デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
12款 其他 6. 財団法人明治聖徳記念学会
■綱文

第47巻 p.339-345(DK470080k) ページ画像

大正4年5月14日(1915年)

是日栄一、九段偕行社ニ於ケル、当学会第十九回研究会ニ出席シテ講演ヲナス。後、終身会員トシテ金三百円ヲ寄付ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正四年(DK470080k-0001)
第47巻 p.339 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年        (渋沢子爵家所蔵)
五月十四日 晴
○上略 六時夜飧シテ後九段偕行社ニ抵リ、明治聖徳紀念会ニ出席シテ一場ノ講演ヲ為ス、孔孟ノ教義ニ就テト云フ演題ヲ以テ、孔子教ニ関スル平生ノ所感ヲ述フ○下略


明治聖徳記念学会紀要 第四巻・第一九〇頁大正四年一一月刊(DK470080k-0002)
第47巻 p.339 ページ画像

明治聖徳記念学会紀要  第四巻・第一九〇頁大正四年一一月刊
    彙報
○本会研究会記事 大正四年三月以後開催される研究会概況を摘記すること左の如し
○中略
  宮本武蔵の精神術     文学博士 福来友吉君
  余の観たる孔孟の教      男爵 渋沢栄一君
  ○右講演ノ行ハレタルハ大正四年五月十四日当学会第十九回月例研究講演会ニ於テナリ。(「本学会二十五年史」ニヨル)


明治聖徳記念学会紀要 第四巻・第一二一―一二八頁大正四年一一月刊 【余の観たる孔孟の教 男爵渋沢栄一】(DK470080k-0003)
第47巻 p.339-343 ページ画像

