公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第45巻 p.240(DK450079k) ページ画像
大正7年12月5日(1918年)
是日栄一、当会副監督故山川弘毅ノ追悼式ニ臨ミ、弔辞ヲ述ブ。
集会日時通知表 大正七年(DK450079k-0001)
第45巻 p.240 ページ画像
集会日時通知表 大正七年 (渋沢子爵家所蔵)
十二月五日 木 午后七時 故山川弘毅氏弔悼会(埼玉学生誘掖会)
委員日誌(五)(DK450079k-0002)
第45巻 p.240 ページ画像
委員日誌(五) (埼玉学生誘掖会所蔵)
十二月五日○大正七年
副監督故山川弘毅先生廿日祭を午后八時より当舎ホールに於て執行す○中略
会頭閣下は、永生すると色々と不思議なる事に遇ふ物であるわいと言前置より起し、会頭は個人としての故先生を知らさりしも、以上両先生○渋沢元治氏及び斎藤阿具氏の語に依て見れば、是誠に君子人なり、然も此の人今や莫し、其の損失や辞以て表す可からず、然共死後其の徳残り故人を慕ふ者数ふ可からさるは、是れ即ち形骸を離れて追慕する人の心に永生するもの、先生よ以て冥す可しと
○中略
当日渋沢会頭には非常なる御多忙にて、午后より横浜に行かれ、其れより直に当舎に寄られた、其の為会頭の命令によりて六時に始む可かりしを八時半にせしも、尚遅刻せられて祭文中に来会せられた然し吾々は、単なる吾々舎生の開く廿日祭に、あの老齢にも拘らずかくまで御都合なさるゝを見て、其の熱心に驚き一層感謝せざるを得なかつた