デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
3節 美術
1款 財団法人大倉集古館
■綱文

第47巻 p.447-453(DK470116k) ページ画像

大正5年11月(1916年)

是ヨリ先、大倉喜八郎、授爵ヲ機ニソノ所有ニ係ル大倉美術館ヲ社会ニ提供セントノ意アリ。是月、財団法人大倉美術館ヲ設立スベキ旨ヲ発表シ、栄一並ニ末松謙澄・穂積陳重・阪谷芳郎・石黒忠悳ニソノ処置ヲ委任ス。

大正六年八月十五日、当館寄付行為作製セラレ、栄一立会証人トシテ署名捺印ス。爾後評議員トシテ歿年ニ及ブ。


■資料

中外商業新報 第一一〇〇四号大正五年一一月二七日 ○大倉美術館を公共物に 帝劇の授爵祝宴会席上で石黒男其顛末を語る(DK470116k-0001)
第47巻 p.447-448 ページ画像

中外商業新報 第一一〇〇四号大正五年一一月二七日
    ○大倉美術館を公共物に
      帝劇の授爵祝宴会席上で石黒男其顛末を語る
男爵大倉喜八郎氏は廿六日から廿八日迄三日間帝国劇場を買ひ切り、昨年授爵の恩命に浴せし披露会を催した、其第一日たる廿六日は午後二時過から朝野の
△貴顕紳士が 流れ込む帝劇の大玄関には、主人の大倉男を首めとして、夫人徳子、令嗣喜七郎氏・同夫人久美子・女婿高島小金治・同夫人つね子・大倉粂馬氏・同夫人等の一門ズラリと並んで之を迎える、軈て定刻の三時になると舞台の幕が揚つて、大倉男はニコヤカに、五階菱の紋所ついたる羽織袴の姿で
△立ち現はれ 「昨年恩命に浴して老後の光栄之に過ぎず、就ては不肖が明治維新以来心を尽して蒐集せる大倉美術館を、此機に於て大倉家の財産より全然切り離し国家社会の為めに提供すべし」と述べ、男の友人石黒忠悳男は「大倉君は還暦の祝に五十万円を投じて大倉商業学校を建て
△古稀の祝に は又五十万円を費して大阪に大倉商業、朝鮮に善隣商業の二校を設け、次で身を危くした中耳炎全快の際には済生会へ百万円を寄附されたが、今回授爵のお祝としては、破壊されんとする日本美術保護の為に多年蒐集された大倉美術館を、国家社会の為めに提供された、該美術館の敷地五千坪、建物一千坪、少く見て百万円の価格がある、之に
△五十万円の 維持費を添えて寄附されたので、今後の処置に就ては末松氏・渋沢男・阪谷男・穂積男及予等に托されたのである、此内に収められてゐる美術品に至つては今俄に云々する事は出来ぬから何れ東京・大阪・京都の確かな筋の評価を俟つて後、財団法人組織にする所存である、洵に国家の為め非常なる美事である」と述ぶる処あり○中略
 - 第47巻 p.448 -ページ画像 
△十時過る頃 散会したが、来会者七百余名の盛会で、其重なる人左の如し
 △仏国大使△伊国大使△暹羅公使△白耳義公使△瑞典公使△田逓相△岡田文相△加藤海相△仲小路農相△山県公夫人△蜂須賀侯△末松子△金子子△徳川義親侯△横田男△島村軍令部長△大島久直子△徳川達孝伯△高木兼寛男△青山子△目賀田男△安田善次郎△近藤廉平男△安田善三郎氏夫人△飯田義一△団琢磨△同夫人△米山梅吉△中橋徳五郎△土居通夫△志村興銀総裁△菊池長四郎△佐々木勇之助△佐々木慎思郎△星野錫△荘田平五郎△箕浦勝人△木村清四郎△同夫人△渋沢男爵夫人△武富時敏△神戸挙一△小室三吉△河村金五郎△□橋駅長△下田歌子△呉大五郎△高松博士△堀越善重郎△岡崎邦輔等諸氏


