デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
8款 早稲田大学 付 早稲田中学校
■綱文

第45巻 p.401-406(DK450156k) ページ画像

大正7年3月28日(1918年)

是日栄一、当校卒業式ニ臨ミ、訓辞ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正七年(DK450156k-0001)
第45巻 p.401 ページ画像

集会日時通知表 大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
三月廿八日 木 午後二時 早稲田中学校卒業式


早稲田学報 第二七八号大正七年四月 雑報 早稲田中学校卒業式(DK450156k-0002)
第45巻 p.401-402 ページ画像

早稲田学報 第二七八号大正七年四月
 ○雑報
    ○早稲田中学校卒業式
 - 第45巻 p.402 -ページ画像 
早稲田中学校は三月廿八日午後一時、第二十回卒業証書授与式を挙行せり。定刻第一鐘にて生徒入場。第二鐘にて来賓・父兄・保証人及教職員入場。一同の着席を待ちて幹事増子喜一郎氏挙式を宣し、やがて校長中野礼四郎氏より卒業生百二十名に卒業証書を、各学年修業生に修業証書を、卒業生及各学年中の優等生に優等証書を、卒業生中の特殊精勤生に賞品を、各学年中の精勤生に精勤証書を順次授与せられ、次いで大隈侯爵令夫人卒業生中の上席十五名に賞品授与あり。終つて幹事増子喜一郎氏の学事報告。校長中野礼四郎氏の式辞、校友会総代村上浜吉氏の祝辞あり。更に来賓渋沢男爵・大隈侯爵の訓辞あり。後ち卒業生総代守屋昭氏の答辞あり。会衆一同君が代二唱、閉式を宣し式後別席に於いて茶菓の饗応ありて散会せり。


