デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
19款 亜細亜学生会
■綱文

第46巻 p.38-42(DK460011k) ページ画像

大正10年9月(1921年)

是ヨリ先、大正八年十二月当会成立シ、是月栄一、当会顧問トナル。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二一頁 昭和六年一二月刊(DK460011k-0001)
第46巻 p.38 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿)昭和六年十二月調 竜門社編
             竜門雑誌第五一九号別刷・第二一頁昭和六年一二月刊
    大正年代
 年 月
一〇 九―亜細亜学生会顧問―昭和六、一一。


亜細亜学生会趣意書 刊(DK460011k-0002)
第46巻 p.38-40 ページ画像

亜細亜学生会趣意書 刊
(印刷物)
 会長  専修大学学長   阪谷芳郎
 副会長 元明治大学学長  木下友三郎
 理事  拓殖大学理事   永田秀次郎
 同   東京帝国大学学長 古在由直
 同   明治大学学長   横田秀雄
 同   慶応義塾大学総長 林毅陸
 同   早稲田大学理事  塩沢昌貞
 顧問           渋沢栄一
 同            後藤新平
 同            山川健次郎
 同            元田肇
 同            高田早苗
 同            鎌田栄吉
 同            平沼淑郎
 同            仁井田益太郎
 同            富谷鉎太郎
 同            木村久寿弥太
 同            団琢磨
 同            服部金太郎
 同            山科礼蔵
 会計監督         小林丑三郎
 同            豊田教嘉
 主事           中島常吉
    亜細亜学生会趣旨
 □本会は、『亜細亜の学生』としての正しき自覚に生きんとする、東京都下の各大学学生を以て組織された研究と修養との会であります
 □我等は、将来に於て亜細亜の中堅たるべき青年に国際的訓練を施して襟度大に視野広く、国境の上に超然たる大人格者を養成せんとす
 - 第46巻 p.39 -ページ画像 
るものであります。
 □我等は、真の人類愛を体得し、先づ洲を同じくする亜細亜の各国人との親睦を厚くし相互意志の疎通を図り、特に各国学生とは兄弟として手を握つて行きたいのであります。
 □我等は、光輝ある亜細亜の文化が、今や再び興隆して新世界に福音を齎すべき時運を迎へんとしつゝあるを思ひ、亜細亜民族として、世界に対して責任の重大なるを感じます。
 □我等は、如上の目的を達せんが為に、亜細亜の人達と常に胸襟を開いて相往来し、手を携へて文化の研究と人格の修養とに力を尽さんとするものであります。
    本会成立の由来
 □本会は大正七年の秋に企画され、大正八年二月最初の生声を挙げました。当時は中華民国の学生をはじめ、印度・暹羅・比律賓その他亜細亜各地の学生を会員として網羅し、故大隈侯を総裁として、大正八年三月二日築地精養軒に於て大々的の発会式を行つたのであります
 □然るに、時恰も欧洲戦争の末期に当り、二十一箇条問題其他種々の理由より何分にも一部中華民国学生の誤解が甚しく、日本の朝野も亦冷淡に非んば怪訝の眼を以て見る有様であつたので、遂に暫く組織を一変して日本人本位の会――日本の学生を中心として内外に此趣旨を宣伝する会となすべき議が起り、阪谷芳郎氏を組織改正委員長に、元田肇・江原素六・高田早苗・鎌田栄吉・木下友三郎・仁井田益太郎平沼淑郎・永田秀次郎・阿部秀助・清水泰治諸氏を組織改正委員に仰ぎ、之等諸先輩の指導と同志学生の奔走と相俟つて、同八年十二月二十日愈々本会の成立を見たのであります。
 □爾来九星霜、本会の抱ける大目的の上より見れば、未だ前途は遼遠でありますが、定時研究会・講演会・野遊会を開催し、随時印刷物を刊行すると共に、毎夏旅行団を亜細亜各地に派遣し、或は亜細亜各地よりの来朝者を歓迎し、或は留学生と懇親会を開催し、或は対支問題に就いて当局に建議する等、着々其の歩を進め今や亜細亜各国人の本会の真の趣意を了解する処となり、一路本会当初の目的に添ふて躍進の道程をたどりつゝあるものであります。
    亜細亜学生会規約
      第一章 名称及位置
第一条 本会ヲ亜細亜学生会ト称ス
第二条 本会ハ本部ヲ東京市神田区駿河台明治大学内ニ、集会所ヲ同市麹町区下六番町十一番地内ニ置ク
      第二章 目的及事業
第三条 本会ハ亜細亜青年ノ懇親並ニ相互思想ノ融合ヲ図リ亜細亜文明ノ開発ニ務メ以テ人類ノ福祉ヲ増進セムコトヲ期ス
第四条 本会ハ前条ノ目的ヲ達セムカ為ニ左ノ事業ヲ行フ
  一 研究会・講演会・野遊会ノ開催
  一 会員ノ亜細亜各地派遣
  一 来朝者歓迎会ノ開催
  一 亜細亜学生大懇親会ノ開催
 - 第46巻 p.40 -ページ画像 
  一 機関雑誌ノ発行、夏期講習会開催
  一 出版物ノ刊行
  一 会館ノ建設
○中略
             亜細亜学生会
              本部       明治大学
              支部       慶応義塾大学
                       早稲田大学
                       東京帝国大学
                       拓殖大学
                       東京外国語学校
                       専修大学
                       法政大学
              集会所 麹町区下六番町十一番地
                     電話九段九二九番


