デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
1款 東京経済学協会
■綱文

第46巻 p.319-322(DK460093k) ページ画像

大正8年12月9日(1919年)

是日栄一、富士見軒ニ於テ開催セラレタル、当協会十二月例会ニ臨ミ「労資協調会設立趣意及其経過」ニ関スル演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正八年(DK460093k-0001)
第46巻 p.319 ページ画像

集会日時通知表  大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
十二月九日   塩島仁吉氏依頼、東京経済学会
        九段上富士見軒


竜門雑誌 第三八一号・第二七―三〇頁大正九年二月 ○労資協調会設立趣意及其経過 青淵先生(DK460093k-0002)
第46巻 p.319-322 ページ画像

竜門雑誌  第三八一号・第二七―三〇頁大正九年二月
    ○労資協調会設立趣意及其経過
                      青淵先生
 本篇は東京経済学協会に於て昨年十二月例会を開かれたる際、同会の懇嘱に依る青淵先生の講演に係り、本年一月の「東京経済雑誌」誌上に掲載せるものなり。(編者識)
      一 労資事業と往年回顧
 労働と資本との関係につきて、余が老後の思出の一事業として大に之れに尽力せんと期するのは、年来の素願である。併し、其調査たるや未だ充分尽さざる所あり、又之れに関する意見の如き、兎角放漫に流れ易く、今玆に一夕の講演に於て、内容の充実せるものを説述することは、到底不可能の事である。
 回顧すれば明治十三年頃、余は銀行業者として故田口卯吉君と共に大に通貨縮少問題に尽瘁した事がある。当時田口君は筆と舌とを以て盛に通貨縮少問題を痛論し、余は又実際上から、通貨に関して其改善整理の急務を論じたのである。之れは恰も今日の学者論客が通貨問題を講究・論議するのと全く同一の状態であつた。即ち明治十年西南戦
 - 第46巻 p.320 -ページ画像 
争の起つた為め、政府は不兌換紙幣を濫発したから、通貨は益々膨脹を来し、物価の昂騰は、仮ひ今日の如き勢ひを示さゞりしとは言へ、社会の実情稍々之れと相似たる観があつた。此物価騰貴の勢は明治十一・二年頃から漸次激甚を極めたが、当時、神戸には輸入商とて無かりしかば、専ら横浜にて外国貿易を行つた。夫れで横浜で取引をして神戸に送るといふ都合であるのだから、自然荷為替の必要が痛切に感ぜられて来た。そこで余は東京海上火災保険会社を創設し、大名華族七人と三菱其他を加へ、資本金五十万円を之れに投じた。之れは米の輸送をなすに、其金融の便を荷為替に俟つから、随て其保険の必要を認め、斯くは海上保険の施設を講究せられたものである。之にも通貨膨脹は大に影響して居る。次で兌換券発行説が盛んに起つて来た。田口君は率先して大に之れを唱道し、余亦之れに賛同して共に尽す所あつた。我国の国立銀行は其創立実に明治六年に在り、範を米国の銀行制度に採れるものにて、最初先づ五行を設けた。然るに明治九年華士族に対し金禄公債を下附せられたが、其頃から十年、十一年に亘り、国立銀行の設立続々之れを見るに至り、政府は夫れ以後不兌換紙幣を兌換紙幣に改めた。従来は金銀比価の差が些少に□も起れば、銀行の取付が直に行れたものである。然るに明治九年金の引換を止め、銀行紙幣の発行があつた。当時、既に金貨といふ名称はあつたけれど、実際は銀貨を使用して居た。貨幣条例は明治五年の発布に係り、本位貨定位貨の制度を立てたりしも、主として一円銀を流通せしめ、之れが実物貨幣であると同時に、単位貨幣であつたのである。其後、田口君は紙幣を節約して速に兌換制度を布くに如くはなしと唱へ、東京銀行業者中心となり、地方銀行家に移檄し、政府をして兌換制度を立てしめ、通貨の縮少をなさしめんことの議を凝らした。余は銀行業者として此運動に参加したる結果、時の大蔵卿大隈氏の忌諱に触れた事があつた。故に余は田口君に言論の鋭鋒を緩和する様注意したけれど、田口君毅然として其態度を改めなかつた。斯くして遂には目的を達する事が出来た。之れは明治十三年通貨問題に関する運動の回顧である。
      二 労資協調は余の素願
