デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
29款 其他 21. 学習院輔仁会大会
■綱文

第46巻 p.218-223(DK460059k) ページ画像

大正2年10月18日(1913年)

是日栄一、当大会ニ於テ講演ヲナス。


■資料

輔仁会雑誌 第九三号 大正三年七月 学生諸君にのぞむ(輔仁会大会の席上にて) 男爵 渋沢栄一(DK460059k-0001)
第46巻 p.218-223 ページ画像

輔仁会雑誌 第九三号 大正三年七月
               大正二年一〇月一八日
               於学習院 同院輔仁会大会
    ○学生諸君にのぞむ(輔仁会大会の席上にて)
                   男爵 渋沢栄一
 殿下、閣下並に諸君、私は唯今輔仁会副会長から御披露のありました渋沢栄一で御座います。唯今皆様方のいろいろの面白い御催や、音楽や、又有益な御話などのありましたあとで、年寄りが此処に登りまして、面白くも無い饒舌を致しますのは、いかゞとも存じますが、暫時、御辛棒被下いまして、御清聴あらんことを希望いたすので御座います。
 私は平生『論語』を座右に備へて、深く愛読致して居りますが、学習院の学習と申す語は、論語の
 学而時習之不亦説哉。
から来て居るかと思はれます。又輔仁会の輔仁の方は、これも論語の
 以文会友。以友輔仁。
から出てゝ居るかと考へられます。かく二の名が二つ乍ら論語から来て居るのは、其処に深い大きな意味があるのではないかと、私は密に考へるのでありまして、かう両方の言葉の出所が私の愛読の書から出て居ると申すのは、とりも直さず、学習院なり輔仁会なりの心とせらるゝ処と、私の常に心とする処と相合うて居る処があるやうに思はれまして、今日かうして、皆様方に御目にかゝりましても、非常に楽しく且つ愉快に感ずる次第なのであります。
 私が御話し致すにつきまして、前以て御断り致して置きたいのは、唯今是れから申しあげます事は、此処においでの皆様方に申しあげるのではなく、此の中の一部分の方々――殊に青年の方、将来大に為す有る方々の御耳に、取り分け入れたいと思ふのであります。どうか其の御心組で、聞いていたゞきたいのであります。とかく年寄りの無理
 - 第46巻 p.219 -ページ画像 
な注文、出来ない相談かも知れませぬが、一片の老婆心、蓋しやみ難い次第があるからなので御座います。
 さて日本も明治四十五年、――改元して大正と言ふ事になりましたが或る人はかう申すので御座います。明治の時代は何時も創造の時代であつた。進歩発達の時代であつた。万物は駸々として進んだ。ところが、そのあとを受けた大正時代となつては、世間の有様は何うであるかと言ふに、如何にも残念な次第であるが、明治時代とは違つて、進歩と言ふ事を欠いて居る、情ない事ではあるが、諸般の事、何れの方面に見ても、停滞の気味である、日本の全盛期はすでに通り越してはや廃頽の気は、到る処に顕はれて居る。もし今にして何とか為さずば、前途に於いて、大に憂ふ可き現象が生じて来やう。よろしく今の時に於て整理整頓して永久の計を画す可きである、なぞと言ふやうな不祥の言が、一部の人士の間に繰り返へされるのを、屡々耳に致すので御座います。さて其の言の当否は別として、私は唯かういふ言が世間に行はれて居ると申すだけの事を、御耳に入れて置きます。
