デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
8款 財団法人理化学研究所
■綱文

第47巻 p.19-22(DK470002k) ページ画像

大正3年7月3日(1914年)

是ヨリ先、化学研究所設立ニツキ、総理大臣大隈重信賛意ヲ表ス。仍ツテ、是日栄一等、農商務省
 - 第47巻 p.20 -ページ画像 
付属工業試験所ニ於テ、政府側委員ト計画ヲ協議ス。偶々欧洲大戦勃発シ、是議一時中止トナル。


■資料

中外商業新報 第一〇一二八号 大正三年七月四日 化学試験所進捗 官民代表者会合(DK470002k-0001)
第47巻 p.20 ページ画像

中外商業新報  第一〇一二八号 大正三年七月四日
    ○化学試験所進捗
      官民代表者会合
全国実業家を招待せる曩日の首相邸午餐会に於て、主人公大隈伯が、輓近化学工業発達の跡に鑑み一大化学研究所設立の必要あるを説きたることは既報の如し、而して之れより先、渋沢男始め都下有数の実業家並に化学者の間に此種の計画ありて、大体の規程を定め、去る三月貴衆両院に対し建議を試みたることは又世人の熟知する所とす、彼此対照するに於て、形式の如何は兎に角とするも、近く或は同問題が新に発展を示すに至るべしとは一部の予想する所なりしが、果せる哉、三日午前十一時より農商務省附属工業試験所に於て、同問題に関係ある官民代表者の会合あり、政府側よりは上山農商務次官・岡商工局長及高山試験所長、民間側よりは渋沢男・中野武営・高松豊吉の三氏出席し協議を遂げたるが、当日は未だ第一回の会合なるを以て具体的の進捗を示さず、曩に民間有志の調査せる所に従ひ、総額五百万円の資金を以て一公益法人を組織し、該資金は政府に於て若干を補給し、他は経済界の状況に顧み機会を見て民間より募集するの大体方針のみを決定して、正午散会せり、尚ほ該計画の内容に就いて細目の決定するを俟ち、政府当局より発表さるゝ筈なりと


中外商業新報 第一〇一三二号 大正三年七月八日 化学試験所計画 資金三百万円(DK470002k-0002)
第47巻 p.20 ページ画像

中外商業新報  第一〇一三二号 大正三年七月八日
    ○化学試験所計画
      資金三百万円
化学工業試験所設置の計画は漸次具体的に進捗しつゝありて、渋沢男中野氏等六名の民間有志者は、先きに農商務省当局者と会見し意見を交換する所ありたるが、家屋・敷地・機械等の設備費として八十万円と、其後年々の経費十五万円を要する見込なり、十五万円の経費は技師の俸給を始め試験費にして、五分利還元として三百万円の資本金を要す、右の内八十万円の設備費は、農商務省に於て現在の工業試験所なり其他適当の敷地・家屋を貸与し呉るれば、必ずしも全額を要せずして済むべし、何れ遠からず是等の点に就て、更に農商務当局と交渉を重ね、該目的の遂行を期すと高松豊吉氏は語れり


竜門雑誌 第三一四号・第六六頁 大正三年七月 ○化学試験所設立(DK470002k-0003)
第47巻 p.20-21 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第六六頁 大正三年七月
○化学試験所設立 予て青淵先生が熱心主張せられ、知名実業家並に学者の賛助を得たる化学研究所設立の件は、政府に於ても其必要を認め、去月農商務省が全国実業家大会を催せる際、大隈首相は一同を早稲田の私邸に招待し園遊会を開きたる席上、官民協力して我国に大規模の化学試験所を設立し、学術の蘊奥を究め、工業の発達を図り、生産品を増加して国富を増進すべきを説きたるが、七月三日には農商務省附属工業試験所に於て、政府より上山農商務次官・岡商工局長・高
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山試験所長、民間より青淵先生・中野武営・高松豊吉の三氏出席、基本金並に事業計画等に関し種々凝議する処ありたるが、民間の計画に比し政府の計画する処は規模大なるものあり、大体一千万円の計画を樹て、民間より五百万円、政府より五百万円を支出し、官民合同して設立せんとするにありて、之れが為め、現内閣の政綱にも示せるが如く、官業にして民営に適するものは相当の時機に於て漸次民間に払下げ、之が収入を以て該試験所設置資金に充用せん方針にて、目下政府は調査を急ぎつゝあると同時に、同試験所の事業範囲に就き、農商務大蔵両省、帝国大学、学者・実業家より普く意見を徴しつゝあり ○下略


