デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
29款 其他 2. 東京市教育会
■綱文

第46巻 p.151-156(DK460038k) ページ画像

大正10年4月23日(1921年)

是日、神田一橋高等小学校ニ於テ、当会主催故当会会長高木兼寛追悼講演会開催セラル。栄一出席シテ追悼演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一〇年(DK460038k-0001)
第46巻 p.151 ページ画像

集会日時通知表 大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
四月廿三日 土 午后一時半 東京市教育会主催、故高木男爵追悼会
              (神田一橋高等小学校)
○但シ総長○栄一ノ講演ハ三時ヨリ


竜門雑誌 第三九八号・第二九―三六頁大正一〇年七月 ○故高木氏追悼講演会に於て 青淵先生(DK460038k-0002)
第46巻 p.151-156 ページ画像

竜門雑誌 第三九八号・第二九―三六頁大正一〇年七月
    ○故高木氏追悼講演会に於て
                      青淵先生
 本篇は本年四月二十三日、神田区一橋高等小学校講堂に於て開催されたる故東京市教育会長男爵高木兼寛氏追悼講話会に於ける、青淵先生の追悼辞なりとす。(編者識)
 御遺族、満場の諸君、今日の追悼会に当りまして私にも一場の感想を申上げます機会を御与へ下すつたことを感謝致します、教育家たらざる私故に、男爵を御追悼申すことが聊か脱線の嫌はございますけれども、私は年久しう御交際を重ねました為に、其交誼の顛末と、私の再生の御医者様であつた為に、其受けた医術の親切さと、斯る点より追悼談をいたして見たいと思ふのでございます。但し屡々御目に懸りましたから、或は思想問題、或は教育問題、或は労働問題、社会問題又貧富を調和せしむるには如何にしたら宜からうかと云ふやうな問題も、角立ちまして論議したではございませぬけれども、御互の間、若くは或友人を介して、議論を上下交換致したことは一再にして已まぬのでございます、故に是等の事を繰返して申上げますと、或は前後錯雑もしませうし、又申上げ尽し得られませぬけれども、只今副会長の根本君から追悼の文を御読みになりましたことが、洵に故男爵の御精神若くは御功績を概括的に御述べになりましたから、其辺に対しては
 - 第46巻 p.152 -ページ画像 
私は申上げる言葉はございませぬのです、前に申上げます通り、私の御交際は丁寧に調査致しませぬから或は過つか知りませぬが、明治十六年と覚えて居ります、すると殆ど四十年の間の御交誼でございますで、前に申した通り手術を御受け申した以外に、論説多い意見多い男爵でございますから、種々なる方面に御討論を致したのでございますが、先づ私は自分の一番感触しました手術を受けました方面から、御話をして見たいと思います。
 私も其頃は東京の新参の人間であつて、従来御頼みつけの御医者様があるでもなく、或人の紹介に依つて高木兼寛さんと云ふ人は優れた医術を有つて居る精神の逞しい御方である、医師以外に友とし得られる御人であるから、此御人を御頼みしたら宜からうと云ふから、御面会を願つて始終重立ちました病気には必ず御依頼をしたと云ふ関係でございました。但し一寸した風を引いたとか、聊か頭痛がするとか云ふ位のことには、不断の出入する御医者は別にございましたけれども私も今日八十二の高齢を迎へまして、畢竟是も故男爵の賜物と喜んで居りますが、其光栄を御与へ下すつた男爵は私より九つ下で昨年薨去は少し意外でございます。何故御死になつたかと、若し生命があつたら御議論申したいことだが、死者に向つて議論も妙なものでございますが、私は必ず私が先に死ぬだらうと御話をしたのが、意外にも今日私が追悼の辞を為さねばならぬ不幸な境遇に立ちましたのでございます。併し反復して申すと、私が此生命を保つたのは故男爵の治療に依つたと申して宜からうと思ひます、申さば私の今日の存在は別して深い感想を男爵に致さねばならぬのでございます。私が二度大患を病ひました時は実に親戚知己も及ばぬ御心を砕いて御治療下さいました、其事に就ては今も尚深く感銘して居ります為に、此追悼の辞は教育会の会長に申上げることに相成らぬか知れませぬけれども、私はどうも其事は玆に先づ第一に申上げざるを得ぬのでございます。
