デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
2款 財団法人埼玉学生誘掖会
■綱文

第45巻 p.254-259(DK450091k) ページ画像

昭和6年11月15日(1931年)

是月十一日栄一歿ス。是日葬儀ニ際シ、当会副会頭本多静六ヨリ弔詞ヲ贈ル。


■資料

竜門雑誌 第五一八号・第二〇―六一頁昭和六年一一月 葬儀○渋沢栄一(DK450091k-0001)
第45巻 p.254-255 ページ画像

竜門雑誌  第五一八号・第二〇―六一頁昭和六年一一月
    葬儀○渋沢栄一
十五日○一一月
○中略
 一、青山斎場着棺  午前九時四十分
 一、葬儀開始    午前十時
 - 第45巻 p.255 -ページ画像 
 一、葬儀終了    午前十一時三十分
 一、告別式     午後一時開始三時終了
○中略
また東京市民を代表した永田市長の弔詞、実業界を代表した郷誠之助男の弔詞朗読があり、他の数百に達する弔詞を霊前に供へ、十一時半予定の如く葬儀を終了した。
○中略
    弔詞
○中略
 尚ほその他弔詞を寄せられたる重なるものは左の如くである。(順序不同)
○中略
 埼玉学生誘掖会
○下略


埼玉学生誘掖会弔辞 【弔辞 本多静六】(DK450091k-0002)
第45巻 p.255 ページ画像

埼玉学生誘掖会弔辞         (埼玉学生誘掖会所蔵)
(写)
    弔辞
会頭渋沢子爵閣下薨去セラル、洵ニ惋惜ノ至リニ堪ヘス、曩ニ本会ノ創立セラルヽヤ、閣下奮ツテ会頭ノ任ニ就カレ、爾来爰ニ二十有八年ニ及ヘリ、其間閣下ハ広ク公共ノ事業ヲ指導セラルヽ旁ラ、本会ヲ統率シテ其基礎ヲ安固ニシ、屡々寄宿舎ニ臨ミテ親シク舎生ヲ教訓セラレ、或ハ奨学ノ制ヲ定メテ資力乏シキ者ノ為メニ成業ノ道ヲ拓キ、或ハ道場ヲ設ケテ武芸ヲ奨励セラレ、其薫陶ヲ受ケシモノ一千数百人ニ達セリ、殊ニ其訓示ハ熱誠懇切ヲ極メテ深ク舎生ヲ感激セシメ、舎生等克ク閣下ノ意ヲ体シテ学ヲ励ミ行ヲ慎ミ、既ニ出テ、社会各般ノ業務ニ活動スルモノ鮮カラス、是レ全ク閣下ノ偉大ナル人格ノ薫化ニヨルモノニシテ、本会ノ陰ニ誇トスル所ナリキ、然ルニ今終ニ幽明処ヲ異ニセラレ、本会ハ復其指導ヲ受クル能ハス、嗚呼悲イカナ、謂フニ今ヤ閣下ノ鴻恩ニ報ユルノ途ハ一アルノミ、閣下ノ養成セル舎風ハ根柢既ニ深ク、又閣下ノ薫育セル英才ハ皆本会ヲ擁護スヘク、我等協心戮力以テ本会ノ発展ヲ期スヘシ、閣下冀クハ瞑セラレヨ、悵恨言フ所ヲ知ラス、聊以テ哀悼ノ辞トナス
  昭和六年十一月十五日
       埼玉学生誘掖会副会頭 林学博士 本多静六


竜門雑誌 第五七八号・第一五―二〇頁昭和一一年一一月 埼玉学生誘掖会と青淵先生 斎藤阿具(DK450091k-0003)
第45巻 p.255-259 ページ画像

