デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
11款 慶応義塾
■綱文

第45巻 p.422-424(DK450164k) ページ画像

大正4年6月6日(1915年)

是日、当塾大講堂開館式挙行セラル。栄一臨席シテ講演ヲナス。


■資料

慶応義塾誌 同誌編纂部編 第二四八―二四九頁大正一一年九月刊(DK450164k-0001)
第45巻 p.422 ページ画像

慶応義塾誌 同誌編纂部編 第二四八―二四九頁大正一一年九月刊
 ○第二 慶応義塾の起源及沿革
    □大講堂の開館式
 森村豊明会並に福沢桃介氏の寄附金を以て、大正二年末建築に着手したる義塾大講堂は、予定の如く工事進行し、大正四年夏全部竣成したるを以て、六月六日午後一時より其開館式を挙行せり、此日暑気頓に加はりしも、品海より吹き送る微風心地よく、義塾表門には塾旗と国旗とを樹て、山上の本館と普通部講堂の間には杉葉に蔽はれたる受付を設け、夫れより正面大講堂に至る左右には紅白の幔幕を張りて通路を示し、大講堂内の鉄柱には藤と薔薇の花を配し、正面左右に国旗を絞りて清楚なる装飾を施したり、定刻に至るや来会者は式場の階下二階・三階に各自席を占め、劈頭鎌田塾長開会の辞を述べ、次で森村市左衛門・福沢桃介両氏の謝辞あり、次に来賓側より渋沢栄一男登壇して、故福沢先生の唱導せられたる独立自尊の金言が、如何に幕末の世に必要なりしかを説きて先生の徳を頌したるが、折柄自働車にて来会の大隈重信侯は徐に祝辞及び懐旧談をなし、犬養毅氏は三田学風の変遷を説き、又福沢社頭起ちて一場の挨拶を述べ、是にて式は閉ぢられ直ちに園遊会に移り、一同歓を尽して六時散会せり○下略


渋沢栄一 日記 大正四年(DK450164k-0002)
第45巻 p.422 ページ画像

渋沢栄一日記 大正四年          (渋沢子爵家所蔵)
六月六日 晴
○上略 慶応義塾会堂開館ノ紀念式ニ出席シ、一場ノ祝詞ヲ述フ○下略


集会日時通知表 大正四年(DK450164k-0003)
第45巻 p.422 ページ画像

集会日時通知表 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
六月六日 日 午後一時 慶応義塾大講堂開堂式(同塾)