 四十五年と申す年限は、決して短くはありません。短くはありませんが、さて社会と申すものゝ、全体から見ますと、――人にたとえて見るならばまだまだ若い、やうやく青年に達したか達せぬかと申す頃で御座いませう。社会の春は是れからであつて、やがては春も盛りになり、花も開けば、若葉も出るにいたるので、よしや一時の頓挫はあつても、其れは一箇人の身の上にも病気、其の外の事故が生じて、一時の発達を鈍くするも同じわけで、其の一時的の現象の為に、全体を呪ひ、悲観的の言辞を弄したり、又一方には、早く老成ぶつて、従来僅に得たものを唯守つて行くと言ふやうな態度をとるのは、これこそ大に憂ふ可き現象で、是れから、天賦の才能を発揮して、新に活動をなす可き青年が、妙に老成ぶつたり、隠居かぶれをしてしまはれてはそれこそ実に心配に耐へぬ次第であります。私は一部の人士の言ふが如く、この大正の時代を以つて、守成の時代と言ひたくない、何時までも若い、希望に充ちた時代と思ふ。明治の進歩発達を基礎として、其の上に立つて、新なる進歩発達を真面目に、沈着に、加之勇敢に求めたいのでありまする。
 現内閣の如き、いろいろと万事の整理、又は消極的設備をされますが実に結構の事で、しかしかう言ふ風にのみ、実業社会などの将来を見られるのは、どうも好くないかのやうに思はれます、面白くない事ではないかと思はれますのであります。よろしく相当の沈着と思慮を以つて周囲の事情を究められた上、事を計る可きで、或る局部を捉らへて見れば、或ひは然うした処分の必要もあるかも知れませぬが、要するに局部は局部で、大体に於いての進歩発展を期さなければなりますまい。人と申すものは、とかく局部に好くない事があれば、それで全体を好くない物にして了ふ癖がありますが、天下国家と言ふ大きいものに対する際には、其れでは行けませぬ。もしそんな考へで事を行はれては、日本の国家の前途は、実に寒心に耐へぬ次第かと思はれます。
 昔は現時とはちがつて、何事も世界的ではありませんでした。日本
 - 第46巻 p.220 -ページ画像 
の内地だけで事はすみましたので、所謂武陵桃源の春の夢は何時も濃で、呑気で、そして、殊更に進歩を求めませんでも、他に比較され可きものが無かつたので、従つて退歩などゝ、殊更に憂ふ可きでもなかつたのであります。ところが、今の状態は何うかと申すと、昔とは全然違つて居る。もし自分がぢつとして居れば、他はどんどん進んで行く。そして止まる所を知らぬ。つまりぢつとして居ると言ふ事は、言ひ換へれば退歩なので、他がどんどん進歩すると言ふのは取りも直さず、自分がどんどん退歩する勘定になります。世間の各国は各々其の進歩は程度こそ多少の差違はありますものゝ、何れも何れも、日に月に駸々として、進歩して居ります。英国の如きは余程保守的で、多少停滞し勝ちの気味はありますものゝ、なかなか侮る可らざるものがありまして、百年以来の其の薀蓄を以つて進歩して参つて居ります。仏国はと申すと、米人の批評に依りますと、現時に在つては同一程度のところを徘徊して居るなぞと申して居りますが、国民が一方に於いては節倹であつて貯蓄を励むと同時に、一方に於いては、種々の手段に依つて其の富の増進を計つて居りますのです。かのモロツコ問題の如きも、つまりは仏国の資本の優勢を証するやうなもので、経済上に於いては独逸も一籌を輸すと言つた有様なのであります。また、独逸はと申しますと、これは又学術に、政治に、軍事に、文学に、美術に、宛然旭日の登るが如き有様でありまして、其の勢の赴くところは、西洋のみに止らず、遠く東洋の果までも驥足をのばして止る処を知らぬ有様であります。それから米国――私も四・五年以前に米国に遊びまして、三・四ケ月が程、彼地此地と観て歩きました、其の進歩は実に大したもので、唯々驚く外はありませんでした。あの国の風は、是が非でも、世界の第一等国にならねばやまぬと言ふやうな風が見えますのです。
 かう言ふ状態である各国の間に伍して行つて、肩を列べて、少しもひけを取るまいと言ふ事はなかなかの難事で、なみ大抵の事ではありませぬ、四十何年間の我が進歩、そんな者だけでは、なかなか満足の出来るわけのものではありませぬ。我にあつても負けず、劣らず、共に轡をならべて、人一倍の進歩をせずば、遂には落伍者となるより外はありませぬ。世界の落伍者なぞは、口にするさへも忌はしいではありませんか。