竜門雑誌  第五七八号・第一五―二〇頁昭和一一年一一月
    埼玉学生誘掖会と青淵先生
                      斎藤阿具
 青淵先生は明治初年に於ける我国各種実業の開祖であり、引続き実業界の大柱石であつたが、其の他慈善・育英事業等にも広く関係され傍ら国交上にも大に活躍された事は、明治・大正時代の人々の皆周知し敬服した所で、実に我が国人の最大なる誇りであつた。そして育英事業としては多くの大小私立学校を援護して、其の経済的基礎を固か
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らしめたが、我が埼玉学生誘掖会に在りては、其の創立の時より自ら会頭となられて、他界さるゝまで、終始一貫熱誠を以て常に其の発育を図り、且つ其の成長を観て楽まれた。此会は先生の事業としては小なるものであつたが、併し先生に取つては、宛も一愛児の如きものであつたのである。
 我が誘掖会の創立を知るには埼玉学友会に言及するの要がある。明治二十年頃帝国大学・第一高等中学校・高等商業学校等の学生等が中心となつて学友会を作り、時々会合した。当時の発起人は今大抵世を去つたが、現に居らるゝ滝沢吉三郎氏は、その一人だつたと覚ゆ。併し未だ各学校にも先輩にも連絡なく、唯数校有志者の集合に過ぎなかつた。斯かること十余年に及び、先輩にも漸く関係する者が出来たので、其頃の学生等は我県の在京学生の為に寄宿舎を建設して、相共に切磋勉学せんとの運動を起した。蓋し大藩の在つた諸県には、夙に藩主の立てた寄宿舎があつて、同県出身の学徒は其処に起臥して、修学上・人格陶冶上大に利益を得たが、我県には小藩や天領のみ在つたので斯様な寄宿舎がなく我等は常に他県学生を羨望したものであつた。当時此の運動を起した者は、諸井六郎・竹井耕一郎・野口弘毅・諸井四郎・渋沢元治・長島隆二・野崎新太郎等の諸氏である。斯くて学生等は或は先輩を歴訪し、或は地方に遊説し、又学友会報を発行して、県人の同情を喚起し、資金の醵集に努めたが、如何せん彼等の力では目的を遂行することが出来ぬ。そこで我県出身の第一人たる青淵先生の学友会長たらんことを懇請し、幸に承諾を得たのである。是れ明治三十四年の事である。
 是が新発展の基となり、先輩諸氏は先生の飛鳥山邸其他に屡々会合して議を練り、其の結果全県人一団となつて、育英の事業を起すことに決した。そこで京浜在住の県人並に県下各郡村に檄を飛ばして賛同を求め、又特に有力者に説いて出資を勧誘し、玆に明治三十五年三月を以て埼玉学生誘掖会が創立され、青淵先生が会頭に、男爵佐野延勝氏が副会頭に推挙された。こゝに至るまで、青淵先生・先輩諸氏並に学友会員等の苦心奪闘は洵に筆紙に悉し難いほどで、中にも本多静六諸井恒平両氏は、其の創立前後、最も熱心に奔走勧誘劃策に努められたのである。斯くて牛込区砂土原町に敷地を得て、寄宿舎の工事を起したが、一方同区榎町に仮寄宿舎を設けて、三十七年四月より事業を開始し、本寄宿舎の建築落成するに及んで、同年十月初之に移つた。そして最初の寄宿舎監督には、本多博士自ら之に当られた。
        *
 当寄宿舎の設置は最も時宜に適したものと見え、入舎を希望する者続々出で、有為の青年等入りて後生を指導し、舎生は元気活溌の気風に富み、本会設立の意義も明に認められた。依て四十一年には第二寄宿舎を隣地に建て、舎生も青年・中年・幼年の三寮に別ち、別々に監督することゝなつた。そして明治の末年から大正の前半に亘つては、舎室の収容力も極度に使用され、在舎生は常に百人を越え、それ以上は已むを得ず入舎を謝絶する勢であつた。尚本会は明治四十四年に財団法人を認可されたので、此際更に基金を募集し、基礎愈々堅実とな
