デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
7款 帰一協会
■綱文

第46巻 p.717-722(DK460180k) ページ画像

昭和6年11月24日(1931年)

是日当協会、日本倶楽部ニ於テ、例会ヲ故渋沢子爵追憶談話会トシテ開催ス。


■資料

竜門雑誌 第五一九号・第六〇―六六頁 昭和六年一二月 帰一協会催故渋沢子爵追憶談話会(十一月廿四日午後四時より日本倶楽部に於て)(DK460180k-0001)
第46巻 p.718-722 ページ画像

竜門雑誌  第五一九号・第六〇―六六頁 昭和六年一二月
    帰一協会催故渋沢子爵追憶談話会
      (十一月廿四日午後四時より日本倶楽部に於て)
  帰一協会では十一月例会を、その創始者たる青淵先生の薨去を哀悼し「子爵と帰一協会に就いて」追悼談話する会とし、森村男爵司会の下に出席者二十八名会合した。左記はその懇話の内容を摘要したものである。
                   幹事 姉崎正治
 故子爵は実に本会の創立者である故、追慕の為に会合するが敢て形式に拘らず、追憶の談話会と言ふ事にしたい。それで本会の初めと子爵の御考へとを述べて見よう。故成瀬仁蔵氏が諸方面に話をしだしたのが明治四十四年の夏で、王子の邸に集つたのは、子爵(当時男爵)の外に、森村市左衛門・井上哲次郎・中島力造・浮田和民・成瀬仁蔵ギユリキ諸氏に私との八人であつた。その時子爵は次の様な話をされた。
 『日本は明治年間に非常の発達を遂げ、自分も財界に力を尽して盛世に参与したが、日本の前途について気がゝりなのは精神思想の問題である、或時一外国人が来て日本の発達について色々話した時、明治維新の精神について愛国心や倫常の事を説明した、然るにその外国人は「維新の改革は此の如き精神で貫かれたが、然らば今後の日本も同じ事で行けるかどうか、今後の社会変動に対してどうするか」といふ問を出した。この問に対して自分には的確の答が出来なかつた。その後この問題に就いて考へてはゐたが、そのまゝになつてゐた。自分としては論語を中心としてゐるが、儒教だけで人心を統一することは出来るといふ確信はどうもつかぬ、気になつてゐた時、成瀬君が訪ねて来られ、思想信仰の問題は世界の問題であるから日本丈では出来ないと言はれたので、この点では公正なる御考へを持つてゐられる皆さんの御寄りを願つて、思想界前途の事について協議したい』かくして明治四十四年七月から年末にかけて数回会合を催し段々と話が進んで行つたのであります。
 その間には色々と話がありましたが、子爵の御考へは次の様でした即、社会の先導者たるべき人が集つて議論をすると必ず立派なものが出来るだらう。色々のものから精髄を引き抜き、これを以て衆を率ゐればよからう、と言ふのでした。が私は、思想信仰の問題は一切信仰の根柢をつきとめてかゝらなければ分らない。引き抜いたり寄せ集めたりした信仰の如きものでは力がない。重点を何処におき、何を先に考へるかが問題である、と申しましたが、かくして特別のものを作るよりも互ひによく長所を認め合ふ、万法帰一(又万徳帰一)の精神から帰一協会Concordiaとしたのであります。即、人生の根本に対する帰一の精神と言ふ点に眼目を置いた。而も宗教丈の帰一ではなく精神問題に心をよせるものは、その仕事の何たるを問はず集つてこの問題を討議する、諸々の宗教の持寄りだけでなく、人生全般、社会生活に亘つて思想の交換所である。自ら自分の主義信仰を宣伝するのでは
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なく、銀行業務には各々銀行の外に清算所がある様にしたい。階級・職業・人種・国籍・宗派の別を超えて人生問題の清算をする様にしたいといふ考であつた。
 それから阪谷氏や穂積氏等十四、五人の方に来ていたゞき、明治四十五年の初に基礎が出来、初めて七、八十人の方に招待状を出した次第であります。
 その中の一人大内青巒氏は、帰一協会の趣旨は誠に結構であるが、下手すると折衷に堕するおそれがある。一つの宗旨をつくらんとするのであればそこには危険がある。瘤を取らんとして瘤を加へるもの、と言はれた。これはいゝ批評であつた。子爵も成るほどそうだと云はれた。その他には、外間から讒謗もありました。が、そんなものには耳をかさず、会の趣旨に従つて問題の討議をなす方には入会していただき、段々と会が発展して行つた。大戦中は私は外遊の為服部博士に幹事をしていたゞき、万事を御願ひいたしました。
