デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
15款 二松学舎 1. 財団法人二松義会
■綱文

第45巻 p.557-560(DK450210k) ページ画像

大正6年6月3日(1917年)

是日、赤坂三会堂ニ於テ、当会主催中洲先生米寿祝賀会開催セラル。栄一、当会会長トシテ出席シ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

二松学友会誌 第三八輯・第二七頁 大正七年四月 米寿賀筵(DK450210k-0001)
第45巻 p.557 ページ画像

二松学友会誌  第三八輯・第二七頁 大正七年四月
○米寿賀筵 六月三日午後三時、二松義会の主催を以て中洲先生米寿祝賀会は赤坂三会堂に開かる、細田謙蔵氏は開会の辞及び祝賀品たる蓬莱島贈呈の挨拶を述べられ、渋沢男の二松義会長としての寿詞に次で、土方伯・岡部子・阪谷男の祝辞あり、是に於て三島桂氏は先生に代て謝辞を述べられ、土方伯の発声にて万歳三唱の後開宴、昏黒を以て散会したり、会する者中山侯、松平伯、花房・末松諸子、穂積・菊池・三井・大倉等諸男、市村・服部・林・奥田・西郷諸博士、其他諸名士・二松義会々員・本舎出者及現舎生を併せて三百五十余名なりき委曲は別刊纂録にあり


中洲先生寿筵纂録 第一―二頁 大正六年一二月刊(DK450210k-0002)
第45巻 p.557-558 ページ画像

中洲先生寿筵纂録  第一―二頁 大正六年一二月刊
中洲三島先生は本年を以て八十八の高齢に躋られたるを以て、本会発起となり、先生の故旧門人を招致し、六月三日午後三時赤坂区溜池三会堂に於て祝賀会を開く。当日は楼上の大広間を以て式場に宛て、正面壇上には、中洲先生が前会長子爵入江為守氏、及び現会長男爵渋沢
 - 第45巻 p.558 -ページ画像 
栄一氏に贈られたる詩幅を並べ掲げ、先生の自寿の詩数幅をも壁間に貼し、其の前面に絹製蓬莱島台一基を置く、是れ本会が先生に献じ以て之を寿せんとするなり。比の日正午頃より各員続々来集し、定刻に至り、一同式場に着席せり。此の時中洲先生には、龐眉皓髪徐々として、長男桂君・次男広君・三男復君・嫡孫一君を従へて、予て設けたる上席に着せられたり。席定るや、二松義会理事細田謙蔵氏開会を宣し、続で渋沢会長は寿詞を陳べ、次ぎに細田理事祝品(島台)呈上の辞を述べ、次ぎに本会顧問伯爵土方久元氏・同子爵岡部長職氏・同男爵阪谷芳郎氏は各々寿詞を陳べらる、次いで理事池田四郎次郎氏寿詩文並に祝電を寄せられたる諸氏の姓名を報告したり。三島桂氏は中洲先生に代りて謝詞を述べ、終つて土方伯の発声にて、会員一同中洲先生の万才を三唱せり。是に於て理事速水柳平氏閉会を告げ式を終へ、休憩し、四時三十分より食堂を開き、宴会に移れり、宴酣なるとき、壁間に貼せる中洲先生自寿の詩を抽籤を以て各員に分ちたり。各員は互に杯酒を交へ款談数刻、十二分の歓を尽くして散会せしは正に七時なりき。当日来会者の姓名は左の如し。(排列序次なし)
○下略