明治聖徳記念学会紀要  第四巻・第一二一―一二八頁大正四年一一月刊
    余の観たる孔孟の教
                   男爵渋沢栄一
 私は本会に於て講演らしい御話をする充分の資格はありません。加藤博士○玄智とは帰一協会で親しくなり、先々月頃より何か話して呉れと頼まれましたが、丁度本日は差支へがなかつたので出席しました様な次第であります。元来私は実業界に身を置くもので、孔孟に就て御話し申上げるのも、今福来博士○友吉の申された通り、剣道を知らぬも
 - 第47巻 p.340 -ページ画像 
のが剣道の講義をやると同じことで、所謂素人観でありまするが、只思ふ所を述べて批評を仰ぎ度いと思ひます。
 私はもと農家に育つたもので、古い学問は漢籍を少しばかりやつたのみで、其後自分でも少しは味つても見ましたが、実際浅薄なものであります。古来論語のみを以て孔子を見ますが、四書の中庸なども孔子系に属するもので、又五経の易も孔子系のものであります。大家先生も恐らく此等全部の書を詳しく究める事は出来ないで、論語に比してあまり熟読もしませんから、就中孔子に就て、而も主として四書中只論語に就て述べようと思ひます。然しながら今申上げた様に、経書専門家とは違ひ実業界にあるものでありますから、唐宋の学者、林家一派の意見とは余程異つた点があらうと思ひます。前者が広くて自分の意見が狭いか、或は前者は只理窟に走つて実際に遠ざかつてゐるか此等の点に就て御聞取りを願つておきます。
 先づ第一に仁義道徳と云ふ事は、孔子の最重視して教へた処で、如何なる方面の人も常に欠くことの出来ないものであります。孔子は元来一種の教を立て、以て一家をなさむとした人でなく、世に立つに官吏を以てし、周の皇室を扶け、更に諸侯を糾合して、王道を弘めんとしたものであります、只教旨を論じて大教授たらむとするのとは大部趣きを異にしてをります。当時魯の国の勢は衰へ三家老政を執つてをりましたが、孔子の王道を用ふるよりも更に治国の近道があるであらうと考へたので、不幸にも孔子の主義は魯の哀公等の採用する所とならなかつたのであります。玆に於て孔子は斉宋衛等を遊説して非常なる困難に遭遇したのであります。かくの如くして諸侯中に遊説を試みたが用ひられず、遂に魯に帰つたのが六十八歳であつたと云ひます。その時は孔子は老年に及んだ為め、既に政を執り周室を興す事の不可能なるを知り、其後専ら著述に従ひ易を研究し詩経を刪修し、春秋を作ることに力を用ひました。かくして弟子の教育に尽したのであります。それまでは孔子は世の中を治めんとしたもので教授を以て自ら任じたのではありません。これは孟子と少し異る点で孟子の頃は諸侯皆攻伐を以て事とし張儀・蘇秦の説の盛に行はれた時でありまして、孟子も此の間に立つて先王の道を説いたのであります。かくて孟子は孔子と異つて居る様に思はれます。魯王を擁立して周室を恢復せむとした孔子とは大分異つた様に思はれます。而して孔子の教ふる処は国君の行ふ処であつて、或は宰相大夫たるもの或は一家長の教導方法で、友人と交はり父母兄弟の間の道を説く時にも、常に政を論じ、各方面の問に応じて自分の考を発表してをります。曾て井上博士(哲次郎)が孔子を評して「世には往々非凡なる人がある、一方だけは非常に卓越してゐるが一方は全く欠けた人がある。而るに孔子に於ては各方面即智情意が合併して進んだものであつて、常人を非常に偉大ならしめた如き観がある。其各方面はよく権衡がとれて特に非凡とすべき点はない」と云はれましたが、私は此の説に非常に敬服してをります。孔子は平凡なる処即非凡と云ふべきでありませう、孟子は孔子を評して
  孔子聖之時者也。
と云つたのと同じであります、論語も決して吾人に偏狭な事、突飛な
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事を教へて居ない。吾々が人に応対し人の主治者となり、或は政を執る場合にも論語を標準として之に拠ることが出来ます。只少し懸念となるのは国体の相違で、論語其の儘を奉ずると少し不都合のある事があります。此の点は帝国臣民の注意すべき事と思ひます。
  民可使由之、不可使知之。
と云つて孔子が之を称したのに至つては、孔子の教も不可であると云はねばなりませぬ。こは大に味ふべき点であります。然しながら学而篇より尭日篇に至るまで、政を執り人に接し家族の関係を説ける等総て智情意兼備したる点は大に服膺すべき点であると思ひます。欧洲式や殊に亜米利加式に云へば、「己欲するところ人に施せ」と云ひまするが、無理に御馳走攻めにされて困る事があります。之に反し論語は
  己所不欲、勿施於人。
と云ひ、或は
  父為子隠、子為父隠、直在其中矣。
と云ひ、又は
  悪訐以為直者。
ともあります。又意志を表はしたる所には
  自反而縮、雖千万人、吾往矣。
と云ふのがあります。又
  吾少也賤故多能鄙事、君子多乎哉、不多也。
  吾嘗終日不食、終夜不寝、以思、無益、不知学也。
と云ふ様は謙遜的意味を含んだのもある。或は又非常なる確信を表はしむる語句
  天生徳於予、桓魋其如予何。
