デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
8款 財団法人理化学研究所
■綱文

第47巻 p.31-34(DK470004k) ページ画像

大正4年6月19日(1915年)

是日栄一、大隈重信邸ニ於テ開催セラレタル当研究所設立協議会ニ臨ミ、設立委員ニ選バル。


■資料

集会日時通知表 大正四年(DK470004k-0001)
第47巻 p.31 ページ画像

集会日時通知表  大正四年       (渋沢子爵家所蔵)
四月二十日 火 午前十時 理化学研究処ノ件(商業会議処)
  ○中略。
四月廿二日 木 午前九時 大隈伯早稲田邸ヘ御出向


渋沢栄一 日記 大正四年(DK470004k-0002)
第47巻 p.31-32 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年       (渋沢子爵家所蔵)
四月二十日 曇
○上略 十時半東京商業会議所ニ抵リ、大学総長菊地《(菊池)》・高松・桜井、其他ノ諸氏ト共ニ、理化学研究所ノ設立ニ関スル協議会ヲ開ク○下略
  ○中略。
四月廿二日 曇
○上略 午前九時大隈伯爵ヲ早稲田ヲ《(ニ)》訪問ス、理化学研究所設立ノ事ヲ談ス○下略
 - 第47巻 p.32 -ページ画像 
  ○中略。
六月十九日 晴
○上略 十二時早稲田大隈首相邸ニ抵リ、理化学研究所設立ニ関スル協議会アリ、午飧ノ饗応アリテ後、各大臣、大学ノ諸博士、実業家等相会シテ種々ノ協議アリ、後十七名ノ委員ヲ撰挙シテ、其委員ニ於テ一案ヲ提出スル事トナル○下略


財団法人理化学研究所設立経過概要 同所編 第一〇―一一頁 刊(DK470004k-0003)
第47巻 p.32 ページ画像

財団法人理化学研究所設立経過概要 同所編
                       第一〇―一一頁 刊
 ○第一章 発端
五、設立委員ノ委嘱並其後ノ経過
理化学研究所ノ設立ヲ促進セシメムカ為、大正四年六月大隈伯爵ハ、内務・大蔵・文部及農商務各省ノ関係当局、学者及実業家ヲ私邸ニ招致シテ設立協議会ヲ開キ、其際左ノ十八名ニ設立委員ヲ委嘱セリ
     男爵 渋沢栄一          中野武営
     男爵 近藤廉平          豊川良平
     男爵 大倉喜八郎         安田善三郎
   工学博士 団琢磨        子爵 三島弥太郎
 内閣書記官長 江木翼      理学博士 桜井錠二
   工学博士 高松豊吉     内務次官 下岡忠治
   大蔵次官 浜口雄幸     文部次官 福原鐐二郎
  農商務次官 上山満之進    商工局長 岡実
     男爵 菊池大麓          井上準之助
爾来右委員中ヨリ、渋沢男爵・中野武営氏・桜井理学博士・高松工学博士・上山農商務次官ノ五名ヲ特別委員ニ挙ケ、協議会ヲ重ネ、鋭意実行ノ方法ニ付審議討究スル所アリ、又同年七月渋沢男爵及桜井博士ハ帝室御下賜金ノ儀ニ付、宮内大臣ニ懇請スル所アリタリ


中外商業新報 第一〇四七七号 大正四年六月二〇日 大隈邸の協議会(DK470004k-0004)
第47巻 p.32 ページ画像

中外商業新報  第一〇四七七号 大正四年六月二〇日
    ○大隈邸の協議会
既報の如く十九日正午より、早稲田大隈首相自邸に於て、理化学研究所新設協議会を開き、左記諸氏
 大浦内相△若槻首相△一木文相△河野農相△渋沢・菊池(大麓)・岩崎(久弥)・岩崎(小弥太)・近藤・三井(八郎右衛門)各男爵△山川帝大総長△渡辺同工科・桜井同理科・古在同農科各大学長△中野東京会議所会頭△高松工業試験所長△長井薬学博士△大倉喜八郎△井上正金銀行頭取、其他
参集し、主人の大隈首相より一場の挨拶を為し、次で大浦・若槻・一木・河野各相を始め、渋沢・菊池各男爵、山川帝大総長、其他理化学専門学者よりも夫々意見を開陳して、相互の参考に資する所あり、畢つて午後零時三十分午飧を共にし、午後三時頃散会


竜門雑誌 第三二六号・第七四頁 大正四年七月 ○理化学研究所設立協議会(DK470004k-0005)
第47巻 p.32-33 ページ画像

竜門雑誌  第三二六号・第七四頁 大正四年七月
○理化学研究所設立協議会 理化学研究所設立に就ては、予て青淵先
 - 第47巻 p.33 -ページ画像 
生及び菊池・山川両博士の陳情に対し、大隈首相も賛意を表せし由なるが、大隈首相は六月十九日午後零時三十分より、早稲田の自邸に、大浦内相・若槻蔵相・一木文相・河野農相及び青淵先生、其他を招待して協議会を開きたり。当日の出席者は
 青淵先生・菊池大麓博士・長井薬学博士・桜井理科大学長・渡辺工科大学長・高松工業試験所長・古在農科大学長・近藤郵船会社長・大倉喜八郎・安田善三郎・豊川良平・中野商業会議所会頭・井上正金銀行頭取
諸氏にして、協議の結果、満場一致之を創立するに決し、其の設立方法に就ては委員を挙げて攻究せしむることゝなりたるが、其の委員としては、同月廿三日附を以て左の諸氏推選せられたり
 青淵先生・江木内閣書記官長、浜口大蔵・下岡内務・福原文部・上山農商務各次官、山川帝大総長・菊池大麓博士・桜井理科大学長・渡辺工科大学長・高松工業試験所長・中野商業会議所会頭・大倉喜八郎・団琢磨・豊川良平
○下略