 労働と資本との関係を円滑に調和せしめ、之れを完全に進まして行くことは、実に重要の事項である。之れにつき既に絮説を須たぬ次第ではあるが、本来、余は十数年来之れを一個の素願として窃に意を用ゐて居た。嘗ては余は事業界発展を期する上から、株式組織の発達につき大いに努力した。第一銀行の設立は明治六年であつて、伊藤博文氏米国から国立銀行の範を持ち来り、之れに似たものを設立したに濫觴する。余は大蔵省に在職したが官吏たるに甘んずるの陋を暁り、野に於て大活動を試みんと、官を抛ち、実業界に於て、株式組織の発達に奔走す。余は株式組織に関する著書をなし、又福地桜痴も之れに関する書を公にした事がある。世人が株式組織につき、其活用の妙味を理解するに至れるは、余程後年のことである、次で余は又、経済界の実情に鑑み、工業の発達に意を用ゐた。今日、紡績事業は利益の莫大なる驚くべきものがある、和田豊治君の説によれば、現在我国の紡績は約三百二・三十万錘あるとの事である。此利益莫大なる事業も果し
 - 第46巻 p.321 -ページ画像 
て此繁栄が永久に続くか否か、其は頗る疑問と謂はねばならぬ。我国の紡績事業は、当初、明治十五年東洋紡績の創設に濫觴して居る。次で又明治七年製紙事業を創めた。王子製紙即ち之れである。次で又我国の金融が単に農業にのみ適応するものにては甚だ不可なるを暁り、之れが改善を期し、大に工業上に適応せしむべき施設を講じた。斯る場合、其調和を発見せざりしならば、甚だ不可なりしと雖も、幸に其方途を得て、倉庫其他各種事業に微力を致した。爾来経済界は多大の発達を来したのである。余は明治六年以来、政治界を離れて活動せんとて、上記の如く、種々画策施設をなした。余が更に今後の老年を労資協調事業に貢献せんことは、素より其所である。余は詩に拙く、書に巧ならず、到底風流韻事に身を委ねて晩年を送るべくもあらねば、斯くは志したるものである。併し、実業社会の弊風として、先づ以て利を問ふ、何ぞ仁義あることを知らんといふ傾向である。之れ勢の然らしむる所で、労資の事業に当るに就いても、大に注意を要する所である。余は今後、労資協調の適当なる解決をなさんことを期する。
      三 労資協調会の方針
 我国に於ても亦英米諸国の如く、政府をして労働組合の設立を許容せしめ、其適当なる施設を急務とする。余は曩に政府の諮問に対し、種々進言する所ありたるが、余の目的は労資の協調に対する一種中間介在的の団体を組織せんとするにある。始め余は完全の組合を組織せんとて、昨冬以来議を進め、研究を累ねたが、其結果は労資協調会設立と決した次第である。由来、労働者動々もすれば軽挙妄動に流れ易く、徒らに血気に逸りて大事を誤まるの虞れがある。少なくとも脱線的行動に陥り易い。故に慎重の態度を肝要とする。而して労働者と資本家との間に於ける分界点を如何にして発見すべきかは重要事項である。此分界点が何うにかして発見せられなければならぬ。夫れには会に信用が増せば、労資双方から相当の信頼を受くるであらう。労働者たとへ温情主義を一種の胡摩化しと嘲ると雖も、事実に基きて道理に訴へて慰撫抑制することは敢て不可能でなからう。斯の如くするには会に物質上の実力を備へねば、一般人士の信用を贏得ない。殊に労働者に対し、職業紹介をなし、又団体補助を行ひ、労働保険に関して力を尽すなど、相当の資力を要する。是等事項を完全に遂行すべく、労資両者間に於ける中間勢力出現は、刻下の急務である。之れには政府からの補助もある筈にて、又神戸・大阪方面からの有志の寄附約六百二十万円に達し、最近余が京・阪・神・名古屋地方巡遊に際しても一百万円の寄附金を得た。此団体は寄附を一纏めにしてから愈々財団法人の成立を見る都合で、八月以来着手、本年中に申請認可を得る予定である。其上は会長・役員も決定する運びとならうが、何れ各会社及工場に立ち入りて世話をなす積りで、労資の分水嶺の発見の為に、欧米の実例も充分調査する。政府も相当援助をして呉れる筈。米国から帰る人達も之れにつき多少の知識を備へて居る筈だから、其尽力を依頼することゝなるであらう。尚又本会役員につき一言せんに、評議員百乃至百五十名を選出し、其内から会長・副会長を選び、又理事(事務を処理す)を設く。評議員中から常議員三十名を選出する。事業は
 - 第46巻 p.322 -ページ画像 
役員の議で決定して着々遂行する。徳川公・清浦子・大岡氏は会長か副会長に、専務理事三名には桑田熊蔵・松岡均平・谷口富五郎の諸氏と内定して居る。大体の方針前述の如くなるが、実績の如何は未だ予測の限りでない。諸君より充分の注意を与へられたい。
  ○本資料第三十一巻所収「財団法人協調会」参照。