 こうした間に色々の案が出ました。
 先づ国際的と言ふ事に就て、成瀬氏は会の成立と共に世界を周り、米国では、子息グリーン氏が幹事となり、同様の会を作り、英国ではLeague of Religionsと言ふのが出来、独乙でもオイケンを中心に一つのGesellschaftが出来て、いくらか本会と似た考へに基くものが出来た。又父グリーン氏は日本に居て、事実を国際的にする意味からかゝる精神問題の討議に当つての国際的共同研究所の必要を力説されその設計案もあつたが成立はしなかつた。併し今日では日仏協会・日独文化協会・日土・日波等々の会が成立してゐるが、それが各々別になつてゐるのは遺憾である。
 又国内での基礎を固めなければならぬとの立場から、各人が単なる討議丈でなく、魂を打ち込んで、坐禅をする位の覚悟を以てしなければならないとの主張があり、私は灵源堂と言ふのを作らうとした。阪谷氏などもこれに賛同したのですが、此もそのまゝになりました。
 更に帰一協会での別動隊として、成瀬氏は渋沢子や森村翁と共に自助会と言ふのを作らんともされた。
 その後教育と宗教の問題に関して文部省に建言し、又社会問題に関するものをもなしたのでありますが、近年はこうして会合を開き講演と討論とをしてゐますが、本来の精神に副ふだけの活動の出来ないのを遺憾に存じます。而して思想界多事の今日、協会の主動者であつた青淵先生を失つた事は一層の恨事であります。今後、子爵の精神を継続し発達する様に、諸君と御協議を進めたいと存じます。
                      諸井六郎
 私は渋沢先生の郷里の近所の者で、親戚にもなりますので、十四歳の頃から先生の門に出入し、その高潔なる人格を欣仰してゐますが、先生生存中の訓話や臨終にあたつての御様子などは、今更の様に新なる意味を有し来るのであります。
 先生は論語中心主義の方で、真の安心立命は天命にあると信ぜられ死生の巷に臨んでも、天が然らしむるとの観念から、何等の苦痛も不安も起らないと始終申されてゐました。
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 先生が今回の重患から病床中更に臨終迄の御動静を考へて見ると、誠にこの天命に安ずると云ふ大道を須臾も離れたことがないと感ぜられるのであります。更に先生の薨去された十一月十一日は、世界大戦の休戦条約の締結せられた平和記念日でありまして、毎年先生もラヂオを通じて平和記念の放送をされてゐたのであります。この日に御亡くなりになつたことも、先生としては御満悦の事と存じます。又先生は私に対して限りない親愛の情をよせられてゐました。秋霜凜烈、充実、緊張、こういふ心持で粛然と吾が国現下の状勢をひきしめたいとは先生の念願でした。また先生は万花凋落の秋に菊のひとり気高いのを貴ばれて、園中晩香廬の詩を賦せられました。
  葉落梧桐樹影長 纔看楓柏帯微霜
  任他園哀秋若淡 只有黄花晩節香
 這回の先生の病床には香り高き菊花が枕頭を飾つて居りましたが、皇太后陛下には特に菊花の御下賜があり、「明治節の佳き日に心静かに眺めよ。」と仰せられ、先生は感激の余り身を起して明治神宮を遥拝せられたと聞いてゐます。
 次に先生の病中から臨終の間に於ける、死そのものに対する態度には敬服せずには居られません。這回の大患の時にも「死ぬのは病気のせいで、私のせゐぢやない。」と申された相です。又一度危篤を伝へられた二日前、即拾月廿九日には、枕頭に近親を集めて陶淵明の帰去来の賦を一気に暗誦して聞かせ、「自分の心境はこれを出でない」と悠々超越の境地を語られたとの事です。
 元来先生は常に童顔で、曾て屈托顔をされた事がない、あれ程の重患でも何の変化もなく、又看護の人々に叱言など少しも言はれず、全く天の一角に光明を認めてゐる如き様子であつたそうです。更にあれ程四十時間も危篤状態が持続し、その間の脈膊、呼吸、語調、意識等の順調であつた事などは、実に驚歎の外ありません、かゝる先生の非凡なる驚異すべき体格は、勿論生れつきではありますが、六十歳以後に於ける御摂生からも来てゐると思ひますが、天命に安んじて、つとめて心の平静を保たれたといふ事が、最も大切の原因であつたと考へます。
