デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
10款 皇典講究所・国学院大学
■綱文

第45巻 p.418-419(DK450161k) ページ画像

大正8年7月12日(1919年)

是年四月、当所総裁竹田宮恒久王薨去セラル。六月二十日北白川宮成久王総裁ニ就任セラレ、是日、当所ニ於テ、総裁奉戴式並ニ当大学卒業式ヲ挙行ス。栄一参列ス。


■資料

集会日時通知表 大正八年(DK450161k-0001)
第45巻 p.418 ページ画像

集会日時通知表 大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
七月十二日 土 午后一時半 皇典研究所総裁奉戴式並《(講)》ニ国学院大学卒業式(国学院大学)


皇典講究所五十年史 同所編 第三〇四―三〇五頁昭和七年一〇月刊(DK450161k-0002)
第45巻 p.418-419 ページ画像

皇典講究所五十年史 同所編 第三〇四―三〇五頁昭和七年一〇月刊
 ○第四章 皇典講究所・国学院大学の発展
    第三節 本所本大学の移転
 本所総裁竹田宮恒久王には、明治四十年十二月、本所総裁を御許諾以来、或は本所評議員会に、或は本大学卒業式に台臨し給ひ、畏くも金枝玉葉の御身を以て、常に本所本大学の上に御心を注がせあそばされたが、大正八年四月二十三日、御齢三十有八にして薨去あらせられたのは、本所本大学一同の悲痛哀悼に堪へなかつたところである。殊に総裁宮の令旨を奉じて、一路拡張事業へと努力してゐた際とて、本所本大学関係者の落胆は一通ではなかつた。然し、和衷協同して事業完成に邁進することは、固より総裁宮の御遺志に対へ奉る所以であるから、一同は鋭意専心敢へて怠るところなかつたが、大正八年六月二十日に至つて、更に北白川宮成久王を本所総裁に奉戴する事を得た。
成久王は、実に故恒久王の御弟にあらせられ、よく本所本大学の地位を理解し給うたので、一同は更に其の力を新にするを得た。その七月十二日、総裁宮成久王には畏くも国学院大学卒業式に台臨あらせられ次の令旨を賜うた。
 - 第45巻 p.419 -ページ画像 
 皇典講究所ハ多年国体ノ講明ト国民思想ノ善導トニ力ヲ致シ、国学院大学ヲ経営シテ幾多ノ人材ヲ養成シ、本邦文化ノ進歩ニ寄与スル所鮮カラズ、成久本所総裁ノ職ニ推サレタルハ深ク欣ビトスル所ナリ、今ヤ世界ノ大戦其ノ局ヲ結ブニ方リ、益々堅実ナル国民精神ヲ涵養シテ、我ガ国運ノ発展ヲ図ラザルベカラズ、成久前総裁ノ遺志ヲ紹ギ、職員及有志ノ協翼ニ倚リ、本所並ニ本大学ノ事業ヲ完成シテ、邦家ノタメ貢献スル所アランコトヲ庶幾フ、職員及協賛ノ諸員克ク斯ノ意ヲ諒セヨ。
  大正八年七月十二日
             豊典講究所総裁 成久王
○下略


渋沢栄一 日記 大正九年(DK450161k-0003)
第45巻 p.419 ページ画像

渋沢栄一日記 大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
三月八日 晴 寒
○上略 皇典講究所員早川氏来リ、寄附金ノ応募ヲ請ハル○下略