デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
13款 財団法人私立高千穂学校
■綱文

第45巻 p.506-507(DK450185k) ページ画像

明治44年5月27日(1911年)

是日、当校創立第九回記念会挙行セラル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

高千穂学報 九 明治四五年二月 渋沢男爵講演(明治四十四年五月二十七日)(DK450185k-0001)
第45巻 p.506-507 ページ画像

高千穂学報 九  明治四五年二月
    渋沢男爵講演(明治四十四年五月二十七日)
 当校創立第九回紀念会に参上し、皆様のやうなお若い方の沢山居られる処で、お話を申上げることの出来ます事は、私の洵に喜ばしく感ずる所である。
 当校は、職員の熱心なる御尽力により、幼稚部・小学部・中学部・高等商業部より成立せる学校になつたのである。只今、校長は斯の如き盛況に向つたのは、全く諸先輩の御同情に基くと申されたが、これは校長の謙遜なる美徳である。こちらの校長は、当校創立後、常に中正なる方針を定め、自宅又は当校塾舎から通学する者の外は、一切入学を許さないことにいたし、生徒を我子と思つて愛して育てられる。然れど、俗に云ふ飴を嘗めさせると云ふことはない。よく愛し、よく叱ると云ふ工合に、生徒を導かれる。それ故、教員諸君も出来得る限り、全力を出される。随て、生徒は、楽しく学び、父兄諸君は、安心して子弟を託される。又一つは時代である。若し時代の要求がなければ、如何に校長が熱心なる教員と共に、学校の事業に尽力されても、今日の様な盛況を見ることは出来ぬ。
 今日、日本に於ては、次第次第に忠孝の情が乏しくなりつゝある。若しも、忠孝の心が、全く無くなつたならば、人でなく、国でないと覚悟すべきである。所謂教育事業の発達に従ひ忠孝の心が乏しくなると云ふ事は、甚だ悲しい次第である。我国が今日の如く、文明となつたは、忠孝の心に学術思想の加はつたからである。然るに、教育の発達するに従ひ、忠孝の精神は、漸次科学の進歩にうち負かされ、人心の傾向、危胎に陥りつゝある現状は、遺憾千万である。今日の教育の方法と、私共の若い時分の教育の方法とは、雲泥の差である。現今の教育の仕方は、甚だ精密で、私共の受けた教育は、甚だ粗略である。然るに、只一つ師弟の間柄は、到底今日の比ではない。其間柄が極めて温い。而して師は、父と同一の権利を有して居る。今日の有様を見ると、先生が寄席に出る芸人の如き風であるから、師弟の間柄が温い様な事は到底望み難い。独り当高千穂学校は、校長が熱心なので、職員一同も甚だ親切な態度を取り、方針に於ては、世界の進歩に後れぬ様にと心掛け、師弟の間柄に於ては、古に模せられるので、実に理想的の学校であると思ふ。
 次に、父兄諸君に申上げたいことがある。昔、支那の唐の代に郭橐駝と云ふ一人の名高い植木屋があつた。此の人が植ゑた樹木は他の植木屋の植ゑたものに比べると、よくありつくばかりでなく、育ち方も
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大変早い、其噂が段々四方に広がつて、其の頃の政治家たる柳宗元と云ふ方が、郭橐駝に、御前の植ゑた樹は、何ぜ育ちが善いかと尋ねられた。其時郭橐駝は、方法と云つて、別に変つた事もありませんが、只一つ世間の植木屋と違ふかしらぬと思ふことは、私は、種子を蒔くにしても、或は苗木を植ゑるにしても、之を子のやうに可愛がり、最初土地の適するか適さないか、其外、色々のことをよく調べ、一旦蒔きつけ、又は植ゑつけた以上は、他の植木屋のやうに、朝晩、いじつて見たり、甚しきは、樹木などありついたか否やを知る為めに、幹の皮を爪でむいて見たりしないまでのことである云々、と答へたさうである。柳宗元が御前の樹を育てる仕方を政治に応用すると面白からうと聞くと、郭橐駝は、私は政治に関係した事がないから、能くは存じませぬが、或はさうかも知れませぬと言つたさうである。子弟の教育も亦斯の如くならねばならぬ。一旦、こゝと信じて、子弟を出した以上は、兎や角と迷ひ、余り動したりしない方が、結局子弟を立派に育て上ぐる唯一の方法であると思ふ。