青淵回顧録 渋沢栄一述 小貫修一郎編 下巻・第一五六四―一五六八頁昭和二年八月刊 【○諸名士の渋沢子爵観 亜細亜学生会と渋沢子爵 富谷鉎太郎】(DK460011k-0003)
第46巻 p.40-42 ページ画像

青淵回顧録 渋沢栄一述小貫修一郎編 下巻・第一五六四―一五六八頁昭和二年八月刊
 ○諸名士の渋沢子爵観
    亜細亜学生会と渋沢子爵
                貴族院議員 富谷鉎太郎
 幕末王政維新の際にあつて、社会一般の為に、奮闘努力せられたる偉人の経歴は幾多の記録に、若しくは事業上に現はれてゐる事で今更述ぶる迄もないが、其間に於て身命を賭したる人士は、所謂国士とも云ふべき人は、其の例真に多いと雖も、渋沢子爵の如く身を平民の家に出でゝ遂に初志を貫き、業成り、名遂げて遂に栄爵を授けられたる人は真に稀なりと云ふも差支へないと思ふ。
 而して子爵の伝記其の成功の事実、其の行の就中経済界に行ける鴻業の偉大なることは世人の遍く知るところにして、又其のことは吾々も聞知してゐるところである。故に従来著書其他の物について知り得たるものを今更批評判断すべき場合ではないのであつて、又かくの如き偉人の伝記に関して完全なる意見を述べ充分なる批評を下すことは我等の成し得るところではない。のみならず吾輩は子爵に就いて親しく談話を試むる如き機会を得るに至つたのは、曾て明治大学の学長となりてより以後のことであつて、それ以前に於ては実際子爵に接して其の行蹟を知ることの出来ないものであつた。只だ吾輩のこゝに述べんとするものは、唯自己の子爵に接近して其の実歴談を聞くことを得る時に至りたる以後の事実について二・三話して見やうと思ふ。
 我輩が子爵と親しく談話を交ゆることに至つたのは、前述の如く明治大学の学長としてその部下にある大学生が、亜細亜学生会員とし活動するに当つての時で今述べんとする事は亜細亜学生会の為に子爵の尽力せられたる事歴と、尚世界戦争後に於ける国際聯盟協会の会員として子爵に接近した二つの事柄、殊に亜細亜学生会に就てゞある。
 偖て亜細亜学生会なるものゝ目的は日支親善は勿論、亜細亜の興隆を主としたものであつて、それが為には我国のみならず隣国の支那と
 - 第46巻 p.41 -ページ画像 
共に興亜の為に地歩を得んとするにあるのである。而して学生をしてこの衝に当らしめることはこの事業が遠大にして永年月を要するのであるから春秋に富み、国家の為に永く尽力することの出来る青年者をして充分事実の調査をなすことを期したのもこの会の趣旨であると思ふ。この亜細亜学生会なるものは我国の大学、早稲田・慶応・明治・帝大・拓大等の学生有志の組織にかゝり、その会長は阪谷芳郎君、副会長は曾て明大学長たりし木下友三郎君であつて、自分はその当時より続いてこの顧問として実際会の事歴等を承知してゐるのである。