竜門雑誌 第三四三号・第六八頁大正五年一二月 ○大倉男の美挙(DK470116k-0002)
第47巻 p.448 ページ画像

竜門雑誌 第三四三号・第六八頁大正五年一二月
○大倉男の美挙 男爵大倉喜八郎氏は、十一月廿六日より廿八日まで三日間帝国劇場を買切り、朝野の縉紳数百名を招待して、昨年授爵の恩命に浴せし披露会を催されたる由なるが、其際大倉男爵は
 不肖昨年辱くも授爵の恩命に浴したるは老後の光栄之に過ぎず、就ては、不肖が明治維新以来心を尽して蒐集せる大倉美術館を、此機に於て大倉家の財産より全然切離し、国家社会の為めに提供すべし
と述べられ、該美術館を其後財団法人組織として保存する其処置方に就ては、青淵先生・末松子・穂積男・阪谷男に委托せられたる由。


鶴彦翁回顧録 大倉高等商業学校編 第四五四―四六〇頁昭和一五年一〇月刊(DK470116k-0003)
第47巻 p.448-451 ページ画像

鶴彦翁回顧録 大倉高等商業学校編 第四五四―四六〇頁昭和一五年一〇月刊
 ○事業沿革及び現況
    財団法人大倉集古館の沿革及び現況
○上略
 大正四年十一月翁は授爵の恩命を拝するに及び、聖恩の渥きに感激し、其奉公至誠の一端として、明治維新当時から五十年間に亘つて蒐集蓄積したる多数の美術品に、土地・建物及び之を経営する維持資金をも添へて寄附し、大正六年八月財団法人大倉集古館を創立したのであるが、此の計画を発表せられたる時、何故美術品を蒐集するに至つたか、又其蒐集に如何に苦心したかを語つて居る、今玆に其当時の翁の演説を掲記しよう。
 今日玆に御臨場の光栄を賜はりましたる閣下、諸君、令夫人、淑女の皆様に対し謹んで厚く御礼を申上ぐる次第であります。老生が昨年末授爵の優渥なる恩命を蒙りました其際には皆様より御祝詞を賜はり実に感謝の至りに存じます。此の御礼を申上度、又た本年は老生が八十歳の高齢を重ねました心祝ひを兼ね、玆に御招待申上げましたる処公務其の他御多用中に拘らず、遠路御来駕下されまして、誠に光栄の至りに存じます。右深く御礼申上げます。夫と同時に、此機会に於きまして、老生が大いに安心致して居りまする一条を、御報告申上げます。夫は外でもありませぬ、老生が明治初年以来、永年苦心蒐集し経営致しましたる古美術品及び美術館を、今回親友なる石黒男爵・渋沢
 - 第47巻 p.449 -ページ画像 
男爵・末松男爵・穂積男爵・阪谷男爵其他の御賛同を得まして、財団法人の組織と致し、公共に寄附することになりました一事で御座います。是は在来永く心に掛けて居りましたが、今回遂に斯様に決定致しまして大に安心し、喜びの余り御耳に入れる様な次第であります。
 抑々此の美術品の蒐集と云ふことは、甚だ六箇敷いもので御座いまするが、一寸私が初めて美術品に手を染むるに至りました動機を一言したいと思ひます。実は私は、幼少の頃故郷越後の新発田を出まして爾来江戸から東京に住むこと玆に六十余年になりまするが、其間に此の美術品蒐集に付、三つの変遷期がありました。
 第一は即ち明治維新の際で、此の時は江戸在住三百の大小名達や、八万騎の旗本が、皆食禄に離れ、三百年来の住宅を移動すると云ふ際で御座いまして、其の騒ぎは大変なものでありました。其の為めに貴重なる古美術品の破壊せられたるもの頗る多く、珍什奇宝の世の中に出ましたるもの数限りもありませぬ。所が人々は、皆之を粗末に扱ひ或は金屏風を焼き、金蒔絵を毀して純金を取ると云ふ様な次第、此間にあつて機敏なる西洋人は、此等の美術品に眼を著けて、之を買ひ集めて其の本国に送り出すと云ふことでありまして、我が国の為め寔に惜しむ可き次第でありました。之を慨嘆しまして微力ながら此の美術品の蒐集を致しまして、我が国宝が外国へ流出するのを防がうと致しました。之が抑々今日の美術館になりまする濫觴であります。決して初めから贅沢に美術館があつて、そして美術品を買入れたのではありませぬ。全く世界にも類の少なき我が古美術品の散逸を嘆ずるの余り初めました訳であります。併し其の時は資力は少く、学問は浅く、身分は低いし、却々思ふ様に行きませんでしたが、其の後資力の少し宛増加するにつれ、全力を以て蒐集致しましたが、其内漸次美術品に対する知識を得た様な次第で御座います。
