デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.635-639(DK460159k) ページ画像

大正8年1月31日(1919年)

是日栄一、中央亭ニ於ケル当協会主催、添田寿一渡欧送別会ニ出席シ、送別演説ヲナス。越エテ二月四日正午日本倶楽部ニ於ケル同倶楽部主催、午後四時帝国ホテルニ於ケル大日本平和協会主催、同七日正午東京商工会議所ニ於ケル同所主催ノ各送別会ニ出席シテ、送別演説ヲナシ、更ニ同夕東京銀行倶楽部ニ於テ栄一主催ノ小宴ヲ催ス。


■資料

集会日時通知表 大正八年(DK460159k-0001)
第46巻 p.635 ページ画像

集会日時通知表 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
壱月卅一日 金 午後四時半 帰一協会催
              添田寿一氏送別会(海上ビルノ中央亭)
   ○中略。
二月四日  火 午後三時 大日本平和協会催
             添田寿一氏送別会(ホテル)


渋沢栄一 日記 大正八年(DK460159k-0002)
第46巻 p.635-636 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年         (渋沢子爵家所蔵)
一月三十日 降雪 厳寒
○上略 午前十時姉崎博士ヲ帝国大学ニ訪ヒ帰一協会ノ事及同氏欧洲行ノ事ヲ談ス○中略 十二時半大隈侯邸ニ抵リ、添田氏欧洲行ノ送別会ニ出席ス○下略
一月三十一日 曇 寒
○上略 午後五時、中央亭ニ開催スル帰一協会主催ノ添田寿一氏欧洲行送別会ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス、来会者中姉崎・頭本・添田・山田本多日生師・浮田・塩島氏等ノ演説アリ、畢テ夜十一時帰宅○下略
   ○中略。
二月四日 晴 寒
○上略 正午日本倶楽部ニ抵リ、添田博士欧洲行送行会《(別)》ニ出席ス、一場ノ食卓演説ヲ為ス○中略午後四時帝国ホテルニ抵リ、平和協会会主催ノ添田氏欧洲行送別会ニ出席シ、一場ノ演説ヲ為ス○下略
   ○中略。
二月七日 晴 寒
○上略 十二時東京商業会議所ニ抵リ、添田寿一氏渡欧ノ送別会ニ出席ス食卓上一場ノ別辞ヲ述フ○中略 午後五時半銀行倶楽部ニ抵リテ、添田氏送別会ヲ開ク、来会者十余名許リナリ、今井五介氏モ来会ス○中略 銀行
 - 第46巻 p.636 -ページ画像 
倶楽部ノ宴会ハ午後九時散シテ帰宿○下略
   ○中略。
二月十二日 晴 寒
○上略 午前九時中央停車場ニ抵リ、添田博士ノ渡欧ヲ送別ス○下略
   ○中略。
二月二十一日 曇 寒
午前八時起床、入浴ヲ見合ハセ洗面シテ朝食ス、宿痾朝来快方セシニ付、今日ヨリ外出ヲ試ントセシモ、食後験温スルニ尚数分ノ熱気アルヨリ止ムヲ得ス出勤ヲ止メ、今夕ノ帰一協会モ姉崎博士ニ書通シテ欠席ヲ申遣ハス○下略


(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正八年(DK460159k-0003)
第46巻 p.636 ページ画像

(阪谷芳郎)大日本平和協会日記 大正八年
                  (阪谷子爵家所蔵)
○八年二月四日帝国ホテルニテ内外人添田氏送別
 阪谷・島田・添田・宮岡、ボールス、ケリー等意見ヲ述フ
○中略
 (此日余ハ祝物ニ一書ヲ添ヘ添田氏ノ出発ヲ祝ス)
(欄外記事)
[阪谷・渋沢・添田・マコーレー演説


