デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
29款 其他 4. 静岡教育会
■綱文

第46巻 p.163-179(DK460040k) ページ画像

大正4年4月19日(1915年)

是日栄一、東照宮三百年祭ニ際シ、静岡師範学校講堂ニ於テ開催セラレタル当会総会ニ臨席シ、記念講演ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK460040k-0001)
第46巻 p.163 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
四月十八日 雨
今日ハ興津ナル井上侯邸ニ園遊会ノ催シアリテ、曾テ案内ヲ得タレハ午前五時半起床洗面シテ朝飧ヲ食シ六時半家ヲ出テ七時十分東京駅発ノ汽車ニ搭ス○中略 十一時半興津ニ達ス、直ニ下車シテ一同侯爵邸ニ抵ル○中略 四時興津発ノ汽車ニテ静岡ニ抵ル○中略 大東館ニ投宿ス、後日記ヲ編成シ、又読書ス
○下略
四月十九日 雨
○上略 十時半教育会ニ抵リ、東照公と前将軍と云フ演題ニテ一場ノ講演ヲ為ス、聴衆数百名頗ル盛会ナリキ、畢テ、静岡倶楽部ニ抵リテ午飧ヲ饗セラル、県官及教育会幹事等同伴ス○中略 午後四時発ノ急行列車ヲ《(ニ)》搭シテ静岡ヲ発シ、夜九時東京駅ニ達ス ○中略 十時王子ニ帰宿ス○下略


集会日時通知表 大正四年(DK460040k-0002)
第46巻 p.163 ページ画像

集会日時通知表 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
四月十九日 月 午前十時 静岡県教育会(静岡師範学校)
   ○四月十八日ノ条ニ「午前七、一〇静岡へ御出向」ト見ユ。

 - 第46巻 p.164 -ページ画像 

竜門雑誌 第三三三号・第二一―四二頁大正五年二月 ○東照公と前将軍 青淵先生(DK460040k-0003)
第46巻 p.164-179 ページ画像

竜門雑誌 第三三三号・第二一―四二頁大正五年二月
    ○東照公と前将軍
                      青淵先生
  本篇は昨年四月東照宮三百年祭の挙あるに際し、青淵先生が静岡教育会の招聘に応じ、同月十九日静岡師範学校に於て開催せる同教育会総会席上に於ける講演なりとす(編者識)
 満場の諸君、私は当静岡市は維新早々の時に凡そ一ケ年住居いたした所謂第二の故郷でございます、今は昔、その時分のお友達は大抵黄泉の旅にござるから、お孫さんとかお子さんとかいふ様なお方ならではお親しみがないのです、幸ひ玆に森理七君は私と同年である故に、今日は森君によつて昔の事を慥められるといふ様な浦島太郎が出て来てお話する様な訳でございますが、今年はその静岡に最もお因みの深い東照公の三百年に当つて、左様な紀念日に際して玆に教育会の大会が開かれるについて、縁故ある渋沢であるから、何か一場のお話をする様にといふ、嘗て市長たりし長島君から過日懇切なお言葉を被りましたから、喜んで御請をいたして、乃ちこの席に罷出ましたのであります、左様の順序によつて此演壇に立ちましたが、元来実業上に奔走して居る者で学問の素養もありませぬし、況や歴史などは丁寧に読み得ませぬ、又之を調査する時も十分ないから甚だ粗雑なお話をしまするが、東照公に比較する訳ではないが、前将軍慶喜公については私が其御生立ちから現に調査して居り、殊更静岡に御謹慎若くは御退隠なされ、其後東京に御移り遊ばしてまでも厚く御懇命を蒙り、又多少の御世話を申上げた様な感じのある身柄でございますから、斯る機会に中興の祖たる東照公の大功業を申上げると同時に、一昨年薨去なされた慶喜公の御事蹟について、その一端をこゝに申述べたならば、静岡にお因みの多い方でもありますし、相対照して諸君の御参考になりはせぬかと、乃ちこの演題を掲げた訳でございます。
      △幼時の東照公
 前にも申しました通り学術によつてお話することは出来ません、其辺は後席に中村学士が居られて、既に東照公の御事蹟をお取調になつて居りまして、私も昨日其一本を頂戴いたして一端を窺ひましたが、是等によつて諸君は詳細の御話が伺はれるであらうと思ひます、故に私は学問的でなく、少しく自己の憶断を加へて、斯かる大英雄、大政治家を考察したる廉々を申上げて見たいと思ひます、殊に東照公は、この静岡との御関係が別して御厚かつたから、静岡との関係についてのお話を主として申述べて見ようと思ふのであります、東照公の三河にお産れになつたのは、天文十一年の十二月二十六日である、これらの事は所謂歴史家のお話することでありますから、私の喋々を要しませぬ、当時の日本といふものは所謂麻の如く乱れて居つた時代であります、その三河で、僅か岡崎の一部分を領された立派な大名とまでは云はれなかつた位であります、御家系から論ずれば正しい源氏の嫡流でありますけれども、足利時代に大分零落されて、中興の祖先は上野から三河へ移転せられ、松平村へ壻養子に這入つたといふ訳ですから
 - 第46巻 p.165 -ページ画像 
その様に強大の勢力はない筈である、御祖父の清康公は英主であつたが、不慮の事にて臣下の為に害せられ、又父君広忠公も二十五・六歳で逝去をなすつた、公はその遺子であるからして固より十分な勢力のなかつたことは論はない、その頃東には今川、西には織田があつて、群雄割拠の時代であるからして、中々容易に発達する訳には行かなかつた、況や今川義元といふ人は、領地も広く、幕下も多く、軍勢も振つて居つたから、徳川家はその隷属の有様であつた、又一方の織田信秀といふ人が中々勇猛機敏な人であつて、その子の信長は武略に富むだ武将であつて、決して信秀に劣る人ではなかつた、この今川・織田の圧迫にかゝつて居る時代に、東照公はお成長なすつたのである、それも岡崎に於ての御成長ではない、歴史によると御年六つの時に、臣下の戸田憲光に売られて信秀の人質に取られました、この事については塚原渋柿といふ人の書いた小説に詳しく書いてあります、元来今川へ人質として行かれる途中、何でも参州汐見坂の辺で奪はれて、織田の人質になつたのである、それから人質として公は熱田に居られた、六つから八歳まで居られて再び岡崎に帰られ、更にまた今川の人質になつて、駿府即ちこの静岡に参られた、その時の今川の居城は何れであつたか、此静岡の町即ち駿河の府中はどの様なものであつたといふこと迄は、私は調査して居りませぬが、是れが今日三百年の祭典をする所の東照公と駿府のお因みの初まりである、他日大英雄、大政治家となるお方であつて、所謂「栴檀は二葉より香し」の譬の如く、八歳頃の御行動についても既に業に敬服すべき点が甚だ多い、多分徳川実記にも記載してあつたと覚えて居りますから、読んでお話の種にしようと思ふて、此一冊を持参しましたけれども、六号活字で老人の目にはよく見えませぬ故に、昔時読みし記憶を以て御話を致します、信秀の人質となつて熱田に居られし時、熱田の神主がお慰みにとて差上げた小鳥は今日の九官鳥の如きもので、能く他の鳥の声を真似をする故に、御子供だから御喜びなさるだらうと思ひますと、公はこの鳥は私の気に入らぬから返さうといふてお返しになつた、少年の心事が一寸解りませぬから、近臣がよく伺ふて見ますと、彼の鳥は自分の声がなくて他の鳥の真似ばかりするのは、自己の本能がなくして模倣のみに安ずるといふ訳になるから、私はいやと云はれたのであります、又これは正史にも書いてあるから誰もよく知つて居りますが、駿河に人質になられた時に、安倍川の石打、これは今日も当静岡市にありますかは存ぜぬが、静岡ばかりではない、私は深谷在で成長した者でありますが、深谷から秩父に行く途中に寄居と鉢形といふ処があります、此両町にても少年の相集りて石を投げる闘争があります、それは真実の闘争ではなくして、一つの競技でありますが、公は近臣の脊に負はれて、その石打の見物に行かれて、何方が勝つか負けるかといふことを批評した、近臣の者は、大勢の方が勝つに違ひないといつたが、公はいや然うでない、小勢の方が勝つだらうといはれたが、果して小勢の方が勝つた、そこで近臣が何故然うお感じなすつたかと問ふと、公は小人数の方は一生懸命になつて一致する、一致すれば必ず勝てると思ふたと言はれたとある、八歳の少年にそれほどの知識があつたかどう
 - 第46巻 p.166 -ページ画像 
か、史家が少しく形容し過ぎたかも知りませんけれども、併しながら非凡なお性質に相違なかつたことは、是等でも分ります、十八歳の時に桶狭間の戦があつた、これも名高い戦争で、其時義元が討死したから、公の近臣は今川の勢力は尽きたにより徳川の本城たる岡崎に入城してもよからうとお勧めしたけれども、公は、其時迄は今川の城番として今川家の将校が居城となつて居るを、今遽に義元が死んだについて謂はれなく入城するは宜しくない、といはれて本城へは入られぬ、それから城番として居つた今川の将校が退去せられたを見て最早差支ないといふて入城したといふことは、日本外史に書いてあつたと思ひます、総て幼年から青年、引続いて壮年、老後までの御行動が苟くも道理を失はぬ様に、といふことに深く御注意のあつたことが察し上げらるゝのであります、兎角大英雄、大政治家などは、所謂大功は細瑾を顧みずといふことがありますが、東照公は全く完備したお方でありました、大才に長けて居りつゝ小事に御注意が届く、所謂細大共に満足であつたことは、東照公にして初めて見るを得るというてもよいのであります。
      △東照公の情的方面
 兎角情に脆い人は略に乏しい、略に長じた人には情が乏しい、一方に長ずると一方に短所があるのは、常人に免かれぬ欠点でありますが東照公は人情の深い御性質でありながら、或時は又人情をよく思ひ切るお方であります、其の人情を忍びて決断した処には、少しく残酷と申上げたい程であります、例へば岡崎三郎信康を自害させたことなどは、まだ遣り方があらうかと思はれます、如何に信長の疑を解く為めとした所が、あゝいふ過激なことをなさらぬでもよくはないか、さらばといふて其の御子の御教育に見ると、或は越後少将に対する処置といひ、二代将軍に対する御注意と申し、又三代家光公の相続については、特に駿河から江戸へ御越になりて、秀忠公及其の御台所に懇切に御訓誨なすつた所などは、実に至れり尽せりでございます、斯く家庭上の御処置を以て観察すると、随分人情の深いお方であるが、或る点から又極めて残忍酷薄とでも申上げたい様である、これは歴史家が反対の感情を以て論断し、殊に大阪滅亡のことについては頗ぶる穏当を欠きたる仕方である、当時公は駿府に御隠居なされてあつたが、大阪から片桐且元が使者に来たのと、淀君の送りし女使者と両人に対する取扱が全然反対で、片桐に対する談判は甚だ深刻厳格で、婦人に対しての接待は至つて懇篤優待であつた、故にこの男女の両使が大阪に帰つて、一方は大御所様の御機嫌が甚だ悪いと通じ、一方は又大変に温かなる待遇を受けたと復命したから、淀君を始め大阪の人々が片桐を疑はざるを得ぬわけになつて、片桐は叛心があるといふので討伐と定まり、終に忠臣は皆退身して大阪は亡びたとある。
      △東照公の修養
 併しながら駿河に御隠居中最も敬服する御処置は、公卿法度・武家法度といふ徳川幕府の政治上について完全な制度をお立てになつたことである、想ふに青年の頃より戦争に長い歳月をお費しになつて、殆ど余日なくお暮しになつたから、法律とか宗教とかいふことについて
 - 第46巻 p.167 -ページ画像 
は、何うでも宜いと、人にお委せなされさうなものでありますけれども、そこが大政治家であります、駿河に御隠居後の務めは特に文政が主であつた様に思はれます、故に駿府に御住居といふは決して老後をお養ひなさるとか、風月を楽しむとか、茶の湯を御慰みになさるといふ趣意ではなかつたのであります、近頃の人は老年になりて、幸ひにその子が相当であれば自分は楽隠居であるといふが、これは私は甚だ同意せぬ、自分がさういふことを好まぬ為に人を誹る様に思はれるかは知らぬが、私はさういふ意味ではないけれども、自身は御覧の通り老人でありますが、隠居もせずに社会の事に働いて居ります、蓋し人は世にある間は死ぬまで強勉すべきものと心得て居ります、誰から頼まれたといふのではない、自身が左様確信して、人は生ある限りは必ず至誠と努力とを以て世に尽さねばならぬものと思ひます、今日斯く演説をするのも、私の知識は極めて少ない、其少ないことを諸君にお話したといふて、家康公が別に尊くなる訳もないけれども、諸君よりは幾分か多くを知つて居る、この知つて居るのを、斯かる紀念日にお話しをしたならば、諸君はさうであつたかと感ずるであらう、又感じて呉れなければならぬ、さすれば私の今日の務は夫れだけの効果を得る、中村君の此著書の中にも三上博士の序文があつて、近頃歴史を以て偉人英雄を世に紹介するのは結構なことで、二つの効能がある、祖先を崇敬するといふのも一つの効能である、又偉人が如何なる経歴であつたといふことを世人に知らせるのも一の効能で、祖先を崇拝するといふことは、必ず又自身も栄達せねばならぬといふ奮発心を起す、又英雄を偲ぶといふことは、其英雄が斯くして斯うなつた、彼れ何人ぞや、我れ何人ぞやといふ観念を生ずる、即ちこの歴史といふものが大なる効能あると同様に、縦令歴史でなくとも、先きに知つた人が、そのことを後の人にお話するのは同じく効能になる、故に人たる者は苟くも生ある限りは何なりとも勤めて、此の歳月を空しくせぬ様にするが本分と思ふのであります、是を以て、私は斯く老衰しても如何なる席へも出て、何ういふ事柄にも強勉するを自身の主義として居ります、家康公の思召も蓋し同様であつたらうと思ひます、家康公は六十四歳より十一年間静岡におゐでなすつたが、これは前に述べます通り決して老後の御静養でなくて、却て一種の政略であつた、其十一年間のお務は何ういふことであつたかといふと、三百年の太平の基礎は之によつて成つたといつても宜しいのであります、桶狭間の戦争に出られた十八歳の時から、引続いて六十四まで四十余年の勤労は、農業に譬れば荒ごなしをしたのである、肥料をするとか植付をするといふ方ではない、工業でいへば工場の建築をしたのである、本当の生産事業に掛られたのは、寧ろ駿河に御隠居の後であつたと云ふて宜しい、其文政中にも最も注意して見べきものは、公卿法度・武家法度の制定でこれは丁度明治の御代に憲法其他色々の法律を制定したと同じ様な訳である、是等は其頃種々なる古文書をお集めになつて、その古文書からして此の法度を定められた様に察しられます、是は適当の比較とは思ひませぬけれども、仏蘭西の初代奈翁がコードを造つた、奈翁の戦争の仕方は家康公に及ぶべくもない、縦令大英雄であつても、私は敬
 - 第46巻 p.168 -ページ画像 
服せぬ、撥乱反正の戦でなくして反て武を涜し兵を嗜むの戦争である併しながら奈翁も或る点より見れば心地よい英雄である、所が此奈翁が仏国の大法典を拵へたといふことは、歴史家の称讚して止まぬ所であります、東照公の駿河に御隠居時代に、古文書を蒐集して、それからしてコードともいふべき公家・武家の諸法度を制定されたことは、外史などには余り詳しく書いてない、只だ是等の制度にて朝廷の権を制限したといふことのみ書いてある、これは少し山陽其他歴史家の偏見を以て英雄を評する如く私は思ひます、成程その制度からして両敬と称へて、京都と江戸とが相対する様になつて、京都からは議奏・伝奏、江戸からは老中が布令して、両方で敬称を用ふるから両敬といふことを書いたのである、これ等は殆ど日本に君主が二つ出来た様な形だからして、名分が立たぬ故に、尊王主義の人からは、幕府は僭上である、天子を押籠める挙動であつたと誹謗して、幕末に到つてはその議論が殊に烈しくて、その結果王政維新を成したといふてもよいのである、而して其根本は公卿法度に始まつたと評論すれば、批判すべき値があるかも知れませぬけれども、鎌倉以来、三・四百年間の武門政治で、当時の天子の御稜威は、恐れ入つたことだが、日本の国内を統一して、万民塗炭の苦を解くことは出来なかつたのです、殊に足利氏時代の百年ばかり、応仁・文明より元亀・天正に到る迄の間といふものは、殆ど統一の政治がなかつた、なぜといふたら、天子の御威光の揚がらなかつたのみならず、将軍の力も微々として、万民の塗炭の苦を救ふといふべき中心力がなかつた、而してこの中心力は、当時にあつては一の武力でなければ持てないのであつた、若し其中心力が弛めば、諸藩が勝手我儘を仕出す、それから続いて戦乱となる、それであるから、徳川幕府とても矢張り此中心力を造らなければならぬ、故に余儀なく法度を作つたのである、もし今日東照公に地下に御伺いたしたら、然ういはれるであらうと思ひます、是に於て歴史家の評論は甚だむづかしい所である、東照公に更に驚くべきは、神道・仏教・儒教等に大層力を入れられ、之に向つて種々の調査をなされて、其興隆を計つたことは容易でない、是れも歴史家に相当の批評もありませうが私は特にこの文政を修められたについて深く敬服する、神道には梵舜といふ人がありますが、これは余り立派な学者でなかつた為に、東照公も感心なさらぬで、後に南光坊天海によつて神道をお取調べになり儒教では藤原惺窩を第一に聘し、尋いで其弟子の林道春を御儒家として立派に其家を立てた、且此儒教を尊んだことは頗る重かつた様であつた、殊に東照公は論語・中庸をよくお読みなすつたことは、歴史に明記してありますからして、諸君も御記憶でありませうが、神君の遺訓と称して平仮名入の文章がある、即ち『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず……(朗読)……』私は斯様に能く覚えて居ります、此遺訓は全く論語から出て居ります、東照公が論語をよくお読みなすつた証拠であります、『士不可以不弘毅、任重而道遠仁以為己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎。」これは論語の曾子といふ人の語で、泰伯篇にあります、人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如しと全く同意味であります、又末段の『及ばざるは過ぎたる
 - 第46巻 p.169 -ページ画像 
よりまされり』は孔子の言から出たのです、而して孔子は過ぎたるは及ばざるが如しといふたを、公は勝れりと強くしたのです、是等の批評はこれ丈けで止めますが、兎に角此御遺訓が論語より出たといふことは、諸君にも明瞭にお解りでありませう、その他にもこの道徳については余程お心を用ゐられたものと見える、元亀・天正の頃はあの通り乱世が打続いて、世の中に文学趣味などは殆ど無くなり、仁義道徳の何者か分らぬといふ時に、誰が申上げたともなく、早く既に文学を盛にしなければならぬといふことについて御心を労され、而かもそれが根本的文学であつて、切に仁義道徳を重んずる主義を以て、全然朱子学を用ゐられた様に思ひます、爾来追々と経学にも各派が生じて参りましたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主として居る、東照公の是等の御用意は如何なる御手際であるか、私は敬服に余りありといふ外ない、更に又注目すべきはこの仏教であります、仏教に付ても余程御注意が深く、御穿鑿が届いた様であります、初め三河の大樹寺に帰依して、大樹寺の僧侶と御親交があつた様であります、而して大樹寺は浄土宗であります、尋いで芝の増上寺の住職をも召され、駿河にお移りになつてからは、金地院の崇伝承兌抔を御用になり、後には東叡山を開いたる南光坊天海、即ち慈眼大師号を受けた人である、此天海は実に僧侶中の英雄である、英雄といふては少