デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
8款 早稲田大学
■綱文

第45巻 p.380-386(DK450149k) ページ画像

昭和2年10月20日(1927年)

是月四日、当大学基金規定及ビ基金管理委員規定廃止セラレ、栄一、基金管理委員長ノ職ヲ解カル。是日栄一、当大学創立四十五周年並ニ大隈侯記念講堂開館記念式ニ臨ミ、祝辞ヲ述ブ。尚、当大学校友会及ビ早稲田温交会ヨリ、記念品ヲ贈ラル。次イデ栄一、「早稲田学報」式典記念号ノタメニ、感想ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 昭和二年(DK450149k-0001)
第45巻 p.380 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
十月四日 火 午后壱時 早稲田大学維持員会(同大学)


早稲田大学書類(二)(DK450149k-0002)
第45巻 p.380-381 ページ画像

早稲田大学書類(二)          (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓、左記ノ通リ臨時維持員会開会致候間御出席被成下度、此段御通知申上候 敬具
  昭和二年十月一日
             早稲田大学総長 高田早苗
       (宛名手書)
    維持員 子爵渋沢栄一殿
 - 第45巻 p.381 -ページ画像 
 一、日時 昭和二年十月四日(火曜)午後一時
 一、会場 早稲田大学恩賜館
 一、会議目的 一、維持員会長・理事・監事改選ノ件
  (栄一鉛筆)
  当日出席、一同ノ希望ニ応ジテ第一ノ発言者トナリテ、総テ従前ノ通リ重任ト決定セリ
        二、基金規定及基金管理委員規定廃止ノ件
         (栄一鉛筆)
          可決
        三、専門部長嘱任ノ件
        四、其他
         (栄一鉛筆)
          理事者発案ノ通リ可決
   ○栄一、基金管理委員長解任ノ資料ヲ欠クモ、右ニ委員規定廃止ノ件可決セラルルヲ見レバ当然解任セラレタルナリ。後出資料ニ尚コノ役名ヲ残セルハ直後ナルヲ以ツテナルベシ。


早稲田大学書類(二)(DK450149k-0003)
第45巻 p.381 ページ画像

早稲田大学書類(二)          (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓、新秋快適の候愈御清勝敬賀仕候、陳者故総長大隈侯爵記念事業に付ては深甚の御同情を蒙り、別送経過報告書記載の通、中途未曾有の大震火災に遭遇し致し候にも拘らず、幸に昨大正十五年二月老侯記念の大講堂建築工事に着手致し、爾来一年有半鋭意工を督して今回その竣成を告げ候に付、来十月二十日午後二時新築講堂に於て、本大学創立四十五年記念式典と併せて開館式を挙行致し候ことゝ相成、学園一同深く感激罷在候、就ては御多用中恐縮に存候へども、当日午後一時半までに御来臨相仰ぎ度、此段御案内申上候、猶別送写真帖並に色紙聊か記念の印までに拝呈仕候、幸に御受納被成下候はゞ本懐至極に存上候 敬具
   ○追て御来臨の節は必ず此状御持参係員に御示し被下度、尚当日下足の準備仕兼候に付、乍勝手靴又は草履にて御来場願上候
  昭和二年十月五日    早稲田大学総長 高田早苗
    (宛名手書)
    子爵渋沢栄一殿
  二伸 当日聊か準備の都合有之候間御来否十月十五日までに必ず御回報被下度願上候


集会日時通知表 昭和二年(DK450149k-0004)
第45巻 p.381 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年         (渋沢子爵家所蔵)
十月廿日 木 午前十一時 早稲田大学より御案内(大隈会館)
       午后弐時  早稲田大学創立四十五年記念式(同校)


竜門雑誌 第四七〇号・第九一頁昭和二年一一月 青淵先生動静大要(DK450149k-0005)
第45巻 p.381 ページ画像

竜門雑誌 第四七〇号・第九一頁昭和二年一一月
    青淵先生動静大要
      十月中
廿日 早稲田大学基金管理委員会解散に付招宴(大隈会館) 早稲田大学創立四十五年記念式(同校)○下略
 - 第45巻 p.382 -ページ画像 