とも云つてあります。これは全く別人の様ではあるけれどもこれが孔子の孔子たる所であります。此等智情意総ての点を含むことは、論語を読むものの何人も気附く点でありませう。孔子の教が日本に盛となつたのは徳川氏が朱子の註を入れた為だと思ひます。家康は応仁以来の戦乱を平定し、太平治国の実を挙げん為め、元和の初め大阪城を亡ぼして後、文学を盛にし古書を蒐集し、儒教・仏教を興し、且つ駿府十三年間の隠居時代には、治国に心を用ひ、藤原惺窩・林羅山等を儒官に重く採用しました。羅山等の孔孟を教ふる主義は、宋の周濂渓に発し、程明道・程伊川を経て朱子の註に大成した説であります。朱子の註は四書を解するに必要なものとなつてをります。其後種々なる学説出で、陽明学等も出でましたが、家康が特に朱子を採用したが為に後世も朱子を主として其の学理を継承しました。日本の林家及諸派の人も皆孔孟の教を一種の学問として研究するのみで、之を実際行つたのではありません。かくして孔孟の教も頗るむつかしいものとなり、一般には到底実行出来ないものとなつたのであります。徳川時代には武士と一般平民との間に劃然たる区別があつて、仁義も人を治むるにのみ必要なるものと考へられ、学者は只之を暗記して上流の人及武家に之を授くるに留まつたのであります。かくて一般の人にはかゝる不相応で実行する事の出来ないものと考へられたのであります。甚だしきは農工商のものには、何等孔孟の教は必要ないと見做されました。
 - 第47巻 p.342 -ページ画像 
維新までは皆そう考へたのであります。私は朱子等が孔孟の平易な教を却てむつかしいものとし、一般のものに普及せしめない様にしたのは呉れ呉れも遺憾に思ふところであります。私自ら商人の癖に論語に趣味を覚え、遂に論語を事業の基礎と見做すに至つたのは大に理由のある事で、次に此の点に就て御話申上げ度いと考へます。
 私の故郷は東京から十里ほど隔つたところで、親から漢籍を教へられました。かのペルリーが浦賀へ来て以来、学者は荐りに攘夷論を唱へ、外交は幕府のみで決すべきでないと唱へました。よくは存じませぬが、当時の漢学者は宋朝の過激論者が政治を攻撃したのを見て、自ら宋の政治論者を以て任じた様に思はれます。私も此の当時江戸に出て一ツ橋家慶喜公に仕へましたが、一ツ橋侯は将軍となりしも、後維新となり、慶喜公退くに及び私も退いて実業界に入りましたが、後又大蔵省に仕へ明治六年愈々之を辞しました。かくて銀行社員となりました。丁度此の時私の親しい人に玉乃世履といふ人がありました。私に意見して、少し心得違ひでは無いか、君の為に甚だ惜む、明治時代は職にある人が尽力する事が必要である、銀行会社などはあまり好ましいものでなからう、商売ではとても駄目だと云つて呉れました。私も当時百姓ながらも六・七年は官吏を勤めた後でありましたから、幾分か官吏根性になつてをり、自ら官吏生活を続けむかとも思つて少し迷つたのであります。然し微力ながら実業も必ずしも不可能であるまいと考へ、自分の主義を一定する為に経書に目をつけました。かくて論語を以て銀行経営の根本主義たらしめむと決心し、この由玉乃氏に通じました。玆に於て論語は算盤によりて尊く、算盤は論語によりて活用すと云ふ事を宣言し、論語を標準として商売を行はむと心掛けたのであります。この事は私が終始お話するので、三島翁は論語算盤説を書いて送つて呉れられたので、家の宝として保存してあります。孟子の意に利を以て利とせず、義を以て利とせよと云へるはこの点であります。孔子も理財の尊い事を述べ
  富与貴、是人之所欲也、不以其道、得之不処也。貧与賤、是人之所悪也。不以其道、得之不去也。
と云つてをります。又
  子貢曰、如有博施於民而能済衆如何、可謂仁乎。子曰何事於仁、必也聖乎、尭舜其猶病諸
 即天下国家を治むる上に於てのみならず、一般人民が幸福に暮すのには財利が必要であります。故に孔子は道理を誤る勿れ、富は義を旨とせよと云ふ事を云つてをります。孔子は決して富を嫌ひ之を禁じたのでなく、富其のものを目的としてはならぬと注意したまでゞ、この事は論語にもよく表はれてをります。私の考へるところは宋朝や徳川時代の学者の様に之を学説として研究するのではなく、之を実際上に応用せむとするのであります。彼等学者は実際を殆ど顧みないもので孔孟の教が実際と疎遠になつたのも大に彼等に責任の存する事と考へます。前に述べた様に井上博士が孔子祭典会で述べられた言即孔子は偉大なる常識家、智情意の円満なる人と言はれたのを聞いて大に感じ其の翌年の孔子祭典会で、今晩述べた様な意味の事を述べたのであり
 - 第47巻 p.343 -ページ画像 
ます。
 要するに孔孟の教は実業界にある吾々にも必要なもので、学者が種種むつかしく不可解高遠なるものとなし、恰も宗旨の如く見做し、実際人をして其の解釈に迷はしむる観があります。丁度下手な大工や左官が築いた家や壁の様に何等役に立たぬのみならず、吾々はかかる障碍を取り除いて進まねばなりません。かくして下級のものにも常に守り得る様にせねばなりません。教育の御勅語中には此の意味を簡明に示されてあります。
  夫婦相和し朋友相信じ恭倹己れを持し博愛衆に及ぼし学を修め業を習ひ云々
 この中には孔孟の教が、明かに表はれてゐるので誠に喜ばしい次第であります。私の孔孟の教に対する解釈は大体上述の様なもので、ごく卑近な解釈でありまするが、これを申上げて諸君の御参考に供したいと考へます。