し形容に過ぎるけれども、僧侶中の傑出した人であつた、殊に精力絶倫で、而かも百二十六まで生きたといふ人でありますから、大隈伯より一年余計生存した、東照公は深く此天海に御帰依になつて、屡ばその説をお聴きなされた様に見受けられます、此間も南光坊天海の伝記を調べつゝ居りますが、駿河に於て公は屡その法談をお聞きなされた、長い年月の間にはどれほどであつたか分明ならぬが、天海の伝記に書いてありました処では、或る年の九十日の間に六・七十回の法談があつたといふてあります、縦令御隠居であつても、江戸から始終文書が往復する、京都からの往復も同様であらうから、中々閑散で能楽とか茶事三昧に日を暮らされたのではなからう、而して寸暇あれば、その間に法談にお出座なすつたのであらうと思ひます、徳川実記には詳しく書いてありませぬが、南光坊天海が常に顧問となつて、色々の御話を申上げたといふことである、故に神儒仏の宗教上については十分なる御研究であつた、仏道にも種々制度を設けたのは、寛永以後に至りて耶蘇教との関係上、宗門改めの制度は全国中所謂津々浦々まで行渡つた、一村なり一町なり毎年一回必ず各戸に就て其宗旨を検査する、蓋し一般の宗教心を検束して耶蘇教を防いだのである、斯く数へ来ると、実に文政に付て大なる雄図をもつのみならず、細事にまで左様に届いて、是を以て麻の如く乱れ瓜の如く分れた天下を総攬せられ、殊にその統一の際の有様などは、豊臣秀吉といふ大英雄が独り自国ばかりではない、海外にまで事を起して、人気を発揚させた後である、夫れを充分に検束して、而して只だ萎縮せしむるのでなくして、能く之を統一なされたといふことは、容易ならぬ御苦心であつたらうと察するに余りあるのです。
      △東照公の外交政策
 元来東照公は外国の交際については最も力を尽された様である、駿
 - 第46巻 p.170 -ページ画像 
河にござる頃には、海外に対して朱印船といふものが始終出入して居つた、後年に至りて徳川幕府の欠点は、帝室に対する制度が厳に過ぎて天子を蔑如したといふ謗を受けたると、海外の交通を少しく注意したら一般の攻撃を免れたであらう、私抔も此二点については青年の頃より慊らぬといふ感じを持つて居たのであります、併し其鎖港したといふことは、東照公をその為に傷ける訳には行かぬ、東照公は全然開国的のお方であつた様に思はれます、丁度寛永の後長崎に於て覆没した外国船から、基督教の人の手紙が出た、又和蘭からも同様の事を内報した、其前に於てサン・フランソワ・サビオといふ旧教の僧侶が渡来して、段々耶蘇教を弘めた、而して当時の耶蘇教は宗教によつて、人心を帰依せしめ、後に恩恵を施してこれを懐け、遂に鉄砲を用ゐてこれを取る、故に他国を取るに三法ある、説法、女房、鉄砲といふた女房といふは少し解し難い、けれども其初め説法で帰依せしめ、終に鉄砲で遂に国を取るといふ恐るべきものであつたから、その結果遂に海外とは交りを絶つたのである、今日の如く交通自在の時から考察すると、余りに狭隘なる政策であつたと論じ得られるけれども、若し当日の幕臣も今日であつたなら如何なる手段を執られしか、兎に角外国に対する処置は徳川幕府の世間から非難を被る点であつたが、併し東照公は決して左様な保守的のみのお方ではなかつたといふことは明確であります。
      △静岡と東照公
 詰まり応仁・文明から百有余年打続いた禍乱が、自然と天の心が此大英雄を生じて之を戡定せしめんとしたゞらうと思はれる、夫故にまづ織田信長といふ機敏なる人、又豊臣秀吉といふ活達なる人が出たが此等の人々では完全なる太平を成すことが出来なかつた、是に於て徳川家康公といふ人が出て、前にも述べた通り大勇断があつて、又緻密な所もあり至つて温情もありつゝ残酷と見へる程の大果断な所を持つて居る、而して戦争も強くして而して文政に於ては法律とか教育とか宗教とかいふものにも、悉く行渡つた人であつた、御年七十五で御薨去になりましたが、徳川実記によると、其年の三月の末に宇治の上林といふ人が来た時、公は何か珍らしいことはないかと御尋ねになつたら、近頃上方では魚を油で揚げて食することが流行すると申上げた、それはよからうといふので調理させて充分に食された、それから腹部を御損じになつたから、天麩羅の食傷にて遂に薨去なされたのだとあります、諸君も天麩羅を余り余分に召上がるといけませぬから御注意します、公はその御病気中に御死後のことにまで御訓誨があつた、其一・二を玆に述べますれば、将来の戦争は何うしても鉄砲によらなければならぬといふことを、七十五の老翁が大患に罹られての病床にも若し向後戦があつたら斯る兵制にしなければならぬ、陣立は斯様々々と詳細に訓示され、又万一国乱となつたならば、藤堂高虎と井伊直孝とを組合せて堀氏に軍監を命ずれば天下は安泰と言はれたとありますその精力が絶倫であつたのはこれ等の事にても察せらるる、此の如き大英雄がこの静岡とは長い間の因縁を有した、其初めは、公が七・八歳から十八歳まで、その後は御隠退してから十一年、前後二十年余静
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岡とは関係をお持ちなすつたといふことは、諸君の誇りとしてもよいのであります、故に今日公の三百年の御祭典は是非なさらねばならぬことである、生憎雨が降つてお祭に多少の障碍があるも、是等は何でもないことであります、何うぞ三百年だけでなく、東照公をお忘れなさらずして、如何なる年でも本月は必ず東照公を紀念すべきものと御考ありたいと私は思ひます。
      △慶喜公の幼時
 東照公の御履歴は是れ位に止めまして、第二に、前将軍慶喜公の事について少しくお話をいたして見たいと思ひます、事近代に亘つて居りますから、余り細かに申上げることも出来兼ねます、殊に東照公の御経歴は徳川家の中興の祖でもあらせられ、其御家運の発展も東の方から日の出る様な勢にて、所謂旭日昇天の姿を以て進んでござつた方である、然るに前将軍は反対に夕日の西に没する様な有様であつた、朝日の光に対しては、月も星も其光の薄れて行く、赫赫の日光が看る看る天に昇つて行くのは実に雄大なるものであるが、去りながら旭ばかりが珍重すべきものでもない、春秋の夕日の温柔なる光を保ちて夕霞の中に紅色あるも中々よいものである、故に前に述べた旭のお話に続いて、この夕日のことを添へるのも決して諸君をして倦怠を来たさしむる様なことはなからうと思ひます、申す迄もなく、この最終の徳川将軍は一つ橋からお直りなすつて、その出は水戸である、水戸烈公といふお方は大変に御子が多くて、廿二男、十五女であつた、記憶は自