デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
12款 其他 10. 三田社会学会
■綱文

第47巻 p.352-358(DK470084k) ページ画像

大正10年6月11日(1921年)

是日栄一、慶応義塾大学ニ於テ開催セラレタル、当学会講演会ニ出席シ「協調会と社会政策に就て」ト題スル演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一〇年(DK470084k-0001)
第47巻 p.352 ページ画像

集会日時通知表  大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
六月十一日 三田社会学会講演会(慶応義塾)


社会思潮 三田社会学会編 第一編・第三一七頁大正一一年三月刊 三田社会学会会報(DK470084k-0002)
第47巻 p.352 ページ画像

社会思潮 三田社会学会編  第一編・第三一七頁大正一一年三月刊
    三田社会学会会報
○上略
大正十年六月十一日(土)午後〇時半より、義塾大ホールに於て、第三回春季大会開催。演題及講演者氏名左の如し。
○中略
 協調会と社会政策        子爵渋沢栄一氏
○下略


社会思潮 三田社会学会編 第一編・第一三一―一四六頁大正一一年三月刊 協調会と社会政策に就て 子爵渋沢栄一(DK470084k-0003)
第47巻 p.352-358 ページ画像

社会思潮 三田社会学会編  第一編・第一三一―一四六頁大正一一年三月刊
    協調会と社会政策に就て
                   子爵渋沢栄一
 斯かる講堂で講演めいたお話をいたしますことは全く柄にないのでお場所柄甚だ恐縮に存じ御辞退致しましたけれども、幹事の方から是非一場の愚見を述べるやうにとの御希望がありましたので、玆に諸君に御目にかゝることになりました。斯様に年寄つて居りまするけれども、若いお方にお会ひ致しますと諸君が年寄はあの様なものだと観察なさるよりは、私共が若い方は斯ういふものだといふ事を観察する方が余程利益する所が多いのであります。それに若返るには成るたけ若いお方と相接して行かねばなりませぬ。これが不老長生の法だと思つて、寧ろ諸君の為に来たのでなく、私の為に諸君を利用するのであります。近頃は一般に青年が尊重され、或は中堅の青年とか或は有為の青年とか種々と青年に形容詞がついて、何方へ参つても青年でなければ夜も日も明けぬやうで、年寄になると、何でさう長く生きるのかと軽蔑されるやうになる処がある。この場合私は無暗に年寄を振廻す訳ではありませんけれども、決して年寄も始めからの年寄ではなかつたといふことだけは御承知を願いたい。諸君よりもまだ若い時分が私にだつて有つたのであります。いつ迄も老人にはならぬものであると、若し諸君がお考へなさるなればそれは見損ひで、軈て私の如くに年寄になる、青年から壮年になり壮年から老人になるのは免れぬ運命です
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から、左様御覚悟なさるやうにしたい。この間早稲田大学の浮田和民君が欧羅巴から帰られて種々話をなすつた中に、特に米国・英国あたりで稍々さういふ調子があるといふことで、壮年と老年との者の働きに対して、これは冗談のやうな話でなく、実際に働くところの観察についての説がありました。昔は大体に三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知る、段々と十位宛に位地が進んで行くやうに、七十にして心の欲する所に従つて矩を超へず、十年々々と進んで行つた有様で、これは論語について述べたものでありますが、吾々について見ても、年の寄る程修養も進み経験も増して、仕事に練熟して来るものゝやうに見へます。果してその通りだとすれば、私共八十歳になつて大変怜悧になつたやうでありますが、事実は左様でもありませぬ、七十にして矩を超へずであります。八十歳になつた者は何う云つて宜いか、何れにしても年が寄るから智識が進むといふ理由はございませんが、浮田君の云はれた欧米の事情を見られたる判断にしても事を処するには少くとも四十以前でなくては不可ぬ。