デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
12款 其他 8. 全国化学工業家大会
■綱文

第47巻 p.345-349(DK470082k) ページ画像

大正6年11月15日(1917年)

是日栄一、上野精養軒ニ於テ開カレタル当大会ニ出席シ、演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三五五号・第九一頁大正六年一二月 ○全国化学工業家大会(DK470082k-0001)
第47巻 p.345 ページ画像

竜門雑誌  第三五五号・第九一頁大正六年一二月
○全国化学工業家大会 青淵先生・清浦子爵・内田逓信次官・高松博士諸氏に依り発起せられたる同会は、十一月十五日上野精養軒に於て開会せられたる由なるが、来会者は千余名に達し、青淵先生にも一場の演説を為されたる由なるが、学者と実業家と握手したる此の手を永久に離たず進まば、これ戦後に備ふる唯一の力なる旨述べられたる趣十七日発行の帝国新報は報ぜり。
  ○演説要旨略ス。


化学工業大会議事講演速記録 第八三―九二頁大正七年一月刊 【化学工業の既往 男爵渋沢栄一】(DK470082k-0002)
第47巻 p.345-349 ページ画像

化学工業大会議事講演速記録  第八三―九二頁大正七年一月刊
    化学工業の既往
                    男爵渋沢栄一
 満場の諸君、私には此の上もない迷惑な演壇に立ちまして、何を申上げていゝか判らぬ位でございます、化学工業などゝは全く縁故のな
 - 第47巻 p.346 -ページ画像 
い、而かも今日は実業界を引退して残生を送る身の上が、斯かるお席に於て講演などゝは余り奇観と申すべきである、けれども参上いたしましたのには多少の理由がございましたのであります、それは諸君に此の化学工業の昔を想ひ起す事の御願をしたいのであります、依て化学工業の将来と云ふ高松博士の演題に引替へて、私は化学工業の既往に就てお話するのが、将来と既往と、新らしいことゝ古いことゝ、其対照が至極よからうと存じます、――私は今日まで此博覧会も一覧する機会を得ませぬが、是は怠りであるか、若くは多用のためであるかそれは諸君の御推察に任せますが、今日用事を差繰りて無理にも出席しましたのは、如何に私が熱心かと云ふ事をお察し願いたいのであります。
 それで私は、今日より十五年前に独逸に参りました時に、有名なるイツセン市のクルツプの工場を一覧致しました、その時其壮麗なる大工場の脇に粗末な家屋がありました、私は大にこれを怪みて何でありますかと質問しましたら、初代のクルツプが製鉄事業を創立した時の家であつて、爾来段々発展して今日の如き大工場となつたのだと申しました、私はこれを聞きて、よくも此旧家屋を遺して置いたものだと思ふて、クルツプ工場の支配人等が昔を想ふ念の深い事に感服いたしました。
 今日の私の演説も其のクルツプの古い家と同じやうなものであります、右に述べたクルツプの家は、今日如何なりましたか判りませぬが事業は益々広大になつた事は推して知る事が出来ると思ひます、今日欧洲列国の商工業は化学に拠りて益々進歩いたし、其必要と共に研究を尽して居ります、今私が過去の化学工業に対して回想しますと、恰度クルツプの工場にある所の古い家と同じやうなものでありますから試みにこれを諸君に御聞に入れる為め、二・三の昔話をいたします。