東京商業会議所報 第一一号大正八年三月 ○添田博士送別午餐会(DK460159k-0004)
第46巻 p.636-639 ページ画像

東京商業会議所報 第一一号大正八年三月
    ○添田博士送別午餐会
東京商業会議所に於ては議員添田博士渡欧に付き、送別のため二月七日正午午餐会を開催せり、杉原副会頭の開会の挨拶に次で、来賓渋沢男爵・京都商業会議所会頭浜岡光哲氏の送別演説あり、終りに添田博士の答辞あり、一同歓を尽して午後二時散会せり
○中略
    渋沢男爵演説
今日当席の御招ぎを受けましたに就きまして一言御挨拶旁々申上げます、何か私が深い考へを有つて申上げるが如く御申付でございますがそれ程私は大なる意思を備へて、何か遠大の考へがあるが如く思召されては甚だ困るので、評判程でないと云ふ事を御承知を願つて置きたいのでございます
是は寧ろ添田君より言ひ出された事が元へ戻つたやうな事実でございます、現に諸君は御覧でありませうが、一・二度報知新聞の社説に渋沢をやつたら宜からうと云ふやうな事が書いてあつたやうに私は覚えて居る、さう仰しやられたのを私は大変嬉しく思つた、添田君は私をどうか出したいと思ふて下さると云ふ事を喜びましたが、唯悲しい哉是は随分当らない話で、少し是は私を買被つて居られると思つたのであります、そこで段々お話が添田君及其他四・五の有志の間に進みまして、どうしても今度政治上の任務を以て所謂樽爼の間に折衝し若くは経済上の間に付てお出で下さるのは宜しいが、政治家若くは実業家ばかりでなしに、同じ方面に居つても、少しは思想界の事に付てどう云ふ評論が起るか、日本の人々の考へは斯様であると云ふ事を言ひ得
 - 第46巻 p.637 -ページ画像 
るお方が出て下さつた方が宜くはないか、其方面に付ても必ず英吉利亜米利加あたりからも相当の人が集まるのであるから、日本から其向の任務を有つた人が一人も行かないと云ふ事は物足らぬやうな感じが致して、私自身は役に立たぬ事は勿論でございますけれども、どうぞ言葉も通じ、事情も知り、又相当に蘊蓄ある人をお勧めしてお出で下さるやうにしたら宜からうと云ふ事を、業に既に私共考へて居りましたものですから、恰度仰しやり出した添田君、貴下こそ適当の人ではないかと云ふ事で恰度反対の望がお手に属したと云ふやうな訳でございます、話が段々進んで参つて、已むを得ぬ、さう云はれるならば果してどれ程の効果があるか知らぬが出て見やう、と云ふ事に相成つたのが今度御旅行の実は順序で御座います、是だけは一応其顛末を斯るお席に申上げるのは必ず無用でもなからうと思ふのでございます。
添田君は、私が行つた所が何物をも土産に持つて来られない、土産と云ふ事を期待して呉れては困ると云ふお申出であります、如何にも皮肉みたいに、馬の脚と仰しやられたが、馬の脚となつて項たき度ない誰も馬の脚とは思はぬのですから、無理に馬の脚たる事をお望なさらぬやうにしたいのでございます、是は皆さんと共にお願ひしたのであります、殊に今仰しやつたやうに、西洋の物質的文明が、果してそれだけで世の中の平和を完全に維持して行けるものであるか、国際聯盟の結果唯それだけで足りるであらうか、試みに今度の戦争に付て考へて見ても、今度の戦争は何ぜ起つたかと云へば詰り英吉利と独逸の経済戦争が先づ一番主眼ではないかと見えるのであるが、果して然らば扨是から先きに、唯物質文明だけを以て世界の平和を期待することは出来ぬであらう、本当に平和たらしめるには、矢張り個人個人の道徳が進み、其道徳が国体に及ぼし、弱い者は強い者に圧迫せられると云ふ観念が世界の人類から取去られなければ、真正なる国際聯盟は遂げる事は出来ない、而して其前に本尊様は如何であるか知らぬが、日本は兎に角相当に道徳の高い国民と考へて居る、此東西文明を融和せしむると云ふ事は従来添田君の持論で、此間も或る席に於て、大隈さんが唱へられて居るから、それ等の論は大隈さんが先輩のやうであるけれども、実は私が先であると云はれた、如何にも是は其通りで、東西文明を融和すると云ふのは日本国民の任務である、私も時々申しますが、添田君のお言葉に依つて度々伺つて居る、斯の如く学識共に豊富なる添田君であつて、之を馬の脚とは甚だ不満足である、御自身も馬の脚と云ふ観念はお止めなすつて、立派に名代以上の俳優になつて頂き度い、私は斯う思ふのでございます。
