デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
6款 社団法人温故学会
■綱文

第46巻 p.365-368(DK460107k) ページ画像

明治44年9月12日(1911年)

是ヨリ先、明治四十三年、栄一当学会賛助員トナル。是日栄一、四谷愛染院ニ挙行セラレタル、塙保己一九十年祭ニ参列、所感ヲ述ブ。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一五頁 昭和六年一二月(DK460107k-0001)
第46巻 p.365 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第一五頁昭和六年一二月
    明治年代
 年
四三 末 ―温故学会賛助員―大正一一、一〇○下略
   ○後掲大正十年六月十二日ノ条ニ収メタル「大八洲」所載「塙保己一百年祭」ノ記事ニ当学会創立並ニ栄一ノ賛助会員トナリシヲ明治四十二年トナスモ姑ク右資料及ビ後掲「塙保己一先生」ニ依リ是年トス。


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK460107k-0002)
第46巻 p.365 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年        (渋沢子爵家所蔵)
九月一日 半晴 冷
○上略
塙忠雄氏来リ群書類従ノ事ニ付談話アリ
   ○中略。
九月十二日 雨 冷
○上略 二時半四谷愛染院ニ抵リ、塙保己一ノ追善会ニ出席シ一場ノ演説ヲ為ス、五時浜町常盤屋ニ抵リ山本大蔵大臣招宴会ニ出席ス○下略


大八洲 二十六の十明治四四年一〇月 所感 渋沢栄一(DK460107k-0003)
第46巻 p.365-366 ページ画像

大八洲 二十六の十明治四四年一〇月
    所感
                      渋沢栄一
塙保己一先生は先頃御贈位の恩典がございましたので、今日は御墓前に於て、其御奉告祭と九十年祭を併せ行はれますとの事で、当主忠雄君より御招請を蒙むりましたので、予て忠雄君とは御懇意でもあり、又塙先生と私とは出生の地を同うしまして、埼玉県に於ける有名な先輩でもございますから、私は喜こんで参席致しました処、図らず忠雄君から、何か一場のお話しをする様にとのお勧めでございます、処が今日御列席の御方には、何れも文学を御専務となさるるお人が多い様に見えますのに、私は御承知の通り其業を異にする者でございますから御辞退を申上ましたが、達てとのお言葉につき失礼を致しますが、さて右の次第でございます故に、塙先生の事歴に就ても委しく取調べを仕りました事もございません、唯今休息中に一寸一覧致しました埼玉県教育会の編纂に成る所の徳育資料に依て見ますると、先生は五歳の幼齢にして不幸にも両眼を失はれたのであつて、全く物の色彩も記臆し得られざる年齢の程に失明せられたるお方でございます、然るに
 - 第46巻 p.366 -ページ画像 
先生はそれにも拘はらず嶄然類を抜く所がございまして十三歳と聞ゆるお年には既くも志を立てられ、即て父君にお願になり江戸に上りて雨富撿挍の門人となられ、当時盲人の専業たる鍼治の術を修行せられましたが、それと同時に先生又深く文学にお心を御寄せになりまして先づ萩原宗固に就て歌書物語の類を学び、又川島貴林・山岡妙阿等に就て漢籍及び律令の学を学《(修カ)》め、又品川東海寺の僧孝首座に就て医書等を稽古されたとの事でございます、是れ既に先生が非凡なることを証せられて余りあるではありませんか、斯様な次第でございますから、記臆は善し理解は慧しといふので、神童の名を得られましたが、惜しむべし才子多病といふ譬へに漏れず、先生とかく病気がちなので、雨富撿挍の勧めによりまして、年二十一歳の時、父宇兵衛君にお伴ひになり、伊勢参り、さては京都・大阪・大和巡りなどされて、其間六十日を費やし、ゆるゆる保養をして江戸に帰られしが、是より先生はメツキリと身体の健康を得られ、随つて学業も益々進歩なされたのみならず、三十歳の年には早くも勾当になりて名を保己一と改められ、三十八歳には撿挍に登られ、又四十歳の時には其学名愈々高くなりましたので、水戸公よりお頼みがありて盛衰記を校正なされ、引つゞき大日本史の校正にも預ることゝなられ、又四十八歳の折には和学講談所を開かれまして、後には幕府の御取立を蒙むり、それよりして我国に類ひなき群書類従の編纂をお思ひ立ちになり、全部六百六十五巻といふ浩澣の書冊を校訂出版あそばされ、大に後世の学海に裨益せられましたなどゝ云ふ事は、実に尋常具眼の人にしても容易に成し得る事の出来ぬ次第でありますのを、先生は失明の御身でありながら、之を為し遂げられたと申します事は、其御精神の篤きには、私は敬服の外ありません、加旃ならず七十七歳の高齢を以てお亡くなりになるまで、著述編纂一日も其事をお怠りにならず、群書類従の外、続群書類従及び数多の著述をお遺しになり、且つ有名な学者をも沢山お仕立になつたと申しますは、文学界に於ける人々のみでなく、何人も之を聞きましたら感奮致さぬ者はございませんでせう、孟子の言に、伯夷の風を聞く者は頑夫も廉に惰夫も志を立つるありとありますが、私どもゝ先生の事は宜しく模範と致すべき者だと存じます、私も懐郷の情として逮ばずながら埼玉県下の教育の事に力を尽して居りまして、学生寄宿舎などの組織にもあづかり、専ら育英の方法を講じて居りますが、どうか是等の学生は勿論後進の徒は、其何等の方面たるを問はず、先生の風を聞いて益々志を立て、奮励研磨する様にしたい者だと考へます(記者云、此処埼玉県育英の談は摘要省筆せり)さて余り他事に渉りましたが、今日は他に拠どころない約束もございますから是れで御免を蒙むります。


