デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.538-552(DK460133k) ページ画像

大正3年7月3日(1914年)

是日、上野精養軒ニ於テ、中国ヨリ帰国セル栄一及ビアメリカ合衆国ヨリ帰国セル姉崎正治ノ歓迎会ヲ兼ネ、当協会例会開カル。前回ニ引続キ、高木壬太郎、教育ト宗教的信念トノ関係ニツキ講演シ、後、栄一中国旅行ニ関スル談話ヲナス。


■資料

帰一協会会報 第四・第一六八頁大正三年七月 七月例会(DK460133k-0001)
第46巻 p.538-539 ページ画像

帰一協会会報 第四・第一六八頁大正三年七月
    七月例会
 七月三日開会。過日帰朝せられたる渋沢男爵及び姉崎正治氏の歓迎会を兼ね、七月例会を開き、前回の研究問題に就て高木壬太郎氏の講演ありたり。
 右講演終つて、井上哲次郎氏は渋沢男爵・姉崎正治氏・フイツシヤー氏に対する歓迎の辞及び松村介石氏に対し送別の辞を述べられ、次で渋沢男爵は支那旅行談、特に中日会社と日支両国の関係を説かれ、
 - 第46巻 p.539 -ページ画像 
姉崎氏は米国ハーヷアード大学に於ける一年間の生活、講義の概要、並に米国姉妹協会との交渉の一斑を述べらる。但時間の都合上出席会員の談論に移る能はざりしを遺憾となす。出席者三十六名。
   ○栄一談話ノ筆記ヲ欠ク。


帰一協会会報 第六号・第一二五―一五六頁大正四年一一月 教育と宗教的信念との関係 高木壬太郎(DK460133k-0002)
第46巻 p.539-552 ページ画像

帰一協会会報 第六号・第一二五―一五六頁大正四年一一月
    教育と宗教的信念との関係
                      高木壬太郎
    (主題前同)
 本日は先月の例会に引続き教育と宗教の関係といふことが問題でありまして、私が卑見を申述ぶることになつて居るのでありますが、此問題に就ては既に本多・吉田両氏の周到なるお話がありまして、学校教育に於て宗教的信念を養ふことを可とする理由に就ては、既に十分の御説明がありました。故に今日私の申上ぐることは、屋上更に屋を架すといふ様な趣があらうかと存じますが、予定せられた順序に従ひまして、卑見を申述べ御教訓を仰ぎたいと思ふのであります。
 其処で第一の問題に関しては、既に御両君の十分の御説明がありまして論旨は殆ど尽きて居るので、其上附け加へて申し上ぐべき程のこともありませぬが、此問題の方から申し上げて往きませぬと、私の論旨が十分徹底しないやうに思はれますから、御迷惑ではありませうが此方面から一応私の考へて居る事を申し上ぐることに致します。
 此問題を論ずるに方て先づ定むべき問題は、教育の目的は何処に在るかといふことであらうと存じますが、此は別段議論のないことでありますから、単に仮定をして置けば宜しいのであります。即ち教育の目的は単に知識又は技能を練つて、功利的の人を造るといふことではない。又忠君愛国の精神を鼓吹して忠良なる臣民を造るといふことは国民教育の最も重んずべき所でありますが、人格を無視して人を単に国家の機械として造るといふことは誤て居る。又個性を重じ、個人を主として、毫も国家・社会の利害を顧みないといふやうな、極端な個人主義の教育も誤つて居る。要するに教育は此等の一方に偏した人物を造るのではない、完全円満なる人格を造るといふことが教育の目的で、修身・倫理の教訓はいふ迄もなく、歴史・文学・科学・数学・国語・外国語・習字・図画・体操に至るまで、学校教育は悉く此目的を達するといふ一点に集中せねばならぬといふことは、何人も異論のない処であらうと存じます。
 其処で教育の目的が既に人格を造るに在りとすれば、次に所謂人格とは何ぞやとの問題が自然に起て参ります。然し之を科学的若くは哲学的に説明いたしますことは容易のことでありませぬ。殊に私の如き指導に不案内なるものには、人格の科学的内容といふやうな問題は十分に分りませぬから、むづかしい哲学上の解説は暫く措きまして、常識の上から私の考へて居る所を簡短に申しますれば、人間には自然若くは他の動物にない自覚を本とせる精神の働、若くは精神生活がありまして、之が人間をして自然及び他動物と異らしめて居るのであります。此が即ち所謂人格であります。近代の自然科学は人間の精神生活
 - 第46巻 p.540 -ページ画像 
をも自然現象の連続に外ならずとして、一切を物質の一元に依て解釈せんと致しましたが、然し本多氏も先日既に申されました如く、唯物論は今日一部の学者間には尚多少の勢力はありましても、学界の大勢は唯物論に反対して理想主義の世界観・人生観を採用して居ります。而して理想主義のいふ所に依れば、人間の精神生活は決して自然現象の連続ではない、寧ろ自然を支配し統一する自立的生活でありまして常に自ら向上発展せんと努めて居るものであります。其自立的精神生活に依て我等の生活を統一したものが人格であり、其人格の持続する所に成り立つのが品性であります。もし人間に此意味の自立的精神生活即ち人格がなければ、人間と自然及び他の動物との間には何等の差別もないのでありますが、人間には斯かる人格がある。然し此人格といふものが現在の儘では自然的要素即ち感覚的要素に圧迫せられて完全に自立的活動をなすことが出来ない。其処で此人格を完全に発達向上せんがためには、自己の生活中に於ける感覚的要素を抑へ、そして単に自然としての存在物たる以上に、人格としての存在、即ち自立的の精神生活を営み得る真実の人格とならなければならぬ。斯かる人格を造ることが即ち教育の根本要義であります。而して斯かる人格は知力のみを発達せしむることに依りて出来るものでない、何となれば知力は精神生活の一部で、其全部ではない、精神生活全体を完全に働かせねば、完全な真実な人格的存在は出来ぬ。故に人格を造るを以て目的とする教育は、知力と共に感情・意志をも訓練せねばならぬことになるのであります。