 前に申上げます通り、明治十六年頃から御交際を重ね、少し具合が悪いと御依頼して其診察を受け、さまでの病気でなかつた時は又談論風発色々の議論に渉つて否と云ひ応と云ひ、或場合には口角泡を飛すと云ふこともあつた位でございます。以て二人の間が如何に親密であつたか、又雷同しなかつたかと云ふことも御諒解になるだらうと思ふのでございます。明治二十七年の春から私が腫物を生じて痛むので、不断に来る御医者様が一・二度硝酸銀で焼いて呉れたが治癒しない、三回かやりましたけれども益々具合が悪い、それからどうしても是は大家に見て頂かなければいかぬから、高木先生を御頼みしやうじやないかと云はれるに就て、多分其年の十一月頃でありましたか御願ひ申した。日は忘れましたが十一月初めです。折柄用が重つて先生を御迎へ申しながら何でも三十分余り御待たせ申しましたらう、まるで寝臥して居らぬ病人故に、種々の用を取片づけて御目に懸つた。所が大に機嫌を損じた。頻りに診察された後とからどうも今日は見切れぬからもう一日能く診察した上で何分の答をすると云ふことで、エライ不機嫌な御挨拶であつたので、是は私を脅かすのだ、時々此手をやるから先生のことだ、ナーニ大したことはないと云ふ感じで、余り待たした
 - 第46巻 p.153 -ページ画像 
から貴下御機嫌が悪いのだらう。それもある、けれどもそれ許りでない、一体お前方は若し玆に価高い品物があつたらせめて箱に入れるとか、小使が投出したら壊れるとか云ふ観念があるだらうに、自分の身体を粗末にするのは実に困つたものでないか、大なる宝が玆に在るとするならば、少しは手当をして打壊さぬやうにするのが情けの始めであるに、どうもお前などは実に身体を粗末にする、押並べて社会に働く人に身体を甚だ粗略にする弊害が多いが、是は少し御考へ違ひであらうと思ふと云ふことを、其時訓戒的の御話がありました。それから一日置いて御出になつて、再び見られてどうも是は見切れぬ、どうも少し種類が悪いと思ふ、斯う言はれて始めて脅しでないと云ふことが分つた。就ては困つた、此上何か悪性ですか、先づさう言はれるな、悪性と云へばこんな所に出来るのは何ですか、癌とでも云ひますか、マア判然云へないが、孰れ悪性と云ふのには結構なものでないと云ふ丈けは理解しなければならぬから、兎に角どうしても手術をしなければならぬ必要がある、手術をするとなると相当年を取つて居るし、余り軽卒なことは出来ぬ、私一人では困るから相当な助手を相手と頼みたいと思ふ、それを先づ承諾して呉れ、誰でございますと云ふと其時はスクリツパ先生でした、之を一ツ頼んで呉れ、それはどうも少し何だか一寸した病気でないやうに聞へます、果してさうであるならば、尚更親族にでも相談しなければならぬ、手術をすると云ふ為に、更に尚人を要するならば、誰でも宜いからもう一人御願するが宜からうと云ふ話で、大に親戚共も驚いて、然らば渋沢は癌だから長いことはなからうと云ふことを頻りに言つた、私も冥土の者と思つて居つたのです。遂にスクリツパ先生の外に橋本綱常さんを願ひました。其当時の御医者様は御三人共故人となられて、病人の私が斯の如く健在して居るのは甚だ異数でありますけれども、此御三人に願ふて、而も十一月十八日に私は大手術を受けたのでございます。其時の御注意と云ひ、御所作と云ひ、実に至れり尽せりと今尚深く感じて居りますが、努めて能く其患部を除去つて下すつたのが、即ち不治とも称すべき癌をして再び発生せしめぬやうに相成つたと思ひます。甚しきは橋本綱常先生などは、其後時々御目に懸るとまだ出はしないかと云つて、必ず余所に行つた者が帰るだらうと云ふ如くに屹度出るだらう、もう軈て再発をするだらうと云つて尋ねられたので、貴下は私の最期を喜ぶのですかと云つて笑つたことが実際ありますが、実に不思議だと云はれる位、私は医学社会から標本にされて今も尚ほ健在でございますで、幸ひに其治療は高木博士が完全な手術をして下さつた為と思ふのでございます。更に其翌年の春、病気の手術の場所の全快する為に転地したら宜からうと云ふ御指図で大磯に転地しました。其時に是も甚だ御恥しい談話ですけれども、大磯祷竜館に居る中に舌に痛みを生じた、私心に思へらく、是は再発したのである、もう到底自分の身体はさうなればいけないに相違ないのだが、何とかして用を片付けて死なぬと甚だ世の中に心残りだ、まださう死にはすまいから必死に用を片付けて早く死ぬ仕度をしやうと思ふ、保養の為に参つた大磯の転地を止めまして正月の六日に帰つて来まして、それから頻りに寒いに拘らず用
