デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
10款 大日本文明協会・財団法人文明協会
■綱文

第47巻 p.285-289(DK470067k) ページ画像

大正13年12月7日(1924年)

是日当協会、早稲田大隈会館ニ於テ、明治文化発祥記念会ヲ挙行ス。尚、同日当協会発行ノ「明治
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文化発祥記念誌」ニ栄一ノ談話筆記『維新当時を顧みて』掲載セラル。


■資料

明治文化発祥記念誌 大日本文明協会編 前付・第一―六頁大正一三年一二月刊(DK470067k-0001)
第47巻 p.286-288 ページ画像

明治文化発祥記念誌 大日本文明協会編  前付・第一―六頁大正一三年一二月刊
    明治文化発祥記念会開催要旨
 王政維新の大業は我帝国をして列強に伍するを得せしめ、国民の文化も亦之れに伴ふに到つた。この成功は上に 聖帝のましますあり、下に忠良の臣の之を輔翼し奉るあり、上下和衷戮力して庶政の刷新、文化の向上に努めた結果であるが、其間吾人の忘るべからざる一事は明治大帝の御誓文中にある「知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ」の聖旨を奉体し、欧米先進国より夙に練達の士を迎へ、新日本建設の為めに助勢せしめたことである。若し此事なかりせば我文化は斯くまで早く進まなかつたかもしれぬ。開国進取の国是は早く定つたけれども、維新草創の当時は恰も渺茫たる洋上に小艇を泛べたるが如く其進むべき方向と方法とは混沌たる状態であつた。其際彼等は学術に実地に各自専門とする所に従つて、或は顧問となり或は教官となり或は教師となり、各々其職に尽し、直接間接我国力の充実、文化の啓発に貢献した功績は実に著大なるものであつた。徐ろに首を回らして明治文化の迹を繹ね来れば、吾人は如何にしても彼等の功績を葬り去る事は出来ない。玆に於て本会は、維新以後我国運の進展に特に功勲ありし来朝外人の事蹟を調査し、之を後世に伝ふるを以てその責務であると信じ、さて調査に着手して見ると意外に其数が多く、而かも中には知名の人でありながら正確なる記録もなく、亦事蹟を語る交友も関係者も乏しいと云ふやうな場合が多く、調査に意外な困難を感じた。さあれ今にして努めて之を調べて置かねば、遠からず湮滅に帰し、彼等の功績を終に没却するのみでなく、為めに明治文化発達の真相の一部を失ふに至らんとの感を深からしめた。斯くして吾人は鋭意調査に歩を進めつゝある際に、昨秋の大震火災は突如帝都の過半と横浜の大部分を灰燼に帰せしめ、最近半世紀間に築き上げた物質文明を一朝にして破壊し尽した。此時に当り吾人は今更是が壊滅を惜しむと共に、此等文明の由来沿革に就て深く偲ばざるを得ない。其結果は之が建設に与つた内外の先輩を追懐するの念をいよいよ加へたのである。然し我国人に属する事蹟と功勲とに関してはおのづから伝はる途もあるが外人のそれに至つては今既に忘れられつゝある位で、僅かに研究の資たるべき諸官省の文書も既に其大部分が烏有に帰したとなると、外人の事蹟は永久に亡びんとしてゐるのである。偶然にも吾人の計画は震災前に手を着けたため、諸官省の文書の写しが本会に残り、今は副本が却つて原本の喪失を補ふことになつたのである。
 前述の如く有功外人の事蹟調査は今日既に容易でない。若し更に十年を経過したなら如何であらうか。之れを思へば、本会の蒐集したものは充分でないにしても、其人員は四百名あまりを有し、凡そ代表的人物は網羅してあるから、今となつては貴重の資料とせねばならぬ。
 今次明治文化発祥紀念会の開催を思ひ立ち、此等外人の功績を顕彰せんとするのは、一つは其事蹟の湮滅を恐るゝからであるが、亦これ
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を機会に蒐集せる資料を訂正増補したいからである。言ふまでもなく明治文化発祥会《(紀念脱)》の趣旨は決して外人の功績のみを表彰するが目的でなく、寧現代の文化的国民生活の起点である明治初年からの文物の発達を追懐反省して、所謂、温古知新の料たらしむるを主眼とするからである。勿論諸外国人から学んだ所も多いに相達ないが、それのみで日本の文化は成つたとは謂はれない。即ち東西文明の融合が之を招徠したのである。況んや今日となつて徒に欧米の風を模倣すること明治の初年の如くであつては、何日迄も後退的地位に立ち、延て国民精神の独立を損ふことにもなる。今後は独立して吾れ等自らの文化を築かねばならぬ。併しながら彼等の既往の功績は決して没却し去るべきでない。其恩を恩とし、其徳を徳とし、それを表彰感謝する途を講ずるは蓋し文明国民の義務であると信ずる。
 明治文化発祥紀念会は上述の趣旨を以て、十二月七日を卜し広く内外の紳士を会して式典を挙げ、引続き講演会を催し、紀念冊誌を発刊し、紀念展覧会を開き、文化の史蹟を発揚すると共に、文化の得失を厳正公平に批判し、将来継承すべきものと然らざるものとを研究取捨し、以て今後の文化に資せんとする。これが本会の使命であつて顕彰会を開く所以も亦こゝに存するのである。
  大正十三年十二月
            大日本文明協会長 侯爵 大隈信常
    明治文化発祥記念会挙行次第
(一)記念式
  大正十三年十二月七日午後一時
  牛込早稲田大隈会館に於て
 一式辞           会長侯爵 大隈信常君
 一趣旨(英語)       本会顧問 志賀重昂君
 一祝詞         来賓代表子爵 加藤高明君
 一祝詞      外交団代表英国大使 サー・チヤールス・エリオツト君
 一所感             子爵 石黒忠悳君
 一同(英語)          子爵 金子堅太郎君
 一同              子爵 渋沢栄一君
(二)明治文化発祥記念誌発刊
 一明治文化に寄与せる欧米人の略歴
 一明治文化回顧録
(三)明治文化発祥記念展覧会
  十二月七日午前十時より午後五時まで
(四)近代日本文化批判講演
  十二月七日午後五時より
  早稲田大学第二十教室に於て
(講師) 文明と教義         前文部大臣 鎌田栄吉君
                    文学博士 井上哲次郎君
     明治文化と財政       経済学博士 太田正孝君
     日本文化の世界史的観    史料編纂官 中村勝麻呂君
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  十二月七日午後五時より
  芝公園協調会館に於て
(講師) 維新当時の化学的政策  前内務大臣子爵 後藤新平君
     プチシュアン師の事      文学博士 姉崎正治君
     模倣文化の功罪        法学博士 林毅陸君
     近代文化の効過        前代議士 押川方義君
  十二月八日午後五時より
  帝国大学第三十教室に於て
(講師) 世界大勢より観たる日米問題 前文部大臣 高田早苗君
                    法学博士 浮田和民君
     非理法権天          法学博士 下村宏君
     未定              如是閑 長谷川万次郎君
  十二月八日午後五時より
  東京商工奨励会館に於て
(講師) 明治の文化に就て     特命全権大使 日置益君
     余の受けたる明治時代の教育  工学博士 高松豊吉君
     未定             法学博士 吉野作造君
     日本文化紹介者としての小泉八雲先生
                    早大教授 内ケ崎作三郎君
  ○本記念式ニ栄一ノ出席ヲ予定セルモ栄一ハ病気ノタメ出席セズ。(当会理事森脇美樹談)