青年若くは壮年の間が、之を為すべく適当な時期である。若いお方でないと実際に当つて役に立たないといふのでありました。斯う申しますと、若いお方のみを尊重して年寄は無用視するのであるかといふと、欧羅巴でも米国でも決して老人を軽視しない。即ち仕事をするには若き者が善いがその仕事を為すに当り、事の是非得失を判断する者はこれは年寄でなければならぬ、所謂過去に於て幾多の経験を積んだ人に考察させて、其の方針でやらなければ不可ぬといふので、その事を行ひ、処断して行くには、成るべく若い人の強き断行力に依る可きである。これは近頃の傾向だと申しますが、それが果して完全なものであるか否かは分りませぬ。或は一理あるかも知れません、さうしますと先づ主人は六十歳以上でなければならぬのでありますが、これも果して然るか否かは研究を要します。然し老人と壮年、或は青年との間柄に就ては左様申してよいと思ひます。然し以上は此壇上に立ちました目的ではなく私が申上げたいことは、社会政策の一部として資本と労働の関係につき、平常抱懐して居る愚見を申上げて見たいと思ふのであります。然しながら、皆様は現在社会に於いて活動して居られない事と思ひますので、先づ実際社会の御話を致します。何れ学窓を出てから社会に立たれた時に、渋沢が斯様に申したといふ事を以て、或はこれは違つて居るとか、若くは大きに左様であるとか、お思ひ当りの場合があると思ひます。一般に社会政策と称へますると、多くは学者の研究範囲に属するかも知れませんが、私はさういふ広い意味に於ける、学問としての政策を説くことは自身にそれ程の素養がありませんからこれを避けて、唯だ労資の関係に就き申上げたいと思ふのであります。私は大正五年に実業界より退きましたが、其時、仮令老衰はしてもまだ五年や七年は世に奉仕することが出来る筈である。その社会奉仕は、如何なる方面に始めたら好からうかと考へました。これは私の一時の気紛れからではなく、真剣になつて自分の心に自ら定めた一案件でございました。元来私は、一介の百姓から種々変遷して、実業家となつた者である。実業家と申したところが、其れも十分に研究して、諸君に模
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範を示さうとか、或は模範にならうとかいふ大抱負を持つた訳ではありません。唯、維新の当時日本は如何にしても物質的の富を増さなければならぬ、日本の国家を欧米諸国に対比して劣らぬやうにするには其れより他に手段がないと思つて是れに微力を尽したのであります。事業を経営するとなりますと、利益を得たいと考へたのは勿論でありますが、己れの富を増したいといふよりは、寧ろ国家の富を増したいといふ希望で、其方面に力を尽しました。然し斯くの如く物質的方面に尽力する計りでなく、精神的の方面に就いても微力を致したいと考へて居りましたが、丁度大正五年に私は七十七になりましたので、今ぞ活動方面を変ずべき時と思つた為、前申したやうにその以後の生命を他の方面に尽して見たい、即ち物質的方面を中止して精神的方面に努力して見たいと考へました。而してその一として、先づ資本と労働との調和に努力したいと思つたのであります。之れはその当時の一大抱負と申しても良いのでありました。然るに、恰かもその事が当時に於て最も重要問題となり、独り私のみならず政界の人、学会の人、経済界の人は何れも之を重要視して居り、爾来益々注意するやうになつて参りまして、遂に一昨年此目的の為め協調会といふものを設立いたしました。然しこの協調会といふものが、果して資本と労働の調和を十分に計ることが出来るか否かといふことは、まだ一の問題と云はざるを得ぬのであります。私がさういふ事柄に力を入れやうと考へまするについて、私自身の見解を申上げて見ますると、日本の従来の工業といふものは全く家庭的の事業であつて、或は子弟関係、若くは傭者被傭者の関係で、極く小さい区域に別れて成立つて居りました。これは決して真に工業を盛にするといふ方法ではないのであります。