デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
15款 二松学舎 2. 財団法人二松学舎
■綱文

第45巻 p.572-576(DK450216k) ページ画像

大正8年12月14日(1919年)

是ヨリ先、恩賜金並ニ寄付金ニ拠リテ着工セル、当学舎改築第一期工事タル講堂ノ新築落成シ、恩賜講堂ト命名ス。是日、開堂式挙行セラル。栄一病気ノタメ欠席、理事尾立維孝代理トシテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

財団法人二松学舎第拾七回決算報告 第二頁大正九年二月刊(DK450216k-0001)
第45巻 p.572-573 ページ画像

財団法人二松学舎第拾七回決算報告  第二頁大正九年二月刊
    自大正八年一月至同年十二月二松学舎第十七回決算報告
      第一 経過紀要
○上略
一、予テ建築中ナリシ講堂落成セシニ付、恩賜講堂ト命名シ、十二月十四日午前十時ヲ以テ開堂式ヲ挙行セリ、当日ハ子爵波多野敬直、男爵横田国臣ノ両氏ハ祝辞ヲ述ヘラレタリ、右終テ来会者一同ヲ富士見軒ニ招待シ小宴ヲ開ケリ、当日ハ渋沢舎長ノ八十寿筵兼ヌル筈ナリシカ、両三日前ヨリ舎長ハ感冒ニ罹ラレ出席出来難キニ付、来春迄延期スル事トセリ、因ミニ当日ハ尾立理事、渋沢舎長ニ代リテ挨拶ノ辞ヲ述ヘタリ
 - 第45巻 p.573 -ページ画像 
○下略


竜門雑誌 第三八〇号・第六三頁大正九年一月 ○二松学舎恩賜講堂落成式(DK450216k-0002)
第45巻 p.573 ページ画像

竜門雑誌  第三八〇号・第六三頁大正九年一月
○二松学舎恩賜講堂落成式 故三島中洲翁の創立に係り、現に青淵先生の舎長たる二松学舎の恩賜講堂は過般落成、旧臘十四日午前十時より同講堂落成式挙行せられ、定刻池田理事の開会辞に始まりて、土屋督学の勅語捧読、青淵先生代理の挨拶、波多野宮相・阪谷男等の祝辞田畑評議員の閉会の辞ありて正午式を終れりといふ。尚当日引続き挙行する筈なりし青淵先生の八十寿祝賀会は、先生病気引籠中なりし為め延期し、今春陽和の時を期し挙行せらるゝことゝなりし由なり