実は此人様の海外御旅行の送別の宴に付ては度々列席いたしましたが自から考へて見ると斯うも変つて来るかと思ふ、斯様な気が致すのでございます、又今日ほど変つた送別の宴をお設けになつたと云ふ事は無いと云ふて宜しい、商業会議所の此お催しに付ては感謝いたします自分がずつと昔を考へて見ますると、今朝も其掛物が掛けてあつたのでさう思ひましたが、慶応三年に私が欧羅巴へ行く時分に、原市之進と云ふ講道館《(弘)》の学長をして居つた漢学者がありました。其人が私の海外旅行を送つて呉れるのに書いて呉れた、それは八大家文にございま
 - 第46巻 p.638 -ページ画像 
すが、尹員外郎《エンエンカイロー》が回紇と云ふ所へ唐の帝の命を帯びて行くに付て、それを送つた、尹員外郎を送るの序と云ふ文章を書いた、其文章の趣意は、唐の天下が能く治まつて頻りに諸方の文物を入れた、併しまだ回紇と云ふ国とは交はりが厚くない。そこで員外郎《エンカイロー》を派遣する訳になりましたが、其土地も大変遠くつて、其風俗習慣、消息も分らぬ、員外郎は壮年であるけれども其任務を受けた、それ等の事は意に介する所なく其任務を果さうと云ふのである、凡そ是までの人が海外に旅行すると云ふ場合には、或は勇気を出し負けぬ気を起すけれど、或る一方から云へば始終内を顧みて、其間に少しは顧慮……左顧右眄を生ずるものである、然るに員外郎は決して左様な事はないので、実に此人は十分に任務を尽せると思つた、韓退之の文章は余り結構ではないが、さう云ふ趣意で、蓋し原市之進が私に其時其文を書いて呉れたのは、自分はまだ極く壮年でございましたけれども大変嬉しかつた、それまでは攘夷論者であつたのが海外へ行く、内を顧慮する念もなく五年の間、手一ぱいにやつて御覧に入れると云ふ事を言つてお引受けしたのであります、それを見て員外郎を送る韓退之の文章を原氏が賞賛の心で書いて呉れたと思ふのでございます、是はマア私が昔海外へ行くに付て人に贈られたる一つの故事でございますが、それから以来或は官途の方が行くとか、或は条約改正の為めとか、教育視察であるとか、種々の事でお出でになるお方をお送り申したけれども、今度添田君をお送り申す如き、経済上であるかと云へば経済上ではない、政治上かと云へば政治上ではない、学術上かと云へば学術上でもない、而して其事は此世界の大変乱の跡の欧羅巴に於ける状況は如何になるか知らぬが、表面の職分ではないが、吾々国民の大に期待する所のことで、実に絶後とも云ひ得るので確かに空前ではあると思ふ、私の今申上げた如く、五十年前左様な些細な事すら原と云ふ人が私に韓退之の文章を書いて呉れたと云ふやうな事に考を及ぼすと、実に世の中は変化して、それを贈られた渋沢が今日添田博士の東西文明を融和せしむると云ふ事の任務を有つてお出でになる其行を送ると云ふ事は、私自身も誇りとする所であります、国家の誇としても宜いであらうと思ふのであります、私は此御任務に対しても、馬の脚どころではない立派な立役者の心持をお持ち下さる事をお願ひ申すと共に、更に一つの事項を申上げたいのは、英吉利と仏蘭西でございます、亜米利加との関係は近頃相応に交通が頻繁になつたやうでありますけれども、英吉利に対しては向ふから来る人も甚だ乏しい、此方から行く人も余りない、消息を相通ずる者も少ないと云ふ有様でございます、政治上に於ては而も攻守同盟であつて、政治上の結付きはあるが、商人との関係は甚だ薄ひ、頗る冷淡であると云はなければならぬ、是は私は殊に実業家諸君の御心配を要するものではないかと思ふので、或る場合には少し形式になりますけれども、例その形を見付けて此方で団体旅行で行くとか向ふからさう云ふ人を連れて来て盛んに歓迎でもするやうに、モウ少し相互ひに足跡を頻繁ならしめたい、此会議所に於てもどうか是等に付て考へを及ぼして貰ひたいと思ひます、幸ひ今度添田君がお越しになるので、前申上げた重要の任務以外に、英吉利若くは仏蘭西には
 - 第46巻 p.639 -ページ画像 
種々なる方面に御懇親もおありであるから、政治家・実業家にも、どうか今のやうな事を考へにお加へ下すつて、何かの機会を見て或は団体旅行でも催させるとか、又は此方から行く場合には十分向ふが引受けて呉れるやうに、モウ少し交通頻繁を惹起するやうな機会をお造り下さる事を希望して止まぬのでございます
此所に今日此席に参列するの光栄をお与へ下すつた事を主催者に感謝すると同時に、添田君の行を諸君と共に送るに是非東西文明融合に付て、どうぞ此度の御旅行に於て完全に達し得られるやう、少なくとも其端緒をお開き下さる事を希望して止まぬのでございます(拍手)


