デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
8款 財団法人理化学研究所
■綱文

第47巻 p.232-236(DK470051k) ページ画像

昭和7年1月21日(1932年)

是日、日本工業倶楽部ニ於テ、当研究所理事会開カレ、栄一ノ功績ヲ記念スルタメ、当研究所講堂内ニ肖像写真ノ扁額ヲ掲ゲルコト、及ビ当研究所ニ於テ胸像ヲ鋳造シ、所内適当ノ個所ニ建設スルコトヲ決議ス。


■資料

自卅九回至七十四回理事会書類(DK470051k-0001)
第47巻 p.232-233 ページ画像

自卅九回至七十四回理事会書類     (財団法人理化学研究所所蔵)
    第六十六回理事会議事要録
一、日時及場所
  昭和六年十二月十日午前十一時日本工業倶楽部ニ於テ開会、午後一時半閉会
一、出席者
  高松豊吉・子爵大河内正敏・大橋新太郎・小野塚喜平次・青木菊雄・塩原又策・男爵森村市左衛門・男爵団琢磨・田島勝太郎ノ各理事及委任状参通
  研究員総代片山正夫君
一、決議事項
  (一)昭和七年度予算、別紙原案承認
  (二)故副総裁子爵渋沢栄一君ノ功績ヲ記念スル為メ、肖像扁額掲揚其他適当ノ方法、及副総裁補欠ニ付次期評議員会迄ニ考究スルコト
  ○(三)(四)略ス。
一、報告事項
○中略
  昭和六年十二月十日
            議長 理事 子爵 大河内正敏(印)
               理事 男爵 森村市左衛門(印)
    第六十七回理事会議事要録
一、日時及場所
  昭和七年一月二十一日午前十時三十分日本工業倶楽部ニ於テ開会午前十一時閉会
一、出席者 子爵大河内正敏・青木菊雄・男爵森村市左衛門・高松豊吉・塩原又策・男爵団琢磨ノ六理事並片山研究員代表及委任状四通
一、決議事項
  ○(一)略ス。
 - 第47巻 p.233 -ページ画像 
  (二)故副総裁子爵渋沢栄一君ノ功績ヲ記念スル為メ所内二号館講堂ニ同子爵ノ肖像扁額ヲ掲グルコト、但シ其ノ大サ等ハ故高峰譲吉君ノ肖像額ト同様トスルコト
  追テ故子爵ノ胸像ヲ、可成故人ノ意思ニ添フ為メ理研ニテ鋳造シ所内適当ノ場所ニ建設シ、簡単ナル除幕式ヲ行フコト
  故渋沢副総裁ノ後任ニハ顧問男爵古市公威君ヲ推薦スル方針ヲ採ルコト
  ○(三)略ス。
              議長 理事 子爵 大河内正敏
  昭和七年一月二十一日     理事    高松豊吉
                 理事    青木菊雄
  ○右栄一ノ胸像ニツイテハ、昭和十二年十一月当研究所ニ問合セシ処、左ノ回答アリ。(昭和十二年十一月二十四日付)
    ○上略 理事会に於て決議相成居候処、之が実施は当所に於て発明若は考案の材料を以て鋳造可致意向の為、彼是延引致居候次第に有之候○下略



〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第八三―八五頁昭和三年一〇月 科学と渋沢子爵 大河内正敏(DK470051k-0002)
第47巻 p.233-234 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第八三―八五頁昭和三年一〇月
    科学と渋沢子爵
                      大河内正敏
 私は玆に忌憚のない自分の所信を述べようと思ふ。一般に昔の教育を受けた人、論語孟子を以て固つた人は新しい科学に対して全く理解を欠いてゐるものである。単に理解の有無は暫く措くとして、多くは初めから食はず嫌ひである。即ち今日の文明を呼んで物質文明となし人心を堕落せしめるもの、徒らに物質慾に走らせるものゝ如く考へてゐる。従つて科学を発達させる事は世道人心に悪影響を及ぼすから、宜しく之を捨てゝ昔の所謂精神文明に引戻さねばならぬと云ふ位の説をすら聞く事がある。仮りにそれ程でなくとも、多くは科学の価値に対しては全く無見識、無理解であり、自分がそんな事を知らないと云ふことを誇りとしてゐる程である。或は科学から出来る丈け遠ざかる事を勉めると云つた次第である。私の如何にも残念に思ふことは明治の学問をした人の中にすらも、外国の科学は人生に非常な功献をしてゐる事を認めるけれども、日本に於ては科学が存せず、日本の科学は徒らに外国の糟粕を嘗めてゐるに過ぎぬ、何等役に立つて居ないと考へる者が少くない。外国崇拝の一端であるが、無理解から延ひて日本の科学は用を為さず、外国の科学に頼らねばならぬとする者が相当に多い。私が常に渋沢子爵に対して敬服に耐へないのは、総ての事情が所謂頑迷固陋派の総大将である可き筈の子爵にして、科学の価値を最も良く理解し、日本に於ける最近の科学を認められてゐるのみならず日本に於ては日本の科学が発達しなければ用を為さぬとの強い信念を持つてゐられる事である。換言すれば、日本のあらゆる産業は日本に於ける科学の上に立脚してこそ、初めて発展の余地を見出す事も出来れば、強固の基礎も出来るのであつて、外国の科学を輸入して来て其上に建設した産業では必ずや漸次外国産業に圧倒されて、日本は永遠に輸入国たるの域を脱し得ない、と云ふ事を徹底的に理解されてゐる
 - 第47巻 p.234 -ページ画像 
事である。明治の学問をした人々にも是丈けの理解のある人は誠に稀れである。殊に先年子爵の口から左の言を聞いた時、私は其卓見に驚き入つた次第である。即ち日本の農村が何故に疲弊したかに就いて、子爵は『日本の農業が科学に遠ざかつた事に基因する』と喝破された『科学を取入れない農業は生命が続かない。故に理化学研究所に於ては基礎科学を研究することも勿論必要であるが、同時に科学の農業方面の応用に関する研究も肝要である』と力説せられた。恰も当時私は自身の経験から、同じ事を痛感して『農村振興に関する一考察』と題する小冊子を印刷中であつた。此冊子中には今日の農村疲弊は産業の原則に背馳した為めである。凡ての産業は科学に拠つて初めて盛んになる事は自明の事実であるにも拘らず、日本の農業が科学を捨てゝ用ひない事は背理であるとの意見を述べた時であつた為め、私は人よりも一層子爵の卓見に敬服し、恰度目下小冊子を印刷中である事をお答へしたことがある。子爵は一時的偶感を述べられたのでもなく、他人から意見を注入せられたのでもなく全く自発的であつた。其後理化学研究所に於ける鈴木梅太郎博士の講演を態々聞きに来られた際、所見として子爵は日本の蚕糸界が一日も早く科学を取入れない限り、人造絹糸に駆逐さるべき運命に在る事を縷々説かれ、其研究の必要を理化学研究所に熱心に促された。元来此理化学研究所は子爵の主唱に因つて設立されたもので、子爵が生みの親である。慈善病院其他の社会公共事業等は従来種々の人々によつて唱へられ、又種々の人々が設立した。併乍ら唱へた人々は其設立迄を自己の務めとし、其維持経営の事に至つては次第に冷淡になり行くものである。然るに子爵と理化学研究所との関係は其の異例を成すものである。前にも述べた通り子爵は科学に対する深い理解と、其の価値の的確な認識とに拠つて、日本の産業を興すものは科学の研究発達にありとの固い信念から理化学研究所を設立せられ、自ら其の副総裁の地位に在つて衷心科学の発展を期してやまれないのである。其の初めは今日から十数年前故高峰譲吉博士が科学の必要を説かれた時、何人よりも其唱導に耳を傾けられたのは渋沢子爵であつた。そして其徹底的の理解を以て理化学研究所の事業に当らるゝや終始一貫尽瘁せられて今日に至つたのである。其の間緊張あり又弛緩ありと云ふ事は全然なく、初めより変ることなく真に日本の産業と科学とを顧慮せられてゐるのを見て敬服に耐へない次第である。殊に此方面の学問をせられた事なく、寧ろ排斥する傾向のある教育を経て来られた子爵である事を思ふ時、一層此感を深ふせずには居られぬのである。