竜門雑誌 第二八〇号・第七五頁明治四四年九月 ○塙検校九十年祭(DK460107k-0004)
第46巻 p.366-367 ページ画像

竜門雑誌 第二八〇号・第七五頁明治四四年九月
○塙検校九十年祭 九月十二日は正四位総検校故塙保己一翁の九十年祭に相当せるを以て、大八洲学会幹事として令名ある曾孫忠雄氏主催となり、同日午後二時半より四谷区寺町愛染院に於て、贈位奉告祭を兼ねて墓前祭を執行せられ、青淵先生にも温故学会賛助会員たる因縁
 - 第46巻 p.367 -ページ画像 
もあり、旁々同日は特に参拝せられたり。


中外商業新報 第九一一三号明治四四年九月一三日 ○塙先生九十年祭 正粛なる贈位報告の典(DK460107k-0005)
第46巻 p.367 ページ画像

中外商業新報 第九一一三号明治四四年九月一三日
    ○塙先生九十年祭
      正粛なる贈位報告の典
贈正四位故塙保己一先生九十年祭は、十二日午後三時より四谷区寺町二十二番地なる愛染院に於て、朝野の名士を集め盛大に挙行されたり祭主は先生の正系にして曾孫に当る国学者同姓忠雄氏(四九)也
▽名士続々参集す 生憎しとしとと降り頻る秋雨は午後に至りても止まず四谷区寺町の高台、四望さながらに寂びて、佗しき心限なきものから、百代の偉人を弔はんと集まる特志の人は午後二時に至り、男をみなを取交ぜて百七十余名を算す、重なる人々左の如し
 渋沢男爵・松浦伯爵(代)津軽伯爵(代)・有馬伯爵(代)・三上博士・芳賀博士・松本博士・呉博士・坂正臣・大槻博士(文彦)・石榑千亦・武嶋又四郎・町田盲学校長・小西盲唖学校長等の諸氏婦人は毛利子夫人を初め臈たけし若き人達数多集ひて慎まし気に記念祭を祝ふ
▽頌辞秋雨に和す 時移りし午後の三時にもなりぬれば、記念祭第一次の典は先づ神式によりて始まる、院の奥、奥都城どころ、「前総撿校塙先生之墓」と鐫る一片の碑碣、碧苔蒸して逝きにし偉人の面影を偲ぶよすがにもなれる上を、上り藤の白幕打ち廻し、麻青衣の水干な召せる日枝神社の神主久保悳憐氏、二名の副役を従へて其中に立ち頌辞を訓む。袖うちぬらす折柄の秋の雨殊に佗しくて、正粛の気襟懐に入り幽高云ふべからず、頌終りて忠韶氏(保己一の孫年八十)忠雄(前掲)とせ子(忠雄氏の妹年四六)忠和(とせ子の弟年卅五)及びいたい気なる姪女二名等順次に玉串を捧げ、列なれる人々も亦協弔に参し、午後三時半恭しく式を終る
▽唱名の声欄桷を拍つ 神式の済むや、院の中堂に於て住持金子宥雄師導唱を諦し、薫香馥郁たる中に衆僧一切無量経を誦ず、一柄の縷煙欄桷を繞りて唱名聖音高く響く、一代の碩学当世の貴紳此中に参して羞慶の志を致す、誠に聖代の一美事也、読経を終れば渋沢男爵来賓を代表し起ちて頌賀の辞を陳ぶ、式は斯くて終る、時に午後五時
▽記念祭雑記 九十年記念祭に際し左の頌歌あり
 きゝめでゝ木陰に人の集ふかな
   はなはに高き松風の音      坂正臣
 いにしへの音を残して吹くものを