慢しますが、それを今一々にどなたが何うだといふことを説明することは出来ませぬ、併しながら慶喜公は七郎丸と申し上げて七人目の公達にて、御正室有栖川宮の出であつた、此御正室は貞芳院と号して後に文明夫人と申し上げた、東照公の御生長に色々の逸話がありますが、慶喜公にも種々あるのですが、余り細かに御話するのも長くなるから略します、又東照公の如き安倍川の石打に付て其勝負を前知せられたといふやうなる御幼少の時の御自慢話を伺つて見ますと、格別ないとのことで、只御幼少の時から弓が至て御上手で、真に非凡であつたといふことである、公の兄君にて因州に御養嗣となられた慶徳といつたお方が、御同年の出生であつてお腹が違ふが、同年に疱瘡をなされて其御見舞に紙張の達磨を多く貰つた、その達磨を公と慶徳公と半弓で射るのが病中の御楽しみであつた、所が五郎丸様の方がよく中る公の方は中りが少い、そこで御側に居る人が、公よりも五郎丸様が弓が御上手でございますと申したら、公はお兄さんの方は何をお狙ひになるか、私は達磨の眼球を狙ふ、若し全身を狙へば外れることはないと言はれて、百発百中であつたといふお話があります、又二葉の葵といふ小説がありまして、御幼少の時の優れたことが記載してあります殊に公は水練が御達者であつたとか、又は六歳の時に、或る神主の妻が他から不義を申しかけられたを怒りて終に其人を殺したといふことについて、その当否の判断をなされたとかいふ様なる事柄がありましたから、是れは事実でありますかと或時に私は公に伺つたことがありますが、公は笑はれてさういふことを記載されては実に困る、自分は左様な偉らい人ではない、又水練も達者ではなかつた、水は泳げたけ
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れども至つて下手だつた、烈公は何でも水練が達者でなければならぬといはれたが、水に這ると兎角腹を悪くした、この二葉の葵に書いてある事柄は、多くは小説的であつて、これによりて人から批評されるのは甚だ困るとの御答であつた、私は此御答に深い意味があると思ひます、総じて人は既往の事、少年の経歴抔に付ては、縦令其実はなくとも、俺はその事をなしたと言はれるものである、然るに如何にも真率にさういふ事はなかつたと仰しやるは、如何に質実なる御性質であつたといふことが分るのであります。
    △慶喜公の将軍家相続
 私の慶喜公に知られたのは元治元年でありますから、五十余年前のことである、私が其前年に京都に出て浪人をしてゐました、その翌年が即ち元治元年で、二月初旬に始めてお目見をしました。それから一橋家に奉公する様になりました、これは私の一身についての事で余り詳しくお話する必要はないが、その頃からして非凡なる君と私は思つて居りました、その前に私は攘夷鎖港論者であつて、前段に述べた徳川家康公に対しても、或る点は英雄に相違ないけれども、或る点は奸雄であると批評したこともあつた、併し今日はさう思ひませんが、当時攘夷鎖港を論ずる者は多く討幕説を唱へた、私の廿四・五歳までの主張を正直に告白しますと、矢張攘夷討幕の説であつたのであります一橋公に奉仕しても私は誠に卑職でありましたから、屡々お目にかゝることは出来なかつたが、それから続いて四・五年奉公をしました、一橋家は僅か十万石の食禄で、御家政も至つて微々たるものであつた公が京都にお出でになつてから、守衛総督といふ要職になられて、会津藩の松平肥後守といふ人が守護職で、守衛総督といふは其総裁といふべきものであつた、私は奉職後段々と御家政を見ますと、兵力といふものは一つもない、是れでは困ると思つて、新参者ではありましたけれども、兵力を増すことを建議して、一橋家に歩兵を組立てることを尽力しました、それは私の献策で出来たのであります、其時公にお直きにお目通りをしまして其必要を言上したのであります、それが私の二十六歳の時で御奉公を始めた翌年であります、続いて一橋家の財政を改革せねばならぬことになつて、之に対して、力を尽しました、まだ青年ではございましたけれども、私も幾分か理財のことに考をもつて居りました故に、一橋家の財政を種々改良しました、丁度子丑寅卯の四年を一橋家に御奉公をして居る間に、卯年には十四代の将軍家茂公が薨去になつて、余儀なく慶喜公が入つて徳川宗家の御相続をなさらなければならぬことに相成つたのであります、これは私は公の御為めに大に悲しんだのである、宗家御相続といふは御一身からいふと将軍職をお継ぎなさるのですから、栄達の如くにも見えますけれども其時の幕府といふものは殆ど累卵の危きをなして居りまして、諸藩の間に種々の物議があり、此際御相続なされば、恰も各方面から来る攻撃の的になるのである、殊に幕府は数代の老中が政事を誤り、井伊掃部頭・間部下総守・安藤対馬守などの失政は特に天下の人心を損じ、諸藩は幕府を飽き切つて居る、朝廷も最早左様思召したか、心ある人士は、三条とか岩倉といふ人々は、折もあつたら討幕策を立てようと
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いふことで、既に業に物議を十分に起して居ります、此時に当りて公が将軍にお成りなさるといふは、実に先きの見へないなされ方と、斯う私は思つたから原市之進といふ人を通じて切にお諫め申しましたが到頭事情が許さぬことゝ見へて、私共の申上方は御採用にならずして御相続といふことになつて、十五代将軍とお成なすつた訳でありますこの事は私の真に歎息したので、もう徳川家は是れで倒れるといふ感じを起しました、又己れ一身も折角一橋家に仕へて幾分か君にも知られ、説も行はれる様になつたから、諸藩と相伍して、万一幕府の倒れる場合には、諸藩と共に何か相当なる活動も出来るであらうといふ考であつた、その頃の政事を論ずる者は、今日の如き完全なる郡県制度が立つとは思はなかつた、詰り一時は豪族政治といふ様なものに変化するであらうといふ想像を持つた、それは私ばかりではない、現に西郷隆盛氏などもさういふ考を持つて、五大名に大老を命じて幕府の政事を執らせ、而して慶喜公を其中へ加へたらよからうかといふたことがある、これ等有志の説に全然反対して慶喜公が将軍になられたならば、直きにも騒動が始まるだらうと私は予想して居つた、殊更会津と薩摩・長州とは始終仲が悪かつた、文久亥年に長州が堺町御門の御固めを罷められたといふのは、薩摩と会津の一時合意の力によつたので元治元年長州が天竜寺に拠りて蛤門に向つて発砲した時も、会津と薩摩とが力を合せ独り二藩ばかりでなくその他の諸藩聯合し、その力によつて長州を追ひのけた、これが