 私は銀行業者でありまして化学工業といふことは余り知らないのも無理はないのであります、よし又多少工業に対する関係もあり、銀行業ばかりではいかぬと思ふて、その事に考を持つて居りましたとしても、化学工業と云ふものは余程後の事であります、其始めは機械工業を必要と思ひました、何でも工と云ふ字は直に機械工業の事を感じましたので、物理化学などゝ云ふことは、段々後に進化的に承知したのであります、其の初めは多分明治十三・四年頃であつた、今の東京瓦斯会社の前身が東京府の管理に属して瓦斯局と申して、仏蘭西人を其技師長に雇ふて居りましたが、いつまでも外国人を使つて居りまするのも心細い事だから、日本人にやらせて見たいものだと云ふので、助手として適当な人を帝国大学総理に相談いたしました、此席に御いでの高松先生が大に心配して下さいまして、一人の学生を瓦斯局の技師に雇ふ事と致しました、其学生は応用化学を修めた人と云ふことでありました、私は其頃は純化学と応用化学とは如何に相違するといふことも判りませなむだ、是は決して謙遜で申すのではなく、知らざるを知らずとして云ふのであります、そこで其学生が宜からうと云つて頼む事にすると、其人が私に問ふには、此瓦斯局は将来如何になるものかと申しますから、私は答へて、向後永く東京府で経営するのは面白
 - 第47巻 p.347 -ページ画像 
くないから、相当の利益があるやうになれば株式会社に移したいのであると申しました、すると其学生は、それでは私は就職はいやだ、私は是迄学問をしたのは官吏となりて、世間に向つて大に名誉を発揮したいと思ふからで、民間の事業に従事して、利益を得るだけでは、一旦約束はしたが御免を蒙ると申します、是は実に驚き入つた事と思ふて高松先生に相談をいたしましたが、更に加藤弘之氏が総理をして居られる時代でありましたから、面会して右様なる教育をしては困ると云ふて大に議論を為し、且つ高松先生も其学生を説得して就職したのであります、実に応用化学を修めながら将来役人のみを企望したら、其応用化学は何の用に供するか、官吏でなくては名誉が発揮されないと云ふ事はないと百方訓戒したのであります。
 それから二・三年の後でありましたが、大阪に綿糸紡績工場を起しました、今の東洋紡績会社の前身であつて今日では先づ紡績として有数な会社と申してよいと思ひます、此紡績工場の初めは紡績ばかりでありましたが、数年経てから織布をやるべしと云ふことになりまして織物を経営することになりました、舶来の織物と同じやうなものを作つて、内地は勿論、進んでは支那・朝鮮に売捌くと云ふ目的であつた是は単に機械工業でありますから、化学に関係はないかも知れませぬが、其織布に糊を用ひる事がどうしても外国のやうに具合がよく行きませぬ、英国のみならず米国の織布に比べても、目があらくて、光沢が少ない、同じ反物であつても見劣りがする、是は糊の具合が悪いのであるとは判りましたが、その糊がどうしても工夫が出来ぬ、玆に於て紡績会社長の山辺丈夫氏は頻りに心配をして、態々人を英国に派出して研究を致しまして、漸く之れでよいと云ふことになつたのであります、今日では、各工場で西洋の織布と余り違はないやうなものが出来ることになりましたが、その時の有様は私にはよくは判りませぬが単に糊を作る為めのみにも、特に人を外国に送つて大に苦辛したのであります、化学と云ふ事に就ては当初の工業家は如何に困難をしたかと云ふ一例であります、但し其頃日本の内には右様なる糊は夙くに出来て居つて、大阪紡績会社だけが知らなかつたものとすれば別段でありますが、化学の上にはこれ位に心配したと云ふことを既往の実例として申上げるのであります、諸君、化学工業に就ては当初の工業界は斯様に苦心したと云ふことは随分申上げて宜い事実と思ひます。
 更に一つの実例があります、それは只今人造肥料会社の平田君がお出になりましたが、現に同君の御担当になりまする大日本人造肥料会社は、其初めは東京人造肥料会社と云ふたのでありますが、私が創立した会社で、矢張り化学工業の経営であつた、明治二十年に事業を起して、其製造した肥料を売らうといたしましたが、第一に失敗した、それは技術家が悪いのではなく私の主たる過失であつた、其肥料を何れの地方へ売るかと云ふことになりては、誰れも思ひ起すのは、一番肥料に重きを置く土地に売るがよからうと云ふことになる、而して何れの地方が肥料に金を費ふかといふと、藍を作る土地が肥料を多く使ふ、故に藍作ある地方に売るがよからうと云ふて、過燐酸肥料を見本のために阿波に送りました、然るに其後の報告に其肥料が少しも効か
 - 第47巻 p.348 -ページ画像 