財団法人明治聖徳記念学会紀要 第二一巻・第一七六頁大正一三年六月刊(DK470080k-0004)
第47巻 p.343 ページ画像

財団法人明治聖徳記念学会紀要  第二一巻・第一七六頁大正一三年六月刊
 ○附録
  会報
    会員名簿(大正十三年五月調)
○上略
  渋沢栄一
○下略
  ○当学会ハ大正元年十一月三日創立、大正九年三月六日財団法人ニ改組ス。
   (「本学会二十五年史」ニヨル)


財団法人明治聖徳記念学会紀要 第二三巻・第二〇二頁大正一四年五月刊(DK470080k-0005)
第47巻 p.343 ページ画像

財団法人明治聖徳記念学会紀要  第二三巻・第二〇二頁大正一四年五月刊
 ○附録
  会報
    恩賜金及終身会員寄附申込
○上略
一金参百円也    子爵渋沢栄一君
○下略



〔参考〕本学会二十五年史 財団法人明治聖徳記念学会編 第三―八頁昭和一二年(一〇月)刊(DK470080k-0006)
第47巻 p.343-345 ページ画像

本学会二十五年史  財団法人明治聖徳記念学会編
                    第三―八頁昭和一二年(一〇月)刊
 ○第一章 小引
    二 本学会寄附行為(会則)(大正九年三月制定同十三年一部修正実施)
      第一章 起原及名称、事務所
第一条 本会は明治の聖代を永遠に記念するに万古不易の真理研究を以てせむとして起れる日本学会にして、財団法人明治聖徳記念学会と称す
第二条 本会は事務所を東京市小石川区丸山町十一番地に置く
    前項の事務所は理事会の議決に依り之を変更することを得
      第二章 目的並に事業
 - 第47巻 p.344 -ページ画像 
第三条 本会は主として人文史的学問の新研究に照して、本邦思想の特色と我が建国精神の大本とを闡明し、我が国体の精華と日東の文明とを内外に顕彰して、以て自から知るに力むると同時に、日本文明の真相を世界の学界に紹介して、彼我の精神的理会に資せむことを期す
第四条 前条の目的を達せんが為、本会は左の事業を行ふ
    一、本会研究所の経営
    二、内外文を以てせる研究結果の発表及本会の目的実現に必要なる出版物の刊行並に各種研究上の会合
    三、講演会の開催
    四、前各号の外理事会に於て特に必要と認めたる事項
    前項第一号・第二号は主として研究所の事業として之を行ふ
第五条 本会の研究所に関する規定は理事会の議決に依り之を定む
第六条 本会の特別功労者に対しては理事会の議決に依り本人と合議の上特別講演会を開催し、以て其の功労を社会に表彰することあるべし
第七条 有志者より社会人心開発の目的を以て特に経費を寄附し、本会の目的に添へる通俗講演会を開催せん事を請ふときは、理事会の議決を経て本会は之に応諾することあるべし
  ○第三章略ス。
      第四章 会員
  ○第十四―十六条略ス。
第十七条 終身会見は左の各号に該当する者より成り、終身会費を徴せず、其待遇は凡て特別会員に同じ
     一時に金五拾円を納附し理事会の承認せる者
     金五拾円以上又は該金額以上に相当せる財産を寄附し理事会の承認せる者
     理事会にて特に推薦せる者
  ○第十八―三十六条略ス。
    三 本学会沿革略
 本会は大正元年 明治聖帝不朽の聖徳を永遠に記念せんが為に、二千有余年の我が国固有の精神文明を、現代学術の進歩せる批評的方法に依つて、根本的に究明し、内に向ひては我が邦人の自覚を喚起せしむると同時に、外に向ひては其の研究結果を外国文を以て発表し、以て真の日本を海外にも紹介するを目的とせる日本学会にして、大正元年 明治聖帝の御記念事業として起れるもの、爾来毎月の講演会に、各地の公開講演会に、本会研究所出版の研究報告及紀要に、将又内外文を以てせる各種の単行本に、着々本会の目的遂行に努力し来れり、本会の研究所には、加藤玄智・長井真琴の二文学博士、鳥羽正雄・溝口駒造・松下松平諸氏あり、常に研究に当り、時に海外諸国に研究者を派遣し、又本会の研究所より出版せる我が古典・古語拾遺の英文研究の如きは泰西の日本学会に寄与せる本会の業績の一なり、大正十一年宮内省を経て御手元金の恩賜を拝戴したるのみならず、各宮家の御下賜金を拝受せるは本会の感激に禁へざる所、本会は目下褒章条令に
 - 第47巻 p.345 -ページ画像 
依れる公益団体にして、基本金十万円、以つて国家的に聊か微力を効せるもの、如上本会の事業に対し、広く内外有志の翼賛を切望す。