 - 第46巻 p.154 -ページ画像 
向に取掛つた、家内の者は驚いて何故そんなことをするか、少し考へる所があると云つて二・三日やりました、どうも気になつて堪らぬから到頭高木先生を願つて、今度は御出下さると直ぐに見て頂いた、どうも此処が痛うございますから再発したに相違ないと思ひますが、御見せなさい、是はなんでもない、舌の裏に唾の出る所がある、唾の出る口に少し腫れを生じたと云ふので、明日か明後日位に治るだらうから、之にはそんなに吃驚なさらぬで宜しいと云はれて、大に笑つた話がございますが、是は洵になんでもない話ですが、私の甚だ卑怯未練を此処で告白するのであります。為に私の第一の大病は全く故博士の為に十分な治療を受けたと申上げて宜しいやうでございますが、次の病ひは丁度それから十年経つた日露戦役の時でございました。是は又病症が違ふて肺炎であつた、十一月二十一日かでした、発病したのを覚へて居りますが、それから翌年の四月頃迄、或は中耳炎、或は腹部が悪かつたり段々して、遂に四月二十九日に肺炎になりまして、夫迄の間は是迄の大患と思ひませなんだが、肺炎の時には矢張是も自身では黄泉の人と思ひましたのが、同じく故男爵の御治療に依つて幸に全快したのですが、此時の御治療の仕方も私は深く感銘して居ります、丁度一度病気が稍々恢復し掛つたのでありましたけれども、自分では何だか苦悶に堪へませぬのと、世間の事が心配に思はれて、病中ながら或一・二の経済界の御方に会ふて、将来の経済に対する財政経済の意見を言つて置きたいと云ふことを頻りに請求しました。高木先生にせぶるやうに顔を見ると頻りに其事を言ふたので、懇々説諭されて、今さう云ふことをするとどうも必ず病気に妨げがある、御懸念なさるも無理はないけれども併し私は必ず全快すると思ふ、吃度全快させ申すからさうしたら其上で言ふて宜いではないか、成程貴下が死んだならば洵に残り多いと云ふことを言はれるのも無理なからんが、全快したら少しも残り多くない、憚りながら私は見る所あつて言ふから、さう分らぬで心配なことを言ふて呉れては甚だ治療に困ると云ふことで懇切に其希望を退けられまして、誠に御親切な思召、斯う云ふ訳だから必ず治療の見込があると云はれたに就て深く感謝して、強て我儘を遂げぬやうに致しました。是も病中ながら能く記憶して今も尚其親切さ、又其治療に対して力を尽して下すつたことを深く感佩して已まぬのでございます、是等は私の最も今感銘して忘れることが出来ないのでございますが、爾来御逝去になるまで、私は聊か病気の感じが自身にすると思ふと必ず御願ひ申して、始終御治療を受けると云ふことを自分の慰安と致して、或時にはもう高木は、医師と云ふ使命が、今日は病を治す医術の方は、殆ど病家は渋沢一軒で、滅多に外へ行きはしない、従来の親みから、お前の所から云はれると所謂匙を取らぬと悪いやうに思つて、斯うして来ると仰しやつた位であります。丁度私の希望では、私の終身の御治療を受ける積りであつたのが、反対に男爵の御追悼を申すと云ふことに相成つたのでございます。右様の厚い御注意と深い御介抱を蒙つたと云ふことも、医術の巧み、又其事に御熱心であつたと云ふ許りでなしに、前に申述べます通り、先づ御互に或場合には他の方面に就て頻りに御討論を申上げると云ふ、意気相投ず
 - 第46巻 p.155 -ページ画像 
るから余計にさう云ふ場合に至つたらうと自身も思ひまして、実に御頼もしい、誠に深く依頼する御医師と考へ居つたのでございます。
