デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
16款 江原奨学資金
■綱文

第46巻 p.8-10(DK460002k) ページ画像

大正7年5月(1918年)

是年、麻布中学校校長江原素六喜寿ニ当レルヲ以テ、是月ソノ祝賀トシテ、有志等江原奨学資金金二十万円ノ募集計画ヲ発表ス。栄一、大隈重信・伊東巳代治・後藤新平等ト共ニ之ガ発起人トナリテ斡旋ス。


■資料

集会日時通知表 大正四年(DK460002k-0001)
第46巻 p.8 ページ画像

集会日時通知表 大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
七月廿一日 水 午後二時半 江原素六氏来約(兜町)


中外商業新報 第一一五三三号大正七年五月一〇日 江原素六翁喜寿の祝 江原奨学基金廿万円 募集の計画(DK460002k-0002)
第46巻 p.8 ページ画像

中外商業新報 第一一五三三号大正七年五月一〇日
  ○江原素六翁喜寿の祝
    江原奨学基金廿万円
      ▽募集の計画
政界の君子人として知らるゝ江原素六翁は、本年恰も七十七の高齢に達せるを以て大隈侯・伊東子、後藤・渋沢・目賀田各男、其他朝野の名士並に翁の門下生等相謀りて、其喜寿を祝す可く江原奨学基金
 ◇二十万円募 集の計画を発表せり、翁が身を貧窮の間より起し夙に国事に奔走し、爾来数十年の間軍事・宗教・殖産・政治・教育等の各方面に亘りて貢献する所頗る多きは世の熟知する所なるが、翁は曩に貴族院議員に勅選されてより益々天恩の優渥なるに感激し、老躯を提げて奉公の道に励み、殊に国民教育は翁が畢生の事業とも謂ふ可きものにして、今も尚矍鑠たる老躯を麻布中学の講堂に運びて、毎朝青年子弟の為めに倫理道徳の講演を為し
 ◇孜々として 倦まざる事十年一日の如く、老来の心血を玆に傾注せるやの感あり、されば今回翁の喜寿を祝するに当りても、翁の友人門下生等は翁の意の存する所を察し、教育基金募集の計画をなすに至りし訳にて、基金募集の発起人某氏は語りて曰く「翁は平素身を持する事頗る薄く、敢て自ら售るを好まず、風操の高逸なる事世の欽慕する所なるが、只麻布中学校の事のみは翁も非常の執着と熱心とを有せるが故に、此学校を翼賛助成し
 ◇校風を永久 に保全するは、即ち翁の精神を伝へ其高徳を記念する事となる次第なるを以て、今回の如き計画を為すに至れるなり、殊に麻布中学は翁の高風を慕ひて入学を乞ふ者年々増加し、到底現在の設備を以てしては、入学希望者に満足を与ふる能はず、校舎も十数年以前の建築に係り、新時代の要求に副はんとするには大に改善の要あるを以て、今回教育基金二十万円を一般より募集し本月末日を以て
 ◇払込を締切 り、右基金に依り校舎を改築し、設備を完全にし一代の模範的学舎と為す予定也云々」と、因に応募基金は日本橋区石町茂木銀行東京支店にて取扱ふ由
 - 第46巻 p.9 -ページ画像 

竜門雑誌 第三六二号・第六九頁大正七年七月 ○江原翁教育基金募集(DK460002k-0003)
第46巻 p.9 ページ画像

竜門雑誌 第三六二号・第六九頁大正七年七月
○江原翁教育基金募集 我教育界の為め多年の功労ある江原素六翁は本年喜寿に当るを以て、青淵先生・大隈侯・伊東子、後藤・目賀田各男其他朝野の名士弐百余名発起人となり、教育界に貢献し来れる翁の素志を今後益貫徹せしむべく、江原教育基金を募集することゝなし、之を以て翁の経営せる麻布中学校の校舎を増築し其設備を完全にし、以て同校を模範的学舎と為す計画なりといふ。


