デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
15款 二松学舎 2. 財団法人二松学舎
■綱文

第45巻 p.619-624(DK450231k) ページ画像

昭和4年10月10日(1929年)

是日、当学舎創立記念日ニ際シ、当学舎講堂ニ於テ、記念式ニ併セ、教授池田四郎次郎勤続四十年謝労式挙行セラル。栄一之ニ臨ミテ講話ヲナス。


■資料

(山田準)書翰 渋沢栄一宛(昭和四年)九月二五日(DK450231k-0001)
第45巻 p.619 ページ画像

(山田準)書翰  渋沢栄一宛(昭和四年)九月二五日
                    (渋沢子爵家所蔵)
別啓仕候、当二松学舎事来ル十月十日ハ創立記念日にて毎年記念式挙行致候、本年ハ池田四郎次郎教授勤続四十年の謝労式も併せ挙行致候間、閣下御都合宜しくば御臨場御話し相願度懇望仕候、時間ハ午前九時ヨリの定めに候も、御都合にて十時より相始め候ても苦しからず候尚余日も有之候得共前以て相願置候、御考置被下候様奉願候 拝具
  九月二十五日
                     山田準
    青淵先生
       侍史


二松学舎書類(二)(DK450231k-0002)
第45巻 p.619-620 ページ画像

二松学舎書類(二)            (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
  昭和四年十月七日
                     財団法人二松学舎
    (宛名手書)
    理事渋沢子爵殿
拝啓愈々御清祥奉賀候、陳者来ル十月十日ハ本社創立記念日ニ付、同
 - 第45巻 p.620 -ページ画像 
日午前九時ヨリ左記順序ニ依リ、記念式並ニ池田教授在職四拾年記念品贈呈式ヲ挙行可致候間、御参列ヲ得バ幸甚ニ存候
右御案内申上候 敬具
      記
    順序
  一、二松学舎創立記念式
一、生徒入場       第一鈴(午前九時)
一、来賓及職員入場    第二鈴(午前九時十分)
一、敬礼
一、式辞         山田学長
一、講話         渋沢舎長
  二、池田教授在職四十年記念品贈呈式
一、式辞         国分常任理事
一、記念品贈呈
一、謝辞         池田教授
  三、池田教授在職四十年記念品有志贈呈式
一、祝辞         山田発起人総代
一、同          那智有志総代
一、同          専門学校生徒総代
一、記念品贈呈
一、山田学長呈詩吟詠   漢詩吟詠会
一、祝電・詩歌披露
一、報告         浜発起人
一、謝辞         池田教授
一、来賓及職員退場
一、生徒退場
    式後 創立記念祝餅配贈


集会日時通知表 昭和四年(DK450231k-0003)
第45巻 p.620 ページ画像

集会日時通知表  昭和四年       (渋沢子爵家所蔵)
十月十日 木 午前九時 二松学舎創立記念会(同舎)


竜門雑誌 第四九四号・第八五頁昭和四年一一月 青淵先生動静大要(DK450231k-0004)
第45巻 p.620 ページ画像

竜門雑誌  第四九四号・第八五頁昭和四年一一月
    青淵先生動静大要
      十月中
十日 二松学舎創立記念会(同会)○下略


二松 第三号昭和五年三月 二松学舎創立記念式並池田教授在職四十年 記念品学舎有志贈呈式の記(DK450231k-0005)
第45巻 p.620-621 ページ画像