海外諸国の例に徴しましても、蒸汽・電気といふものが発達すると共に、これに依つて経営するやうになり、家内工業の小規模の経営では何うしても割合が高くつきます故、従つて資本を集めて大規模の工業にするといふのが免れぬ趨勢となつた次第であります。その事に就いては唯単にそればかりではなく、経営の方法、動力の取り方、これに対する労力の加へ方、資本の投じ方等、各種の事情からその事業が生れて来たのでありますが、その中で資本と労働が一番関係が深いのであります。而して我邦に於ては、前申した家庭工業にあつては極く小さい資本でのみ経営されて居りましたが、欧米の式を学ぶに従つて自然従来の有様が除却され、新らしい式によつて経営されるやうになつたのであります。抑も明治七年に王子の紙工場を経営しました時分には、東京に煙突が始めて出来たといつても好い位のものでしたが、其他種種の方面にも僅かの間に各種の大事業が順次に勃興して参りました。併し乍らこれ一時の仕上げであつて、完備した組立と申すことは出来ないのであります。その中に今の抄紙部と称へる印刷局の経営などが大分人を使つてゐたので、その経営に欧米式を採用するやうになつて来た。それから後鉄道若くは砲兵工廠などといふ諸工場で追々と多数の職工を使用するやうに相成つて、従つて是等もやはり欧米式に、組立てる様になりました。官辺に属したものは多く斯ういふ風で、労資協調といふのではなく総てが全く命令的である。而も民間の仕事はや
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はり従来の家庭的工業の大規模なるものに過ぎませんでしたが、追々に工業会社といふものが起つて来まして、漸次に多数の人を使ふこととなりました。またその使用者中にも欧羅巴の有様を熟知する者も出来、或は米国に傚つた会社組織を工場に対してすることゝなり、或は労働者の共同的利益を増すとか、共同的教育を施すとかいふ様な制度も出来ました、けれども是等はまだ十分でなかつたのです。完全とは申されなかつたのです。丁度二十四、五年も以前でせう、農商務省が工場に関する法律を設けねばならぬといふので、工場法を布くことになりました。即ち、政治上から工業に対する一の施設をしやうと試みたのであります。そして商業会議所に諮問がありました、私はその時分商業会議所の会頭をして居りましたが、種々慎重審議をして、未だ工業が幼稚である、この場合に欧米に倣つた制度を布くと寧ろ理屈に追ひ仆されるかも知れぬといつて、工場法尚早しといふ意見を二回ばかり提出したのであります。之は余程昔の話でありますが、其後十数年を経て又更に農商務省に於て工場法制定の議がありました。その時は制定されましたが、その法もやはり欧米のそれに比較すると、大分差異があります。例へば子供の年齢でも余程年の若いものを使ふて宜しい。又就業時間の制限なども全くございません。だから夜業も随意にいたし得るといふ仕組でありました。但し幾年後にはこれだけの事はしなければならぬといふ除外法を以て、工場法は、布かれたのであります。右様な有様である所へ事業が進歩して来ると、労働に従事する人々の間にはやはり欧米の其れに見習うて一の組合を作り、その力に依つて利益を進めやう、又困難を除くやうにして行かうといふ話が段々と始つて参つて、所謂労働組合の形成を為さんとしたのであります。これはモウ年月からいふと、七、八年若くは十年も以前の事実なのであります。併しながら此の当時に於きましてはまだ資本者と労働者の間に軋轢を生ずる、即ち被傭者が傭者に対して同盟罷工を行ふといふやうな場合に迄は至らなかつたのであります、ところがこの欧羅巴戦乱の結果、追々と海外に於て労働者の我儘が増長したといふ以外に、制度上からもこれを採用するやうになり遂に国際労働会議といふ事も成立つて参りました。この戦乱前に於て既に一般の機運は欧米に於ては労働者の世の中といふやうな有様となつて居りましたのが、変事の為め一時其勢を殺ぎ又戦乱の終局と共に勢を増して参りました。この風潮が大分日本へも参つて居ります。即ち日本もこの事について何とか方法を講じなければならぬといふことになつたのは、是等の事態が誘導したと云つても差支なからうと思ふのであります。労働組合でも単に東京ばかりではございません、各地で或る会社に従事する人人が相当なる仲間を以て組合を作つた例は、欧羅巴戦乱の前にも多少あつたやうであります。殊に東京で最も有力なる団体は今も存して居ります友愛会でありますが、此会などは労働団体としては、設立の古い方である。その中には多少欧米の事情を知つて居る人の指揮するところあるが故に、稍々条理を以てこの会を組織して居るといつてもよいやうでありますが、併し今日の労働界は、私は細かに欧米の実際を知りませんから左様に断言的には申上げられませんが、其の組合法は