ぬとのことで種々調査して見ますと、藍作には窒素肥料でなくてはならぬのを、過燐酸を提供したから、恰かも上戸に甘酒をやつたやうなものであります、それと同時に越中地方へも試験しましたが、之れは植物に対しては不都合はなかつたが、越中の田は水掛りが宜く常に水が流れて居りますから、粉末の過燐酸肥料は皆水に流されて終いまして矢張り失敗に終りました、是等の事は実に化学工業上の失敗と云ふべきではありませぬか、当時の工業界の化学に対する智識が如何に幼稚であつたと云ふことの証拠立てになるのであります、是等は私自身の失敗でありますから、他人はさうではなかつたかも知れませぬ、私一人の無調法と云ふ事ならば私は自己の恥を曝らす為めに此の演壇に立つたやうなものでありますが、私は思ふ、当時の有様は大底同じであつたと思ひます、即ち私だけが左様に知識のない者かと云ひますと或事柄に付ては外国人にも馬鹿気たことをする事があります、此一例は化学工業とは違いますが、同年頃に楝瓦工場を私の旧郷里に創設した事があります、是は臨時建築局が設立せられて、日比谷に立派なる楝瓦家屋が造られます頃であつた、其楝瓦製造の為め一の会社を起さうと云ふので独逸から来てゐる技師を雇ふて工場を起した、詰り化学工業ではなく窯業と云ひませうか、兎に角技師の設計通りに此処で型を押し出し、此家屋でこれを乾かし、其頃の窯で焼くと云ふ順序である、而して其理論の通りにやつて見ました、型を押し出すもこれを焼く窯も順よく行きますが、乾燥の場所は設計通りに建築はしましたが予定の如くに乾かぬ、一週間で乾く積りでありましたのが、二週間経つても乾きませぬ、外国技師は家屋の構造が悪いのだと云ふて、色々と家屋に改良を加へて見ても尚ほ乾かない、段々と研究しますと、独逸の空気と日本の空気とは違ふのが原因でありました、而して技師はこれを知らず、吾々も気が付かなかつた為めに大に困難をいたしました、数へ来ると、斯様な事柄は数多くあります、之れは単に既往の失敗のみを申述べるのではなく、その頃は学理と実際の密着と云ふ事が一問題となつて居りまして、私抔は頻りに之れを論じたものであります、が、此密着が十分出来なければ工業の進歩は難かしい、之れは唯実際家に対して学者が苦情を云ふのも間違ひである、と同時に学者のみに実際家が不足を云ふのも亦大なる間違ひである、要は双方相助け相俟つて、其宜しきを制するやうにせぬと吾が工業の真正なる発展は出来ないと、私は思ふたのであります、想ふに学理と云ふものは必要でありますが、或る事物に就ては学理通りに実際が行はれぬ場合があります、之れを学者は直に実際家が悪るいのだと云ふ、前の楝瓦工場の場合は実際家は技術家の指示する通りにしても、斯くの如く誤ることもある故に学者の説は困つたものだと云ふ事になります、詰り学理と実際とが一緒になることが必要で、是れが工業の発展する要訣であると其頃私は切実に論じたことを記臆して居ります、故に前述の二・三の失敗のために、学理実際の必要を論じたことは今日諸君の前に申上げても幾分の価値ある事と思ふのであります、左様に化学が当初の工業界に幼稚なものでありましたが、それは三十年若くは三十四・五年以前の事で、今日は実に長足の進歩をいたしまして、細より大に、
 - 第47巻 p.349 -ページ画像 
粗より精にと発展して列強に対しても恥かしからず、国運は之れによつて増進が出来るやうにまでなりましたのは、之れ位い嬉しい事はありませぬ、他の事業に於きましても、此化学工業の完全なる進歩がなくては満足を見ることが出来ませぬのは私が申上げる迄もなく、諸君の御知悉の事であります、然して之れを満足せしむるは、唯学理と実際の適合にあると申上げて決して過言ではなからうと思ひます、幸に満場の諸君が、学理と実際を適合する事に必要を感じて居られると信じますから、昔の一笑話を申上げまして、進み行く将来の参考と致したいと思ひます、後席には高松先生の化学工業の将来に就てと云ふお話がありまして、之れによつて益々諸君の御研究に資することゝ存じます、私は冒頭に申上げましたクルツプの古い家を、玆に御覧に入れたのでございます(拍手喝采)