デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.515-523(DK460131k) ページ画像

大正3年5月6日(1914年)

是日、上野精養軒ニ於テ当協会例会開カレ、前会ニ引続キ栄一提出ノ問題ニ就キ、添田寿一、道徳ト経済ノ関係及ビ教育ノ効果ニ関シテ意見ヲ述ブ。栄一中国旅行中ニテ出席セズ。


■資料

帰一協会会報 第四・第一六七頁大正三年七月 五月例会(DK460131k-0001)
第46巻 p.515-516 ページ画像

帰一協会会報 第四・第一六七頁大正三年七月
    五月例会
 - 第46巻 p.516 -ページ画像 
 五月六日開会。当日は三月例会以来の宿題たる渋沢男爵提出の問題を引き続き研究する事となし、初めに新渡戸稲造氏及び添田寿一氏此の問題に関して意見を陳述せられ、更に中島氏・塩沢氏・成瀬氏・阪谷男・荘田氏・服部氏等交々所感を述べらる。出席者二十名。
   ○栄一、是年五月二日東京ヲ発シ、中国旅行ノ途ニ就ク。六月四日下関ニ帰着、同月十五日帰京ス。本資料第三十二巻所収「中国行」参照。


帰一協会会報 第六号・第七二―八八頁大正四年一一月 経済、道徳及び教育の問題に就きて 添田寿一(DK460131k-0002)
第46巻 p.516-523 ページ画像

帰一協会会報 第六号・第七二―八八頁大正四年一一月
    経済、道徳及び教育の問題に就きて
                      添田寿一
 渋沢男爵から御提出になつて居る三問題は、何れも重要の問題として、諸君の御研究を煩はしたいと思ふが、私も愚見を此の研究の材料に提供致して、尚ほ御教示を仰ぎたいと思ふ。
    第一問 道徳と経済
      第一 仁義道徳とは何ぞ
 道徳と経済の関係といふ問題に就いては、特に経済学の研究上からも、趣味のある問題である。先づ其の中に就いて、仁義道徳といふ意味を、前きに範囲を極めてから、お話申上げた方が宜からうと思ふ。此の仁義道徳といふ問題は、中々大きな問題であつて、且つ又私共の経済学の研究上より、十分な考は無いのであるが、私の所謂道徳と申上げるものは、少し商売違ひであるが、御参考までに申上ぐれば、此の前諸君がお聴きになつた通り、人体の組織といふものは、細胞に基いて居るといふ所に、私は道徳の根原が在ると信ずるものである。身体と細胞との関係は、生物学の研究に待たねばならぬのであるが、兎に角、此のお互の身体と細胞との関係は、実に一種言ふべからざる妙味を有つて居るやうに考へる。つまり此のお互の身体の細胞が、単に身体を造り立てる許りでなく、之を維持し、之を健全にし、之を防衛するといふ作用は、実に驚くべきものがあると思ふ。例へば、お互が怪我をする、其の怪我を、細胞が自分でチヤンと直すといふ働きをする。大怪我ならば仕方がないけれども、一寸した怪我は、細胞が自身の力を以て、所謂それを繕つて、而して其の大なる害を早く喰ひ止むるといふやうな働きをなすといふことが、猶ほ専門家のお話を伺ひたいとは思ふが、実に驚くべき勢力を有つて居るものと私は思ふ。要するに細胞といふ部分と、お互の身体といふ全体とは、相須つて吾人の身体を為すものであつて、其の部分と全体との関係は、殆ど至れり尽せりと謂つて宜からうと思ふ。
 それで、此の部分と全体とは、所謂利害を共にして、全体が部分の為めに存し、部分が全体の為めに存するといふ、丁度今日或一種の人人の云つて居るが如く、利害共通、彼此相待つて各々其の幸福を保持する、此処に道徳の根原があるのではなからうかと考へる。即ち其の生理学上、生物学上の原則を推し拡めて、例へば、個人は国家の為めに尽すといふのは、恰も細胞が一の身体の為めに尽し、而して其の身体が矢張り細胞を形ち造る所のものであつて、国家が国民といふものによつて、所謂利益を保全するといふ此の関係は、恰かも細胞の身体