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つた。創立の時も此時も、先生が最大多額の出資者であつたことは勿論であるが、此の資金募集の時に先生は、『此会など自分一人の力で立つるは敢て難事でない、併しそれでは渋沢一人の私有物となつてしまう、私は此会を埼玉県人全体の精神の籠つたものとしたいのだ』と申された。此語によりても、先生の人となり、又意の在る所を窺知し得るのである、其後大正三年には、本会創立後十年を経たので、此年十月三十一日即ち天長節を期して王子の先生の邸園に於て十周年記念祝賀会を開催した。此日先輩・出身者・県下の出資者・舎生等多数来会して甚だ盛況を極めた。此機会に本会の十年史を作つて出席者に贈与したから、此時までの詳細な沿革は之に拠つて知ることが出来る。
 大正五年には、先生喜寿に達せられたので、本会にては其の記念として、奨学資金募集の事業を企て、翌年二月十三日即ち先生の誕辰を以て、上野の精養軒で、祝賀会に兼ねて右資金の贈呈式を挙行した。其際先生は之を快受され、之に巨額の金を加へられて、更に之を本会に寄贈された。是が渋沢奨学資金といふ名義で、本会の別口資金となり、爾来其の利子を以て、学資に窮せる優秀学生を救済しつゝある。祝賀会席上述べられた答辞に於て、先生は昨年七十七歳を機として第一銀行始め諸会社との関係を断つたが、今後は主として道徳経済の一致・資本労働の調和・感化救済の施設・教育事業其他外交殊に米支との国交に余力を尽す意嚮である旨申され、其中に『銀行を辞することは出来るが国民を辞することは出来ぬ』といふ語があつた。是は実に金言名句と感心して、今尚私の耳に留まつてゐる。
 私は学友会の初期時代は大抵其の会合に出席したが、明治三十年から四十年まで十年間は、地方又は外国に居たので、誘掖会の創立には与らなかつた。四十年の初、東京に帰つた後も、学問以外の事には成るべく関係せぬやうにしてゐたが、遂に引出され、翌年一月に本会寄宿舎の副監督を嘱託された。其頃私は外国で調べた事を纏めつゝあつたので、固辞したけれども、指名者たる渋沢会頭は、『老人に恥をかかしてくれるな』と申されたので、往生してしまつたのである。実は是まで私は青淵先生に接触したことはなかつたが、是から後監督となり、専務理事となり、大正六年に辞するまで十年間は、本会の会議や舎の茶話会などで、いつも先生と同席したので、私は段々先生の偉大なる人格に打たれ、厚く敬重するやうになつた。其後も私は平理事として、本会や寄宿舎の会合で、時々先生に接する機会を有して先生終焉の時に及んだ。
 先生は舎生の茶話会には、喜んで必ず出席され、他の先輩は寧ろ先生に引ずられ気味であつた。或時舎生の方で日を定めてから先生に申出たところ、先生は不機嫌で、自分は多忙の身故、勝手に定められては困る、予め我が都合を聴いてから、日を決定せよと申された。その代り一旦承諾された以上は、必ず出席されて、舎生と共に粗末な晩餐を甘さうに召上り、又夜遅くまで舎生の幼稚な演説や余興を面白げに傍聴観覧された。尚毎回舎生に対して懇切熱誠なる訓話をなされたが其の説く所は、少壮学者が単に学識に基づいて述ぶると異なつて、多年の貴き体験に由るので、深き感銘を舎生に与へ、舎生は皆非常に先
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生を尊敬愛慕した。
 先生が普通一般の実業家と異なる一つの点は、学問を尊重された事である。誘掖会の基礎固まり、寄宿舎も盛況となるや、先生は本会の副事業として、我県に関係ある書物を作らんことを希望され、私にも考慮を求められた。依て私は大学修史局の渡辺世祐・八代国治の両氏に『武蔵武士』の著作を請ひ、稿成るや、先生も親しく閲読され、大正二年本会で之を出版した。其際県下の小学校全体には、特に之を寄贈した。其後も私を見る毎に、何か別に有益なる著作を出したいと申さるゝので、私も其の熱心に動かされ、今度は加藤三吾氏に依嘱して『埼玉県人物誌』を著作させ、大正十年本会の名で之を刊行した。先生は用務多端の身を以て、右の二書の為に、特に序文を書かれて、之に光彩を添へられた。