半世紀の早稲田 早稲田大学出版部編 第三八四頁昭和七年一〇月刊(DK450149k-0006)
第45巻 p.382 ページ画像

半世紀の早稲田 早稲田大学出版部編 第三八四頁昭和七年一〇月刊
 ○第一篇 第五章 昂揚期
    第九節 記念大講堂の建設と四十五年祝典
○上略
 これより先き、四月十六日、記念大講堂上棟式を行ひ高田総長以下之に参列したが、其後工事は着々として進み、十月十五日には全く落成したので、総長高田は参内して御礼を言上し、十九日は護国寺の故総長墓前に於いて報告祭を行つた。是日大隈会館後庭に立てられた故総長夫人大隈綾子の銅像の除幕式が行はれた。
 二十日午前九時、先づ招魂殿開殿式及び招魂祭を行ひ、午後二時から創立四十五年式典、並びに故大隈総長記念大講堂開堂式を挙行し、高田総長の式辞、田中常務理事の報告、佐藤建築主任の工事報告があつた後、渋沢基金管理委員長・水野文部大臣の演説、校友総代埴原正直の祝辞、名誉総長大隈信常の謝辞があつて式を終り、会館園内に於いて立食の饗応があつた。来賓には独、白、伊、土の各大使、丁抺、ペルウ、ルーマニヤ、ポーランド、諾威、チェッコ・スロバキヤの各公使あり、地方校友三百余名、在京校友、職員、学生ら五千余名の出席があつて、実に盛会であつた。○下略


早稲田学報 第三九三号昭和二年一一月 午餐会(DK450149k-0007)
第45巻 p.382 ページ画像

早稲田学報 第三九三号昭和二年一一月
    午餐会
 今回の記念式典を機とし、大隈侯爵家御一族並に校賓を招待して、十月二十日正午大隈会館大書院に於て午餐会を開催したが、大隈信常氏・同御母堂・令夫人・令嬢を始め
  渋沢子爵・望月軍四郎・板谷宮吉・古河男爵・下村観山・平田譲衛・木谷吉次郎・三枝守博・服部金太郎・前島男爵・山下亀三郎
 の諸氏来会、大学側より高田総長以下理事・維持員出席、高田総長より鄭重なる挨拶あり、之に対して渋沢子爵一同を代表して謝辞を述べ、懇談裡に午餐を共にして午後一時散会した。


早稲田学報 第三九三号 昭和二年一一月 記念式典に臨みて(創立四十五年並大隈講堂開館記念式典に於ける祝辞) 子爵渋沢栄一(DK450149k-0008)
第45巻 p.382-383 ページ画像

早稲田学報 第三九三号昭和二年一一月
  記念式典に臨みて
    (創立四十五年並大隈講堂開館記念式典に於ける祝辞)
                    子爵 渋沢栄一
 私は甚だ貧弱な寄附者の一人で、今日総代として此所に祝辞を述べますのは頗る儹越でございますけれども、故総長閣下には五十年の久しき知遇を受けた一人でありますので、斯る機会に一言述べさして頂くのを此上もない光栄として、此壇上に立つたのであります。早稲田大学が創立以来玆に四十五年、而して其間の経過の有様は今総長より詳しき御報告で御同様承知致しました。もう多弁を要する迄もなく、如何に世の中に貢献したかと云ふことが申上げ得らるゝやうであります。而して此記念会館を造ると云ふことに付きましての基金の模様、及びそれらに就いて我々も頗る御同情を申して、微力ながらも今日玆に力を致した積りでございますが、五万有余の人々が集まつて二百万
 - 第45巻 p.383 -ページ画像 
円以上の寄附が出来たと云ふことは此上もない喜しいことでございます。……
 (此の時子爵には俄に腹痛を起され、式場委員に扶けられて退壇、別室に於いて暫時休養の後、再び壇上に立たれたのであつた)
 私は腹痛の為めに中座を致しました、深く御詫を致します。特に申上げる程のことも私は無いのであります。寄附を致した代表として此大学に対して御挨拶を申上げればそれで宜からうと思ひますが、唯今水野文部大臣から故大隈侯爵及伊藤公爵の教育と政治の関係に就いての御話がありました。丁度私も其式に実際に列して居りまして内容も多少承はつて居ります。故に是等は所謂懐旧談のやうなことであるけれども一言述べやうと存じましたのですが、全く文部大臣の御話の通りでありますから、もうそれは申上げぬことに致します。更に申上げたいのは此寄附者の側で申すのではございませぬけれども、大体費用の使はれ方が正直に明確に示され、其目的を達成すると云ふことに於て寄附者は満足すると思ふのでございます。事に依ると或る寄附をしたが何になつたか分らぬと云ふ例が随分多くございます。私共は左様な苦情を申す寄附者のあることを能く聞くのでございます。此の如き重要な学校のことであつても、さう云ふ弊害があるが、況んや社会事業などに付ては寄附々々と申して、其寄附したものがどれ丈けの効果を呈したかと云ふことを申し得ぬ場合があるのでございます。本大学も前にあつた所の寄附又此講堂を造る事柄に付いて企てられた寄附に付いて、唯今総長からも詳しく御述べになりましたし又田中理事からも詳細に御述べになりましたが、誠に其宜しきを得て居るのでございます。斯く申しまする私は十分な事は存じませぬが、管理委員と云ふものが出来て居りまして、其委員の一人として私は委員長を命ぜられて始終此金の使ひ方に付いては、それはいかぬ、是はならぬ、斯うせよと云ふやうなことを申出て居つたのであります。如何に皆様の寄附して下さつた金額が誠に完全に使はれたかと云ふことは、憚りながら私が保証に立つ資格があると思ひます。依つて又再び寄附を募るから出して呉れと申す訳ではございませぬ、又申上げぬとも限らぬのでありますが、それで寄附して下さつた金額は真に必要に使はれた。詰り申すと此早稲田の募りました基金は、全く其目的の為めに使はれた。外のことは私は能く存じませぬが、此寄附金に付いては之を証明する丈けの資格を私は持つて居りますので此事を一言申上げます。
   ○右演説ノ要項案ハ「論文其他草稿類」(一)(渋沢子爵家所蔵)中ニアリ。