興風会雑誌 第二二年・第二号大正八年一月 第二十回卒業式訓辞 男爵 渋沢栄一(DK450156k-0003)
第45巻 p.402-406 ページ画像

興風会雑誌 第二二年・第二号大正八年一月
    第二十回卒業式訓辞
                   男爵 渋沢栄一
 閣下、諸君、今日卒業証書授与式に参上致して一言を述ぶる光栄を荷ひました。お聴き及びの通り教育界の事、学問上の知識の乏しい私ですから其点に付て諸君を益する事は出来ませぬ。併し今お述べになりましたお言葉の如く私は老人で能く勉強して居ると云ふ事の賞賛を蒙つた。此所に侯爵閣下が居らつしやいますから、余り老人を以て自ら誇る訳には参りませぬけれども、諸君と比べると三倍以上の年を重ねて居りますから、決して老人と云ふても誤らぬ事だと思ひます。此老人が独りでに老人になつたのではない。矢張り諸君と同じやうに一年に一つづつ年を老つて斯くなつたのでありまして、此年をとつて来た経過をお話することは、多少諸君の為に学問以外に一つの参考となるかと思ふのでございます。皆様は既に中学を終つた人々であるから是から先の学問が専門的に何れの方面にござるかは、各々皆様のお胸にありますので、私には知り得ぬのではありますが、併し最早世の中に斯くありたいと云ふ一つの理想と申さうか、目的と申さうか必ず諸君の間には其辺の目的がそろそろと生じ来つて居らうと思ふ。それが無くして唯ぼんやりと所謂風に柳の吹くがまにまに、世の中を送ると云ふ事は蓋し男の世に処する務めではございませぬ。私は此点に就て最も諸君に御忠告を申したいと思ふのであります。
 併し此御方針の立て方は余程むづかしいもので、途法もなき其高遠の理想を立てゝも、それが果して自身に必ず達し得る理想であると宜いけれども、若し見当違ひの理想を立つて其理想に依つて進んで一生を損する人が往々ある。昔の先輩の人々にも余り理想が高過ぎた為めに、時世と相適応せず遂に蹉跌した人も、殊に此維新の前後に尠からぬのである。之に付ては私などより侯爵閣下は最も能く是等の人々を御存知であらうと思ひます。成程理想を立てるは宜いけれども其立て方が余程肝要である。大隈侯爵は左様では在らつしやりますまいが、私如き世の中に余り効が少ない者であつても一種の理想がある。然し総ての理想は決して届くものではない。又届かぬのみならず、縦し届いてもいろいろの蹉跌があると云ふ事は是が所謂浮世である。決して
 - 第45巻 p.403 -ページ画像 
人間万事意の如くならぬものである。それであるからして此立てる理想に付ては縦しや相当なるものを見込に立てゝも、必ずそれが成就するとは申し得られぬのであります。併し先づ其初めに目的とした所が余りに其人の及ばぬ事に考へ到ることは、非凡な大なる知識を有つたものは宜いかも知れませぬが、先づ普通の者は己れの身に副ふたる希望を立てるのが、世に処するに最も肝要な事と思ふのであります。私なども此点に於ては屡々失敗をして、其失敗の結果方向が段々変つて昔に戻つて、遂に此世界の望などは全く棄てたものになりましたが、矢張り是は今皆様に御忠告する通り、理想の立て方が寧ろ誤つた一人であります。故に私に懲りてさう云ふ事をなさいますなと云ふ意味に於てお聴き取り下すつても宜しいのであります。
 五十余年以前は今日の時代とは全く変つて居りました。私の生立つた時などはホンの謂はゞ百姓である。其農家に成長しましたから国の政治などの事に就ては何等自信がなかつた。故に其一村内若くは一郡内に一個の人物になり得たならば望足れり、父母も喜ぶだらう、安心するだらうと云ふのが、聊か世に立たうと云ふ事業について私の既往に於ける理想であつた。然るに恰度時勢が私の小さい思慮をして大に迷はしめるに至りました。即ち外交上の事が起つたのであります。コンマンド・ペルリが日本に来たのは私が十四の時で、一向私は学問もないが国家的観念が起つた。併し其国家的観念が外交問題に結付て、自己自から為し得る如き考へを有つた。是が遂に私の先づ立てた理想の一蹉跌を惹起した原因であります。是等の事を長々とお話しても一向利益のない事でありますが、私が十五・六の時にどう云ふ考へを有つたと云ふ事は今申上げるやうな訳でありましたが、更に転じて一橋家の家来になつた時には此理想が大に変りましたのであります。迚も一足飛びに一六勝負で世に立たうと云ふ事では往けるものではない、順を追つて行かなければならぬ、日本今日の有様では名君に従つて之を扶けて世に立つが宜からうと云ふのも其時の理想でありました。是も亦失敗しました。何故かと云ふと慶喜公、即ち私が君主と戴いたお方があゝいふ事になつたのでありまして、引続いて海外へ旅行すると云ふやうな事で、其旅行中に日本に大事変が起つて、大勢が一新されたと云ふ時代となつたのでございます。