大隈侯八十五年史 同史編纂会編 第三巻・第四〇二―四〇五頁 大正一五年一一月刊(DK470004k-0006)
第47巻 p.33-34 ページ画像

大隈侯八十五年史 同史編纂会編  第三巻・第四〇二―四〇五頁 大正一五年一一月刊
 ○第九編 第十三章 日露協約の成功と内閣総辞職の真相
    (二)理化学研究所設立について尽力す
○上略
 君が理化学研究所設立につくした事は、既に述べたが、その前にその志を玆に傾けたことが、余程久しかつた。君は明治四十三年八月、既に『実業の日本』誌上に於て「化学工業時代の到来に目ざめよ」と題して、理化学上の新発明を勧奨したことがあつた。それに於て君は「日本は農業国から工業国に転ずべき過渡の時代にある。そして工業を旺んにするには、応用化学殊に最近の現象たる電気応用化学の発達を図らねばならぬが、それには兎も角、立派な研究実験室が必要である。然るに日本には未だ研究実験室と称するに足るべきものがない。帝国大学には研究室の設けもあるが、併しこれとても誠に規模の小さい、見すぼらしいものだ。工学者も多いが、自分に研究室を持つてゐるのは一人もない。欧米では、近年電気応用の研究が非常に発達してその強度の能力を利用して、種々新奇の発明が工業上に応用されてゐる。空中より窒素を分離せしめ、之にて肥料を作るが如き、土の中よりアルミニウムを分離せしむるが如き、燐礦石より燐を分離せしむるが如き、皆強熱電気を応用して新に発見された新工業である。今日わが国に輸入せらるゝ化学工業品を調べて見たら、莫大な額に達するであらう。染色用のアニリン色素だけでも、四千種も輸入されるといふ事だ。日本は藍の産地であつたが、いつしかインヂゴの輸入に圧倒せられ、そしてこのインヂゴは近頃又ドイツの鉱物から製出した色素に圧倒されつつある。この方面について、外国に於ける研究は中々旺んなものだ」と述べた。わが国の政治家中、かうした点に逸早く着眼したものは、恐らく君を以てその第一としなければならぬであらう。
 理化学研究所設立について、君が始めて関係したのは、大正四年六
 - 第47巻 p.34 -ページ画像 
月である。それ以前は、高峰譲吉・桜井錠二・渋沢栄一らが主として力を入れた。そして五百万円位の資金を得て設立しようといふつもりで、大正三年三月、調査委員七名が連署して、上下両院へ化学研究所設立の請願書を出した。ところが、その年、議会が解散されたので、目的を達する事が出来なかつた。そしてその年八月ヨーロツパ大戦のために外国との交通が杜絶して、医薬品及び工業原料の輸入が制限されたり、梗塞されたりするに及んで、農商務省では、化学工業振興の必要を認め、大正三年十一月、第一回化学工業調査会を開いた。この趨勢を見て、理化学研究所設立を志望した人々は、農相大浦に向つて設置の事を建議した。次ぎに大正四年三月、再び農相河野にその旨を上申した。当時君は渋沢・桜井らがそれに力を入れてゐることを聞き且つ率先して、化学工業のことに大なる興味と必要とを感じてゐたので、積極的に助勢することにした。それで大正四年六月、君は内務・大蔵・文部及び農商務各省の関係当局及び学者・実業家を招待して、設立協議会を開いた。その席上、君は左の如く演説した。
  理化学の研究及び応用が国家・社会の進歩発達上に至大の貢献あるべきはいふを俟たぬ。わが国に於ても、この方面に充分の力を注ぐ必要ありとして、夙に理化学研究所設置の急務たることを唱へるものが少くない。が、論議のみ多くて、実行がこれに伴はぬのは遺憾であつた。
  ところが、昨年八月、ヨーロツパの大戦勃発以来、引続いて日独戦争の開始を見た結果、対外貿易上に於て一大頓挫を生じた。就中ドイツ品の輸入が全く杜絶した為め、諸種の薬品・機械類を始め、諸工業品に忽ちその欠乏を来たし、今や痛切にその不自由・不便を感じをれる有様だ。それはつまり、わが国の理化学工業がまだ幼稚の域を脱せぬためである。もしこの現状の儘に放任して置くと、将来それ等工業用品の独立自給を企図せんとするも、前途遼遠の嘆を発しなければならぬ。そこでこの機会を利用して、官民合同の下に理化学研究所を設け、それ等の欠乏を補ふの道を講じようと思ふ。
 君の演説がすむと、渋沢栄一はそれに対して謝辞を述べ、且つ君が説いたところに深く共鳴した所以を述べた。それから一同協議を凝らして、資本金額・醵出方法を講究した上、十八名の委員を選んで散会した。そしてそれらの委員は爾後数回集つて協議を重ねた後、大正五年一月二十一日、理化学研究所設立の建議を首相・蔵相・農相宛で差出した。○下略