元治元年七月十九日の事で壬子の乱といふのである、然るに其薩摩と長州とが本当に力を合せる様になり其上朝命を以て討幕といふことになれば、幕府は戦争をして勝つたら格別だが、若し勝たなかつたならば倒れるに違ひない、故に私は王政復古とは気が付かず、薩長が天子を戴いて天下の政を執るだらうと想像しました、右等の理由を以て公の御相続は甚だ宜しくない、時勢已むことを得ずば幕府は倒れるとも是非がないと私は思ふたのであります、然るに其建言は容れられず慶喜公は将軍の御相続をなさるといふことになつて、殆ど落胆して居るうちに、私は仏蘭西行を命ぜられて慶喜公の末弟烈公の十八人目のお子で余八郎麿即ち民部大輔と申したお方がその時分京都の本国寺といふ寺院に陣営してござつたのが、遂に千八百六十七年に開かるゝ仏蘭西の大博覧会へ使節としてお出になり、その博覧会が済むと仏蘭西で四・五年間留学なさつて、外国の学問を修めてお帰りなさる筈、それについて相当の供人を要するといふので、私は仏蘭西の学問は出来なかつたけれども、随行を命ぜられた此命を私に伝へたのは原市之進氏である、其頃慶喜公の別して深く御信任のあつた水戸出身の有名な人の一人であります、其時私に内命を伝へたのは、将来の国家が如何になるかといふことは明言せられませんけれども、聊か其意味を含んで四・五年の留学であるから、先きの長いことである、民部は少年であるから誰か行末長く世話する人が欲しい、而してそれは一身の覚悟ある人が必要である、水戸から行く人は沢山あるけれど、攘夷論者ばかりで外国の学問が出来ぬと思ふ、篤太夫――私は其頃篤太夫と通称しました――は元は攘夷論者であつたけれども、外国の学問は出来さうに思ふから、あれを附けてやつたら
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よからうと将軍の内命が下つたのである、と原市之進氏から此仏国行を命ぜられたのである、私は此内命ぐらゐ嬉しかつたことはない、元来攘夷論を唱へて居つたが、一橋家に奉仕してより熟ら時勢を観察して迚も攘夷論はいけない、寧ろ海外に做つてやるより外に仕方がないと思つて居りました、而して国内に大騒動が起るに相違ない、それを思ふと切に御相続を止めたいと考へましたが、到底私の力では及ばぬから、寧ろ海外へ行つて学問を修め、内国が乱れたら乱れた時再興を謀らうといふ企図をつくづく起しました、恰も一旦死したる者が蘇生した様な心持がしました、原市之進から此内命を受けた時は、数年前一橋家に奉仕の時も、世間知らずの浪人を斯うして召抱へられ、今又此御内示を被るのは私風情でも余程深く思召さるればこそ、後々の為に斯く御内命のことゝ真に御鴻恩に感激してその命を受けたのであります、それから私は海外へ行つて居る間に、想像の通り京都の時勢が切迫して来て、遂に二条の城も御引払になりて、大阪に御越になつた此大阪に御退去は、禁闕の下にて幕府の兵と薩長の兵と闘争が起つてはならぬと思召されて、お避けなすつたのである、然るに尾張・越前の両藩侯が仲間に立ちて、兎に角再び公に御上京なすつたらよからうと云ふことになり、京都へ上るについては兵備を立てゝ上るべしと幕府側の主張で、遂に一月三日に至りて伏見・鳥羽の衝突となつた、その衝突にも戦争に勝つたらよかつたであらうが、遂に幕府方が大敗となつた。
      △政権返上
 是れより前に慶喜公は深く天下の形勢をお考へなされて、前年の冬即ち慶応卯年の十月十四日に政権返上といふことを朝廷に奏上した、これが慶喜公の実に大困難事であつて、又大決断の御処置である、而して世間の批評も当時或は是とし、或は非としてまだ一定の論はなかつた、併し私は海外にあつてこれを聞き、深くその御趣旨を感佩して慶喜公があつたればこそ斯る事が出来たと思ひ、今日も猶ほ敬服して居るのであります、蓋し慶喜公の将軍にお成りなつたことを私の非難したのは、せめて一ツ橋の家でも保存したいといふ小さい考を持つたのであつた、然るに公は然うでなく、御国の大事だと思はれて一ツ橋のお家を保存するくらゐの小事ではない、此処置に於て一歩を誤ると日本をして困難ならしめる、従来相続し来つた幕府であるから、徳川家に対しては幕政を継続したいけれども、今日外交の危殆に際して既に幕府は勅許によつて条約も成立つて居るものであれば、之を専断するといふことが出来るものでない、又外国に対してこの二個の主権のあるといふことは何うしても出来るものでない、さすれば是れは将軍の職を罷めるより外はない、将軍の職を罷めるのは政権を返上するに限る、去りながら是は幕閣抔の評議では迚も行はれない、是に於て断然の御決意で、十月十四日板倉伊賀守・原市之進・永井主水正等の人人が参与して、政権返上の奏上書を朝廷へ出しました、所が反対の側では、一ツ橋は有為の人だ、智力もあり又気力もあり、人望もある、是が将軍になつたならば、其勢力の完全ならざる中に早く幕府を倒すべしだ、就ては飽迄も攻撃の力を強めなければならぬ、といふ感じを
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幕府反対の諸藩が持つた、そこで慶喜公が将軍になると同時に、それ迄は薩摩と長州とは始終相反目して居つて、一方が右といへば一方は左といふ有様で、即ち文久三年の堺町の騒動も薩摩が力強く長州を排斥した、又元治元年七月十九日も同様であつた為に、文久三年八月頃には薩摩の船を長州が撃つたといふ様に時々衝突して居つたのが、慶応三年八月慶喜公が将軍になられたに就て、俄に此薩長合同といふものが成立した、薩長合同は即ち討幕の勢力の強くなる事実である、故に是等の気勢をもう公は早くお知りになつたから、それらに就て彼是と得失を論ずるよりは、海外に対して日本の体面を汚さぬ様にしたい又日本に禍乱の起らぬ様にするには、日本の政治を統一するより外はない、就ては己を先きにし身を捨てると共に徳川を捨てる、さうして日本を助けるといふ覚悟をなすつたのである、是が即ち慶喜公の大英断である、恰も夕日の美麗にして愛らしい所のあると申上げたのは此処の形容である、実に人間の大難関であります、どなたでも斯る場合に遭遇しましたらば負惜み痩我慢が出ます、況や公の将軍家御相続なされたのは、毫も御自分のお望でなされたのではない、若し此時に公が痩我慢をもたれたならば、如何に日本禍乱を甚しくするか、さうして徳川家にも素より不利になつて、国家の困難は想像し難い程である公はそこを速く看破されたのは、実に公の達識で、又現はれぬ所の深い御徳である、其際には誰にも分らなかつた、私にも解らなかつたから、私は海外に在つて意気地のない