三田評論 第一〇―二〇頁大正四年七月 徳川氏と強飯式 渋沢栄一(DK450164k-0004)
第45巻 p.422-424 ページ画像

三田評論 第一〇―二〇頁大正四年七月
    徳川氏と強飯式
                      渋沢栄一
 此大講堂の開館式に当りまして、玆に参列するの栄を荷ひましたことすら大なる名誉と致して居りましたに、今又塾長から何か申述ぶるやうにと云ふ仰せでございます。併し私は此壇上に立つべき何等の資格を持ちませぬので、甚だ赤面の至りでございますが、斯く喜ばしき御席に列りまして、一言も申上げないと云ふことも亦残念と考へまして、聊か所感を申述べて見やうと存じます。
 元来私は斯かる講堂に対して寄附を致すと云ふ程の財産もなければ
 - 第45巻 p.423 -ページ画像 
又教育の方面に尽すと云ふ程の学問もありませぬ。恰度其中間の、所謂帯には短く襷には長いと云ふやうな者で、甚だ御恥しい次第でありますが、唯々一方の或者から、他の方に向つて取次をすると云ふだけの力は有つて居る積りでございます。故に其方から致しますれば、或は此席に出て皆様に一言申上ぐる資格が生ずるかとも考へまして、暫時御清聴を汚す次第でございます。
 独立自尊と云ふこことは、福沢先生の最も力を罩めて御説きになつた所でありまして、殊に其主義を実業の方面に向つても強く御与へ下さいましたことは、只今の森村君の懐旧談に依ても明でございますが、是は私も平素から左様に考へて居つたのであります。所で私は此頃日光の徳川家康公三百年祭に参りまして、種々なる古式を見て参りました。それに就ての感想を一言申添へましたならば、先生の御説きなりました独立自尊の考が、幕府の末に於て如何に必要であつたかと云ふことが一層明瞭になりはせぬかと思ひまして、玆に其感想を一言申上げたいと思ひます。
 申す迄もなく家康と云ふ人は、不世出の英雄でありまして、或点に於ては非常に豪宕のやうでもあるが、又或点に於ては極めて細心なる所があつた。所謂大きい事にも行届いたが、又小さなことにも行届いて居つた。御承知の通り家康は、六歳にして今川氏の質となつて駿河に居り、永禄三年今川氏の滅ぶると共に岡崎の本城に帰つたのが十九歳の時であつた。それから第一に駿河に隠居したのは六十四歳であるから、其間四十余年の間の武勲と云ふものは実に偉大なるものである併し其武功よりも、六十四歳で駿河に引籠り、七十五歳で薨くなられた十一年間の文勲は、更に偉大なるものがあると思ふのであります。嘗て那破翁の御話を伺ひましたが、那破翁は十四・五年の間に帝位に陞り、又様々の文物制度に貢献したと云ふことでありまして、文武の功績頗る大なるものでありましたが、其晩年は極めて悲惨なる境遇に陥つたのであります。所が家康が駿河に於ける十一年間に、古文書の調査、公家法度・武家法度と云ふやうなものを定め、或は宗教の統一をしたと云ふやうなことは殊に重大なる点であつて二百六十五年の泰平を得たと云ふことも、是に基したと言つても宜い。而して其死後の有様は、至つて質素の様でありまして、天海僧正が遺骨を日光に移した時には、折に入れて持つて行つたと云ふことであります。今日ある所の日光の廟の出来たのは、其後余程の歳月を経て、即ち三代将軍家光の時でありました。それは要するに幕府の勢力を拡張しやうと云ふ所の政略から来たものゝやうに見受けられるのであります。
 で私は今度の祭典に行つて初めて見たのでありまが、輪王寺の強飯《ごうはん》の式と云ふのがあります。昔は輪王寺の小さい坐敷でやつたものですが、今度其古式の儘をやると云ふことで幸ひ私共も其席に列つて見物致しましたが、至つて粗末千万のもので、山伏姿をした四・五人の人が出て来て、裃を着た客に飯を強ゆるのであります。其時二人でありましたが、是は時に依て五人のこともあり、七人のこともあり、一定して居りませぬ。何でも新に封を襲ひだ大名若くは旗本の相当の位地の人が参詣した時に受くる式でありまして、其家の名誉として、又是
 - 第45巻 p.424 -ページ画像 
非しなければならぬものとしてあつたのであります。其式のやり方を見ますると、実に驚き入つたる有様で、給仕の山伏が、大きな器に一杯飯を盛つたのを持て来て、東照神君の思召で下さるのだから、一杯や二杯では可ない、七十五杯まで食べろ、一粒でも残しては折角の思召に背くと云ふので無理やりに強ゆる。又其給仕の仕方が酷いもので客が平身低頭して居るのに、まだ頭が高い、まだ頭が高い、と言つて愈々平伏をさせる。さうして其後で日光大根とか、日光唐辛とか云ふやうな野菜を持つて来て食べさせ、最後に東照神君に肖似るやうにと云ふので、何で拵へたものか知りませぬが、毘沙門天の形をしたものを呉れるのであります。で譜代大名は、喜んでやつたのか、辛くても我慢してやつたのか知りませぬが、此強飯式には、伝手を求めて手心をしてやつて貰ふやうな方法で参列したと云ふことが言ひ伝へになつて居ります。
 斯う云ふ儀式は、家康の国を興した時には無かつたことで、其後に出来たことでありませうが、斯くして一般の人心を成べく柔順に導いた。其の柔順に導いた結果、独立の気風と云ふものが乏しくなつた。其結果として後年外国のことが起りますと、徳川幕府は維持することが出来なくて、終に倒るゝに至つたのであります。
 徳川の終りに於ては、其様に独立自尊の気風が欠乏して居つた為に福沢先生は力めて此主義を御説きになりました。而して吾々はそれに依て多大の利益を得たのでありまするが、又今日になつて考へて見ますると、余りに抵抗力が強くなり過ぎて、或る場合には右と言へば左左と言へば右と言ふやうに、兎角人に忤ふやうな気風が増して来て居るやうに思はれるのであります。斯様な際に於きましては、限りなき独立、限りなき自尊と云ふことも如何でありませうか、今福沢先生をして地下より御起し申して、御意見を伺ふことは出来ませぬが、幾分其趣きを異にする必要はないでありませうか。私は最近東照宮三百年祭に列し聊か其事を感じましたので、玆に一言申上げて、諸君の御判断を願はうと思ひます次第であります。



〔参考〕集会日時通知表 大正三年(DK450164k-0005)
第45巻 p.424 ページ画像

集会日時通知表 大正三年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月十四日 土 午後三時 慶応義塾理財科ニ於テ御講演ノ約



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正四年(DK450164k-0006)
第45巻 p.424 ページ画像

渋沢栄一日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
一月七日 昨夜ヨリ天曇リテ雨ヲ催セリ、朝来聊暖気ヲ覚フ
○上略 鎌田栄吉氏ノ紹介ニテ慶応義塾ノ学生安藤氏来リ、青年団体ノ顧問タランコトヲ請ハル○下略
   ○右二項他ニ資料ヲ見ズ。