 其次は、明治初年に於ける神社仏閣の分離期であります。御承知のとほり、我が日本は桓武天皇の御時代に、空海・最澄等の傑僧が、本地垂跡の説を唱へました以来、神仏混淆で御座いまして、爾後永く神仏が同居せられて居た訳でありまするが、之を朝廷の御命令で分離せねばならぬことゝなり、其の為めに神社に在りし仏像や仏閣に在りし神体が、夫々取毀たれることゝなつて、沢山世の中に出ました。其の中に美術上より見て、却々良いものも見えましたが、是も亦外国人の手に渡つて、海外に持去らるゝ運命に逢着したのであります。西洋人が名匠の手に成つた、古い仁王様を買ひ取つたが、運搬に厄介なのでストーブの焚料にしたら、枯れ切つて居るので、ヨク燃えると云ふ様な、乱暴な話もありました。私は此の有様を見聞して、是非之を保存しなくてはならぬ、此の貴重の美術品を粗末に扱ひ、之を破壊して何とも思はぬ人は、冥罰とも云ひませうか、其の運命が甚だ宜しくない之を保存してこそ、初めて神仏の冥加にも協ふ美術品愛護の一端と考へ、熱心に之を蒐集致しました。
 夫から又た其後明治三十三年に至りまして、支那に義和団の大乱が起り、拳匪は外国公使館を襲撃する、西太后及び光緒帝は長安に蒙塵せられる、北京の皇居は外兵の為めに蹂躙せられると云ふ一大事変が
 - 第47巻 p.450 -ページ画像 
起りました。此の混乱紛擾の中から、支那の貴重品が外国人の手に帰して、盛に海外に持ち出さるゝといふ有様でありました。長崎に寄港した外国船が、支那の美術品を満載して売飛ばしたと云ふのも此の時のことでありました。そこで私は支那の為めに、東洋の為めに是等の美術品の保護蒐集を致しました。之が美術品を集めました第三の時であります。
 夫から御維新の後に、徳川家の御霊廟が二つ払下げになりました。一つは上野の御霊廟で、是は外国人が買取りましたが、其の破壊の有様は誠に無残傷心の極みで御座いました。所が間もなく芝の御霊廟も和蘭人のシーボルトと云ふ人に払下げになりましたが、之を私が聞いて甚だ驚きまして、又候、上野の様に跡方もなく取崩されて外国へ持ち行かれては残念であると考へまして、早速シーボルトに相談し譲受けたのが、今美術館に存置して御座います桂昌院の霊廟であります。
 以上は私が永年かゝりまして蒐めた品でありますが、折角蒐集致しましても、若し子孫に美術心がなければ、其保存も心許なく、再び之を散乱せしむる様のことがあつては、折角の私の苦心も水泡に帰するのでありまする故に、之が永久の保存法に付き、種々と考へましたが頓と要領を得ませず、其後漸次齢をとり、本年は八十路の年を踏みまして、大に焦心して居りましたが、幸に今日、石黒・渋沢の両男爵其他友人の尽力に依りまして、自分の財産より切り離し、財団法人として公共に寄附し、一般社会の人と共に楽むことを得るに至り、心中大に安堵し、其の為め気が清々致しましたので、其の喜びの余りに玆に御報告致しまする次第であります。斯ふ云ふ工合に美術館を拵へ、之を公共に寄附することを得まするのも、全く国家の隆運に連れて生き存らへましたる御蔭で、国家の賜に外ならずと考へ、更に感謝の念を深うする次第で御座います。(以下省略)
 以上に依つて見れば、鶴彦翁が美術品を蒐集したることは、其れを単に愛玩珍重するためではなく、翁が一生を通じて関与したる事業に随処に見られる処の、国家奉公の念の現はれの一つであることがよく解る。
 創立当時の寄附物件は次の通りである。
   土地  四千八百弐拾五坪
   建物  第一号館 煉瓦造 弐百九拾六坪
       第二号館 木造  弐百四拾九坪
       第三号館 煉瓦造 参百拾壱坪
       朝鮮館  木造  参拾九坪
         附属建物   百六拾九坪
         土塀並煉瓦塀 六拾六間
   陳列品 美術品      参千六百九拾弐点
       書籍       壱万五千六百冊
   維持資金         金五拾万円
 而して陳列品は、翁自身が語られた如く、明治維新当時、我国文物制度の変革に際会し、国宝たる可き我が古美術品が海外に搬出せらるるを憂ひ、或は清朝の末期同国団匪の乱に其の珍什佳宝が欧米に散逸
 - 第47巻 p.451 -ページ画像 
せんとするを防止せんため、巨資を投じて之を購入したのである。其の美術品の種類は
 一、諸仏教国民の手に成れる各種の仏教式彫像並に画像及支那の道教式彫像
 二、我国の蒔絵品・書画・刀剣・甲冑
 三、支那の堆朱器
 四、支那の壙摶陶俑並に石仏及古銅器
 五、支那の書籍
等にして、就中支那堆朱器は、其の量に於て、其の質に於て、世界に冠たるものと称せられた。又豊太閤桃山の御殿は、人も知る当時美術の精粋を萃めたものであつたが、其の一部が翁の手に依つて保存され残つて居たのを集古館に収め、旧時諸侯伯城中対面の上段の間を造成し、桃山時代の絢爛たる芸術を窺ふことを得しめた。又徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院尼の霊廟の一部を移したが、頗る荘厳を極めたものであつた。
○下略