二松学報 第一号・第一七―二四頁大正九年九月 二松学舎開堂式記事(DK450216k-0003)
第45巻 p.573-575 ページ画像

二松学報  第一号・第一七―二四頁大正九年九月
○二松学舎開堂式記事
  本舎多年の懸案なりし校舎並に恩賜講堂の建設は、去る十一月末を以て工事全く竣成を告げたれば、十二月十四日を卜し、新講堂に於て開堂式を挙行したり。之が概況を記述すべし。
 大正八年十二月十四日午前十時より開堂式を行ふ、数日来の雪名残りなく霽れ渡り満天満地皚々として一点の醜汚をとゝめす、定刻前来会者百数十名に達す、是れより先き、新学舎階上の恩賜講堂を会場に充て、正面に中洲夫子揮筆の一軸を掛け、その左に夫子の銅像を安置し、朝野の名士より贈られたる賀詞詩文を展列する等諸種の舗設全く整ふ。
 斯くて定刻に至るや来賓には波多野宮相・股野琢・近藤久敬・横田大審院長・松井中将・土方寧・井上公二・嘉悦孝子の諸氏、本舎よりは土屋督学・三島学長・理事・評議員・教授・学友会員・塾生一同都へて三百名、入場著席、那智教授司会の下に左の順序に依り厳かなる式典を行ふ。
 開会の辞           池田理事
 教育勅語奉読         土屋督学
 来賓に対する挨拶 渋沢舎長代理尾立理事
 祝辞           伯爵波多野敬直
 祝辞             土屋督学
 祝辞             横田国臣
 謝辞             三島学長
 祝辞         生徒総代大石亀次郎
 閉会の辞           田畑評議員
    開会の辞              池田理事
 閣下並に諸君、二松学舎新築の工事竣り、本日を以て開堂の式を挙行するに当り、閣下並に諸君の御光臨を辱ふしたるは、本舎の面目光栄之れに過ぎないので御座います。玆に本舎一同を代表し謹んで御礼を申上げます。本舎は御承知の如く明治十年、故文学博士三島中洲先生の創立せられたるものでありまして、東洋固有の道徳文学を振興し一世に有用なる人物を養成するを以て趣旨となすもので御座います。
 - 第45巻 p.574 -ページ画像 
本舎の今日ある所以のものは、閣下並に諸賢の熱誠なる御援助と懇篤なる御同情の賜ものでありまして、誠に感激措く能はざる所であります。自今一層奮励努力以て、本日の御光栄にお答へ致したいと存じます。聊か開会の辞を申上げます。
    来賓に対する挨拶
          渋沢二松学舎長代理 尾立維孝口述
                   浜隆一郎筆記
 御来臨の各位、閣下並に諸君、年末御多忙の際なるに拘はらず、今日我二松学舎講堂落成に付、開堂式執行の為めに御光臨を辱ふし誠に感謝の至りに勝へません、渋沢舎長躬ら出席して、皇室の御下賜金を始め、大方諸賢の御寄附金に因り、斯の講堂落成せし御礼を申上げんと欲せしが、三・四日以来風邪に罹り、咽喉を痛め医師より発音を止められ、且喘息の為めに呼吸の困難を覚へ平臥保養中にて、躬ら出席する事能はざるが故に、維孝より其代理として、左の意思を申上げよと命ぜられましたから、御取次申上げます。
 渋沢栄一は固より漢学者にあらず、従来漢学を好み、常に漢学を実際に応用する主義を持すれども、漢学者にもあらぬ者が、漢学専門の二松学舎長となり、其代表者となり居るは、如何にも好んで諸方面に顔出するに似て、世の嘲りも如何あらんか、と思はざるにあらねば、事の此に至りし因縁に付て聊か陳述して、以て諸公の御諒解を乞はんとす。
 自分は明治の初年大蔵省に仕へたりしが、防州岩国の学者、玉乃世履と云ふ人、仕へて民部省にありき。民部と大蔵とは固より別々の官庁なれども、一つ場所に設けられて同一世帯の如き観あり、自分は遂に玉乃氏と交を結び互に議論を上下し、相拮抗して官路に立てり。六年に自分は官を罷めて民間に下り、銀行を経営せんとするや、玉乃氏は自分に忠告して曰く、君は折角官途に就き国家を治めんと志しながら、再び錙銖の利を争ふ商賈に帰せんとするは何ぞや、自ら品位を隕してまでも敢て商賈たらんとするは黄金が欲しくなりし為めかと、自分は憤然として怒りて曰く、足下は渋沢を見ること余りに皮想に過ぎたり、世の漢学者は口を開けば則ち仁義を唱へ、忠孝を説けども、是れ紙上の文字論、机上の架空説のみ、仁義も忠孝も之を実事に当て箝め、実際に体現せしめざれば何の益かあらん、儒者の説く所は蓋し坊主が徒らに衆生済度を説きて毫も之を済度する方法を実現せざると一般なり。反て西洋学者の思想は中々に進歩し居れり。現に東洋には未だ蒸気の発明もなく電気の工夫もなし、西洋に発明せられ工夫せられたる学術を取り、人民の実生活に応用し、仁は即ち此事実に当り、義は即ち事柄に適すると指摘して、仁義の活作用を実際に示現するこそ直正学者の本分なるべけれ、自分は論語を以て商業に応用し、仁義を日用事の上に適用せんのみ、民間に下れは迚、豈に錙銖の利を争ふ事をなすとのみ限らんやと論じたり。
 さて明治十二・三年頃と覚ふ、玉乃氏自分に謂ふて曰く、三島中洲は学問も深く文章も善くし、人物も臧し、相交りて可なりと、其紹介に依りて中洲先生と交りを結べり。越へて十六年自分は前妻を亡へり
 - 第45巻 p.575 -ページ画像 
其碑文を撰はんと欲し、中洲先生を今の御宅に訪ふて御願ひ申したり先生曰く、生前相知らざる人の碑文は誠に書き悪きものなるが其の行実は如何と、自分は乃ち前妻は郷里の親族にて自分と従兄妹夫婦なること、自分か維新前、妻に告げずして外に出て国事に奔走せるを、妻は其妻たるものに事情を明かさずして家出せるを怨みたる事やら、能く家を守りし事やらを略叙せしに、先生は其節に至る毎に、案を打ちて其所だ々々だと云はれ、終りに此話即ち碑文を成せりと云はれて、御書き下されたる文章は能く真に逼り、情を写し、深く感服して、先生の大文章家たることを知れり、是れより一層深く御交際申上げ、先生は宜しく学問を以て後生の指導に任せられよ、自分は須らく実際の事の上に学問を奉行せんと申したることもありて、其後二松学舎維持の為めに、財団法人二松義会を組織せられし際、自分に対し、其顧問の一員になり呉れよと仰せられて、初めは顧問たることを承諾し一臂の御助力を致し、後大正六年、二松義会長入江子爵、東宮侍従長となりて会長を罷めたるとき、自分は其後任会長に推され、本年十月一日より二松義会と二松学舎とを一団となして、財団法人二松学舎と改称せるに及んで、舎長の名を負ふに至れり、学者にもあらぬ自分が、敢て漢学専門の二松学舎長たる因縁は右の次第なる事を御来臨の各位に於かせられ御諒解あらんことを乞ふ、開堂式に方り、自分の閲歴を申上ぐるは御聞苦き事ならんと思へ共、我身に相応しからざる学舎長と云ふ名を負ふ故に、斯くは因縁を申上げたる次第なり。
 さて 皇室の厚き思召に依り、本学舎は二度迄も恩賜金を頂戴し、大方諸賢より、深き御同情を得て、講堂改築工事は御覧の如く成就せり、寄宿舎・学長室・書庫等追々新築の積り也。
 斯くて、明治十年十月十日創立以来今日まで四十三年間連綿として相続せる二松学舎の将来益々発展して、東洋固有の道徳文学を発揮する設備相立ち、聊か 皇恩に酬い、国家に貢献する所あらんとす。実は今少し早く工事に著手して、中洲先生御在世の中に成就せしめざりしは遺憾千万なれ共、縦令先生の肉体は此の世に御座しまさず共、先生の英魂は永く此世に御座ますこと勿論なれば、忻然として今日の開堂式を喜悦し給ふや疑ひなし。
 玆に重ねて諸公の本学舎に対する深き御同情と今日御来臨を辱ふしたる御厚意とに対し、謹んで御礼を申述ます。
○中略
 斯くて式全く終りを告ぐ。
 時に午後一時。直ちに麹町区富士見町富士見軒に於て午餐会を開く来会者百余名各自歓情を尽し、和気靄々裡に散会せるは午後三時頃なりき。
 因に此日渋沢舎長の米寿の祝賀会を併せて行ふ筈なりしも、舎長感冒にて延期となれり。