〔参考〕現代 第一九巻第九号・第三一〇―三一一頁昭和一三年九月 渋沢翁の器量(DK470051k-0003)
第47巻 p.234-235 ページ画像

現代  第一九巻第九号・第三一〇―三一一頁昭和一三年九月
    渋沢翁の器量
 理化学研究所長として理研コンツエルンの総帥として、学界・事業界に巨人的足跡を印しつゝある大河内正敏博士を訪ねた、某氏が『一学術研究所に過ぎないと思はれてゐた理研がこんな偉大な存在にならうとは全く意外と云ふ外はありません。それにつけても産みの親としての貴下の見識と手腕は敬服の外ありません』
 - 第47巻 p.235 -ページ画像 
 と讃辞を呈すると、博士は手を振つて
 『それは違ひます。理研の産みの親は渋沢栄一子爵なんです。私はそれを思ふといつも故子爵に頭が下ります。御承知のやうに渋沢子爵は明治以前に漢学で鍛へられて育つた旧い人です。あの時代の人と云ふものは、兎角科学を軽蔑したり排斥したりして、科学的と云へば直ぐ西洋かぶれとけなしたがる人が殆ど総てです。ですから、大正の初め高峰譲吉博士がアメリカから帰つて、日本は今後世界に覇を争ふに当つては是非とも、もつともつと科学的基礎を固めなければならぬと有力者の間を説て廻つたが、当時政界・財界の人でこれを本気になつて聞いて呉れる人がなかつた。然るに渋沢子爵が真先に、而も熱心にこの説に共鳴し、自ら陣頭に立つて有志の間を説いて廻られたので、そのお蔭で理研といふものは大正六年に誕生することが出来たのです。凡そ科学といふものとは一番縁の遠さうな渋沢子爵の達眼によつて産れたところの理研の面白いところがあるではありませんか』
 と微笑し乍ら、語をついで
 『大体世間の名士がある事業、ある計画を援助する場合、骨を折るのはその成立当初に限つて居つて、後になると全く我関せず焉といふことになり易いものです。然るに渋沢子爵は、理研の産みの親であるばかりでなく、時時来観されては色々意見を述べられました。ある時は鈴木梅太郎博士の講演をわざわざ聞きに来られ、その後で『養蚕家が今少し科学に着目しないといまに人絹に駆逐されてしまふだらう』と云つてその研究を理研に促されたこともあります。兎に角、一時の思いつきでなく、逝くなられるまで終始熱心に援助されました。兎に角渋沢子爵といふ人は、国家のために有用と認めたものに対しては、新しいものでも旧いものでも常にその長所を認めてこれを伸してやる為に活眼を開いて居つた人で、実に大きな器量の人であつたことをしみじみと感じます。このことは私達がその後仕事をやつて行く上に於てどんなよい教訓になつたか知れません』
 と故渋沢子の偉さを一席披露されたが、訪客もこの話にはすつかり感心して引下つた。



〔参考〕水谷清談話筆記(DK470051k-0004)
第47巻 p.235-236 ページ画像

水谷清談話筆記              (財団法人竜門社所蔵)
               昭和十二年七月十六日、於丸ノ内第一銀行応接室、松平孝・新井静子聴取
    財団法人理化学研究所に就いて
理化学研究所設立協賛会は案丈で設立しなかつた。案は、高峰、岡さん辺りで発案されたらしい。案は工務局で作られた。そしてそれは資本金を集めるのに都合がいゝ様に作つたのであるが、事実は子爵一人がされた。つまり協賛会と云ふものは特に出来ず、之に代つて子爵一人が尽力されたのである。
私が理研に入つたのは大正五年の末頃岡工務局長(農商務省)に子爵が会はれ、理研の庶務課長をやる人が欲しいと言はれたので、私が庶務課長となる様云はれました。
国庫補助の増額申請書は政府できめる為、書面で申請しないと覚えてゐますが、之は念の為もう一度理研の書類をお調べ下さい。
 - 第47巻 p.236 -ページ画像 
○中略
実業家を総理大臣が理研の為に集めたのは一回きりだつたと思ひます理研内の物理と化学が喧嘩して、桜井さんがやめるなどと申されて、ゴタゴタの起つたのは三月でした。それで老子爵は山川総長に出て貰ふつもりだつたが、山川さんは大河内氏を推薦された。そこで大河内さんが所長になられました。それ迄に所内の人々の腹さぐりに半年もかゝつたのです。この起りは物理と化学との喧嘩と感情問題から起つたのです。此の問題の後、後任所長につきては年齢や其の他の関係から、子爵には山川先生を推された丈で、問題そのものには口を出されず、唯「困つた事だ」と言はれてました。大河内さんが所長になられたのは、和田、三井さんの推薦が利いたので、子爵も承諾されたと思ひます。
大正十一年伏見宮御邸に実業家が集つた時、子爵は最後に理研寄附金の事に就て話をされたので、竜門雑誌「外遊所感」の方は間違ひと思ひます。
大正六年に二度伏見宮御邸に伺候されたのは、一度は御下賜金の事、もう一度は総裁を奉戴するについて行かれたのだと思ひます。
大河内さんの政務官問題は吾々は直接に話をきいてゐませんが、子爵は新聞で御覧になり色々理研の為に心配されたのです。高工問題も同様です。