東京朝日新聞 第一四八八三号昭和二年一〇月二一日 都の西北に一大偉観 早大講堂開館式 きのふ盛大に挙行さる(DK450149k-0009)
第45巻 p.383-384 ページ画像

東京朝日新聞 第一四八八三号昭和二年一〇月二一日
  都の西北に一大偉観
    早大講堂開館式
      きのふ盛大に挙行さる
故大隈侯の記念事業の一つとして、先頃来早稲田学園にとつては由緒深い大隈侯邸跡に建築中であつた大講堂はいよいよ完成、廿日同大学創立四十五年祝典挙行をかね
  盛大な大講堂の開館式を挙げた
 - 第45巻 p.384 -ページ画像 
 総工費約七十万円、佐藤博士の監督下に学校職員・卒業生が、延人員約三万七千人の人夫を使用し、老侯に報ゆる赤誠で出来上つたといつてもいゝ、大講堂は近代建築の粋を網羅した実に見事なものでイス席が無慮五千、立てば一万人を裕にいれ得る日本第一のホールと誇つている、老侯が生前唱道した百二十五歳説にちなみ、百二十五尺の突塔が高く学園前にそびゆるあたり一大偉観である、地下室に千五百人の聴衆を容れ得る小ホールがある位に広大なもので、音響の点はもちろん、ステーヂは同界の大家坪内博士の指導を受けたといふ自慢のものである
式は予定より少し遅れて午後二時十分から始まつたが、来賓は各国大公使を始め朝野の名士約一千、校友・学生合計一万人がギツシリ、場内は文字通りハチ切れるやうな盛況で、校旗を先頭にガウン姿の先生達約九百人が列をなして入場するなど極めて厳しゆくだつた、難波幹事の開会の辞に次で高田総長が、今から四十年前まだ二十三歳の青年時、始めて同校に関係してからのことを追懐しつゝ
 学校 の現状を述べ、田中常務理事の報告、佐藤博士の工事報告があり、それより渋沢老子爵が寄付者側を代表して『寄付金が有意義に使はれたのは私が保証する』といつて笑はせ、水野文相が祝辞をそつちのけに、二十数年前教べんをとつた時の思ひ出話から遂に大隈老侯故伊藤公の昔、学校の祝賀会当時の昔の演説におよび『あのきたない暗い校舎がこんなにならうとは思はなかつた』とこれも懐旧に堪へない様だつたが、さながら私立
 大学 沿革の裏面史を聴かされる様だつた、校友代表の埴原氏の祝辞後、大隈信常侯の謝辞が終つてから元気のいゝあの校歌を合唱して四時四十分閉会、かくて来賓一同は、老侯が数奇を凝らした庭園で立食の宴に寛ぎ、夕暮と共に散会した


早稲田大学書類(二)(DK450149k-0010)
第45巻 p.384 ページ画像

早稲田大学書類(二)          (渋沢子爵家所蔵)
(写)
一、図書    目録別紙
右母校早稲田大学創立四十五年記念並大隈総長記念講堂開館式典ヲ機トシ、多年母校ニ対スル御高援ヲ拝謝スルノ微意ヲ表スル為メ贈呈仕候也
  昭和二年十月二十三日
            早稲田大学校友会長 高田早苗
    子爵渋沢栄一閣下
   ○別紙見当ラズ。


早稲田大学書類(二)(DK450149k-0011)
第45巻 p.384-385 ページ画像

早稲田大学書類(二)          (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓、晩秋の候益御清勝賀上候、陳者本会創立十五周年記念として、左記の物品贈呈致候間、御受納被成下度此段得貴意候 敬具
                    早稲田温交会
    子爵渋沢栄一殿
 - 第45巻 p.385 -ページ画像 
      記
一、銀杯 一対
  昭和二年十月廿四日