読売新聞 第一三三六八号 大正三年七月一五日 化学研究所経過 渋沢栄一談(DK470002k-0004)
第47巻 p.21-22 ページ画像

読売新聞  第一三三六八号 大正三年七月一五日
    化学研究所経過
      ▽渋沢栄一談
 日本で最も欠乏して居るのは化学上の発明である、年々莫大の正貨が海外へ流出するのも、外国の高価な発明品を買ふからである、輸入を防遏し、輸出を盛ならしむるには、其根本に溯つて理化学の発明を盛にせねばならぬ、と自分は常に考へて居た、処へ昨年米国から高峰譲吉博士が帰朝されて、頻に化学研究所の設立を唱道し、精養軒へ朝野の識者・技術者及び吾々実業家百五十余名を招待して、研究所設立に関する懇談会を開いた、其席上高峰博士が『今年は御即位の御大典もある事だから、朝野の尽力を以て、日本の為め最も必要あり学問の根源である化学研究所を設立したい、夫には桂公が 先帝陛下の御思召に依て済生会を完成した如く、化学研究所を国家的の大事業とし、政府も実業家も学者も斉しく奮発して貰ひたい』と熱心に述べられたので、自分は第一番に賛成し、成功不成功は第二の問題として、何卒設立したいと中野武営君とも相談し、席上二十余名の委員を指名した当時高峰博士の説に依ると、資金はどうしても一千五百万円か二千万円を要する、勿論自分としても相当の寄附はする予定であると云つたが、自分はそれは駄目だ、そんな巨額の金を拵へる事は不可能だし、余り声が大きいと結局成立難に終る虞があるので、精々小規模にして成立を期せねばならぬと主張し、委員中から更に高山・高松両博士等八名の委員を選んで原案を作つて貰つた、其案に依ると、最小限度としても五百万円は掛ると云ふ大体の案が纏つたから、当時の山本農相を訪ねて相談したが、容易に談の纏まらぬ内に内閣は更迭して一寸途切れた、其内大隈内閣が成立したので、首相官邸で大隈伯・大浦農相と自分と中野君の四人鼎坐で相談した結果、大隈伯が実業家招集会席上で発表されたのである。規模は特別委員の調査した案の五百万円の資金で、大部分は寄附行為に俟ち、十分政府の補助を得、財団法人として監督は政府に任せたい、其後本月三日に大浦農相官邸で上山次官岡商工局長・高峰博士・中野・高松の諸氏及び自分が集合相談した結果、政府で全国の有力家に相談して相当の寄附を集めて貰ふと云ふやうな話で別れた、化学研究所へは、大学の秀才を始め官公立試験所技師、私設会社の技師何れを問はず成る可く研究の自由を与へ、専門の研究者は終生保護して優待する考である、研究所成りても要は人物に
 - 第47巻 p.22 -ページ画像 
在る、研究所は金に依つて成立は不可能ではないが、人物の払底は第一の難関ではないかとも思はれるが、成功不成功は将来の問題で、今日は研究所の設立が最大急務と信じて居る次第である



〔参考〕中外商業新報 第一〇一三七号 大正三年七月一三日 化学試験所経費 民間の応募如何(DK470002k-0005)
第47巻 p.22 ページ画像

中外商業新報  第一〇一三七号 大正三年七月一三日
    ○化学試験所経費
      民間の応募如何
化学試験所設置問題に関し、民間代表者の一人として当局側と会見せる中野武営氏は語りて曰く、既に第一回の会見は果したるも、資金の総額並に政府の補給額等に就いては未だ決定を見ず、只政府が一時的の剰余金を保有する今日の好機に於て之を設立するは最も策を得たるものとなし、之が為めには一方の出資者たるべき民間の富豪・事業家並に当業会社等が果して如何程の規模に於て設立さるゝを希望し、且つ幾何の出資を肯んずべきやに関し相応の下調査を試み、其の上にて再び協議会を開き、大体の成案を建つべきことのみは既に決定せり、而して曩に余等有志調査せる所を基礎として、余の私見を述べんに、高峰氏の如き年々投ずべき五十万円の経費を生むに足る財団を組織せざる可らずとのことなりしも、現在の本邦としては先づ総額を五百万円とし、之を二分して政府・民間に引受け、内六・七十万円乃至百万円を建築其他の設備費に振向け、残余の約四百万円を積立てゝ、之より生ずる十五万円乃至二十万円を年々の経費として投じ研究せしむるを相当と思量す、兎に角も模倣期既に去りて自発的研究期に入れる大正の世に於て、此種試験所の設立は最も機宜を得たるものと信じて疑はず、云々。
  ○此議中絶ノ後、翌大正四年三月理化学研究所設立案トシテ再興ス。次条参照。