 教育の目的を斯くの如きものとして考へ来りまして、次に宗教とはどういふものかといふことを考へて見ますと、宗教とは此人格の源を宇宙の実在に結び付けることであります。宇宙の実在に自己の人格を結び付けて、宇宙の実在に迄自己を向上発展せしめて之と調和融合せんとするのが所謂宗教といふものであります。之を宗教的の言葉に訳しますと、精神的生活と云ひ人格といふのはつまり霊魂であります。我々の霊魂は五尺の形骸の中に宿て居りますが、之を以て安住の地とすることが出来ないで、五尺の形骸以外に永住の都を求むる、我が運命を托すべき所を求むるのであります。又我々の霊魂は流転定まりなき此現象世界に居りますが、之には満足することが出来ないで現象世界以外に永劫究りなき無限絶対の実在を思慕し渇仰するのであります此霊魂の要求渇仰が即ち宗教心と称するものであります。前に現今の儘の人格は自然的要素に圧せられて、完全に自立的生活を営むことが出来ない、其処で人は此自然的要素を抑へて、自然としての存在以上に、人格としての存在に達せんとして努力するものだと申しましたが之を宗教の方面から見ますと、是れ即ち人の霊魂が有限の現象に満足することが出来ないで、無限絶対の実在を慕ふ宗教的渇仰心といふもので、此は人間性質の内的必然であります。何が故に人は有限の現象世界に満足することが出来ないで、無限絶対の実在を慕ふのであるかと申しますに、元来人間といふものは人間以上のもので、単に人間たるのみのものではない、人間は霊的自覚的存在者で、其霊的性質の中に有限の自然とは自ら異れる特質を有し、其あこがるゝ無限を黙々の
 - 第46巻 p.541 -ページ画像 
中に包容して居るのであります。有限なる人間の性質の中に無限を包容して居るといふのは、頗る矛盾したことのやうでありますが、決してそうでない。前にも申しました如く、人は自覚的存在者で、自ら其果敢なきこと、其有限なることを自覚して居りますが、自ら其果敢なきことを自覚する者は、真実果敢ないものではなくして、其性質の中に果敢なからざるものがある、自ら其有限なることを自覚する者は、真実有限なるものではなくして、其性質の中に無限なるものを包容して居るのであります。例之、初めより牢獄の中に在りて、曾て牢獄以外の事を知らない人は、自己の牢獄の中に在ることさへ自覚することは出来ない、自己の牢獄の中に在ることを自覚し得る人は、仮令其身は牢獄の中に在ても、既に牢獄の範囲を超越するものであります。狂人は自己の狂人たることを自覚することは出来ぬ、之を自覚することが出来れば既に狂人でない。之と同じ理由で、真実果敢なきものは、其果敢なきことを自覚することは出来ぬ。真実有限なるものは其有限なることを自覚することは出来ぬ。之を自覚するものは真実果敢ないものでも、又真実有限なものでもない、何となれば自ら果敢なきものと果敢なからざるものと、有限なるものと有限ならざる者とを判断する標準を其衷に有するに非ざれば、斯かる自覚は生ずることが出来ぬ而して斯かる標準は真実果敢なきもの有限なる者の有し得べきものではないからであります。我々は又自ら不完全なることを自覚するものでありますが、斯かる自覚は完全といふ標準に照して初めて出来るもので、完全といふ観念を有する我々は、全然不完全なものであるといふことは出来ませぬ。現実の生活こそ不完全に相違ないが、理想的可能的の方面から見れば、我々も亦完全なる存在であると言はねばならぬ。然らば此完全は何処から来たのであるか、無限の性質は何処から得たのであるかといへば、人は此現象世界に生れ来て自然の一部分の如くなつたけれども、本来自然の一部分ではなくして、更に高い処に其源を有して居るのであります。基督教に於て、人は神の像にかたどりて造られたものだと申しますのは即ち此意味で、人は本来神より出で来りたるものであるから、其霊的性質の中には、隠然的、又は可能的無限若くは完全と称せられ得べきものを有つて居るといふことを申したのであります。基督は人にして同時に神であるといふ基督教の教義も、他の人々に在ては単に理想的可能的であつた性質を、基督自らは其一身に実現したといふことを申したのに外ならぬのであります。斯くの如く人は其性質中に可能的無限若くは可能的完全と称せられ得べきものを有つて居るのでありますから、仮令現実の有様では自然世界・感覚世界から様々の制限を受け、之がため其実生活が甚だ不完全たるを免れませぬけれども、尚何処ともなく心の深き処に無限の依稀たる残光が閃くのでありまして、此微けき残光を辿りて無限完全の性質を実現せんと努むる、此が所謂宗教的渇仰心で、此の如く無限絶対の神に何て向上発展せんとする渇望を有するは、可能的無限の性質を有する人に在ては、其性質上必然のことであります。宗教とは私の考ふる所に依れば此の如きものであります。而して教育の目的は前いへる如く人格を造るに在りとすれば、人の性質上必然有する此宗教的渇
 - 第46巻 p.542 -ページ画像 
仰心を適当に発達せしめて、人格の中に固有する無限完全の性質を実現せしむるは極めて必要であるのみならず、此宗教的渇仰心は要するに人が自然的要素の圧迫を遁れて完全に自立的活動をなさんとする努力、換言すれば、単に自然としての存在物たる以上に人格としての存在、即ち自立的の精神生活を営み得る真実の人格たらんための向上的努力に外ならぬので、此点より見ますと、宗教心を養成するといふことゝ、完全なる人格を造るといふことは、要するに同一の事柄を二つの異りたる方面から見たもので、宗教心を養ふといふことは、完全なる人格を造るといふことに外ならぬのであります。此に於て教育と宗教とは相一致するもので、又二者相助けて其目的を達することの出来るものであるといふことも出来るであらうと思ひます。