 - 第46巻 p.517 -ページ画像 
に於けると同じといふのは、即ち国家と個人との関係であつて、世の中に個人主義とか国家主義とかいふことを唱ふるけれども、それは一面の原則であつて、個人の為めに国家があり、国家の為めに個人がある。即ち全体の為めの細胞で、細胞の為めの全体であつて、国家主義といふも個人主義といふも、帰する所は一である。斯ういふ考を私は有つて居るのである。
 それで、つまり道徳も、此のソリダリチー即ち利害共通に過ぎずして、全部との調和に外ならないので、此の部分と全体との調和を図るのが、即ち道徳の要義であると思ふ。此の以外に道徳は無い。六かしくは云ふものゝ、つまり親に対する孝といふも、子が親に対する所の義務である。それから愛情といふても、夫が妻に、妻が夫に対する共通の利害関係、義務関係に外ならない。或は朋友に信といふのも、又は国家に忠といふも、皆部分と全体との関係に外ならないのである。それに仁義道徳は何であるかといふと、唯だ吾人が他の人類に対するソリダリチーより来る義務に過ぎない。仁義道徳に関する私の観念が間違つて居るかも知れないけれども、其の意味に於て今日の問題を研究して見たいと思ふ。
 而して此の意味の道徳に、制裁を附加するものが宗教である。即ち宗教が極く幼稚な迷信の形にある時でも、善神・悪神の如きものがあつて、善を勧め悪を懲すと信ずる。さういふ色々のものが、段々発達して全能の神となるのであらうが、つまり宗教は制裁力を道徳に加へたものに外ならない。此れは極く簡略であるけれども、私の宗教観である。而して宗教と科学との関係を少しく述べて見たいのであるが、世の中には、科学の進歩するに随つて、宗教が勢力を段々に失ふといふ考がある様なれど、私は反対に科学が進歩すれば、宗教も随て益々進歩すると考ふる。御承知の通り、科学上アトムやエレクトロンといふやうなものを如何に研究して見た所で、什うしても説き明かすことは出来ない。
 前回の講演にあつた細胞の働きや、又ソレが何故に分解するかといふことは、我々には解することが出来ない。超人智的の力や原素の勢力といふやうなものは、科学が段々研究すればする程顕著となる故、絶対無限を全体とせる宗教の勢力といふのは、科学の発達進歩につれて、増加するとも衰ふるものではないと思ふ。故に科学――学問の研究が積めば積む程、宗教の勢力は増すものであつて、所謂不完全なる科学、不完全なる宗教は、衝突若くは相反目するが如く見ゆるけれども、それは両方が不完全であるからで、科学と宗教が完全に近けば近づく程、相輔くるものであつて、決して相反するものではないと信ずるのである。
 此に由て観れば、宗教といふものは、科学の進歩と共に必要を増すものである。所謂宗教の必要といふものは過去の問題でなくして、将来に於て強くなるものであるといふ結果を生ずる。殊に多数一般の人心を収攬して行くには、宗教の力でなければ、到底出来ないと思ふ。斯く云へば、政治的に宗教を必要視するといふ非難があるかも知れないけれども、それは感情であつて、感情を離れて冷静に考ふるならば
 - 第46巻 p.518 -ページ画像 
什しても多数の国民、一般の人心を導くのは、宗教の力でなければ完全に行はれない。処で世の中には、何宗教でなければならぬとか、斯ういふ形式でなければならぬとか、色々の形式論があるけれども、それは謬りであつた。私は如何なる宗教にも優劣を認めない。所謂迷信でなく正当適法のものならば、何の宗教でも構はない。無宗教よりは不完全でもあつた方が宜い。無宗教の状態は好ましくないと思ふ。此の点からいふと、基督教は非常に制裁力を有し実行を助くる故、人民教化の上に完全に成功する、是れ即ち基督教が他の宗教よりも勢力を得た所以である。或は其の教旨に至つては、仏教に於ける大乗教が遥かに優つて居り、殆んど哲理に近いといふけれども、宗教といふ形をなして居る以上は、具体的に実行力を有つて居るのが、宗教の効用を全からしむる所以であつて、是れが即ち今日基督教が大勢力を得たる原因であらうと思ふ。