君公だ、あれほど思慮深いお方で時勢も達観せられてあるも、所謂大名は皆馬鹿だが、慶喜公丈けは然うでないと思つたのは誤りであつて、詰り御命が欲しいのかと余所ながら歯咬みをして、無効とは思ふても民部公子から御手紙を上げるについて、その御直書に公子のお名を借りて自分の愚衷を申上げたこともある、それは海外に在つて真相を察知しないからでありました、当時海外に居つて事実を詳にせず、只電報又は新聞紙によりて徳川家は倒れて、王政維新になつた、慶喜公は大阪から船で東京へ帰つた、それから遂に有栖川宮の総督で東征になつて、上野の彰義隊も五月中旬遂に落ちた、と聞くもの見るもの悉く情ない有様であり、遂に其年の九月頃民部公子は巴里を去つて、誠に見すぼらしい有様で御帰国になつた、私は終始そのお供をして帰つて来ましたのであります、それは政権返上をなされた翌年のことで、色々取混ぜたお話になりますが、今日も名門の人の海外旅行は大勢送別して其行を賑かにする、兎に角将軍の親弟が仏蘭西へ大使として行かれるのであつたから、前年の正月横浜を御発足の時には万歳の声は余り流行りませんけれども、総ての官民が相集つて船まで送られて、御機嫌ようといふ勇ましい姿であつた、私も随員でありますから、自分が送られた様に思ふて、それこそ晏氏の御者を気取りて威張つたのであります、所が其の翌年の十二月帰つて来た時には、僅か一年しかたちませんが、丸で国が変つてしまつた、迎へる人も民部公子に対しても僅々数人に過ぎずして、私共に対しては誰も迎へ人があるべき筈もない、殊に昼の間は船を上ることが出来ないので、夜になりて港口の番所に来ると何者だと咎められるといふ始末で、一年を経過した身が斯うもなるものかといふ程に、
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世の中のあじきないことを思ふて上陸した、是等は一身に属する栄枯得喪でありますから、何とも思ひませぬが、その折々に慶喜公の成され方を残念である、と私は思ひました、その年の十二月、日は忘れましたが静岡に参り、公が宝台院に御謹慎であつたから、私は宝台院に出て拝謁を願つた、其時民部公子は今の砲兵工廠となつて居る小石川のお屋敷に居られたから、私は数日同所に出勤して、色々なる御旅行中の取纏めを為し、江戸の用が済んでから、駿河に参つて宝台院に於て拝謁をしました、その日が十二月の二十三日であつたかと思ひますが、何でも薄暗い御座敷で、素より電気などはありませぬ、灯心が行灯に一本しかない、其席に暫らく待たされた、兎に角将軍様である、縦令落ちぶれても今少しく広い御座敷でお会ひがあるだらうと思ひましたが、其処にお越しになつたお方を見上げると公であります、これは恐入つたと、縮む如くに拝礼して、実に何だか夢にでもお目に懸つた様に思ひました、只だ涙がこぼれて何も云ふことは出来ない、心中には残念だといふ感があるから、遂に一別以来の君臣の感情を起さゞるを得ぬので、さりとは御情ないといふ不満を申上げました、それも涙ながら云つたのです、その時公のお答が甚だ冷淡で、且意表であつた、公の仰せらるゝには、お前は民部の供をして仏蘭西に行かれたから、仏国の有様も民部の様子も聴かうと思つたから、まだ謹慎中だけれども面会するのだ、然るに今日にては何も利益もない愚痴をいふて居るけれども、夫れは何も効能もない様に思ふとの事であつた、成程熟慮すればさうも思ひますけれども、それは余りにお情ない、私の苦情からお聴き下されたいと申上げて、それから色々の事を述べましたが、政権返上の御精神が本当に解つたのはそれから余程後の事であります、涙ながらにお目通りをして、その頃静岡藩の中老には大久保一翁・服部綾雄・織田泉之、又勘定頭には平岡準造・小栗尚三などゝいふ人々が勤めて居りましたから、是等の人々に引合うて私は水戸へ行く積りでありました、是は公からの御返書を持参して、民部公子にも御目にかゝり旅中の談でもする心得であつたから、慶喜公の御返事を御催促申上げた所が、藩庁からの命令で手紙はこちらから出すから特に持つて行くには及ばない、其許には藩庁にて別に用があるとて、其時の静岡藩庁は城中に在つて其処に呼出された、そこで私は静岡藩の勘定組頭を命ぜられた、さうしてそれは皆慶喜公のお指図であるといふことであつたから私は色々疑つた、どうも高貴の人は甚だ情に乏しい、現在弟君が長い間海外に在つて、帰られてからお目に懸かることが出来ない、そこで渋沢を以て手紙を差上げて、その返事を持つて来て呉れるのを楽しんで居るといふのに、手紙は此方から出す、其許は此方に用があるとは余りに情合の薄いことである、私をお信じ下されぬのはさることながら、そんなら静岡藩で私を召出すといふことも如何のものであるか、それほど不信用であるならば、権衡の合はぬ取扱である、蓋し高貴の方は情に乏しいからのことゝ私はさう解釈しまして、大久保一翁に大層不足を云つた、然るに其後よく承つて見ますと私の誤解であつて、水戸の方から何でも私を召使ひたいと斯ういふ掛合か来た、そこで公はその事を大久保に聞くと、あれを水戸に遣ると
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よくない、水戸へ遣ると当人の害になるからやらない方が宜い寧ろ静岡藩で使つた方がよからう、就ては民部への手紙は此方から出す、其許は水戸へ行くには及ばないといふことであつた、さう聞いて見れば私にも解るけれども、最初の解釈では余程不人情の様に思はれて、段段伺つて見ますと、水戸は党争の烈しい処、猜疑心の強い処、若し渋沢が幾らか用ゐられでもすると猜疑されて身に禍を惹起す、縦令禍を惹起さぬ迄も迚もあの男は一途であるから彼れの為にならぬ、寧ろ静岡藩で使つた方がいゝといふので、詰り公に於かせられて私の身の為めを深く思つて下すつたことゝ其真相を知りて後、私は実に感泣しました、私はまだ其時にはこの政権返上謹慎恭順といふことは、悪くいへば意気地がないのだ、恐しいことには成るたけお避けなさるといふ御観念から起つたのではないかと多少の疑念を持つて居つて、それから後新政府へ奉職した、此時にも然うである、私は将来政事界は断念し、実業で何か仕事をしたいと思ひまして、静岡にて既に商法会所といふものを設立しまして、資本を合して一の会社を組織して、当地の緒君と共に勉強するといふことにしたいと思つて居りました、今もよく覚えて居りますが、静岡市に北村とか勝間田とか尾崎とかいふ人々は、其の時の商法会所の御用達として、私は此等の人々とは別して懇意にしたのである、又此席に居る森理七君なども其の一人でありました