 右申述べましたる処は甚だ不十分ではありますが、教育と宗教とは其根本に於て密接の関係を有して居るといふことを、一応理論の上から申し上げたのであります。それから次に人格の中心は道徳的品性でありますから、人格を陶冶するには道徳的品性を陶冶することが先づ第一に必要であるといふことは申す迄もありませぬが、其道徳品性の陶冶といふことは、唯だ倫理・道徳の教訓を施しただけでは出来ぬ。先日吉田氏は宗教は兎角形式に囚はれ易いものだといふことを申されましたが、形式に囚はれ易いのは、宗教のみでない、否私の考ふる処では寧ろ道徳であると思ふ。現に今日の道徳といふものが形式に囚へられて居る。忠君愛国を説いて居る教育者が曾て賄賂を取て教科書事件といふものを起したり、近くは事皇室に関すれば一々毎に『恐懼に堪へぬ』と言つて忠義顔をして居つた宮内大臣が不正の事をしたといふ嫌疑を蒙つたりして居るのは、要するに従来の道徳的教育といふものが、形式に囚へられて居つた結果であらうと思ひます。其道徳の形式を生かして、忠君愛国なり仁義孝悌なりの道徳を実行せしむる力を授くるのが、宗教であります。一体人は深く自己の価値を信じ、深く自己の尊貴を信ずるに非ざれば、悪を避け害をなすことは容易に出来るものでありませぬ。故に教育には人の自尊心に訴へるといふことが極めて必要であります。ドストエフスキーは、一旦堕落して神の姿を失つた人間でも、親切な品位のある取扱を受くれば再び真人間となることが出来るが、露西亜政府のやうに囚人を鉄鎖で繋いで西此利亜に流し、貴様は罪人だぞと言つて、凡ての囚人に先づ罪人たることを自覚せしむるやうなことをすれば、彼等を感化して善良なる人間となすことは兎ても出来るものでないと言つて居りますが、能く人の心理を解したものだと思ふ。近頃米国コロラド州の少年裁判官リンゼーは、悪いことを為した少年をも罪人取扱にしないで、善人取扱にして、其罪を改悛せしむるといふことで、評判が頗る高くなつて居りますが、此は人の心の奥に触れたやり方であると思ひます。私も中学校及び専門学校程度の生徒を六百人ばかり預かつて教育して居りますが、学校の方針として、生徒の人格を尊重し、どんな生徒でも紳士扱にせよ、多少悪い生徒でも善人として扱へといふことを、教員一同に命じて置きますが、退学を命ぜねばならぬといふやうな生徒はあまり起らぬのであります。こういふ点から見て、最も強く最も深く人の自尊心に訴
 - 第46巻 p.543 -ページ画像 
へるものは宗教であります。前に申しました如く、人は自然の連続でなく、其源を高い所に発して居るものがありますが、宗教は人の根源に溯て其処迄教へる、即ち人は絶対無限にして完全なる神の性質を受けたもの、換言すれば神の子である、故に神の子らしく行はねばならぬといふことを教へて、神の自覚を与へ自重の念を起さしむるのであります。既に神の子の自覚を与へ自重の念を起さしむることが出来ますれば、悪を避け善を為さしむるといふことは比較的容易であります然し、人は本来神の子で神の像にかたどりて造られたものでありましても、現在の有様では感覚的・自然的の力が強くありまして、其本然の性を実現することは中々容易でありませぬ。故に自尊心に訴へるといふことだけではまだ不十分である、其処で宗教は又神の力と愛とを説くのであります。宗教的信念といふものは天地の大愛を信ずるので即ち人力の極まる所に神の力が初まる、神は必ず私を助けて善を為さしむるのであると確信するのであります。此確信の在る処に力が生じ勇気が生じて、遂に感覚的・自然的の力に勝つて、其本然の性を実現することが出来るのであります。道徳の根柢には此確信が必要である孔子が『知我者夫天乎』とか、『天之未喪斯文也、匡人其如何』とか、『吾誰欺、欺天乎』抔と言つて、如何なる場合にも泰然自若たることが出来たのも、要するに此確信があつたからであります。神は正義を助けて、不義を罰するといふ此信念は、どうしても道徳の根柢に必要であります。近代に於ては、天堂地獄の説は中世紀的で、近世人の信ずべきものでないと言つて、争て其の信仰を破壊したのであります。世に唱ふる所の天堂地獄説、若くは極楽地獄説の中には素より幾多の笑ふべき迷信が伴つて居る、此はいふ迄もありませぬが、天堂地獄の信念其物は中世紀的でも古代的でもない、人類的で、深く人の心裡に刻み付けられて抜くことの出来ぬものであります。世に唱ふる所の天堂地獄説の中に笑ふべき迷信があるからと言つて、どうしてこういふ観念が起つて来たかといふことを少しも研究しないで、直ちに斯かる信念其物迄を迷信として破壊するといふことは、要するに唯物的思想から来たのでありますが、今日迄の教育といふものはこういふやうに凡て人心の根柢に刻み付けられて居る観念を切り去て、唯だ行為の末にのみ走て居るから効果がないのである。勿論、学校は教育の場所で宗教を伝へる所ではないから、宗教の事を深く説く必要はありませぬが、道徳を宗教と結び付けて、其根柢を枯さぬやうにするのみならず其信念を養つて道徳的品性陶冶の資とすることが必要であります。
 序に申すのでありますが、今日迄学校に於て宗教を教育より全く分離し、宗教と云へば凡て迷信といふやうに教へた結果はどうであるかと云へば、少くも社会の一部に迷信を増長せしめたのであります。今日迷信が盛んであるといふことは実に驚くべきことで、無学な下等社会ばかりではない、相当に教育を受けて居る中等社会にも、迷信が非常に盛であります。先日或る新聞に、陸軍大学の校長某といふ人が深く姓名判断を信じて、此頃成元と改名した、成元とは元帥に成るといふ意味で、此迄の名では出世が出来ぬといふことで改名をしたのだといふことがありました。此は新聞紙の悪口であるかも知れませぬが、