 そこで最早三十に近い年配でございますから、又再び理想を変化して是は政治界には私如き微力且つ不運な者が世に立つべきものではない、是は方向を変じて従つて商工界で微力を尽して見やうと斯う考へました。是には一つの理由もある。今申した慶喜公と云ふ人がさう云ふ政変から幕府は倒れ、身は殆ど逆賊同様なる御処置を蒙ると云ふやうな訳で、自分の君主とした人が迚も世に立つ事は出来ぬと云ふ事になつたのである。縦し自分が欧羅巴から帰り多少の力がありもしませぬが、ありと見られたにした所が、それに依つて世に立つと云ふ事は甚だ心苦しいと感じましたから、政治界の方面以外で世に幾らか貢献したいと考へ、そこで其実業界に幾らか力を伸して見たいと云ふ目的を起した所以であります。然しこれは一朝一夕の考へではなくつて海外に一年余り居りました間に日本の現在を考へますると、又英仏若く
 - 第45巻 p.404 -ページ画像 
は其他の国々の実況に鑑みて、今日の実業界では迚も是等の人々と相対して事を進めて行く事は出来ない、即ち今の有様では実力が迚も及ばぬと云ふ事を私は深く感じたのであります。今日も実力は種々なる方面に於て必要であります。政治家も実力が必要であります。何でも実力と云ふものは必要であるが、物質的の力は迚も是では往かぬと考へましたから、微力ながら其方に率先して此進歩を図つて見たいと考へました。前に申上げた二度の理想は見事失敗をして殆ど世を誤つた一人である渋沢でありますが、今申上げた其三度目の理想は果して適当であつたか、又は私の才能がそれに応じて居つたかは分りませぬけれども、併し先づ是は応じて居つたものと申しても宜からうと思ひます。
 玆に於て明治六年に官を辞しましてから一昨年銀行を止めるまで四十三年、此理想に依つて聊か実業界に貢献をしたのであります。今皆様に向つて残らず実業界の人におなりなさいと申す積りはない、人物は何れの方面にも必ず必要であるから学者になつても宜しい、軍人となる、最も妙である、或は官吏になるなども宜い。各々其才能を適所に用ゆるは宜しいが、前に申す通りその何れかを選ぶについて熟慮が必要であります。其事に当つては必ず百折撓まずと云ふ事で以てやり遂げると云ふ事が甚だ肝要であります。私が今申す通り三つの変化は強ち自分が其時になつてむづかしとて了簡を変へたのではありませぬ理想の立て方が誤つたのであるけれども、或る点から云ふならば、其時にさう云ふ考へを起したのは全く間違つたとばかりは云はれぬかも知れぬ。私を知る人は之を許して呉れるか知れぬ。唯時非なり、当初の理想は達し得られなかつた。次の理想も誤つた。併し此実業界に於て私自身は甚だ富も重ねず、大業も為し得られませぬ。併し日本の実業界をして幾らか規則立つて文明的に進めると云ふ事に対しては多少の微力を濺いだと思ふ事が出来ますれば、此理想に向つて百折屈せずといふ精神の結果であります。
 前席の御訓示に、人は己に対して克己でなければならぬ、人に対して忠恕でなければならぬ、之を統るに誠実が必要であると云ふ言葉は誠に自己が申上げたいと思ふ事を言ひ尽されて居るのである。此際聊かも言葉を変へる事は出来ぬのであります。「克己復礼天下帰仁」と論語にあります。どうしても、人は克己心が強くなければ往けませぬ。是か其立てた理想を貫徹させるのであります。或る場合は克己がないと決して其理想を貫徹させる事は出来ない。此克己心の強いのは或は吾々以上に彼の英人などは強くはなからうかと思ひますけれども今外国の人は敢て論ずるには及ばぬ、自己自から完全に克己心を立て通すと云ふ事が最も必要であつて、是が一番克己心の強い人間だと云はるゝやうにありたいと思ふのであります。又忠恕と云ふ事は甚だ必要である。論語二十篇の内に最も主として論じて居るのは仁である。此仁と云ふ説方はいろいろあります。或は小さく説き、或は大きく説く。天下国家を治むるを以て仁とする。一人の愛情を以て仁とする。いろいろ説方がありますが天下国家を治める人と云ふのは是は政治上の大なる仁である。併し其仁を小さく説いたのは即ち忠恕である。社