二松  第三号昭和五年三月
    二松学舎創立記念式並池田教授在職四十年
    記念品学舎有志贈呈式の記
 昭和四年十月十日は吾が二松学舎創立五十三年の記念日に当れば、山田学長以下職員生徒一同恩賜講堂に集りて記念式を挙行せり。而して本年は本学舎教授池田四郎次郎先生が、明治二十二年始めて房長兼助教を嘱託せられてより正に在職四十年に相当するに依り、学校当局並びに内外の有志相謀りて、記念品を贈呈し聊か其の功を表する処あ
 - 第45巻 p.621 -ページ画像 
らんとし、又この日を卜して併せ挙行せられたり。
○中略
 此の日式場は来会者二百数十名を以つて立錐の地なき許なりき、正面の壇上には黄白の菊数朶飾られ其の右には中洲先生の肖像を安置せり。左右の壁には池田教授に贈られたる詩歌数十点掛れり。式は午前九時を以つて始まれり。剪頭一同起立して先師の像に敬礼、終りて山田学長の式辞あり。次いで渋沢舎長の講話あり。吾等は老躯猶ほ提来りて後生の為め先師の遺徳を訓へられたるに対し誓つて遵奉する処あるを期す。これを以つて創立記念式は終れり。引き続いて池田教授在職四十年記念品贈呈式は行はれたり。国分常任理事登壇先生の入舎以前より説起し幾多の世難に堪へて今日あるを得たる光栄を頌し、尚ほ将来に期待する旨を述べて式辞とせられたり。而して同理事の手より感謝状一通及び渋沢舎長の書一軸、並に記念品として玉函山房輯逸書百冊を贈呈せらる。池田教授之を受け丁寧なる謝辞あり。次いで有志の贈呈式に入る。○下略