   思へば久し末の松山       孫忠韶
▽孫忠韶翁(八十)は明治三年内閣御系図掛となり、後に修史局に入り更に外務省文書吏員となり、又大蔵省編輯掛となり、明治十年致仕す蘭学に通ず、曾孫忠雄氏(四九)は盲学校の嘱托教師にして歌学に造詣深し、とせ子(四六)は赤十字社看護長の職にあり、保己一先生の面丯は全くとせ子女史に彷彿せり、静村氏(四四)は曾て自由党の志士、現に園芸に従事す、忠和氏(三五)は神戸駅助役として令名あり、忠韶翁の末子五郎(二三)は翁と共に赤阪原宿に住す、温厚の人也、記して玆に至る、保己一先生後ありと謂つべし
 - 第46巻 p.368 -ページ画像 


〔参考〕学生 郷土偉人号・第三巻第一〇号・第二六〇―二六一頁大正元年九月 塙検校追懐録 男爵 渋沢栄一(DK460107k-0006)
第46巻 p.368 ページ画像

学生 郷土偉人号・第三巻第一〇号・第二六〇―二六一頁大正元年九月
    塙検校追懐録
                    男爵 渋沢栄一
○上略
      群書類聚の出版
  検校の一生中、最大の事業は云ふまでもなく群書類従の編纂及び出版であるが、これは彼が三十四歳、即ち漸く勾当となつてから五年目程の時に思ひ立つた計画で、以後あらゆる苦楚をなめ尽して、遂に安政二年彼が七十四歳の時に漸く版木とすることが出来たのでこの間都合四十一年間、その辛抱強いことは、実に古来稀に見る所である。この書が、如何なる動機によつて作られ、如何なる内容を含み、又如何なる批評を当時及び後世の学者より受けて居るかは、こゝに改めて贅する迄もない事と思ふ。次に当時の俗諺に「番町に過ぎたるもの二つあり、佐野の桜に塙検校」とか「番町で目あき盲に物をきゝ」と云はれた其番町の和学講談所は、検校が幕府及び二三の人の保護勧告に基き自身も感ずるところ有りて始めて創立したもので、最初校舎を裏六番町に置き、後更に表六番町小林権太夫拝領地八百余坪の地を借りて引移つた。以後、三代七十余年打ちつゞいたが、明治初年に至り、学問の荒廃すると共に廃止された。又世に「温古堂」と伝へられて居るのは検校の堂号で、古きを温ね新しきを知るといふ検校の平生の主張をそのまゝ堂号としたのである。先年まで内閣書記官をして居られた三輪醇氏所蔵「温古堂」三字の額面は、即ち当時の温古堂の額面で、字は水戸治保公の筆に成り、彫刻は門人屋代弘賢の手になつたものである。
○下略



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正二年(DK460107k-0007)
第46巻 p.368 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年          (渋沢子爵家所蔵)
一月二日 晴 寒
○上略 塙忠雄氏大坂行途中来訪セラル、西園寺亀次郎・岩本栄之助二氏ヘ添書シテ、群書類従ノ事ヲ申遣ス○下略
   ○栄一、一月一日ヨリ家族ト共ニ大磯ニ滞在。