中外商業新報 第一一一九三号 大正六年六月四日 ○中洲三島翁米寿の筵(DK450210k-0003)
第45巻 p.558 ページ画像

中外商業新報  第一一一九三号 大正六年六月四日
    ○中洲三島翁米寿の筵
漢学の泰斗宮中顧問官宮内省御用掛従三位勲一等文学博士三島中洲翁は、本年恰も八十八歳の高齢に達したるにつき、二松義会発起となり三日午後二時より、赤坂三会堂に於て米寿の筵を開きたり、一同着席するや会長渋沢男起つて開会の辞を述べ、引続き土方伯爵・岡部子爵・阪谷男爵の祝辞あり、次で縮緬製蓬莱島の大島台を進呈したる後、長男桂氏老翁に代り一場の挨拶あり、畢つて翁の万歳を三唱し、一同晩餐会に移り、午後六時過散会したるが、当日の来会者は前記の外中山侯、花房・松平(直亮)・末松各子、阪谷・菊池・穂積・三井(八郎次郎)・武井・近藤・大倉各男、小松原枢府顧問官・股野帝室博物館総長・奥田東京市長、服部・市村各文学博士、高橋作衛博士・浅野工学博士・土肥医学博士・西郷宮中顧問官・豊川良平・早川千吉郎・野崎広太・小牧昌業・土屋鳳洲・下田歌子女史・嘉悦孝子女史等合計三百余名、頗る盛会なりし


竜門雑誌 第三四九号・第九七―九八頁 大正六年六月 ○三島中洲翁米寿の賀筵(DK450210k-0004)
第45巻 p.558-559 ページ画像

竜門雑誌  第三四九号・第九七―九八頁 大正六年六月
○三島中洲翁米寿の賀筵 六月三日二松義会主催の下に、一代の鴻儒同義会の創立者三島中洲翁米寿の賀筵を、赤坂区三会堂階上の大広間に開けり。午後三時開会の辞に次いで、同義会々長青淵先生拍手の裡に登壇あり、始終、翁の学徳を頌讚して言辞極めて崇重なり。土方伯岡部子・阪谷男亦交々起つて翁の寿詞を述ぶること周到、時に午後四時、白髯雪の如き中洲翁、満堂起立敬意の裡に入場せらる。依つて翁を正面同会及有志寄贈の米寿賀祝品蓬莱島大島台の側に請じ、祝品贈呈祝電披露等あり、翁は裹み難き満悦の色を面に浮べつゝ深々と椅子に其身を埋めらる。嫡男桂氏の謝辞、土方伯発声の翁万歳終つて閉会
 - 第45巻 p.559 -ページ画像 
を告げ、五時祝宴を開く。宴酣なる頃、青淵先生発声にて三島家万歳花房子発声の同会万歳熱誠喜悦の裡に唱和せられ、六時半散会。当日会員及朝野の名士等来会者三百余名と聴く。


中洲先生寿筵纂録 第九―一二頁 大正六年一二月刊 【祝寿の辞 二松義会長 男爵渋沢栄一君】(DK450210k-0005)
第45巻 p.559-560 ページ画像