大倉集古館書類(一)(DK470116k-0004)
第47巻 p.451-453 ページ画像

大倉集古館書類(一)           (渋沢子爵家所蔵)
    財団法人大倉集古館寄附行為
喜八郎生テ昌代ニ遭遇シテ、叨リニ叙爵ノ恩命ヲ辱ウシ、感泣已ムナク、報効ノ念倍マス切ナリ、窃カニ謂フ、多年蒐収陳列スル所ノ古器物件ヲ以テ世ノ鑑賞ニ供セハ、則チ規模小ナリト雖モ帝都ニ一ノ博物場ヲ増シ、人ヲシテ考拠游娯以テ聖化ノ余沢ト為サシムルコトヲ得ンカ、果シテ然ラハ、庶幾クハ喜八郎感泣ノ万一ヲ表スルニ足ランナリ因テ右陳列館及ヒ其土地ヲ挙ケ、保存基金若干ヲ加ヘ、左ノ条項ニ依リ玆ニ此財団法人ヲ設立ス
    第一 目的
第一条本財団法人ハ大倉喜八郎蒐蔵ノ美術若クハ工芸ニ関スル物件ヲ其陳列場ト共ニ維持保存シ、之ヲ公衆ノ観覧ニ供スルヲ以テ目的トス
    第二 名称
第二条本財団法人ハ大倉集古館ト称ス
    第三 事務所
第三条本財団法人ノ事務所ハ東京市赤坂区葵町参番地ニ之ヲ置ク
    第四 資産
第四条大倉喜八郎ハ本財団法人ヲ設立スル為、其所有ニ属スル左記ノ土地・建物・陳列物並ニ基本金ヲ寄附ス
   一土地ノ表示添付目録及図面之通リ
   一建物ノ表示同上
   一陳列品ノ表示添付目録ノ通リ
   一基本金五拾万円也
第五条資産ハ評議員会ノ決議ニ基ツキ理事之ヲ管理ス
第六条大倉喜八郎ハ大正六年拾弐月弐拾五日限リ基本金五拾万円ヲ払込ムモノトス
 - 第47巻 p.452 -ページ画像 
第七条基本金ハ国債証書其他ノ確実ナル有価証券ト為シ、其保管ヲ日本銀行ニ委託スヘキモノトス
第八条本財団法人ノ経費ハ前条ノ国債証書其他ノ確実ナル有価証券ノ利殖金ヲ以テ支弁シ、剰余アルトキハ之ヲ積立金ト為シ、臨時必要アル支途ニ充ツルモノトス
第九条本財団法人ノ会計年度ハ毎年一月一日ヲ以テ始リ十二月卅一日ヲ以テ終ル、但初年度ハ設立許可ノ日ヲ以テ始ル
第十条本財団法人ノ目的ヲ賛襄シ其ノ事業ノ拡張又ハ維持ノ為金品ヲ寄贈セントスル者アルトキハ、理事ハ評議員会ノ決議ニ依リ其寄贈ヲ受クルコトヲ得
第十一条本財団法人ニ属スル土地・建物・陳列品其他ノ資産ハ之ヲ台帳ニ記載スヘシ
   台帳ハ評議員会ノ決議アルニアラサレハ之ヲ変更スルコトヲ得ス
   資産台帳ハ謄本ヲ作リ監事之ヲ保管スヘシ
第十二条本財団法人ニ属スル陳列館及資産ニ関スル管理規定ハ別ニ之ヲ定ム
    第五 役員
第十三条本財団法人ノ理事ハ参名トス
第十四条本財団法人ニ監事弐名ヲ置ク
第十五条理事及監事ノ任期ハ五年トス
第十六条理事及監事ノ任免ハ評議員会ノ決議ニ依ル、但理事ハ評議員中ヨリ之ヲ選任スルモノトス
第十七条本財団法人ニ評議員拾名ヲ置ク
第十八条評議員ノ選任ハ評議員会ノ決議ニ依ル、但大倉男爵家ノ戸主及其推定家督相続人ハ当然本財団法人ノ評議員ト為ル
第十九条評議員会ハ毎年度ノ終ニ於テ理事之ヲ招集ス、臨時招集ノ必要アルトキ亦同シ