、併しその翌明治二年には新政府に召されて、余儀なく大蔵省に勤めることになりました、夫れをお断りいたしますと公の御為に宜しくなからう、事によると静岡藩の為にも害になる、又渋沢の為にも玆に居るより彼方へ出たがいゝといふ御内旨であるとの事で、遂に命を奉じました、爾来数年を経て、私はその年を確乎と覚えませぬけれども世の進歩によりて深く考へて見ますと、前に申しました慶応三年の政権返上に引続いての謹慎恭順といふことがなくして、前将軍をして痩我慢を以て幕府と薩長とが相争ふといふことになつたならば、この日本はどれほどの困難に陥るか、何れほど悪結果を見るか、少なくとも東京は修羅の巷となつて、半分以上或は全部も焼失してしまふかも知れない、独り東京ばかりではない全国にさういふ禍乱が生ずるに違ひない、それこそ応仁・文明の様なる乱世となりて、山名宗全・細川勝元などの争は京都に十五万づゝの兵を以て白眼合つたといふことが長い間であつた、而して応仁・文明と異りて、其禍は独り内国ばかりでない、例へば英吉利が薩長に助力するとか、仏蘭西が幕府に加勢するといふことがあつたならば、夫れこそ三国干渉抔は愚なる事で、欧羅巴の為に日本は何ういふ風に切断せられまいものとも知れないのであつた、玆に早く思ひを着けられたのは、私共の凡眼の届かない所であつて、当時の場合は彼是と理非を論ずると、終には大勢の議論となつて解らなくなつてしまふ、故に自分は馬鹿といはれようと怯懦といはれようと、唯一意天子の命に服従するの信念があつたならば、終には微衷の徹底せぬ筈はない故に、飽迄も忠君愛国の誠を尽す外はない、それには所謂身を殺して仁を成すの覚悟を持続するに在るといふのが前将軍の御趣旨であつた、併しそれは何うもその当時には十分解らなかつた、殊に前将軍は前にも述べる通り決してさういふ事を御自分に
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云はれないから、尚更以て世間には解らない、勝安房・大久保一翁などいふ人々も、内々その情を察知したれども、是等も一般には告知せぬ、私もその後十数年経つてその真情を覚知しまして、別して深く有難く思ひました。
 その初め明治政府に出仕して居る中は、屡お伺ひも出来なかつたがやがて明治六年に幸に自由の身になりましたから、時々静岡にお訪ねしました。
      △政権返上後の慶喜公
 初めには宝台院にゐらつしやつた、其頃私が紺屋町に商法会所を開きました、その翌年には御謹慎に及ばないといふことになりまして、そこで紺屋町の私の居つた所にお移りになり、私は会所をお城の前にかへました、その後私は東京へ出ました、それから官吏を罷めてから初めて伺つた時には、草深にお屋敷が出来ました、続いて明治三十年に東京にお引移りになつて、玆に初めて御自由の御身となられたのであります、併しまだ朝廷より何等の御待遇もない、所謂日蔭者でおゐでなすつた、それで私は是れを歎かはしいことである、この世間に見えぬ深遠なるお志を拝察すると、深く御恩顧を受けたお方が沢山にあられるとも、それは且らく措いて、私一身の義として心が済まぬと思ひまして、そこで一つ正しい御伝記を編纂して置いたならば、後世に伝へられるだらう、目前は誰も目の呉れ人もなからうが、百年の後には慶喜公はさういふ御深慮であつたといふことがよく分るだらう、これは御伝記による外はないと思ひました、私は曾て日本外史を読みて頼山陽がその外史に徳川氏の記事を何ういふ処で筆を止めてあるかといふと、徳川氏の盛なる是に到つてその極に達すといふとある、想ふに盛なるものは必ず衰ふるといふお神籖的の判断を添へてあります、その外史を文政の末に松平楽翁といふ人が深く愛でゝ、侍臣を遣つて外史の所見を請はれた、その時山陽が上楽翁侯書といふ一篇の文章を書いて、その文章中に宋の蘇轍といふ人、即ち蘇東坡が蘇軾でその弟の蘇轍が時の宰相韓魏公に上るの書を引いて、恰も山陽が蘇轍となつて楽翁侯を韓魏公に擬して書いてある中に、史家が歴史を編むのは当時に分明になるのを望むのではありませぬ、百年の後に明解を得ることを求むるのである、故に山陽は今日人に知られようとは思はなかつた、併し偶然にも今閣下に知られて而かも私は求めぬのに閣下から侍臣をお遣しなすつて、私の家に納めてある外史を見て下さるといふのは蘇轍は百年の後と思つたから、私も矢張り百年の後と思つたが、斯く直ぐ当代に於て之を閣下によつて天下に知られるといふことは如何なる名誉であるかと書いてある、此外史を見て私も窃にさう思つたのであります、今此伝記も当代に見て呉れる人はなけれども百年の後には必ず誰か見て呉れるだらう、即ち蘇轍の文章又は山陽の言葉に倣うて私は御伝記編纂のことに力を尽して居るのであります、両三年前に是非之を仕上げたいと思つて力を尽しましたけれども、不幸にして出来上りませぬで今猶ほ努力最中であります、併し一昨年御薨去の時、私は支那へ行く計画をして居つたのでありますが、天が知らせて呉れたとでも云はれますか折柄病気に罹りまして旅行を罷めた、其十一月
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の二十二日に公は御薨去なされて、最終の御奉公として御葬儀などについては稍や心を尽したのであります、御伝記は遺憾ながら御生前に其完成をお目にかけることが出来なかつたので、これを千秋の憾としますけれども、併し公はそれを生前に御覧になることを好まれなかつた、要するに左様なことの人に知れるのをお嫌ひなされた、又御伝記を編纂するについて色々御伺ひ致しましても、御自慢話などは一切なかつたのであります、明治三十五年に公爵におなり遊ばしてから、世の中に対しても左様に御遠慮なさる時代ではなくなりましたので、少しは人に知られても宜しい、御伝記も世に公にせられても差支ないと仰せられて、数年前から昔夢会と名けて一会を開き、時々公の御出席を請ふて昔語りを願ひまして居りました、が是等の事も今は皆昔夢となつて、いまだ三百年は経過しませぬけれども、過ぎこし方の談話と相成つたのであります、要するに冒頭に申し述べました如く、旭日昇天の勢が夕陽山に沈む景色の軟かなると相対照して、東照公と前将軍とは徳川家に取つて深い因縁ある君主であつた、又静岡市としても最も深い記念を遺した大政治家・大偉人であると申上げてよからうと思ひます、この三百年祭に当りて、斯様に偉大なるお二方のことを私が申上げることを得たのは、最も愉快に且つ光栄と思ふのであります。
   ○右ハ、「静岡県教育時報」臨時増刊東照公参百年祭記念号(大正四年一二月)ニモ掲載サル。