中洲先生寿筵纂録  第九―一二頁 大正六年一二月刊
    祝寿の辞
            二松義会長 男爵渋沢栄一君
 閣下、諸君、本日は三島中洲先生の米寿を祝する為に、二松義会が首唱の位置に立ちまして、皆様に御賛同を願ふて玆に祝賀会を催しましたのでございます、然るに斯く多数に御来臨を得まして、賑々敷開会し得られたと云ふことは、本会一同の感佩に堪へぬ次第でございます、これは決して我々の尽力の効ではございませぬ、畢竟中洲先生の徳望が、斯くの如く多数の御会同を得たことゝ、我々共まで聊か之を誇りとするのでございます、私は学問界には縁の遠い身でございますが、誤つて二松義会会長の選任を受けましたので、其縁故からして此会を代表致しまして、祝賀の詞を述べるのでございます、学者ならざる私が、大儒先生に対して賛辞を呈すると云ふことは、不権衡極る訳でございますが、併し其不権衡が或点からは又権衡を得るかも知れませぬから、暫時御清聴を願ひます
 唯今細田理事より御報告致しました通り、此祝賀会は従来中洲先生の御親しい方、若しくは二松学舎に関係ある方々に御賛同を請ひました為に、御集りになりました方々を御見上げ申すと、政事家あり、軍人あり、学者あり、教育家あり、実業家あり、殆んど社会の有らゆる方面を網羅して居ります、以て如何に中洲先生が其学殖の深く交道の広き事を証拠立つるのであります、中洲先生も今日は此席に臨まれて諸君に御礼を申さるゝ筈で、御次男の広君が唯今御迎へに参られました、又先生の御家族をも御招待致しまして、皆御列席になつて居られます
 中洲先生の文学を以て一世に鳴られた事は、今私の不弁を以て喋々するもふさはしからぬことでございますが、二松学舎の起源を申しますると、明治十年からでございまして、今日に至る迄四十年間継続されてあります、其間に養成された漢学生は少なからぬのでございます又先生の御経歴を略陳しますると、青年の時から斯文の為めに尽瘁され、晩年には斯界の巨擘と成られ、将に衰頽せんとする漢学を維持された御方でございます、是等の詳細は今日御来会の諸君には特に御熟知であらつしやると思ひますから略しますが、私は特に先生の御学歴に就て評しまするならば、蘇東坡が韓退之の潮州の碑の中に「文起八代之衰。而道済天下之溺。」と云ふ句がありますが、先生の力が文運に関与したことは随分多いやうに思はれるのでありまして、私共学者ならざる者から見ても、先生の意志行動を厚く推奨致して居るのでございます、私が先生に御親しみを願ひましたのは最早三十年以上の歳月を経て居ります、常に実業界に居る私でありますから、御親みを重ぬる縁故は比較的薄いのでありますが、私も少年の時に聊か漢籍を学びましたことから、嘗て先生に或る墓碑銘を御依頼致しまして、其作
 - 第45巻 p.560 -ページ画像 
成された文章が如何にも人情を尽された名文であつたので、私は大いに感佩致し、爾来別して御懇切に御交際を致して居るのでございます殊に私が先生に対して敬意を表し、感服の念を深うしたのは、先生の漢学に於ける仁義道徳の説が我々の従事する経済問題と一致して、相隔離せざる点であります、即ち仁義道徳と生産殖利とは符合するものであるとの卓説は私の先生に敬服して毎度御討論致し居る次第でございます、前項の如く先生と御交誼を重ねて居ります処から、誤つて二松義会の会長に御推選に預り、不似合の位置に立つて居るのでございます、詰り先生の漢学は単に論理を説くばかりでなくして、実際に行ひ得る所の道を明示されるのであるから、どれ程現世を裨益して居るか分りませぬ、実に先生は偏せず党せず能く道徳と経済とを一致符合して孔子の道の我々経済界に離るべきものでないと云ふこを証明されたのであります、而して先生が今日我邦文運の進歩に処して、其文章を以て天下に鳴つて居らるゝのも又偉とすべきであります、是を以て私が蘇東坡が韓文公を評した句を転して実に我中洲先生は「文参盛代之観。而道解当世之惑。」と評したいのでございます(拍手大に起る)更に繰返して説明すれば、先生は上は王者の師となり、下は多数の学生を導かれて、仁義道徳の教を鼓舞され、世道人心に裨益されたと云ふことは真に「文は盛代の観に参する」といふのでございます、又常に道徳と経済との一致を称へられて、世間の誤り易い事を諄々として主張され、筆や口で屡々我々の蒙を啓ひて下された事は、是れ即ち道は天下の惑を解くのであります、尚蘇東坡の文章の中に「公之神在天下者。如水之在地中。無所往而不在也。而潮人独信之深。思之至。」といふ事がありまして、韓退之の徳の潮州のみならず支那全般に及んで居る事は、恰も地中到る所に水あるが如きものであると云ふ意味が書いてありますが、今日の此祝筵に斯く多数御来会になつた方々を御見上申すと、前に申す如く政治家あり、軍人あり、学者あり、教育家あり、実業家ありて、社会の各方面を網羅して居るのを見ましても、先生の徳望は恰も地中到る所に水あるが如くであると思ふのであります、斯くの如く徳の高い先生が米寿になられたと云ふ事は、此上もない目出度事でありますから、二松義会が今回主唱となつて此会を開きましたのも意味あることゝいふて宜しからうと思ひます、又斯く多数の諸君が御賛同下されましたのは、誠に感謝に堪へぬのであります、依つて私が義会を代表致しまして、此所に蕪詞を述べました次第でございます。(拍手起る)