明治文化発祥記念誌 大日本文明協会編 明治文化回顧録・第五七―五八頁大正一三年一二月刊 【維新当時を顧みて 子爵 渋沢栄一】(DK470067k-0002)
第47巻 p.288-289 ページ画像

明治文化発祥記念誌  大日本文明協会編
               明治文化回顧録・第五七―五八頁大正一三年一二月刊
    維新当時を顧みて
                   子爵 渋沢栄一
 自分は維新前後に於てはあまり外人とは接してゐなかつたので、別にとりたてて云ふやうな思ひ出もないが、然しシーボルト(二世)が通訳として非常にいろいろな意味から都合のよかつたことを思ひおこすことが出来る。氏は日本の当時の事情にもよく通じてゐたのみならず、英・仏・独の三ケ国語をよくしたので都合のよい通訳であつた。
 自分はまだ若かつた時分は、外人――若しくは欧洲文化といふものに接するといふことにはむしろ反対で、これにほとんど関与しなかつたのであるが、然しその非を悟つてむしろ欧米に自から接するやうになつたのであつたが、これは自分にとつてかなり大きな変動があつたわけである。シーボルトに接したのもその後のことであるが、その時はいつもシーボルトの達者な語学がうらやましいと思つたのである。
        ****
 米国公使タウンセント・ハリスの通訳が邦人の為に殺されたことがあつたが、ハリスはこの時、自分の部下が殺されたといふ場合に接しても、泰然として公使館にかまへて常の如く振舞つてゐたが、これは日本人でも非常に感じ入つた次第であつた。公使としての職にあつて自国人の部下が、異郷に於て異邦人の為に殺されたにもかゝはらず、泰然としてゐたといふことは、殊に当時のこととして感じ入るところ
 - 第47巻 p.289 -ページ画像 
である。
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 自分が初めて欧洲の旅に出たのは一八六七年のことであるが、それはまだ日本には千石舟よりほかにはない時分のことであつた。而も既にその時欧米にあつては蒸気船といふものがあつた。先づこれに感心したわけであるが、とに角当時の日本と比較するならば、西洋の模様といふものは夜と昼との違ほどに全く違つてゐたのである。それを思へば、今日の日本が欧米諸国と相並んで伍してゐるのを見ると感慨の念に堪へぬ。
 当時に於て欧米諸国では、最もすぐれたる都市に就いてみても、その道路は、今日の東京のよいところの道路位のものであつたが、それだけでも此彼の間の違が非常なものであつたことは解るわけである。然し当時より数十年といふ間に、とに角日本は急激な進歩を以て世界の文明諸国と肩を並ぶことの出来るやうになつたのを見れば、感慨は深い。(談)
  ○「明治文化発祥記念誌」ハ当協会機関誌「文明大観」ノ特別号(第六冊、十一、十二月合本)ナリ。



〔参考〕竜門雑誌 第四三六号・第五三頁大正一四年一月 青淵先生動静大要(DK470067k-0003)
第47巻 p.289 ページ画像

竜門雑誌  第四三六号・第五三頁大正一四年一月
  青淵先生動静大要
    十二月中
青淵先生には去月来感冒に喘息を併発せられ、専ら在邸療養に尽されつゝありしが、漸次快方に赴かれしを以て、二十七日午前十時十分東京駅発、令夫人と共に相州湯河原に転地せられ、同地天野屋旅館に於て越年の上静養せらるゝ事となれり