      第二 生産利殖との関係
        (一)道徳受け身の場合
 次には進んで生産と利殖といふものゝ関係を、少しく述べて見たいと思ふ。これは諸君も御承知の通りの事柄であるが、それを分解して申上ぐれば、先づ第一は言はゞ道徳が受身になる場合である。所謂原始の状態であつて、少しも経済が発達しない場合には、矢張り道徳も発達しない、といふのは、即ち人類が禽獣と相距ること遠からざる状態になるから、つまり経済も道徳も共に全く地を払つて居ると謂ふて宜いのである。併し人類が段々進んで所謂牧畜時代・耕作時代になり若くは商業・工業が発達する時代になり、衣食足て礼節を知るで、大に道徳といふものも進んで参るのである。就中農業時代に於ては、非常に質撲な美風が発達して居るのであるが、それが商工時代になると智力が発達して来ると同時に、弊害が生ずるのである。是に於て、経済学者の中にも、ジヨン・ラスキン氏の如きは、余りに工業の発達を喜ばない。此流の経済学者は、果して工業の発達なるものが、人類の幸福なりや否やといふことに於て、大に疑を置いて居る。寧ろ農業時代が人類の幸福であつて、余程淳樸の風を養ふに適して居つて、工業商業の方は多少弊害を生ずるといふ性質を有つて居るから、此の如き論も生ずると思ふのである。而して段々商工業が進んで来ると、所謂産業革命の結果兼併の弊を生じ、其の所謂大なるものは奢侈専恣に流れ、腐敗を極め徳義に有害なる結果を生じ、又た小なるものは、所謂生計困難といふ状態に陥る。衣食住上原始の状態に近づき、現に倫敦に於けるウエスト・エンド《(イー)》辺には全く禽獣の如き状態に陥つて居る貧民が沢山ある。これ即ち産業革命の弊が終局時代を蔽ふて居るのである、そこで独り以上の如き弊を見たのみならず、始めに云ふた道徳、即ち部分と全体との調和であるといふ意味の道徳を打ち破つた。之を打破したのは即ち資本と労力の衝突、階級間の軋轢である。此の現象は日本に於ては未だ甚しきに至らないけれども、工業上の先進国にあつては、殆んど一般に両々敵視して、仇讐の如き状態に陥つて居るのである。
 それで其の衝突の結果は延いて労働組合となり或は資本家の聯合と
 - 第46巻 p.519 -ページ画像 
なり、社会主義となり、遂に現代の社会制度其のものを破壊しなければならぬといふ、極端なる議論を生ずるに至つたといふことは、御承知の通りである。然るに破壊は方便に過ぎずして、調和といふことが人類終局の目的であるといふ証拠には、今日の一番進んだ社会主義と雖も余程調和的になつて来た。そこで従来の社会主義者では手ぬるしと云つて、サンジカリズムなぞが出来た。それは政府や議会を経て目的を達せんとしても駄目であるといふので、労働者自ら事に当るべしと唱ふるのである。他日段々サンジカリズムで満足出来なくなれば、もう一層激烈なるものが起るかも知れない。一時は反目衝突極端に失するけれども、終局する所人類は平和に赴くものであると信ずる、そこで此の反目を成るべく調和する為めにも、初めに申上げた説き方の道徳が必要であると思ふ。唯だ国に忠、親に孝、若くは仁といひ義といつても、世界人類が段々進歩して行くに従ひ、其の説き方が変らなければ、今後人類の進歩に適応することが困難であると思ふ。それで権利よりも寧ろ義務が大切であつて、最新論理上義務に重きを置くに至つた理由は此にあると思ふ。経済学が生産よりも分配に重きを置くといふことになつた所以も、こゝであらうと思ふ。道徳の説き方を変へて、権利よりも義務、一部よりも全体、破壊よりも構成、衝突よりも平和、といふことの説き方に変つて来るべきであると思ふのは、此の為である。
        (二)経済受け身の場合