 - 第45巻 p.405 -ページ画像 
会の人に対して忠恕と云ふ事は是は人たる者の常に服膺して誤まらざるものである。併し今の克己忠恕と云ふ事を完全に遂げる事は誠実・誠・真実、之を以てどうしても進んで行くより他はありませぬ。総べて今日の学生諸君に対して私は若し欠点を申さうならば、今申す其三項目は知識才能の進歩から反比例に段々減却して来るやうに感ずることであります。若し今の知識才能が進んで行つても今云ふ克己・忠恕誠実が反比例に減じたならば、其人は形に於て美なり質に於て甚だ微なり。斯く申上げるに躊躇いたしませぬ。誠に今前席に御訓戒になつたお言葉は私の最も賞賛して是非さうありたいと思ふのでございます知識を段々進める学校に於て私が今知識以外の事を申上げるやうであるが、其克己・忠恕の最も肝要な事は今日の時代に、俗に申す縁の下の力持ちと云ふ事が、今現在諸君には甚だ必要はないが、是から先き諸君が世に立つ頃には大に御注意ありたいと思ひます。人は努めた事柄は直ぐ其場で十のものなら十、皆現はれて来るやうに考へるものもあるが、それは決してさうではありませぬ。私はさう云ふ意味を以て縁の下の力持ちをなさいと云ふのではありませぬ。今の克己は自から縁の下の力持ちと云ふ観念を忘れては出来ぬ事である。自己が其場に於て直ぐさま効果を見ない、然し自分のした仕事に対しては必ず其事を忠実にやる、是は即ち俗にいふ縁の下の力持ちである。効果は其所に直ぐ現はれぬ、人が能く見て呉れぬ。然し能く見て呉れぬ事を、必ず完全に達すると云ふ事は、是が男子の最も注意すべき務めと思ひます。所謂犠牲的観念といふものが最も必要である。諸君能くお考へ下さい。此犠牲的観念の強い者が忠を為す。それが沢山あれば其国は必ず強いに相違ない。其国が盛大になるに相違ないのであります。唯今学校の教師は政治上からの多少の名誉を受けるでもなし、又物質上からの大なる富を為すものでもない。賢才を教育するから大に国家に効果はあるけれども、併し其受ける所の報いは甚だ薄いと云ふやうな前席にお言葉がありました。即ち是は恰度縁の下の力持ち犠牲的観念と云ふ事で、誠に結構な事で、左様あつてこそ有為の人々が沢山出来ると私は喜ぶのでありますが、かういふ有難い先生から教育を受けた諸君に於ても真に喜んで其縁の下の力持ちを為すつて下さる事を希望するのであります。
 更に一言申上げて置きたいのは勉強でございます。勉強と云ふても人の知識、境遇に依つて勉強の仕方が必ず違ふ。けれども必ず勉強心と云ふものは青年になつても、中年になつても、老年になつても是は矢張り同一と云つて宜しい。申上げるも失礼だが侯爵の如きは御高年でお居でなさるが、真に御勉強なさる。一寸一例を申上げますると、私が先達で慶喜公の伝記を拵へましてそれを呈した。随分大きな本です。此間お目に懸つた時に、「乃公はもう三冊読んだ」と仰しやつたいろいろ御用があるに相違ない、いろいろな事があるに相違ない、其忙がしい中であの大きな本を三冊お読みなさると云ふのは勉強にあらずして何ぞや。斯の如き高年になつてもさう云ふ御勉強で在らつしやるのでありますが、人はどうしても此勉強がなければ往けませぬ。諸君から見ると私は四倍の年を老つて居るが、此勉強と云ふ事は恰度数
 - 第45巻 p.406 -ページ画像 
字と同じ関係を為すのであつて、若し人が私の半分しか仕事をせぬとすれば、其人は私は八十であるから四十と同じ訳でせう。若し四十の人が私の倍の仕事をしたら八十になつて居る訳である。諸君は是から先き一日に二つづつ仕事をしたならば、向ふ五十年になると百年になつたと同じ訳である。大隈侯爵は百二十五歳と云ふお話であるが、尠くとも侯爵は御年の倍の仕事をなさる事は私は疑はない。
 只今申上げた如く忠恕、誠実、尚之に加ふるに完全なる勉強、而して常に縁の下の力持ちたり得るやうにお覚悟をなされる事を諸君に希望して止まぬのでありますが、老人の世に有り触れた御話を致して老い先長い諸君に御参考に供した次第であります。
   ○当校ハ明治二十九年四月ニ創立シ、最初東京専門学校(早稲田大学ノ前身)ノ講堂ヲ借リテ授業ヲ行ヒシガ、翌三十年十月其ノ新校舎成ル。初メ大隈英麿校長ニ、坪内雄蔵教頭ニ就任ス。(『半世紀の早稲田』〈昭和七年十月刊〉ニ拠ル)