 - 第46巻 p.544 -ページ画像 
兎に角迷信の盛なことは驚くべきことでありますが、此は要するに、宗教的信念を適当に養成し、発達せしめて往かなかつた結果であります。
 それから又宗教信念を離れた道徳には理想がない、あつても低い、従て又内的方面が欠けて居る。例之、名誉を重ずるといふ一点に就て申して見まする。由来日本人は名誉を重ずる人民で、此は我が国民の長所でありますが、此名誉を重ずるといふことがどうも単に人に褒めらるゝといふことで、其れ以上に理想を置いて居るのでない。所謂天を相手にするのではなくして、人を相手にしての事であります。故に日本人は名誉の戦死抔と言つて人におだてらるれば、戦死も敢て辞せぬのでありますが、其代り人が褒めなければ戦死は愚か、造作もないことでも容易にせぬ。露西亜の兵士は人の見ると見ざるとに拘はらずやるべきことはやつたが、日本の兵士は人が見て居なければ、やるべきことも容易にやらなかつたといふことでありますが、此相違は何処から出て来たかといへば、宗教的信念の有無、即ち天を相手にすると人を相手にするといふ所に関係する。名誉を重んずるといふことは大切だが、毀誉褒貶の上に超絶することは更に大切で更に高尚である、今日迄の学校教育は、凡てが人を標準としての上の教育であるから、金も名誉も生命も入らぬといふやうな人物は出来ない。
 又近来自我の観念が発達して、其結果極端の個人主義が盛んになつて来て、今日の青年男女には、何が故に自己を他人のために犠牲に供して人の利益幸福を謀らねばならぬかといふ理由が分らない、其処で犠牲は弱者のすることだとか、親に対して孝行する理由がないとかいふものさへも生じて来たのでありますが、此も畢竟教育から宗教を分離した結果に外ならぬ。一体真の自我といふものは単に主観的にのみ存在する自分自身のみではなく、世界の大自意識に客観的基礎を取つて居るものでありまして、前にも申しました如く、我には不完全なる自然の現実の状態に満足することが出来ないで、完全な充実した状態に進みたいと願ふものでありますが、完全な充実した状態に進む道は自己の生活の中に在る感覚的自然的の要素を抑へて、自立的精神生活を営み得る真実の人格となるに在るのであります。即ち克己とか犠牲とか博愛とかいふことは、自己の生活の中に在る感覚的自然的の要素を抑へるので、真の意味の自我を充実する道に外ならぬ。他人のために空しく犠牲となると思へばこそ馬鹿らしく思はれるのでありますが単に他人の為めに、空しく犠牲になるのではない、又之に依て自我を充実するのである、換言すれば高尚の理想のために、下等の感覚的要素を犠牲に供するに外ならぬと考ふれば克己も犠牲も喜んでなすことが出来るやうになる。此信念を与へるのが宗教であると思ふ。今日の青年男女の中に、極端な利己主義に走つて、人を踏み倒してもかまはぬといふやうなものが出来たのは、畢竟今日迄の教育が宗教を分離したゝめに、自我を客観的根柢から全く引離して、全然主観的なる自然的存在となしたからであると思ひます。
 それから宗教といふものは由来国家に超越するものであるから、国家的観念と両立するものでないといふ考は、従来学者教育者が一般に
 - 第46巻 p.545 -ページ画像 
抱いて居つたのでありますが、其考の誤つて居るといふことに就ては本多・吉田二氏が十分に御説明になつたので、私の言はんとする所は殆ど言ひ尽されたのでありますから、之に就ては最早私より申し上ぐる必要はありませぬ。実は私共はとくから先日本多氏の申されたやうなことを申しまして、狭隘なる国家主義に反対し来つたのでありますが、基督教徒はどうも割が悪い、新来の外国宗教を信ずるといふ所から、尊王愛国の精神に乏しいものゝやうに誤解せられまして、随分閉口いたしたのでありますが、本多氏からあゝいふやうなお説を伺ひますことは、百万の味方を得たやうに思ひまして、誠に喜ばしいのであります。猶太人は古来世に出でたる国民の中、最も優れたる宗教的天才を有せる国民なりとのことは何人も考ふる所でありますが、英国ケンブリツヂのウイリアム・ラルフ・イング博士は、猶太人は決して優れたる宗教的天才を有する国民ではない、彼等に優れたるものは寧ろ其愛国心で、而かも不健全の愛国心で、宗教心の発動と見えたのも、実は愛国心の発動に外ならぬと言つて居る。実に猶太人位熱烈な愛国心を有つて居つた人民は古来誠に少ないが、其の愛国心が如何にも狭隘固陋で、自ら神の選民と称して他国民を軽蔑し、常に排外の精神を鼓して、天下を敵として居りましたが、遂に滅亡して仕舞ひました。彼等の愛国心は所謂亡国的愛国心であります。我が国民は今日世界に於て最も愛国心に富んだ国民であると言はれて居りますが、米国や布哇に在る同胞の現状を考へて見ると、今日迄養成し来つた国家的観念といふものが、果して今後世界に存在を全うすべき国民の有すべき国家的観念であるか如何といふことは疑問である。国家には理想がなければならぬといふことは本多氏も言はれて居りますが、此理想といふものは日本を標準として立てる訳に往かぬ、世界を標準にして立てねばならぬ。昔徳川家康は死するに臨み天下の諸侯を召して、天下は天下の天下で徳川の天下ではない、秀忠もし助くべくんば之を助けよ、助くべからずんば何人にても取て代れと申しましたが、家康が徳川一家を立てやうともせずして、天下を立てやうとしたことは、徳川が十五代に続いた所以であらう。今日日本が世界に国を立つるには、国民が皆家康のやうな考になつて、日本は日本一国の存在を全うせんために存在するのではない、世界の文明に貢献する所あらんために存在するのだといふやうな、抱負と理想とを有つやうに致したいのであります。此抱負と理想とをもてば、日本人は亜米利加へ帰化することも出来る、又亜米利加人が日本人の帰化を許すことも出来るであらうと思ふ。先日吉田氏のお話の中に、皇祖皇宗を紀念するとは家の祖先を紀念するといふことにして、敬虔の情を養いたいといふお話がありました。敬虔の情を養ふといふことは今日でも必要であると思ひますが、然し祖先を崇拝することに依て敬虔の情を養ふといふことが果して出来るものでありませうか、此は疑問である。敬虔といふ文字の意義次第では如何様にも申すことが出来ませうが、宗教的の意義に於ける敬虔は驚歎、畏怖、信頼、同情及び愛の対象となり得べき霊的実在に対して初めて起り得べきもので、祖先を崇拝するといふことだけではとても右言つたやうな敬虔の念は起るものでない。今日敬虔の念がなく