 次は産業が受け身になる場合である。矢張り原始の状態に於ては、道徳が全く幼稚である故、産業も発達しない。併し人智が進んで、各自に財産を占有するに至つて、段々産業が発達して来た。即ち所有権を保護するといふ牧畜時代・農業時代に於て、益々機運が熱し、生産も増殖する、而して農業は収穫全部を消費せずして、種子として之を蓄積するといふより来るのであるが、大に徳義の作用を認むべきである。若し徳義が無かつたならば、農業は決して発達しない。種子は資本の標本、農業の根本である。それから各種の資本などゝいふものが蓄積せらるゝに至る。玆に至るには自制の観念、遠きを慮る事が必要である。江戸ツ子は宵越しの金を遣はないと威張つて、資本の増殖に注意しなかつたが、日本に資本の尠いのは、此に根源があると思ふ。国民に貯蓄の観念が発達しないから、日本は毎時も資本の欠乏に苦しんで、外資を仰がなければ農商工業上活動が十分でないといふ状態にあるのである。消費の観念許り盛んで、貯蓄の観念が乏しいから、いつも資本欠乏の状態にあるのである。若し国民に貯蓄・自制の観念が発達したならば、決して資本の欠乏を憂ふることは無いのである。
 最も著しい例は外国貿易である。国民に徳義が無ければ、決して外国貿易は発達しない。現に日本程商業道徳の上に就いて非難を被る国は尠く、随つて我が外国貿易は甚だ振はない。是に於て、つまり国民が独り勤勉のみならず、決して偽らない、見本と商品とに相違がない各種の約束を守ると云ふのでなくては、外国貿易は発達するものでない。蓋し国民性と産業とは関係を有するものであつて、英国の品物が非常に堅固で、所謂世界の貿易市場に横行濶歩するのは、即ち其の国
 - 第46巻 p.520 -ページ画像 
民性が粗末なものを作ることを許さないからで、それが世界の市場に於て雄飛する所以である。日本が商業道徳に就いて非難さるゝ所以は一時を誤魔化せば宜いといふ思想から来るのであつて、之を改めないで、依然として今日の状態にあるならば、我が外国貿易の前途は甚だ心細い感じがする。例へば日本製のブラシは甚だ安いが、使ふと直ぐ毛が抜ける、碌々使ひもせぬ内に役に立たなくなるものであるから、もう二度と同じものを使ふ気がしない、幾ら安くても、其の品物に対して、一種言ふべからざる嫌悪の情を生ずる、此れが日本貨物の排斥せらるゝ所以である。唯だ外見計り飾つただけで、実質を少しも顧みないといふ以上は、世界の市場に於て、どの競争にも勝つことが出来ないのみならず、自国をも守ることすら殆んど六かしい。欧米諸国が大規模の商工業を営んで、各々特色ある発達を遂ぐるのは、皆此の国民性の然らしむる所であつて、独逸が化学工業に成功し、仏蘭西が美術的工業に富むのも、皆な国民の品性が与つて力あるのである。
 それから、宗教と産業とは非常に関係がある。仏教が今日の如く衰へて来たのは、つまり進んで改善する所謂進取的気象が段々薄らいだ為めである。今日仏教を奉じて居る国の産業が、萎靡して振はないのは、此の影響によるのである。回教の行はれて居る国も、又同様の状態である。今進んで基督教国の状態を見るに、其の新教と旧教との国の間には、其教育に比例して産業の上にも相違がある。進取的気象に富める新教の国の産業と保守的なる旧教国の産業とは、較べものにならない。私は穴勝ち基督新教に心酔するものではないが、其の国民性を善良進取的ならしむる事丈けは、誰も感を同じくせらるゝであらうと思ふ。
      第三 道徳と経済との関係
 道徳と経済は一大関係があつて、離るべからざるものである。殆んど此の二つが因となり果となり、互に相纏はつて離るべからざるものである。世界的工業・外国貿易などは、特に国民道徳が発達しなければ、殆んど発達の望みが無いと申上げて宜い。就中労力の効果(ヱフヒシエンシー)は経済上最も注意すべき要件であるが、之に就いて、或外国人が日本に来て、大阪の工業を見て驚いたのである。大阪は日本に於て最も工業の隆盛を以て称せられる所であるが、其の職工の勤勉の度は、之を外国の職工に較ぶると、半分にも当らない。或は遊んで居るとか、寝て居るとか、雑談をするとか、真面目でない。さういふ状態では、到底労力の効果を完全に挙ぐることは出来ない。さういふ職工によつて出来る品物は、到底勤勉忠実なる国民の作る品物には及ばないものである。前に申上げた刷毛の如きは即ち其の一例である此の如き労力の状態に満足するならば、我が国の工業の前途は、甚だ心細い訳である。それから資本の増殖の大切なることは勿論である。所謂産業といふものは、総て資本の上に基礎を置かねばならぬことは云ふまでもないが、其の資本蓄積に徳義心の入用なるは既に述べた如くである。