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まだ甚だ極く幼稚である、不完全であると云はなければならぬのであります。それで協調会の起つた原因は如何といふと、是等の有様がことによつたら種々なる変化を来して、遂には彼処でも同盟罷業、此処でも怠業といふことが起つて来はせぬか、その場合に何とかこれに対して方法を講じなければならぬといふ事からして、政治家・学者・実業家等の考慮を煩はすことゝなりました。即ち、これに対して如何にせば良いかといふ事が其の主要問題となつたのでありますが、それを此所に大別して申しますと、二個の考へが立てられるのであります。現在のまゝにして行くとすれば、資本者側では圧迫とは云はぬ迄も、労働者の我儘を募らせずに自己の勢力で使ふといふ、左もなければ労働者が十分の働きも出来ないのに報酬だけを余計取るといふ事になつて来る。これは大いに防がなければならぬといふのは、決して資本家自身の損得ばかりではなく工業界の前途を慮る所以なのであります。一方労働者側から云へば、労働は彼等に唯一の資本であり商品である其処で高いから負けろ、安いから売らぬといふことになつて来る。これを一定させるには、何うしても所謂階級戦より外にはない。これは何うも無理ならぬことであつて、明治の当初に起つた民権論者の所論がそれであつた。私は実業界に居りましたから、あまり多くを知りませんでしたが、当時の民権論者に対して、其れ以前に攘夷論といふものがありました。此攘夷論者の中には私も加はつて、盛んに尊皇攘夷の説を提唱致したものでございます。扨て、今申した資本家と労働者との対抗の意義は、一方の力が強ければ自然と一方が服従する、故に争闘をすることに依つて、以て敵を制するといふのでありますが、此の一方を抑制するといふ考へ、即ち階級戦とも申すべき資本家対労働者の抗争によつて、この両者の利害的背反の調節を計るのである。併し乍ら、是等両階級の闘争は、或る場合に大いに工業の妨害を来す。一体資本家なる者と、その資本に依て事業を経営するに対して力を合せるところの職工即ち労働者とは、その双方が相協調する事に依り初めて仕事が出来て行く、両者を一にせねばならぬ。それを階級戦で解決せんとすれば縦令一致点を見出すにしても、相争ふといふことに就ては其の裁決が困難である。左様な事をせずに両者相助け相倚つて仕事が出来得べきであるから、労資は必ず協同調和して行かしむべきものである。是非両者を調和させてやるやうにしたいといふのが吾々の希望で、即ち私共が関係して居ります協調会は、この論拠によつて成立したものであります。尤もこの協調会の制度は、只単に資本と労働とばかりに局限されずに、即ち今日の社会に於ける一般の社会政策、例へば貧民に対する救助にも多少の考へを及ぼさなければならぬし、又労働者が職業を失つた場合にそれを考へてやらなければならぬし、或はまた其の組織を如何にしてやれば宜いか、これに就ては日本の現状と欧米の先進各国の有様を十分に調べて而して只単にそれを発表するばかりでなく、実際に指導して行く。又今申し上げた通り、資本労働の関係のみを協調の目的と致すに止まらず、我が協調会では講習会を開き、また従来高等工業学校の経営して居られたる徒弟学校を引受けて、これに於いて技術的職工になるべき人の教授にも努めて居ると
 - 第47巻 p.357 -ページ画像 