二松 第三号昭和五年三月 所感 渋沢栄一 本舎創立記念及池田教授四十年感謝式講話(DK450231k-0006)
第45巻 p.621-624 ページ画像

二松  第三号昭和五年三月
    所感
                      渋沢栄一
      本舎創立記念及池田教授四十年感謝式講話
 私が二松学舎の舎長といふ名を冒して居ります為に、かかる席に出て、一言述べる責任が生じたので御座います。私は誠に安からぬ所が御座いますけれども、併し色々考へて見ますると、縦令学問に於て甚だ浅薄たりとも、生存する限りは御席を汚し、本学舎の隆盛を幾分たりともお手伝と迄は行かなくても、拝見すると云ふ事はどうやら私の本分の様に感じまするので、自ら舎長の名を汚して、型ばかりでは御座いまするが其職を維持してゐるので御座います。蓋しそれには大いなる理由が御座います、中洲先生に対してどうしても、心から本学舎に対する努力を致さねばならぬと云ふ感じを、其当時も持ちましたが今猶存続して居りまして、敢て学問界に居る者でなくても本学校の追追に隆盛に進む事をば、縦令十分のお役に立ちませんでも、勉めまするのが、或点から申せば権利でもあり、又大いなる義務でもあると、かう思つて居るのであります。かかる記念の式典、殊に本日は池田先生の四十年勤続を祝する事もありますので、なるだけ事短かに私の話を申述べたう御座いまする、けれども、余り度々出ません為に、実はよい機会と思つて皆様にお話したいと思ひますが、私が寧ろ学問界に甚だ浅薄であるに拘らず、かく舎長に任じて居るは、かういふ訳であると云ふ事をば、最早お聞きの方もありませうが、まだ御存知ない方もあるかと思ひますから重複ながら、この所で申述べたいと思ふので御座います。元来私の成長する時には、他の学問はなくて、縦令村学と雖も、漢学を学んだのでありました。私の家なども、先づ四書を読め、而も論語をよく精読しなければならぬと云ふ様に家庭的に漢学を教へられたのであります。然し、僅かに四書を読んだ、それから五経に及んだ、唯それだけで、他の本は手にも触れぬと云ふ位ですから漢
 - 第45巻 p.622 -ページ画像 
籍に対しても誠に浅薄である。而して、二十四・五の時から実際の方に力を尽さうと云ふ感じを起して、諸方を奔走した。それで官吏になり、段々転じて終に銀行家になつたと云ふのが一身の経過で御座います。かういふ間に、実業界に這入つて見ますると、猶更右を向いても左を向いても、利益にのみ走り、其利益の為には道徳も信義も皆忘れると云ふ有様、他の方面はどうかといふと、所謂政治界・経済界を通して殆ど孟子の云ふ所の上下交征利と云ふので、実に道徳と云ふやうな、そんな野暮なものは流行らないと云ふ有様で、甚だ国家の前途は憂ふべきである。その時偶然にも、故中洲先生に御懇命を願つて、亡妻の石碑の撰文をお願ひした事が、特に御厚情を受ける端緒となり、私の私的の様々の事を申上げる機会を与へられ、尚種々の意見をも申し上げて見ると、先生も、それは甚だ面白いではないか、私は文学界から世の中を指導しようと思ふが、お前は実業界から、申さば方面違ひの方から、世の中を指導しお互に努力して、そして到らんとする所に達する様になつたら面白いではないか、と云はれた。私は先生の文学上より御指導の出来る様に私に出来ると思ひませんけれども、主義としては面白い。先生の云はれるやうに努力したならば或程度まではきつとなし得られるものと思ひましたので、大いに然りで、あなたが文学上から世を指導して下さるならば、私は実地から、実地と申しても政治界に位置はありませんけれども、経済界にはいくらか頭株の重だつた人も知つて居りますし、事実の上に於て接触する機会が多うございますから其方面に於て、事業と云ふ事は只利益の為にのみする訳ではない。必ず世の公利、道理と云ふものによつてのみ其利益は存すべきである。道理に由つては成功せぬ、道理を外してやれば成功する様に思はれてゐるけれども、道理は即ち成功の基、富を増すものであると云ふ事が本当に分つたならば必ず道理に由る様になるであらう、決して悪事をなす者が全然悪い考へで悪をなすのでなく、悪をなすは自ら善悪を知らぬから悪に陥ると古人は教へてある位であるから、経済上の事も寧ろ道徳に協つた事が富を成す原因方法であると云ふ事が分つたならば追々善い方へ進んで行きさうなものだ、先生は出来ぬ事はない。出来ないのはやらぬからでやれば必ず出来る、大いに任じてやつて御覧なさいと云はれました。当時は政権に任する者も事業に従事する者も、無自覚であつた、又政党政治の弊害といふものは、海の内外を問はず皆さうであつて我国も甚だ多かつた、是を第一に直さなければいけないから、縦令微力たりとも努力して、世の中を務めてよくして行かうと考へまして、それらの事に関しましても、中洲先生から承つたり教へられたりした事もあるので御座います。決してそれらの事は、私の希望した如く進んで行つたとは申されませんけれども、併し私も、先生のお教により、自分として、多少実業界に道徳を進行せしめると云ふ事に尽しました。効果は甚だ乏しう御座いますけれども努力は致したと申上げてよい様に思はれます。故に方面は違ひますけれども、先生は文学上から之をなさいました。私の方は実際の上に実業界から幾らか尽しましたので、先生から文字は習ひませんけれども、実際上の門人と云ふ事を言ひ得られるかとは思ひますが、書物に