 - 第46巻 p.546 -ページ画像 
なつたのは、敬虔の念を起すべき対象を度外視したためで、此は毫も恠むに足らぬ。故に国民に敬虔の念を起さしめやうとすれば、根本に溯て今言つたやうな驚歎、畏怖、信頼、同情及び愛の対象となり得べき霊的実在を教へなければなりませぬ。然し此祖先崇拝といふことでありますが、今日迄は此の祖先崇拝といふことが日本国民を団結する鍵でありまして、伊勢の大廟は皇室の御先祖であつて、同時に日本民族の祖先であるといふ処から、伊勢の大廟が中心になつて、日本国民の団結が出来たのであります。此ういふことは日本のみでない、昔の民族、例之希臘にも羅馬にもあつたことで、何れの民族も昔は祖先崇拝で国を成して居たのでありますが、或る時代に於て、それがなくなつて天地の実在を拝すといふことになつたのであります。之と同じやうに、今日迄は祖先崇拝といふことが、日本民族を団結する本で、之で国を立てゝ来たのでありますが、今後は之では日本民族の団結も発展もむづかしいのであります。其仔細は先づ第一、今日日本帝国といふものは、独り日本民族に由てのみ国をなして居るのではない、朝鮮には一千万以上の人口がありまして此が我が帝国の範囲に這入つて居るのでありますが、我々の祖先崇拝で此朝鮮人を同化することは六かしい、もし祖先崇拝を奨励するならば、朝鮮人には朝鮮人の祖先があるから、之を崇拝せねばならぬといふことになつて、朝鮮人を統治することは出来ぬ。台湾には何百万人といふ支那人が居る、土人も沢山居る、樺太には又我々と全く祖先を異にする人種が居るのでありますから、昔のやうに祖先崇拝といふことでは国家の統一といふことは六かしい。仮りに祖先を崇拝することに依て敬虔の念を養ふことが出来るものとしても、帝国の国民が挙て大和民族の祖先を崇拝するといふ訳には往かないから、つまり祖先崇拝だけでは国家の統一も出来なければ、敬虔の念を挙るといふことも出来ないといふことになるのであります。其処で今後は国家統一の上から考へても、又国民をして真に敬虔の念を有たしめやうとする上から考へても、各民族に共通の祖先肉体上の祖先ではない、霊性上の祖先即ち天地の実在に対する信念を有たしむるといふことが大切になつて来るのであります。それから今一つ、大和民族は大和民族の祖先をもつて居るから、是非崇拝せねばならぬといふことを此迄のやうに教へるといふ場合には、自分の祖先の国を棄てゝ全く他国に移住するといふことはどうも出来ない、尚更他国に帰化するといふことは祖先の国に忠を致す所以でないといふやうな点が出て来るので、海外に発展するといふことがどうも六かしくなる、其処でこういふやうな点から考へても、今後は祖先崇拝だけでは駄目である。其れ以上に各民族普遍の祖先に溯て世界万民の神を崇拝する、世界的宇宙的信仰を有つやうに教へて往くことが、国家発展の上から考へても極めて大切であらうと思ふのであります。
 以上は、学校教育に於て宗教的信念を養ふことの可なる所以、寧ろ必要なる所以を、理論上一通り申し述べたので、極めて不十分でありますが、あまり長くなりますから、此点は先づ之れだけに止めて置きまして、次に第二問即ち実行の方法に移て卑見を述ぶることに致さうと存じます。扨宗教的信念を学校教育に於て養ふことは必要の事と致
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しまして、どうして之を実行するかといふことは余程六かしい問題であります。吉田氏は先日学校に於て宗教的信念を養ふことには賛成するが、儀式其他外部的形式に依ることには一切反対するといふことを申されました。吉田氏の所謂形式とは如何なることをいふのでありますか、例之祈祷とか讚美歌を歌ふとか経典を読むとかいふことは勿論其中に這入て居ると思ひますが、神とか仏とか霊性不滅とかいふことを教ふることも、其中に這入て居るのでありますか、此辺が先日のお話では十分判然致しませんやうでありました。そして吉田氏が形式に反対する理由としては、単に形式に囚へらるゝからいかぬといふことのやうにうかゞひましたが、形式に囚へらるゝ憂があるから、形式は一切よくないといふことは、形式に反対する理由としては薄弱ではあるまいかと思ひます。前にも一寸申したことでありますが、形式といふものは宗教のみではない、人間一切の事にあるので、例之道徳にいたしても形式がある、尊敬の念をあらはす為には頭を下げるとか、親愛の情を顕はすには握手をするとかいふことがあつて、之がなければ尊敬の念をあらはし、親愛の情をあらはすことが十分に出来ぬ。併し之が又形式に流れるといふことがある、尊敬の念がなくとも頭をさげる、親愛の情がなくても握手するといふこともある。式場で恭しく教育勅語を捧読した教育者が、帰途酒楼に登て乱酔したといふことは決して珍らしい例ではない。此等は何れも形式に囚へられたものだが、我々は之がため道徳上の一切の形式に反対することは出来ぬ。之と同じやうに、宗教にも形式に囚へらるゝといふことがあります。キリスト直伝のユダヤ教抔は全く形式に囚へられて居つたので、キリストは『嗚呼禍なる死学者とパリサイの人よ』と言つたやうな厳しい調子で攻撃致しましたが、『此も廃す可らず、彼も亦棄つべからず』と申しました。真の精神に伴ふ形式は必ずしも排斥すべきものでないと思ひます。
