだのであるが、史記を読んで御自分の家督相続のことが順序として善くないと云ふことに気付かれて、後に妻を娶られて御子様があつたけれども、系統を重んじて我子に我跡を相続せしめなかつたと云ふことである、是等は唯だ元気旺盛としのみ言ふことには適らぬかも知れぬが、其の覚悟の堅実であつたことは人の容易に出来ることでない、又松平定信と云ふ人は大変癇癖の強い人で三十歳で老中になられたが、丹羽守の暴政を憎んで自ら刺殺した、元気も旺盛であつたに相違ないが、其の勇気を以て七年の間老中を勤め、文政十一年に薨去せられた御方であるが、其の執政の間は世の中も能く治まり、後には風月に心を寄せて平和に一生を終られた文武兼備の名君であつた、元気旺盛の人と云へば今挙げた一二の人には止まらない、旧幕より明治聖代に推移る間に於ては、多くの大人物が輩出しました、畢竟其の人々の為めに空前の王政維新も出来、今日の文明進歩も見らるゝことになりました訳で、維新前後の大人物を数へ挙げて見れば却々面白いことばかりで、例へば西郷南洲翁にしろ、大久保甲東先生にしろ、木戸松菊・伊藤春畝と云ふ様な人々もつと以前に溯れば吉田松蔭、或は橋本左内・梅田雲浜、蓋し皆元気旺盛の人達であつて、果して大政維新に相当の貢献を致して居る、中には不幸にして幽囚の身となり相果てた人々も少くないが、其の士気精神は今尚ほ存在して居るもので、即ち吉田松蔭とか橋本左内とか云ふ人は、己の躯体は此の世の中に有形的に効能を現はさゞりしも、然かも其の感化の無形的に広大無辺なりしことは、併せて元気旺盛の結果と云ふことを証して余りあるのである、青年に元気と云ふことは実に肝要のことであつて、前途の長い青年諸君に対して私はどこどこまでも元気旺盛を希望して止まぬのである、其の元気の消耗に恐れる所は今日の科学に伴ふものなることは前に私が詳に述べた通りである、併し大事の科学は止める訳には行かぬ、人は自家の精神修養如何に頼つては元気を損せずして科学を修むることは何も差支はないのである故に諸君は十分なる元気を具へつゝ今日の智育なるものに従ふて行かなければなりません、私が斯様に似たやうな事ばかり年々繰返して申上ぐるのも、単に埼玉県人としての諸君でなく、日本大国民として益国家を隆盛に赴かしめんとするには、一人でも吾が理想に漏るゝことなからんと欲する私の婆心を申述べたのである、毎時もながらつまらぬ事で責めを埋めました、今日は是で終りと致します。(拍手起る)