 他の方面に就て玆に更に感想を申上げますと、慈恵会の御経営でございます。私は中年から這入りまして、今日も尚会員とし会の役員として努力を致して居りますが、其発起は何時頃でございましたか、年月を審に致しませぬが、私の立入りまして以来も既に十四、五年の歳月を経ました。併しそれより先に尚十四、五年の歳月を経てあつたらうと思ひますから、此成立は三十年以上を数へ得られるであらうと思ふ。而して其当初より今日に至るまで、男爵が実に熱心誠意慈恵会をして慈恵病院をして、又一方には慈恵医学校をして、あれまでに進められたと云ふことは、私は容易なことでなからうと思ふのでございます。而して是等は唯単に医術として御尽しなすつた許りでなく、所謂社会政策としても大に賞讚せねばならぬ、又教育としても、一般教育でございませぬ医学の教育でありますけれども、彼の学校をしてあれ丈けに進めて往つたと云ふことは、他にも御輔翼した御方がありませうが、蓋し故男爵の専心に御尽しなすつた効果は見遁す訳に参らぬのでございます。其時も始めは宜くございませなんだから、慈恵会が丁度明治四十年頃迄は余り十分なる資本を集め良い設備も出来得ませなんだ、男爵大に之を憂へ、又総裁に立たれた有栖川宮妃殿下も頻りに御心配遊ばして、幾らか経済界に望ある私共を加へて之を補助せしめたら宜からうと云ふ訳で、私も之に参加するやうになりました。御沙汰と共に高木男爵と御相談して、如何なる方針に進めたら宜からうかと云ふことを種々御協議の末、更に一般に向つて寄附金を募集する。又其方法を多少改善して、而して拡張すると云ふやうな方法に努めまして、私共聊か微力を尽しましたが、前後徹底したる御尽力は全く高木男爵に依ると申しても、決して私は溢美でもなければ過賞でもないのでございます。殊に男爵は御医師で居られたから、会計上のことに就ては私共からは専門外であらうから、甚だ拙であらうと思ひきや、中々寄附された資金の管理方法、其利殖の手段、是等に至つても私共殆ど三舎を避ける程の考を持たれた、其宜しきを得ましたから、其後大に募集した金額も至つて豊富になりました、其当初の宜しきを得た為でありませう。今日は基金が百二十六万円許りの金額を備へて居る一方には学校も有つて其学校は大学の資格にまで進めるやうな運びに立至りましたのでございます。是等の当初の施設経営、実に或点からは極く逞しい決心と又之を経営する才幹と、二つなければ是丈けのことは為し得られぬと云ふことは、多弁を要せぬやうに考へます。私は男爵の、事に当つて如何にも専心であると云ふことを、今も尚敬慕して居ります。所謂専心的集注と云ふことを、私共も始終心懸けては居りますが、高木男爵は蓋しそれであつたと、私は深く信ずるのでございます。偶々私共の世話して居る青年の修養団に対しても或は力を注いで頂き、又私の他の関係の養育院と云ふものがございます。此養育院の経営に対して二度許り実地を見て頂いて御意見を伺つたことがありますが、是等に就ては、或は教育と言ひ得られぬ、又唯単に治療とも言へない、一種の社会事業でありますが、此点に就ては斯うあつた
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ら宜くはないか、斯ることは斯うありたいと云ふことで、屡々御煩しはしませなんだが、愚見を述べて御意見を伺ふと云ふことに少なからぬ裨益を得たことは間々ございますのです、蓋し斯の如き熱心に依つて、又専心に物を処されたからして、此教育会に対して貢献されたことは、私は門外漢でございますけれども実に鮮少でなからうと思ふ。宜なり、本会の皆様方が敬慕の極玆に会を御開きになつて、此御追悼の御催し、実にさもあるべきことは、此場合に於ても、まだ天は数年を仮して下さりさうなものであつたと、深く追悼に堪へぬのでございますが、此御席に対して、私一身はもう殆ど二度三度の生命を故男爵に救はれたやうな感じが致しますと、教育会の会長として功労のあつたと云ふことを賞讚し挙ることは、私の関係の乏しかつた為に満足なことは申上げられませぬけれども、私一身の関係として斯る事柄のあつた御方である、故に本会に対する功績も定めし偉大でありつらん、と云ふ讚辞を呈することは、決して無理に強いたる言葉でないと、諸君の御聴取があるであらうと思ふ。而して又故男爵を御追悼申すの衷情と、私は申述べ得られると思ふのでございます。自分の所感を玆に述べまして追悼の辞と致したのでございます。
   ○高木兼寛ハ大正六年十一月二十四日東京市教育会長ニ選任サル。大正九年四月十三日歿。(高木喜寛著「高木兼寛伝」ニヨル)