 それから又今は宗教の必要は十分認めて居りましても、今日既成宗教に対しては不満足である。宗教其物には賛成であるが、既成宗教には反対するといふものがあります。そして中には既成宗教を廃して新宗教を樹立せよと迄論ずるものもあります。今日の宗教が其教義に於ても、其儀式に於ても時代に後れて、とても人心を満足することの出来ぬものがあるといふことゝ、又僧侶、伝道者といふものが無学であるとか、無気力であるとかいふことも事実であります。私は既成宗教の中に這入つて居るものでありますが、素より之に満足して居るものではありませぬ。然し今日既成宗教に対して為す所の非難には随分無理な非難がある。自分は曾て宗教的経験をもつたことがない、従て宗教の性質をよく領解して居るのではない、唯だ局外傍観者の地に立て僧侶の腐敗とか伝道者の無気力とかいふことを見て、既成宗教は駄目であると一概に非難する。之はどうも無理であると思ふ。一体宗教といふものには教祖、教義及び形式の三者が伴ふべきもので、此三者がなくしては完全の宗教は成り立つものでない。勿論個人的教祖なくして起つた国民的宗教がないではないが、斯る宗教は宗教としては微力不完全で殆ど論ずるに足らぬ。有力なる宗教には必ず偉大なる人格が
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教祖になつて居る。故に新宗教を樹立するといふことは、偉大なる人格が出でゝ初めて出来ることで、学者が言辞を以て論出し得べきものでない。又偉大なる教祖といふものも、実は自ら新宗教を樹立したのではない、新宗教を樹立しやうといふやうな考は、自分ではもたなかつたのではあるまいかと思ふ。例之釈迦に致しましても、仏教の教祖ではありますが、仏教の教旨と婆羅門の教旨とは全く没交渉のものではない、或意味から云へば、釈迦は婆羅門教の改革者といふことが出来ようと存じます。キリストに至ては自ら『我れ律法と予言者を棄つるために来れりと思ふ勿れ、来りて之を棄つるに非ず、成就せんため也』と言つて居る。彼はユダヤ教の中に生れ、ユダヤ教の中に育てられたので、当時のユダヤ教が腐敗して居つたから之を改革したので、其改革せられた宗教が、キリスト教と呼ばれたのであります。回教も同じことで、モハメツトはキリストと同じ意味でユダヤ教の改革者であります。孔子は勿論宗教の教祖ではありませぬが、彼も『述而不作信而好古、窃比於我老彭』と言つて尭舜を祖述し、文武を憲章したのであります。斯くの如く古の聖賢でさへ、妄りに既成宗教を非難して自ら宗教の開祖となることを求めない、唯だ久しい間に附け加へられた、誤謬や腐敗を廓清して、古宗教の真精神を発揮せんことを求めたのに過ぎないのであります。去れば今日既成宗教は駄目だといふやうに、頭から罵詈悪口を加へて得々たる人は、古聖賢の真意を解したものでない。トルストイは『宗教のことを説くに言辞を以てするは不当なり、宜しく涙を以てすべし、もし此の涙なくば宗教の事を談ずる勿れ』と言つて居りますが、宗教の真味真相は経験と之より生ずる同情がなければ分るものでない。曾て既成宗教の何物たるやを十分研究したることなく、之に対しては寧ろ門外漢であつて、唯だ目に見ゆる弊害のみを見て、此れでは駄目だといふのみでは、問題は永久に解決するものではありませぬ。
 其れで一体勢力を維持して往くことの出来る宗教といふものは、自ら改革する力を其中にもつて居るものであります。マコーレー卿は曾て基督教の今日に至る迄、其勢力を維持する所以を論じて、屡々改革せられたがためであると言つて居りますが、基督教には自ら改革する力がある、そして今日に至る迄幾度か改革せられ、現に今日も尚改革せられつゝあるのであります。例之第四世紀にはアウガスチンが出た中世紀にはベルナール、フランシス、ドミニコス、ロヨラ等が出た、それから羅馬教会の腐敗するに至てフツス、サボナロラ、ウイツクリツフ抔が所在に起つて、陳勝・呉広の役を務め、ルーテルが起て漢高の業をなしました。然し基督教の改革はルーテルに至て終つたのではありませぬ、第十八世紀にはジヨン・ウエスレーが起て英国を中心として一大改革をなしたので、爾後今日に至る迄改革者は常に絶えないシユライエルマツヘルの感情を主とした宗教は冷かな理性を基とした宗教に対する改革で、リツチユルの『キリストに帰れ』といふ声は、生命のない独断説に対する改革である、又クリスチヤン、バウエル其他の聖書の歴史批評は、聖書の誤つた権威説に対する改革で、此外実際の方面にはロボルトソン、ビーチヤー、スポルジヨン、ブツシネル
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パーカー等何れも一種の宗教改革者で、基督教は此等の人々に依て時代と共に進歩発達して居るので、第二十世紀の基督教は、第十八世紀の基督教とはいふ迄もなく、第十九世紀の基督教とも違つて居るのであります。唯だ此改革といふものが、昔のやうに血を流すといふことがない、平和の中になされて往くので、注目を惹くことが少ないのであります。勿論今日の基督教の中には、尚幾多の改革を要すべきものもあるのでありますが、之を以て単に中世紀の遺物のやうに考へて之に反対するならば、此は基督教の現状に不案内なものと言はねばならぬ。凡そ改革といふものは、自分が其中に身を投じて初めて出来るもので、局外に立つて傍観し批評したのみで出来るものでない。宗教といふものが真に人の信奉すべきもので、又国家社会のためにも必要であるといふならば、而して既成宗教が不満足で、之ではとても駄目であると見るならば、先づ其の中に身を投じて、十分研究する、研究するのみではない、自分で経験をする、トルストイの所謂涙を以て宗教を説くことの出来るやうにならんことを努むるといふことが、真面目なる学者の取るべき態度ではあるまいかと愚考するのであります。
