デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
2款 財団法人埼玉学生誘掖会
■綱文

第45巻 p.185-186(DK450060k) ページ画像

明治44年3月4日(1911年)

是日栄一、当会ノ茶話会ニ出席シ、演説ヲナス。次イデ五月六日、同ジク茶話会ニ出席シ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK450060k-0001)
第45巻 p.185 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
二月十二日 晴 寒
午前八時起床、風邪気ナルニヨリ半身浴ヲ為シ、後朝飧ヲ食シ、埼玉学生誘掖会生徒二人ニ面話ス○下略


埼玉学生誘掖会十年史 同会編 第一四三―一四四頁大正三年一〇月刊(DK450060k-0002)
第45巻 p.185 ページ画像

埼玉学生誘掖会十年史 同会編  第一四三―一四四頁大正三年一〇月刊
 ○第二篇 寄宿舎史
    一、寮史
○上略
三月四日○明治四四年茶話会を開く。会は晩餐を以て始まる。晩餐終つて休憩少時の後、ホールに集まり先づ幼年寮生雛祭と題して、活人画夜打曾我を見せ、次に戸ケ崎委員改めて開会の辞を述ぶ。尋いて渋沢会頭登壇し、其身の上譚の一端を語らる。領主の専横に憤慨して決然家出の臍を固めたる十七歳の頃より、愈々郷を去つて京都に天下の志士と交遊し、一ツ橋家に仕へて同家の為めに新式歩兵の必要を説き、命を受けて之を組織すべき壮丁を備中なる同家所領の内に募りたる頃に及ぶ。明治の今日当時の模様を聞きては蒼古沈痛の思に堪えず。男爵の話に尋いで舎生諸君の五分間演説に移り、諸君の雄弁を聞きぬ。其れより余興に入りて○中略十時頃閉会す。因に当夜の来賓者としては渋沢男爵・諸井恒平・渋沢元治・斎藤阿具・渡辺得男の諸先生並に本多・矢作両博士なりとす。
○下略


埼玉学生誘掖会十年史 同会編 第一四五―一四六頁大正三年一〇月刊(DK450060k-0003)
第45巻 p.185 ページ画像

埼玉学生誘掖会十年史 同会編  第一四五―一四六頁大正三年一〇月刊
 ○第二篇 寄宿舎史
    一、寮史
○上略
五月六日○明治四四年午後六時より当舎ホールに於て、今学期最終の茶話会を開く。而して当茶話会は、七月に於て卒業せらるべき舎生諸君を、県下の諸名士に紹介する意も兼ねたれば、委員諸君の奔走もさこそと推せらる。其の希望も徒労に帰せず、幸に諸名士の出席も多数ありたり。其の芳名を録すれば渋沢会頭・本多監督、矢作・斎藤両副監督、諸井恒平・指田義雄・滝沢吉三郎・長島隆二の諸先生等にして近来稀なる盛会なりき。○中略渋沢会頭の「回顧談」等ありて後、先輩と舎生と打ち混じ車座となり、嬉々談笑時の移るを知らず。
○下略

 - 第45巻 p.186 -ページ画像 

委員日誌(二)(DK450060k-0004)
第45巻 p.186 ページ画像

委員日誌(二)            (埼玉学生誘掖会所蔵)
五月六日(土曜日)○明治四四年
 午後六時より当舎ホールに於て今学期最終の茶話会を開く○中略渋沢会頭は凡そ一身を経営するには国家を其本位とせざるべからずと自己の歴史を語ること詳細にして我々を訓戒すること多時なり○下略