〔参考〕二松学報 第二号・第一四―一五頁大正九年一二月 二松学舎建築工事全部竣工(DK450216k-0004)
第45巻 p.575-576 ページ画像

二松学報  第二号・第一四―一五頁大正九年一二月
    二松学舎建築工事全部竣工
本学舎諸建物改築工事を二期に分ち、第一期に於て講堂を建築し、第
 - 第45巻 p.576 -ページ画像 
二期に於て学長舎・寄宿舎及び小使室其他附属室を建築することゝなしき、而して第一期の工事は大正八年十二月十三日に落成して恩賜講堂と名け、十二月十四日開堂式を行ひたる始末は本学報第一号に掲載せるが如し
第二期の工事は大正九年一月著手して、同年六月十五日全部落成す、即ち二松学長舎一棟・学生寄宿舎一棟・小使住宅一棟・物置一棟及び便所一棟是れなり、因て六月十五日学長三島復氏徙て学長舎に入る、六月二十日より寄宿生の入舎を許す
第二期工事に就ては、其工事監督を本舎員城井道太郎氏に嘱托す、故に同年七月十四日同氏に謝状を呈し併せて一封を贈る
学長舎二階三室は本舎倶楽部に使用する予定にて建築せしなり
同年七月十八日、各教授及び評議員を学長舎二階に招待して茶話会を開く