 話が少しく横道にそれましたが、本にかへつて、如何にして学校教育に於て、宗教的信念を養ふことが出来るかといふ問題であります。私は宗教的信念を養ふ上に於て形式の必要を認むるものであります。例之祈祷をするとか、讚美歌を歌ふといふことは、宗教的情操を養ふために、極めて必要であります。祈祷、讚美は宗教の真髄ともいふべきで、之なくして宗教はあり得べきものではない。随て之を形式に顕はすといふことは、宗教としては極めて必要であります。然し我国には幾多の宗教があつて同一の形式を用ゆることが出来ぬ。故に宗教としては此等のことが如何に必要であつても、官公立の学校に於て之を行ふといふことは、勿論出来ないのでありまして、此点に関しては何人も異論はない。然し官公立学校に於ても、宗教上の根本的観念を与へるだけのことはせねばならぬ。之を与へなければ宗教的信念を養ふことの出来やう筈がない。其宗教上の根本観念といふのは、各宗教に共通して居る普遍的観念でありますが、宗教に於ける普遍的観念といふのは、各種の宗教より其相互に異なれる特質を取り去り、後に残つた凡ての宗教に普通なる観念の意味ではない。真実の意義に於て最も人類的なることは、野蛮人と文明人とに有せる処のものでなくして、却て文明人をして野蛮人に異ならしむる所以であります。之と同じく真実の意義で、最も真理なる宗教的観念といふのは、最も進歩発達した高等なる宗教の特有する観念であります。其はどういふ観念であるかと申しますれば、
(一)神の観念 先づ第一は神の観念であります。神といへば神道又は基督教の観念となり、仏といへば仏教の観念となるから、官公立学校で神の観念を与ふることは六かしいといふ異論もありませうが、学校の生徒に対しては基督教では神と云ひ、仏教では仏と云ひ、又哲学上では絶対とか本体とか真理とかいふが、つまり天地には目に見ゆるもの以外に見えぬものがある、即ち天地の大原因たる霊的存在があるといふことを教ふるのであります。
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(二)天命又は摂理 それから之に関係して天命又は摂理といふことの観念を与へる。宿命論といふやうな色のついた思想を教ふることはよくないが、此世界には人の運命を支配する力があるといふことを教ふることは必要であります。
(三)道徳と幸福との関係 それから道徳と幸福との関係、幸福を求むるために善をなせと教ふるのは間違であるが、道徳を行ふものには幸福が伴ふものだといふことを教ふるのは大切であります。物質上の幸福必ずしも粗末にすべきものではないが、更に大切なるは精神的の幸福で、精神的の幸福は人を相手にせず天を相手にすることに由てのみ得らるゝものだ、といふことを教へることが必要であります。
(四)霊性の不朽 人は肉体以外に霊性をもつて居る、此霊性は不朽で、死は万事を了るべきものでない、肉体の修養も大切だが、霊性の修養は更に大切であるといふことを教ふることが必要であります。
 少くも此丈の根本的観念を与へなければならぬ、而して之を説くには、経典の中から格言を引いて之を深く其心理に印象せしむることが必要であります。それから殊に古今東西の宗教家又は宗教心の篤かつた人々の伝記又は逸事を教ふることが宜しい。釈迦、基督は申すに及ばず、其直接の弟子の事や、基督教ではアウガスチン、アシヽのフランシス、ルーテル、ウエスレー、仏教では聖徳太子、弘法大師、法然親鸞、日蓮といつたやうな人のことを教ふる。之を修身書又は読本の中に書いて教ふるが必要と思ひます。何しても今日迄の教育は全く宗教を度外視したので、信教の自由といふことを、如何なる宗教を信じてもよいといふのではなく、宗教を信ずるも信ぜざるも可といふやうに解釈して居るのであります。否寧ろ宗教は信ずべきものでないといふやうに一般が思つて居るのであります。どうか此非宗教的思想の傾向を転じて、一般に宗教的信念を養ふやうに致したいと思ふのであります。
 それで序に申して置きたいと思ひますことは、欧米諸国に於ける宗教教育のことであります。欧米諸国に於ては、宗教を教育より分離する傾があるといふことは、一般に言はるゝことでありますが、之には多少誤解がありはせまいかと思ふのであります。欧羅巴に於ては、宗教が教育より分離する傾があるといふことの例としては、何時でも仏蘭西が引かれます。仏国が千八百八十二年以来、教育から宗教を分離したといふことは確かな事実でありますが、此は政教分離を行ふた結果で、要するに羅馬教の手から教育の実権を奪ひ取つたといふに外ならぬ。国家が羅馬教会の手から教育の実権を奪ひ取て、宗派的拘束を免れたことは、仏国に取ては大なる進歩と云はなければなりませぬが然らば仏国の公立学校の倫理教育は全然非宗教的かといふと、決してそうでない。ジヤネー氏は仏国の倫理教育に関する課程を制定するに与て力ありし人でありますが、同氏は同国の倫理教育に就いて述べて『吾人は必ずしも宗教と倫理との根本的関係を分離せしめんとするものでない、換言すれば、人心に奥深く潜める信仰を破壊し、又は良心の権威を擾乱せざる範囲に於て、此両者の分離を謀らんとするのである。新教育の最も重大の意義を有する所以は此処に在るのである』と