 亜細亜学生会は常に東亜の研究に尽力し、それが為に毎年一回夏期休暇を利用して満韓旅行を、支那・印度・東亜の旅行を試み事実上の調査をなして亜細亜学生会の目的を遂行せんとするものである。学生の旅行については会員の申合せ等により毎年実行せられて、その調査はその都度小冊子に報告せられたる如く、極めて緻密なる而も事実に適したる調査をなしたる事実があるのである。この学生会員の旅行に就ては年々約五・六千円の資金を要するので、これの支出については重に実業社会の有志の醵出にかゝるものにて、その有志に対する紹介若しくは直接の後援をなしたる人は主として渋沢子爵にして、別言すれば子爵は亜細亜学生会が支那・満洲等へ旅行するに就ては大なる後援をなされたる事実があるのみならず、その会に就いては親切懇篤実に親子の如き態度を以つて指導誘掖することは吾輩が実見したところである。現に今夏支那旅行に出発せんとする学生を王子の邸に集め、子爵は当時健康を少しく害せられてゐたにもかゝはらず、席を共にしてその体験せられたる既往の事蹟等を以つて学生の為に親切なる訓示をなされたのである。吾輩も亦列席してゐたが、此の際に於て吾等も又深く感動させられたのである。これを言ひ換へれば子爵が斯くの如く青年学生に対し親子も唯ならざる懇切なる指導後援せらるゝのには即ち国家将来の為吾国の前途についてまで力を尽されんとするのであつて、維新の際に奮闘せられたる意気は今尚充分に表示せられたるものであると云ふことを信じて疑はない。子爵は王政維新の当時常に奉公の念を以つて今日の地位を得られた事はこの一事を以ても充分に推知することを得るものであると云ふも差支へないと思ふものである。子爵が斯の如く奉公の念に厚き行為を示さるゝことはこの一事を以つて充分であると思ふが、尚一つは世界平和の為に国際間に設立されたる国際聯盟についても又大いなる後援をせられ、我国の聯盟協会については多大の尽力をせらるゝ事は吾輩も亦実見して熟知するところである。
 惟ふに子爵が功成り名遂げて殊に老境に達せられたにもかゝはらずその壮健なる又老練なる知識経験を以つて一般公益の為にかく尽力せらるゝことは実に我々が敬服せざるを得ない次第である。普通の人であるなれば所謂隠居の身として、春は花見、秋は紅葉狩りをすると云ふ遊楽に其の日を送るのが普通であるに拘らず、子爵は現に一意専心公益の為にその信用をわかち、一日も安逸に趨向せることなき如きは子爵がかくの如く維新の初めより今日まで経済界に於ける大成効者であつて、又これが為には子爵の好遇、栄爵をも受けらるゝに至りたる
 - 第46巻 p.42 -ページ画像 
は深き根底の存するものあることが推知せらるゝのである。子爵は明治維新の初めより今日に至る迄斯の如く奉公の念慮を以て世に貢献せらるゝものは、その実験の効果と学問を実用せられたる結果と云ふことが出来やうと思ふ。吾輩は日本内地の公私旅行の際、屡々子爵の揮毫せられたる扁額、若しくは幅類を旅館等に於て見ることがある。就中関東地方に於ては最も多い。その詩若しくは古語に徴すれば頗る漢学の造詣深き人にして、殊に経学に於ては唯その学に志したのみならず、体験せられたものであつて漢学者のみでなく、その精神を汲んでこれを実業界に施した、云はゞ士道を実業界に応用せられたるものと云ふも差支へないものと思ふ。子爵が八十八の高齢なるにかゝはらず凡そ現下の公事に関しその奉公の誠意を披瀝実行せらるゝものは蓋しこの日本化したる漢学の力が最も大いなる関係のあるものと信ずるのである。これを要するに我等の見るところを以つてすれば子爵は経済界の大成効者たるのみならず将来の我が実業界に手本となるべき行為を残さるべく現に活動せらるゝ人として尊重せざるを得んと思ふ。