 又先生は少壮時代撃剣を修められたので、頗る武道に興味を有せられ、明治四十四年には誘掖会の構内に道場を建設され、剣道柔道の二部を置いて、舎生に練習させ、以て剛健の気風を養はせた。尚先生は県出身の剣士高野佐三郎氏に依頼して、東京及近県の一流剣客の出席を求め、此の道場で撃剣の模範試合を開いたこと数回あつた。当日は先生も必ず臨場され、舎生と共にいかにも愉快さうに之を観られた。他界された前年即ち昭和五年の五月二十五日に、此の道場で、県下各中学校生徒の武道試合を観られたのが、先生が本会寄宿舎に臨まれた最後である。
 前に埼玉学友会が誘掖会の生みの母であることを述べたが、斯様な来歴があるから、埼玉学生誘掖会が創立した後も、之と相並んで別に埼玉学友会も存在し、先生は此方の会長でもあつた。此会は広く諸学校在学の我県学生を以て構成し、毎年紀元節の日を以て、大会を開く例であつた。此日も会長たる先生は、特別の事情ない限り、必ず出席して有益なる修養談をなされた。尚大会の時には東京及県下中等学校の優秀生徒に、会長から賞品を授与する慣例であつた。
 さて誘掖会は財団法人として基礎安固であり、在舎生は多数であり又卒業して社会に活動する者は追々増加し、会頭たる青淵先生も、最も満足されてゐたやうに見えた。そして先生の他界後は、本多博士が其の遺業を継承され、出身者は本会の役員となりて之を補助し、毫も不安を感じない。唯時勢の変遷は本会にも影響を及ぼした。東京市に隣接せる我県と市との間には、電車が数線開通し、市に近き所及線路に沿へる県地からは、自宅より直接市内の学校に通学する者が段々増加し、近年に至つては、県の北部即ち秩父・大里・児玉・北埼玉の諸郡の者が、重に入舎する有様となり、大寄宿舎の必要がなくなつた。又一方では、近頃舎屋が大部腐蝕し、専門家の調査に拠りても、完全に修繕するは容易でなく、そして此のまゝでは危険だといふのである依て昨年三月を以て、断然一時寄宿舎を閉鎖して、舎屋を取毀ち、又土地七百坪を売却して、残り二百坪の地に新に小寄宿舎を建つることとなつた、此の新築舎屋はコンクリート造りで目下工事中に在り、今十一月七日を以て上棟式を挙げた。右の次第で寄宿舎の規模は小さくなつたが、是れ畢竟時勢の然らしめた為で、本会其者の価値の問題で
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はない。況して土地売却代金の一部は、更に基金に組入れられて、一般利下げの為に被る歳入の減少を補塡して余ある。要するに今度の変革によつて、舎屋は堅牢となり、基金は増額し、所謂一挙両得とは此事である。
        *
 回顧すれば、本会が我県育英の為に貢献した功績は甚だ大で、創立以来入舎した者の総数は約一千三百名である。又卒業者は大正三年に舎友会を作り、爾来年々数回会合して親睦を図り、先輩後輩連絡を保ちつゝある。其会員の数も今五百五十人に達し、本会の理事も寄宿舎監督も、十数年前からは、舎友会員の古参者が代り代り之に当つてゐる。先年先生が米寿になられた時に、舎友会は先生の油絵肖像を作つて先生に贈呈し、謝恩の意を表した。此の肖像は先生から更に本会に下されて、舎の集会室に掲げられ、舎生は日夕先生の温容に接してゐた。殊に本会が誇りとすることは、現在我が県人にして、中央に地方に活躍する有力者の大部分は、我が舎友会員である事である。若し先生の霊が、本会の基礎愈々堅実となり、其の出身者は県人を代表して各方面にて重きを為しつゝある現状を観られたらんには、必ずや微笑意を安んぜらるゝことゝ信ずる。