いふ次第であります。併しこれより先に最も力を尽さなければならぬのは、大なる工業会社の会社自体と、それに従事する労働者との間に立入つて十分に調査し是が消息を明かにすることである。而して両者の利害得失、或は是非曲直を吟味して、一方の自覚の足らぬところは成るべく之をして自覚する域に達せしめ、若くは一方に於て、自分の都合のみを計つて或は時間に拘泥し、或は給料に泥んで能率の上らぬのを顧みぬ所の人に対しては、努めてその考を矯正して行きたいといふので、今日のところは必死に努めて居りますが、まだこれが完全に行届いたとは云はれぬのみならず、協調が屹度遂げられるといふことも、世間から見たら多少疑問と仰せられるかは知らぬが、併し昨年の十月頃から最もその事に熱心なる専就の理事が数名出来、また是に附随する人々が数十名各部門を分けて尽力して居ります。憚りながら徳川会長始め、私共も大抵一週間に一度宛は顔を出してその経過を聴きまた或る事柄については注意をいたし或る事柄については愚見を陳情して、今や頻りに努めつゝあるのでございます。これが先づ協調会の成立して今日に至つた有様で、資本・労働の関係及び其間の反目に就ては、是等の力が両方とも十分に進んで行くと争闘になる、一方には資本家も時勢に応ずる様に自覚をさせて、唯単に昔の観念にのみ走らぬやうにさせると同時に、労働に従事する人々もその能率を重んじて仕事の出来栄えを思ふやうにさせたいと考へるのであります。この事柄については、私は実際に関係はせぬ工業界の有様ではあるが、大体に想像して見ますと、実に悪い時代に進んで居ると申さなければならぬのであります。これは全体から見たことで、単に工業のみではありません、日本現在の有様に於て、多くはさういふことではなからうかと思ふのでありますが、やはり戦乱の興つた結果は諸物価を暴騰せしめ、生活も進んで来た、何も彼も高くなつた、各方面とも戦争以前に比較して見れば、倍以上の費用を持たなければ吾等の生活は出来ぬやうになつて来た。さうすれば其れに応ずる仕事が有らぬ限り、収入と支出とは相伴はぬ訳であります。費用が余計掛つて働くことが之れに伴はねば生活は困難になる訳であります。所が費用は倍に増したが所謂能率、生産の有様は悪くすると半減したかと思はれる有様である。其れ程でないとしても、工業上の能率は減じて居るやうであります。これは私は只今経済界に居りませんから、詳かな調査ではありませんが、大体の観察として誤りはない心算であります。故に日本の経済界を考へて見ると現在は悲むべき時であります。日本の諸式は他の国々に比べて甚だ高い、高ければ輸入が増加する。輸入が増加すれば国は貧乏になる。斯の如きは由々しき大事とまで申したいのであります。之に加ふるに一般の風潮は、単に労働者のみに就て申す許りではありません、或は学事に従事せらるゝ此席の皆様、必らず此の席に居らるる皆様だとは申し得ませんが、若い方々の思想について考へて見ても左様に思はれます。私は、現今の吾邦の状態は甚だ堅実を欠く、信念に乏しいと、斯う申上げたい様に思ひます。殊に昔の私共青年時代、即ち私共書生の頃を考へて見ましても、私自身が左様であつたとは申さぬが強い信念を以て世に立つことを始終心掛けたのでありました。
 - 第47巻 p.358 -ページ画像 
満堂の皆様は其れ以上の信念を持つて居らるゝかは知らぬが、私には世間並の学生は何処に信念があるか判らぬ。然し是は大体に就て申した事で、勿論信念ある方も少くないでせうが、総ての行動、総ての研究についても一般に信念が乏しい様であります。どうも今の若い方には信念が少ない、利害得失の計算に至つては其は明かであり、それらに対しての智識は多いが、之に反して世の中に対する犠牲観念とか、社会奉仕とかいふ観念は甚だ少ない。同時に当今の学生には吾々青年時代の如くに、人生意気に感ずといふ心持が欠けて居るやうである。これは実に憂ふべきことだと思ふ。この憂ふべきことは今申上げた学事に親しむ諸君の方の話にもなりますが、また前申上げました労働界の方では、最も甚しいところなのであります。この姿で進んで行きましたなれば、単に労働界の風潮のみならず、国家の経済の上に憂ふべき所があるではなからうかと思ふのであります。諸君は近き将来に学窓を出られると、皆社会の中枢の地位を占められる方々で、その時に成る程渋沢が斯ういふ事を云つたが左様であつたとか、イヤ斯く云つたが、さうでもなかつたとか、私の今日のお話をお思出しになることと思ひますので、以上のお話を以て、今からその事を希望いたしておくのでございます。
  ○協調会ニツイテハ本資料第三十一巻所収「財団法人協調会」参照。