早稲田学報 第三九三号昭和二年一一月 早稲田大学と私 渋沢栄一(DK450149k-0012)
第45巻 p.385 ページ画像

早稲田学報 第三九三号昭和二年一一月
    早稲田大学と私
                      渋沢栄一
 早稲田大学四十五周年並びに大隈侯記念講堂開館式典に際して、私は寄附者総代として祝辞を述べんがため登壇いたしまして、開口しばらくして折悪しく不快を覚え、中座したため、充分に祝辞も所感も述べることが出来ませんでした。勿論私は教育界の人でありませんから教育上から創立経過に関しては述べる資格はありませんが、明治の初年から大隈老侯の知遇を受け、殊に早稲田大学では維持員の一員として、且つ基金管理委員長をした関係から、こゝに経過に就て簡単にお話したいと思ひます。
 其昔私は官吏が嫌いでしたが、老侯の切なるお勧めで大蔵省に任官したのは、何でも明治二年の事であります。後六年井上馨さんの辞されると共に野に下つて銀行を創めました。明治十四年老侯が下野して学園の創立に着手されるや、伊藤公を始め其他官界の人々は、侯の学園創立を政治的手段のためである様に誤解してゐました、私も政治的の目的にするものであれば困つたものだとの懸念は持つてゐましたが侯に限つてその様な事はあるまいと思ひ、一方当時官学が形式に流れ徒に費用のかゝるに反して、比較的僅少な費用を以て学問の進歩に貢献することの大きい、即ち大なる収獲を得る為に私学の必要を感じて侯のこの企てを喜びました。只侯の考が余りに進歩的で、自由に過て放漫に流れ統一を欠きはしないかと云ふことを恐れてゐました。
 而して私が直接学園に関係する様になつたのは、高田学長時代に早稲田大学基金管理委員長をしてからであります。その後は学園も急激な発展をしてゆきましたが、不幸にも大正六年所謂早稲田騒動なる、学園にとつては洵に不祥事が勃発した為めに、学長が辞任せらる様なことになりましたから、老侯は病床近く森村翁・中野武営・豊川良平の三氏に私とを招いていはれるには『我輩は今日まで泣き言と愚痴とをいつた事が無かつたが、今度こそは困つた。どうか援けてもらいたい』と入念の御頼みですから、此際お引受けするより仕方があるまいと云ふわけで、四人でお引受けすることになり、主に中野氏とはかり専任の学長を置くことにして、その後しばらくして、高田さんが再び学園に還られて学長の任に就かれ、私達四人が維持員になることになりました。
 この方法が救済策として成功して、其後統一して順調に進み、侯の薨去後始められた記念事業も着々進行して、こゝに盛大な式典を挙げることが出来たのは、私に取つて、侯に対して幾分でも御報いすることが出来たものと喜びにたへない次第であります。(談)
   ○右「早稲田学報」第三九三号ハ創立四十五年並ニ故大隈侯記念講堂開館式記念号ナリ。
 - 第45巻 p.386 -ページ画像 

集会日時通知表 昭和二年(DK450149k-0013)
第45巻 p.386 ページ画像

集会日時通知表 昭和二年      (渋沢子爵家所蔵)
十月廿五日  火 午前 早稲田大学々生来約(飛鳥山邸)
   ○中略。
十一月十四日 月 午后壱時 早稲田大学定時維持員会(同校)


早稲田大学書類(二)(DK450149k-0014)
第45巻 p.386 ページ画像

早稲田大学書類(二)        (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
    定時維持員会報告書
          (昭和二年十一月十四日午後一時)
出席維持員
 侯爵大隈 市島 徳永 渡辺 金子 高田 田中 山田 伯爵松平 寺尾 浅野 坂本 宮田 子爵渋沢 平沼 以上十五氏
○下略


集会日時通知表 昭和三年(DK450149k-0015)
第45巻 p.386 ページ画像

集会日時通知表 昭和三年      (渋沢子爵家所蔵)
参月十四日 水 午后壱時 早稲田大学維持員会(早大恩賜館)


早稲田大学書類(二)(DK450149k-0016)
第45巻 p.386 ページ画像

早稲田大学書類(二)        (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
    定時維持員会報告書
          (昭和三年三月十四日午後一時)
出席維持員
 侯爵大隈 市島 徳永 渡辺 金子 高田 田中 上原 山本 寺尾 浅野 坂本 子爵渋沢 塩沢 平沼 鈴木 以上十六氏
○下略