 以上は私の関係の深い、実業方面の材料に依り、申し上げたわけでありますが、学問とても然うであらうと思ひます。軍事・政治・文学あらゆるものは、悉く然うであらうと思はれます。隣の人が進めば此方も進まねばならぬ。隣の人と始めは互角もしくはすれすれであつても、此方の進歩がのろければ、末には到底及び難いものとなります。始めの毛一筋の差が、終には千里万里の差を来すのであります。是れは何事に依らずさうであつて、学問技芸は申すに及ばず、一寸とした遊戯の末に至るまでさうなのであります。
 今の時代――我々が活動して居る時代は、かくの如き、忙しい、寸時も安閑としては居られぬ時代であつて、他人が拾丈けの事をすれば自分は其の倍も三倍も多くの仕事をしなければならぬのであります。
 - 第46巻 p.221 -ページ画像 
しかし、かうは申すものゝ、其の間に秩序と申す事を忘れずに、しかも不断の進歩があつて欲しいと思ふのであります。かの俗諺にも「沙弥から長老」と申すやうに、沙弥は決して一躍して長老になれるものではありませぬ。物事は総べて其の通りで、秩序があり階級があつて順を追うて行く可きもので、決して一躍して、達し得らる可きものではないと言ふ事をよく心得て貰ひたい。然るに青年活気の士――気鋭なる士は、先人のやつた事なぞは緩慢なやうな気がして、唯あせりにあせつて、唯もう古人の行つたところを破壊して、破壊其の物が即ち事業であると思はれるものもあるかのやうであるが、これは考ふ可き事で、あの因循姑息唯茫然と明し暮す、無為の徒と共にいづれも、感服出来ぬのであります。総ての文明は、それ以前の文明を基礎として建設せらるゝのであつて、有史以来、先人が非常の熱心と忍耐とを以て造り上げ、鍛え上げて来た其のものの上に立つて、尚ほ一層の努力と熱心とを以て、より新なるものを打ち建てゝ行かれたいのであります。
 そこで私は今日の学問に就いて一言申し述べて見たいと思ひます。今日こゝに御集りの方々の中には、軍人になられる方も居られやうし政治家になられる方も、学者になられる方も、農工業を目的とされる方も――さまざまの方が居られませうが、さて何れの方面にありましても、当時の学問のやり方を見ますと、昔、私共のやりました頃の様と比べますと、大分に違つて居ります。或る点に於いては、無くもがな、為すもがなと思はるゝ処もなかなか多いのであります。
 この学習院の事は暫時措くと致しまして、世間一体に、教育のやり方を見ますと、――私はことに今の中等教育なるものが、其の弊が甚しいと思ひます。――単に智識を授けると言ふ事にのみ、重きを置き過ぎて居ります。言ひ換へますれば、徳育と言ふ方面が欠けて居るので御座います。確に欠乏して居ります。又一方に学生間の気風を見ますと、昔の青年の気風とはちがひまして、今一と呼吸と言ふ勇気と努力、それから自覚を欠いて居るのであります。かう申しあげたからとて、自分如き昔ものが、決して決して自負高慢を致すわけではありませぬが、何しろ、当時の教育は実に学課の科目が多い、彼れも是れもと言ふ有様でありますので、その数多い科目の修得にのみ追はれて、日も亦足らずと言ふ風であつて見れば、従つて他を観る遑もない勘定で人格・常識等の修養に心を注ぐ事の出来ぬのも、自然の数で、かへすがへすも遺憾千万なわけで御座います。現に処世の人となつて居られる人々は兎も角として、是れから世間に出て、大に奮励努力、邦国の為めに尽さうと思はれる方々にあつては、此の辺によくよく心を用ゐていたゞきたいのであります。
 ところで、自分に最も関係の深い、実業方面の教育について見ますに、その昔にあつては、実業教育と名附けるほどのものもありませんでした。御維新以後になりましても、十四・五年の頃までは、この方面には些の進歩を見る事は出来ませんでして、商業学校の如きも、其の発達は、近々この二十年程の間の事なのであります。
 世の中の事物の進歩――文明の進歩と申す事は、政治・経済・軍事・
 - 第46巻 p.222 -ページ画像 