第二十条大倉男爵家ノ戸主又ハ評議員五名以上ノ請求アルトキハ理事ハ評議員会ヲ招集スルコトヲ要ス
第廿一条評議員会ノ決議ハ評議員ノ過半数ニ依ル
第廿二条評議員会ハ予算・決算、其他重要ノ事項ヲ議決ス
第廿三条評議員ハ各自本財団法人ノ財産及ヒ業務ノ状況ヲ検査スルコトヲ得
      附則
第廿四条本寄附行為ハ評議員五分ノ四以上ノ決議アル場合ニ限リ主務官庁ノ認可ヲ経テ之ヲ変更スルコトヲ得
第廿五条本財団法人カ目的遂行ノ不能其他ノ事由ニ因リ解散スル場合ニ於テハ、理事ハ評議員会ノ決議ニ基ツキ主務官庁ノ認可ヲ得テ、本財団法人ノ目的ニ類似セル目的ノ為ニ其残余財産ヲ処分スヘシ
第廿六条大倉喜八郎ノ指名ニ依リ本財団法人最初ノ評議員ハ子爵末松謙澄・男爵石黒忠悳・男爵渋沢栄一・男爵阪谷芳郎・男爵穂積陳重・股野琢・馬越恭平・大倉粂馬・男爵大倉喜八郎及大倉喜
 - 第47巻 p.453 -ページ画像 
七郎、最初ノ理事ハ男爵阪谷芳郎・男爵大倉喜八郎及大倉喜七郎、最初ノ監事ハ村井吉兵衛及高島小金治トス、但爾後欠員ヲ生シタルトキハ其選任ハ第十六条ノ規定ニ依ル
第廿七条本寄附行為弐通ノ中壱通ハ最初大倉喜八郎ニ於テ、其後ハ代代大倉男爵家ノ戸主ニ於テ之ヲ保管シ、他ノ壱通ハ評議員ノ決議ニ依リ評議員中ノ壱名ニ於テ之ヲ保管スルモノトス
大倉喜八郎ハ前各項ニ掲ケタル趣旨ニ基ツキ直ニ財団法人ヲ設立スル為、玆ニ親族及親友ヲ立会証人トシ、其面前ニ於テ此寄附行為弐通ヲ作製シ、且下記関係者各自署名捺印スルモノナリ
  大正六年八月十五日   東京市赤坂区葵町参番地
                  男爵 大倉喜八郎(印)
                  立会証人
                  推定家督相続人
                     大倉喜七郎(印)
                  親属 高島小金治(印)
                  親属 大倉粂馬(印)
                友人男爵 石黒忠悳(印)
                同 男爵 渋沢栄一



〔参考〕集会日時通知表 大正六年(DK470116k-0005)
第47巻 p.453 ページ画像

集会日時通知表 大正六年         (渋沢子爵家所蔵)
九月十四日 金 午後六時 大倉美術館ノ件(葵町大倉邸)


〔参考〕青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一九頁 昭和六年一二月刊(DK470116k-0006)
第47巻 p.453 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第一九頁昭和六年一二月刊
    大正年代
  年 月
 六 四 ―財団法人大倉集古館評議員―昭和六、一一。