 - 第45巻 p.623 -ページ画像 
就いて、此意義はどう解釈するか、此文章はどういふ意味かと云はれますと、分りませんので甚だお恥かしく思ふので御ざいます、併し此関係が御座います為に先生から誰か相当に年をとつた後継者がなければならぬと云ふお薦めを受け、私は適任でないと深く思ひましたけれども、併し折角此学舎をして皆様が力を尽しておやりなさるのに、実業界の方面と全く絶つ様になつては甚だ残念だと思ひまして、せめて私でも其位置に立つたならば自ら我同志が実業界に始終連絡してゆく様になり得るであらうか、甚だ充分には行かぬとしても無いには勝るであらう、果して然らば、此職を維持するがよからうと思ひましてお引受け致しました。それで今日もお話申上げる事に成りました。甚だ僭越の申分でありますけれども、故中洲先生の御遺志を体して幾分たりとも尽したい考であります。それで現在も皆様が、此学舎を離れてはいかんぞといはれる思召に従ひ、故中洲先生の御厚意に酬ゆる一つの務めと思つて任じて居るので御座います。幸に本学舎が段々進んで参つて、今日拝見致しますると、学校に学ぶ諸君もかく多数、而も皆夫々希望を以て始終学ばれるお方にお見受けするのは、誠に稀に学校へ出て、甚だ他人がましい事を申上げる様ですけれども、かくの如き様を見ましては、私は自分が舎長でありながら、我学舎を甚だ見損じたと申してもいゝ位です。翻つて今日はどういふ世の中だと、現在に就いて考へて見ますと、我々の道徳、人格と云ふものを根本から拡張しなければならぬといふ事が実に我々各々の頭の上にふりかゝつて居るではありませんか、今の社会は、極端な言葉で云ひますならば、何の態かと云ひ度い様です。政治界なり経済界なりすべて、涜職事件が起り、殆ど道理と云ふものはなくなつてしまひはせんかと私は思ひます。此の如く堕落すると云ふのは誰が悪いのかと、必ず中洲先生は地下で憤慨してござるに相違ない。私は地上で憤慨してゐます。而して之をよくするにはどうすればよいかと云へば、盍反其本矣と云ひ度いごく簡単に申せば、孝弟也者、其為仁之本与、でありまして、孔子は仁を行ふと云ふ事が主義であつた、この語は、論語の初にあります有子のお言葉だつたと思ひます、それで此の本に帰る外はないと思ひます。果して然らば諸君皆様が真に世にお立ちになる時、徒らに扼腕するばかりではいけません、心をしつかり留めて其主義を以て進まうと云ふのでなければなりません。私は今日九十になる、九十迄の間には本当に困難に遭遇して、かういふ考へはやめたらよからう、重い荷を負ふて歩んで来て疲れて、其荷物を抛り出したくなる気持もないとは云はれないので、さういふ時に此処が辛棒だと思ひ返す所に人たるの意義はある。諸君も必ずさういふ事があるに違ひない。今日は、自分の身の為ばかりではない、全体から見て我々日本の純粋なる国民が、実にかゝる有様であるのを見て、政治界なり経済界なり、実業界なりいづれに対しても、之を直さなければならぬと云ふ事を更に心の中に深く奮励して居る。文部省でも教化運動をしてゐます。併し乍ら教化運動をするよりはまづ其身を省みなさいと云ひたい。かういふ事を云うて今の政府を訾る様になり暴戻な言葉を云ふ様ですけれども、自ら省みて誡めてくれなければ意義はないのです。我々が社会に立つて、
 - 第45巻 p.624 -ページ画像 
中洲先生の遺志を充分に達するのには、学問の後継となるばかりではない、此の甚だ忌むべき世の不浄を我々の力によつて、之を潔めてゆく、充分に掃除すると云ふ心を持たなければいけないと思ふのであります。果してそれが出来るならば、二松学舎は実に大いに、陛下に対ふるものありと云ひ得るでありませう。中洲先生の英霊は是を以て御満足なさるであらうと思ふので有ります。
 是は甚だ祝すべき今日に当つて、時世を憂ふるあまり、不祥な言葉を申上げた様ですけれども、之によつて本学舎の諸子が、将来大いに進むべき事に就いて、幾分の御諒解を得たならば、私は二松学舎に対して、決して不祥の事のみ申上げたと云ふお叱りは、中洲先生より受けないと思ふのであります。前にも申しました様に、私は実に何等学舎に対して功績を挙げず、故中洲先生に対しても実に厚い御思召を頂いた御返礼も出来ないのを遺憾に思ひますが、中洲先生は九十でおかくれになつた、私も今年九十になつた、そして本学舎の祝日にかうして出てまゐりますのは、故先生に対する報恩と思ふのであります。幸に諸君が私の不祥な言を諒として下さつたならば、更に進んで世の為学校の為に尽されたいのであります。今日の祝日にあたつて、私の考へを腹蔵なく申述べたにすぎないのでありまして、まことに憂懼に充ちた不祥の言でありますけれども、この憂懼は一身上のものではない天下に対する公憂であるとお聞きとりを願ひ度い。