 次に先生の社会奉仕に対する満身の努力とその成績とは、今更申上るまでもなく満天下の周くしられる所であります。蓋しこれは先生の論語信念から流露した自然的帰結であつて、先生にとつては生命であつたのであります。
 先年自分がアデンス市にゐた時の、実業公論の先生の新年所感には今も尚感激して読んで記憶して居りますが、何処までも天命に安じて社会公共の為に尽したいとの御意見でした。
 熟ら先生の一生を通観すると、与へんが為に生きてゐたのである。先生のされる事は悉く世の為、人の為を動機としてゐたのであります今回の病中熱の為に嘘語された事がありましたが、養育院の事や満洲問題等の公の事のみで、未だ一語も私事には及ばなかつた由、実に先生の社会奉公の熱誠は死の刹那まで活躍してゐたのであります。畏くも御沙汰書を賜はり、その一字一字を味読するならば、先生の一生と
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精神とが躍如として含まれてゐますが、特に「社会人の儀型」といふ一句は、誠に簡明に先生の全人格を表してゐると感激致します。
 先生の葬儀は実に簡素なものであります。併しその社会葬の如き観は誠に先生の徳を示して余りあるもので、青淵渋沢先生の九十二年の生涯は実業界のみならず精神界に偉大なる貢献をなし、その高風清節は永く後世をして欣仰の一大光明たるべきものであり、殊に精神問題の討議を目的とする帰一協会にとつては、この渋沢子爵の死は色々の重要なる意味を有し暗示を与へるものであると信ずるのであります。
                      内藤久寛
 私は故子爵からの御話で本会に入会したのでありますが只今姉崎幹事の本会の成立の事情や諸井氏の御感想を承つて誠に同感の至りであります。今後も故子爵の精神を継いで進まれたいと希望いたします。
                      服部宇之吉
 姉崎幹事の在米中幹事の役をいたしましたが、その事で思ひ起す事は、帰一協会の本来の目的に就いて色々議論の出た時に、或人が「帰一しないといふ事だけ帰一してゐる」と冷かし半分の言を弄したのであの温厚な子爵は只一度多少憤慨の御句調で、もつと真面目に考へてほしいと云はれた。それ程子爵はこの帰一協会に対して熱心であられたのであります。
 次に本会とは直接の関係はないのでありますが、震災で聖堂が烏有に帰したので、早くこれを復興しなければならぬが、斯文会の力だけでは出来ない。聖堂復興期成会と云ふのが出来て、子爵には色々と御骨折を願ひました。今日では資金も殆ど集まり最早着手の運びになつて居ります。子爵も大変御配慮になつてゐて下さつたし、亡くなられるまで心におかけ下さつた事の一つで、御生前に復興に着手し完成することの出来なかつたのは誠に残念でありますが、子爵の志を継いで早く達成したい希望であります。これも論語―孔子―聖堂と来るので帰一協会とは間接の関係はある訳であります。
                   幹事 姉崎正治
 国際方面での追憶として、国際聯盟協会の事ですが、一九一九年パリの平和会議の時、添田寿一氏・秋月左都夫氏・海老名弾正氏等と一緒にパリで会合して話を始めたのですが、その旅行に出発の時、丁度この時子爵は肺炎が大分お悪く、親しく病床で色々お話をしましたが世界平和の鍵がパリにあるのだから、其方に行くについての注意を懇懇承はりました。その時七絶二首を餞別にいたゞきました(それは後に火事でなくなつて甚だ遺憾)、その時の言も詩も多少遺言といふ様にもきこえ、私も或は永のお別れになるかと思つて出発したのです。兎に角、それから帰つて国際聯盟協会の創立が出来たので、私から見ると、此も帰一協会の精神の派生の様に考へられる。
  ○右会ノ出席者左ノ通リ。
   姉崎正治・秋月左都夫・相原一郎介・赤松秀景・土肥修策・服部宇之吉・堀越善重郎・補永茂助・穂積重遠・神崎一作・窪田静太郎・松井茂・間島与喜・宮岡恒次郎・水野錬太郎・諸井六郎・森村市左衛門・成田勝郎・内藤久寛・大村桂巌・尾高豊作・関寛之・高木八尺・津田敬武・時枝誠之・友枝高彦・矢野茂・矢吹慶輝・頭本元貞・神林隆浄・岩野直英・加藤精神
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麻生正蔵(竹園賢了報告ニ拠ル)。