商工業・学芸等が、悉く進んで、其処に始めて見る事が出来ますので其の中の何れ一が欠如しても、完全なる発達、文明の進歩があるのではありませぬ。然るに日本では、その文明の一大要素である商工業が久しい間閑却して観られずにありましたのです。翻つて欧洲の諸列強に見ますに、他の方面の事も勿論進歩しては居りますが、其の中でも取りわき進んで居ますのが、実業であります。商工業であります。我が国に於いても、近来は実業教育に世人が注意するやうになりまして進歩発達はして来ましたが、さて惜しいかな、其の教育の方法はと申しますと、前に申しました通り、其の他の教育方法と同じく、せくがまゝ急ぐがまゝに、理・智の一方にのみ傾き、規律であるとか人格であるとか、徳義であるとか言ふ事は、少しも観られませぬ。機運の赴くところ、余儀ない次第と言はゞ言へ、実に可嘆しい事であります。これを軍人社会に見ますと、其の教育法の然らしむるところか、或は軍事と言ふ職が、すでに其の性質を養ふものか、その辺のところは知りませぬが、一般的統一・規律・服務・命令等の事が、整然と厳格に行はれて居るやうでありますのは、実に結構な事で、立派な人格な士を見受けますのも、非常にたのもしい次第であります。
 さて実業界に立ちますものには、前に述べました諸性質を充分に備へました上に、それ以上に今一つ尊ばなければならぬ一大事が残つて居ります。それは何かと申すと、自由と申すことで、実業の方では、軍事上の事務のやうに一々上官からの命令を俟つて居るやうでは、兎角、好機が逸し易すいので、何事も命令を受けてやると言ふ具合では一寸発達と言ふ事は六づかしいのであります。其の結果、唯智へ! 智へ! と傾いて行つて、唯もう、おのれが利益、利益と利のみを追うて、孟子の所謂「上下交も交も利に走つて飽かず、国危し」と言ふやうな状態に陥つてはと、是のみ気遣はれますので、何うかなしてかう言ふ事に立ち到らぬやうと、私に手近い実業教育に於いても、智育と徳育とを併行せしめて行きたいものと、及ばぬながらも多年努めて居る次第なのであります。
 以上申しあげたやうな自分の境遇の歎息を諸君に訴へますのは、理由のない事のやうではありますが、これとても大きな眼を以つて見れば、大いに関係のあります事で、お互ひに日本人として、雲烟過眼視する事が出来ぬと思ひます。しかも一隅を挙げて、三隅を以て反せざれば則ち復せざるなりで、諸君の為めの大いなる参考とならうかと存ぜられます。
 私は最前学習院並に輔仁会の名の出処は論語にあると申しましたが私も亦論語の言葉を借用して、この話しの終りを結ばうと思ひます。
曾子の言葉に
 士不可以不弘毅。任重而道遠、以仁為己任、不亦重乎。死而後已、不亦遠乎。
とありますが、本会即ち輔仁会が、任とするところは仁であつて、最も重い。曾子の言葉の如くである。ところが其の仁と言ふは何う言ふものかと言ふに、世間で言ふ如才がないとか、気がよく附くとか、小智慧が廻るとか、単に物を恵むとか、そんな狭い小さい意味のもので
 - 第46巻 p.223 -ページ画像 
はありません。人を治むるにも、人に治めらるゝにも、上たる者にも下たるものにも、如何やうなものにも尽くして尽し得らるゝ、行つて行ひ得らるゝ、広くして加之重いものを指すのでありまして、死して後已む、又遠からずやと曾子の言はれたのは実に尤の事で、なかなか六つかしい大事なのであります。
 明治の後を受けて、大正の重任を負はる可き、第二期の後継者たる青年諸君――其の青年諸君の中にあつても、殊に世間一般の模範とも儀表ともなる可き責任ある諸君に、この間の消息を充分に会得されて奮励一番されんことを希望するのであります。面白くもない、年寄りの世迷ひ言を、かく永々と申し述べましたは、何とも恐れ入る次第でありますが、どうか小言を唯の小言とお聞き流しにならず、常に忘れず身につけて、実践躬行されん事をかへすがへすも希望して止まぬ次第なので御座りまする。(文責在記者)