集会日時通知表 大正七年(DK460002k-0004)
第46巻 p.9 ページ画像

集会日時通知表 大正七年      (渋沢子爵家所蔵)
八月廿九日 木 午后二時 江原素六氏来約(兜町)



〔参考〕江原素六先生伝 江原先生伝編纂会委員編 第二七―三〇頁大正一二年五月刊 【尋常一般の好々爺に非ず 渋沢栄一】(DK460002k-0005)
第46巻 p.9-10 ページ画像

江原素六先生伝 江原先生伝編纂会委員編 第二七―三〇頁大正一二年五月刊
 ○上篇 第壱章 名士の見たる江原先生
    尋常一般の好々爺に非ず
                       渋沢栄一
 政治家・教育家としての江原君の盛名は久しい間耳にしてゐた。併し、宗教家としての江原君には、私は殊に親みを有つてゐるものである。
 江原君も、私も、同じく幕臣である。私は一橋慶喜公に召され、幕命を帯びて仏蘭西へ行つてゐる中に王政維新となつた。間もなく帰朝して明治政府に仕へ、後野に下つて実業方面に志したが、江原君とは同じ幕府の臣でありながら遂に識る機会を失つてゐた。従つて私は江原君の明治維新以前の事は余り多くを知らない。
 その後、私は旧幕臣の者が、沼津から東京へ出て来る度び、何かの話の序に、江原君が静岡県下に於て物質的に精神的に働いてゐると云ふ事を聞いた。そして困難な人を慰めたり、職を失つた人に職を与へたり、何事に依らず旧幕臣の為めに尽して、大変博愛の人である、温厚篤実の人であるといふ事を聞いた。又過激な思想など有つてゐるものがあると、諄々として説破する、洵に珍らしい人だと云つて感嘆推賞してゐるのを聞いた。殊に、私の親戚の砂川といふ者が来て、非常に江原君の徳を称揚してゐたのを一再ならず耳にした。私はそれを聞く度、江原君に会ひ度い会ひ度いと思ひながら、会ふ機会がなかつたのである。
 私が江原君に初めて会つたのは、確か宗教関係からであつたと記憶する。基督教青年会のことで訪ねて来られたのが始めであつたと思ふその時初めて同君も私を知り、私も同君を知つて、宿年の希望を達し大に語つたのであつた。
 爾来基督教青年会のことでは、江原君と屡々会つたが、勿論温厚な是非を理解し、非常に常識に富んだ人であつたと思つた。が、さればと言つて決して好々爺ではなかつた。それからといふもの、江原君とは屡々会つてゐた。
 私は江原君の死を聞いた時、非常に惜しいものであると思つた、そ
 - 第46巻 p.10 -ページ画像 
れは単に江原君の死を悼むといふばかりではない、江原君は未だ私等よりは若い人であつた、八十一歳で死んだといふが、之からが働き盛りである。その人を失つたといふ事は、如何にも残念な事だ、又国家と云ふ見地から言つても、江原君を見す見す殺して了つたといふのは惜しむべき話だ、之から大いに働いて貰はねばならなかつたのに、非常に惜しい事をしたものだ、と思つたからであつた。さう云ふと何んだか私が兄貴ぶつて、大層江原君の死を悔んでゞもゐるかのやうに蔑まれるか知らんが、公の意味から云つたら当然さうある可きであつたらうと思ふのである。実際惜しかつたものだ。
 併し、私一個人の考へとしては、天寿を全うした死であつたと、今更ら同君の生涯を顧みて追慕してゐる次第である、その人格や徳望の高かつたことは私が云ふまでもない。
 その他、江原君に就いては言ひ度い事は沢山あるが、幾ら言つても同じやうな感想に過ぎないから、これ位にして置く。



〔参考〕集会日時通知表 大正一三年(DK460002k-0006)
第46巻 p.10 ページ画像

集会日時通知表 大正一三年      (渋沢子爵家所蔵)
五月十九日 月 午后参時 故江原素六氏三周忌記念講演会(麻生中学校)