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言つて居る。故に同国中等教育の倫理科の課程には家族、社会、国家及び自己に対する義務の外に、宗教的義務と云ふ項目があつて、宗教的感情より為した道徳的行為、道徳と幸福との関係、神及び未来の生活等に就て教ふることになつて居ります。勿論仏国には一面羅馬旧教の如く頑固々陋な精神が盛なると共に、他面には極端な反宗教的の思想もありますが、宗教を教育より分離したのは羅馬教の束縛を破つたといふだけで、宗教心の涵養を無用としたのではない。然し学校から羅馬教を逐出して彼の倫理教育が完全であるかといふと、必ずしもさうでなく、世間から種々の非難を蒙つて居る訳で、つまり宗派を離れた倫理教育の実蹟如何は試験中であると言つて宜しい。之が新しい世界の趨勢であると諭ずるのは大早計であります。
 それから英国でありますが、英国は御承知の通り大中小学が大抵宗教学校であります。少数の公立小学校がありますが、多数は教会の管理の下に経営せられ、宗教教育は教育の最も重なる部分となつて居ります。中学校、師範学校は何れも宗教学校で、師範学校の如きは、其生徒を採用するに品行と共に宗教的信仰を第一の条件として居ります先年同国に於ては教育法改正案が議会に提出せられ、世論が頗るやかましかつた。改正案の要旨は小学校の管理を教会より離し、之を公選にて選出する教育委員の手に委ね、学故にて宗教を教へても、一宗一派の教義信条を教へてはならぬことにするといふ点に在るのであります。それで非国教徒は挙て改正案に賛成したのでありますが、国教徒と保守党は猛烈に之に反対した。反対したといふのは、単に宗教的信念を養ふといふやうな漠然たることで、教義信条を教ふることをせんければ、実際に於て宗教的信念を養ふといふ目的を達することは出来ぬ、故に此改正案を実行すれば、其結果倫理教育の基礎を危くするより外はないといふ心配があつたからで、遂に此案は下院を通過したが上院で否決せられて、未だ実行を見るに至らぬ。英国に於て宗教教育が、教育上如何程重要視せられて居るかといふことは、此一事でも推知せらるゝのであります。
 其他の諸国に就ては一々委しく述ぶることは出来ませぬが、極めて簡略に申しますれば、独逸の各聯邦に於ては、一定の修身科といふものが普通教育にはない、宗教教育が道徳教育に代つて居る。そしてプロシヤでは宗教の教師は必ず、生徒たる児童と同宗派の信徒でなければならぬといふ規定になつて居る。それから和蘭、那威、丁抹の諸国に於ても、宗教教育が倫理教育に代て居る。それから学校に於て倫理と宗教とを併せ教ふるといふやうな制度を取つて居るのが、白耳義、墺太利、匈牙利の諸国で、此等の諸国の小学校では、各々異れる宗派的信仰の管理の下に、其派の牧師が宗教教育を施して居る。それから非宗派主義を実行して居るのが、瑞西、伊太利及び北米合衆国であります。然し此等の諸国は非宗派的で、一宗一派の教義を学校で教へないといふだけで、非宗教的といふのではないから、宗教を倫理の基礎として、神に対する義務を説き、神の存在を信じ、神を愛し、畏れ、敬すべきこと、之を礼拝すべきこと等を教へて居るのであります。而して此等の諸国に在ては、学校以外に宗教的信念を養ふ機関が備つて
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居るのであるといふことは記憶すべきことであります。
 其処で、外国人が日本では学校教育より宗教を分離して居ることを羨んで居るといふことも、どうも欧米諸国では宗派が多いので、学校で宗教教育を施すことが六ケしい、日本では其困難がないやうに見えるので、無宗教が羨しいといふのではないので、今日我国に於ける無宗教の有様を見たら、あまり羨しくもあるまいと思ひます。兎に角、欧米諸国に於ける宗教教育の有様は、以上ざつと述べた如くでありますが、先づ日本では瑞西、伊太利、北米合衆国の例に做つて、官公立学校の普通教育に於ては、単に倫理の基礎として宗教的信念を養ふ点にするといふのが、最も実行し易い方法であると思ひます。然し今日の有様では、之が六かしいといふのは、教育者と云ふものに宗教的信念がない、宗教的信念のないものが宗教的信念を人に与へることは出来ぬ。道徳的宗教的感化は是非人格に待たねばならぬのでありますから、先づ第一に宗教的信念を有つて居る教育者を造ることが差当り急務である。どうも今日の教育者といふものは信念も理想もない、実に俗のものでありますが、之を先づ教化せねばならぬ。其処で私は高等師範学校及び各府県の師範学校に宗教科の一科を入れて、毎週少くも一時間、神儒仏三教の教師を一人づゞ聘用して、各其好む所に従て講演なり説教なりを聴て、宗教の大体に通ずると共に信念を養ふといふことにしたいと思ふ。斯くすれば、其中には、信念の高い教育者も漸次出来て、教育界の空気が宗教的になるやうにならうと思ひます。
 それから今一つ大切なるは、宗教主義を基礎として立てられたる普通学校に、明治三十二年文部省訓令第十二号を適用せぬやうにすることで、此事は是非共至急にやつて貰ひたい、帰一協会などで運動することが出来るなら幸であると思ふ。
 然し学校だけ宗教的になつても、社会が宗教的でなければ駄目であります。其処で私は、
(一)日曜学校 を盛にしたいと思ふ。此は現に基督教でやつて居りますが、今日迄は兎角教育者が邪魔をして困る。之を奨励し発達するやうにしたいと思ふ。
(二)日曜日 を宗教的修養の日とせよ。教会では現に之をやつて居るが、どうも今日では此日が、単に休息の日となり、娯楽の日となつて居る。今少し宗教的の意義を含ませるやうにしたい、此日に他の目的の会合をしたり、或る俗の目的に陥るやうなことをよしたい。
(三)学者・思想家 のいふことは非常の感化があるから、不謹慎の言説を戒むると共に、宗教的思想を鼓吹するやうに致したいと思ひます。
 此熱い時に非常に長いことを申し上げ御迷惑の段は偏に宥恕を願ひます。