    第二問 道徳進歩せりや
 次は道徳は進歩せりやといふお尋ねであるが、私は進歩して居ると
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思ふ。それは国にも依るが、先づ今日の開明国には進歩して居ると思ふ。私は道徳と経済とは両立併行するものであるからと思ふ。無形の道徳は明白には分らないけれども、有形の生計程度の昂進は非常なものである。先づ多数に就て見れば、国民全体の生計程度の昂進したことは、実に著しいものである。それが為めに、余裕がある、余裕があれば開進向上即ち精神的修養を積む事が出来る。蓋し生計に余裕のあるといふことが、即ち道徳の進む所以である。若し私の論理が間違つて居るならば別であるけれども、其の点から見れば、先進国の道徳が進んで居ると思ふ。尤も多少の弊害・例外はある。そこで我が日本は什うであるかといふと、日本の生計程度は、維新前に比すれば大に進んだけれども、他の先進国に較ぶると大に劣つて居ると思ふ。
 奢侈と一般国民の生計程度とは全く別である。奢侈が発達すれば、一般の生計程度は反比例に下るかも知れない。我国の奢侈は発達して居るけれども、国民大体の生計程度は他の先進国から見れば、余程低度であると断言して憚らない。況んや旧時の精神統一力が殆んど無くなり、まだ新たなる基礎となるべきものが出来ずに居る。故に今や国民は殆んど過渡混淆の時代にあるので、思想界の混乱、精神界の紊乱といふ現象が生じて居るのである。是に於てか、国民に帰着点を与へなければならぬ。是れ本会に於て大に努むべき点であると思ふ。国民をして依る所あらしむる点をお互ひ講究して、出来るだけ早く国民に帰着点を与へたいと思ふ。
 斯う申したならば、此の説は有形の生計から来り所謂唯物主義に陥つて居る、又宗教は衰へて居る、道徳は退歩して居る、といふ反対があるかも知れぬ。私は之に向つて答ふるに、一見唯物に偏せるが如きも、一体人類は唯だ生計とか快楽とか、有形の事柄だけでは満足するものではない。此処が即ち大に重きを措くべき所である。蓋し人類は有形の食物の満足のみならず、無形のものをも望む。双方が与へられなければ煩悶する。故に有形の進歩があれば、什うしても無形の進歩が之に伴ふ事になる。斯ういふ私の説が誤つて居るならば、別であるけれども、有形的に進歩すれば、通例其の裏面には精神的の発達が伴ふものである。次には宗教が勢力を失つたといふ反対であるが、宗教は古き形に於ては成程勢力を失なつたかも知れぬが、新しき形態方面に於ては進んで居る。良し数百歩を譲り、宗教が衰へたと仮定しても宗教に代るべき倫理といふやうなものによつて、多数の人類は己れの身を修め、精神を慰めて居ると思ふ。必ずしも、お寺に参るものが少いといふて、全体の宗教が衰へたといふのは、私は謬見ではないかと思ふ。
    第三問 教育修養の効果
 それから教育修養といふものは案外効能が尠いと思ふ。私の今教育と云ふのは、学校教育を指すのであるが、学校教育は元来教育の一部分に過ぎない。それよりも先づ、胎内養育が第一に必要である。即ち小供が母の胎内にある時に、精神的感化を与へることで、これは東洋に於て古くから行はれたのであるが、胎内で小供が段々生長して居る間に、母の精神作用如何によつて大関係があるやうに思ふ。細胞が合
 - 第46巻 p.522 -ページ画像 