〔参考〕国際知識 第一二巻第二号・第二三―二六頁 昭和七年二月 帰一協会と故渋沢子爵 本協会理事 法学博士下村海南(DK460180k-0002)
第46巻 p.722 ページ画像

国際知識  第一二巻第二号・第二三―二六頁 昭和七年二月
    帰一協会と故渋沢子爵
                 本協会理事 法学博士 下村海南
 昭和六年十一月二十四日、日本倶楽部に於て、帰一協会は故渋沢子爵追憶の談話会を開いた。
 帰一協会は其の成立初期、主として上野精養軒に於て例会を開いて居る頃はかなり盛会であり、又参会者も多かつたが、其後いつも二十名内外の会員が集つて、今日に至るまで絶えず講演会を続けてゐる。自分なども此会によりて耳新しい又それぞれ専門の有益なる話を、しんみりと打ちとけて聞く事により少なからず裨益してゐる一人であるが、子爵追憶会の時は不在の為め欠席し、あとより同会からの紀要をうけとり、それもつゐそのまゝにしてゐたが、本日図らず読過して、国際聯盟協会と帰一協会との間に機縁の存するあるを見いで、こゝに幹事姉崎正治博士の談話○前掲ニツキ略スを摘録紹介する事にした。
  ○下村海南ハ国際聯盟協会理事。



〔参考〕帰一協会記事 六(DK460180k-0003)
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帰一協会記事 六            (竹園賢了氏所蔵)
  自昭和六年一月一日 至同年十二月卅一日 帰一協会収支計算書
    収入之部
一金四百七拾七円也       会費収入
一金壱円六拾九銭        預金利息
一金五百円也          渋沢氏寄附金
一金五百円也          森村氏寄附金
一金壱百八拾五円八拾弐銭    前期繰越金
  合計金壱千六百六拾四円五拾壱銭
    支出之部
一金七百参拾五円也      報酬及手当
一金百五拾弐円也       例会補助費
一金弐百五円拾五銭      通信及印刷費
一金百参拾参円弐拾五銭    雑費
合計金壱千弐百弐拾五円四拾銭
 差引
  残金四百参拾九円拾壱銭
 後期繰越金
      内訳
  金弐百参拾六円拾参銭《(マヽ)》  銀行預金
  金弐百弐円参拾八銭        手許在高
      〆
右之通ニ候也
  昭和七年一月二十六日         帰一協会幹事