竜門雑誌 第三七〇号・第七三―七四頁大正八年三月 ○添田博士の渡欧(DK460159k-0005)
第46巻 p.639 ページ画像

竜門雑誌 第三七〇号・第七三―七四頁大正八年三月
○添田博士の渡欧 青淵先生、其他実業界・学界の有力者に依りて組織せられ、主として思想問題に就き常に其研究を怠らざる帰一協会にては、今回、大戦後世界の思想が如何に変化を来すべきか、何等の拘束を受くる事なく之を公平冷静に観察するの必要ありとせる結果、会員中より右に関する観察者を渡欧せしむるに決し、添田博士先づ其任に当る事と為れるやにて、一月三十一日海上ビルデイング内中央亭に於ける帰一協会主催及び二月四日正午日本倶楽部主催及び帝国ホテルに於ける大日本平和協会主催の同博士送別会あり、阪谷男・マコーレー博士・富岡・望月諸氏内外人五十余名出席の席上、青淵先生は日米両国の昔日談より翻つて今回の講和問題並に国際聯盟等に就き所感を述べられ、又同博士に対して希望せらるゝ所ありたるが、越えて同七日正午東京商業会議所主催の同博士送別会を同所に於て開催せる際も大倉男・井上府知事・田尻市長・岡警視総監初め会議所議員百余名列席の席上、青淵先生は立つて左の如く述べられたる趣、東京朝日新聞は報ぜり。
 物質の文明は必ずしも世界永遠の平和を保持し得らるゝ要件にあらず、添田博士が東西文明を融和する意味に於て思想問題を主眼とし之を徹底的に研究調査せん為め渡欧するは、最も時機を得たる事と信ず。殊に最近日米間の関係は貿易上より、或は人物往復頻繁なる上に於ても、相当に意思の疏通を計られ居るに拘らず、日英仏間は此の点に就て及ぼざること遠き感あり。此の千載一遇の好機に於て思想上或は交通上親善を計る事は、東西文明の融和を完全ならしむる唯一の楔子なり云々。
 尚ほ同日夕青淵先生も亦、特に添田博士送別の宴を東京銀行倶楽部に催され、随伴者五来欣造氏及び山成喬六・水町袈裟六・小野英二郎・姉崎正治其の他の諸氏を陪賓として招待せられたるが、添田博士は同十二日正午横浜出帆のサイベリヤ丸にて、五来氏同伴、桑港経由渡欧の途に就けり。