同し分離したりして、而して発育するには、大に精神作用が与つて力あると思ふ。又父母に有形的無形的の病気があれば、其の子が之を受くるのは勿論である。次に大切なるは家庭の訓練である。之には母の勢力が大に関係する。故に学校教育計りに重きを措くのは、大間違ひである。それから社会風潮も亦大切である。人類は社交的生物である以上、社会の風潮により左右さるゝのは免れないと思ふ。
 何人も云ふ事であるが、体育、智育、徳育、此の三つが揃はなければならぬ。然るに我国では学校教育上単に智育のみに重きを置いた為め、今日其の弊を見るに至つた。況んや我国の学校教育が外見形式に偏し、少しも実質を顧みない傾向がある。万事唯だ所謂申訳儀式的にやつて居るのであるから、これで以て完全なる国民を養成するなどゝは、望むべからざることである。故に教育制度調査会に於ても、我国の教育制度よりは寧ろ精神実質方針を改めて貰ひたい。併しこれは別問題であるから略して置きます。
 兎に角今日の如き学校教育では、効果が無いのみならず、体育徳育を顧みない結果、或は却つて国民を損はんも知れず。現に私は亜米利加に於て実例を見たのであるが、一番彼地に居る同胞の困んで居るのは、中学を卒業し兵隊逃れに渡米して居るものである。働くには筋骨が弱く、事務には脳力が足らず、唯だぶらぶらして居る内に、終には無頼漢の仲間に這入り、支那人の博奕場あたりを徘徊するに至る。是れが米国人の最も排斥する所である。若し日本の教育が此の如き青年を作るの傾向ありとせば、私は国家の前途が覚束無いと考へる。
 それならば什うして宜いかといふと、今も申上げた通り、学校教育の根本刷新を断行し、胎内・家庭・社会教育に一層の重きを置くべきであると思ふ。就中最も重きを置かなければならぬのは、家庭教育であると思ふ。何故ならば、習慣を作ることは家庭より外にはない。宗教心を養ふといふても、幼少の時から始めなければ六かしい。習慣性行を善くするには、什うしても家庭の監督に待たなければならぬ。教師とか警察官とか社会の人の世話は、或は一時的の効果を与ふるかも知れぬが、真正永続すべき好習慣を養ふには、什うしても家庭でなければ六かしい。今日排日問題が我が国の深憂大患といはれて居るが、これも要するに我が国民の習慣に大関係を有して居る。国民が習慣を変へなければ、排日問題が収まるものではない、独り亜米利加のみならず加奈陀にも濠洲にも南米にも、続々として此の忌まはしい問題が起るのは、皆な習慣の差が然らしむるのである。習慣中にも善きものは保存し、世界共通して忌み嫌はるゝ悪弊は断然改むべきである。即ち調和的に世界的に、所謂部分は全体の為めに存するものである、全体は部分の為めに存するものであるといふ道徳によつて、国民の習慣を作らなければ、我が国民の海外発展は到底駄目である。此の習慣を養ふのが即ち家庭である。什うか此の点に就いて諸君の御尽力を仰ぎたい、家庭教育改善の為めには女子教育を盛んにすると同時に、之をして穏健適切、実際的ならしむるのは急務であると信ずる。此の頃ミス・ブラウンから手紙が参つて、非常に日本人問題に就いて困つて居ると記してある。ミス・ブラウンは非常に日本贔負で、日本人の為め
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に奔走して居るのであるが、此の人の手紙の中に、日本の婦女は言ふことを聴かないで、何事も改良が出来ない。実に日本婦人にも困る、といふことが手紙に書いてある。此の如きは赧顔の至りで、女子をして育児衛生、其他家政上の智識を与へ、大に責任を重んぜしめ、其の天然の本分を尽さしむるのは何としても緊要である。
 要するに有為健強なる国民を養生する上に於ては、有形無形の両方面より歩を進め、智体徳の三育を併進せしめ、学校教育以外に胎内・家庭・社会教育に重きを置き、以上各種教育と倶に、宗教其他の信念養成を怠つてはならぬと思ふのである。(大正三年五月例会)