デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
3節 美術
1款 財団法人大倉集古館
■綱文

第47巻 p.453-457(DK470117k) ページ画像

大正7年5月1日(1918年)

是日栄一、赤坂葵町ノ当館ニ開カレタル開館式ニ出席シ、理事長阪谷芳郎ニ代リテ挨拶ヲ述ブ。


■資料

集会日時通知表 大正七年(DK470117k-0001)
第47巻 p.453 ページ画像

集会日時通知表 大正七年         (渋沢子爵家所蔵)
四月十六日 火 午前十一時半 集古館評議員会(大倉男ヨリ御案内)
   ○中略。
五月一日 水 午後 二時 大倉集古館開館式(同館)


中外商業新報 第一一五二五号大正七年五月二日 ○公開された集古館 仏像が第一で堆朱も偉観也(DK470117k-0002)
第47巻 p.453-454 ページ画像

中外商業新報 第一一五二五号大正七年五月二日
    ○公開された集古館
      仏像が第一で堆朱も偉観也
大倉喜八郎男が半生の心血を濺いで建設した大倉美術館は今度財団法人組織にして名も大倉集古館と改め、其開館式を一日の午後二時から挙行した、集る者朝野の
 - 第47巻 p.454 -ページ画像 
 ◇数寄者 や男爵知己の人人凡そ三百五十名、高閣棟を揃へて三つ室を劃する約三十五、其室の構へは、式を或は平安朝時代の宮殿に取り、或は江戸時代の書院に擬し、或は支那清朝王族の居室に倣ひ、或は洋風に築くなど趣を変へてある、陳列された古美術品の点数は合計三千七百十八点を数へ、殊に本朝・支那・朝鮮・喇〓の諸式の
 ◇仏像は 無慮七百五十点に垂んとしてゐる「集めればこんなにもあるものか」と仏国大使ルニヨール伯も驚いてゐた、仏画にも金に換難き絶品十数点あり、又本朝の支那最古の経文・仏具等も遺憾なく包容されてある、曾て芝増上寺の境内に在つた桂昌院殿の奥殿の構へも此処に移されて金碧の彩を存し、旧桃山城の
 ◇用材も 同じく右の奥殿の所々に挟まれて見えた、此等の仏像及仏具に次で人目を驚かしむるものは、堆朱室に在る清時代の堆朱三百余点と、陶磁器屋に在る青滋の器で、前者に対しては世間既に定評があるが、後者の部類に一品数万乃至十数万の名器の存するには、此日観者の等しく異様の感を抱いた所であつた、之が又大倉男の誇りとする一つであらう
 ◇来会者 は軈て広庭に設けられた天幕張の立食場に入り、渋沢男爵の挨拶、岡田文相の此挙を讚するの言葉もあつて散会した、因に同館は四日から公開される


竜門雑誌 第三六〇号・第七七頁大正七年五月 ○大倉集古館開館式(DK470117k-0003)
第47巻 p.454 ページ画像

竜門雑誌 第三六〇号・第七七頁大正七年五月
○大倉集古館開館式 先年大倉男爵が政府に寄附せられたる赤坂霊南坂なる大倉集古館は五月一日午後二時より内外朝野の名士及び美術関係者等七百余名を招待して、同館の開館式を挙行したり。陳列品は書画二百廿余点、古美術品・骨董の類三千四百八十余点、数に於て最も多きは仏像にして約七百卅点、第一室には以上の仏像と外に蒔絵類並に古器物を加へ、第二室には経巻・陶器類・銅器調度品を陳べ、第三室には堆朱・霊廟等の名物を列ね、足、一度館に入れば人をして回低去るに忍びざらしむるものありと。因に当日青淵先生は同館理事《(マヽ)》として一場の挨拶を述べられ、岡田文相来賓を代表して慇懃なる答辞を述ぶる所あり、黄昏に近く散会せる由なるが、尚ほ同館は四日より一般に公開し入場料金拾銭を徴するも、右は全部慈善事業に寄附する由。


竜門雑誌 第四四五号・第六三―六五頁大正一四年一〇月 ○青淵先生説話集其他 大倉集古館開館式に於て(DK470117k-0004)
第47巻 p.454-456 ページ画像

竜門雑誌 第四四五号・第六三―六五頁大正一四年一〇月
 ○青淵先生説話集其他
    大倉集古館開館式に於て
閣下並に諸君
 今日は生憎の雨天で道路の悪いにも拘らず、当大倉集古館披露の御案内に対して、斯く多数各位の尊来を忝うしたるは、大倉男爵は勿論関係者一同の感謝致す所で御座います。
 御案内申上ました阪谷理事長は、目下支那旅行中で、私に代理を委任すると云ふことであります。又此の集古館の設立者たる大倉男爵も私に謝辞を委任されましたから、私は二個の代理を引受けて居ります上に、個人と致しましても亦此の館の成立には多少参画致しました縁
 - 第47巻 p.455 -ページ画像 
故から、両男爵の代理として謝辞を述べると同時に、私の意見をも申添へたく思ひます。故に謝辞中に幾分賞賛の意味の加はることあるは或は自画自賛の嫌を免かれませぬが、主客を兼ぬる私の立場より已むを得ぬことゝし、諸君の御諒恕を願ふので御座います。
 大倉集古館の設立に就て、其の初め大倉男爵は如何なる考案を抱持されて居たかを私は詳知しませぬが、兎に角大倉男爵には数十年前より古美術を蒐集するに深い趣味を有され、且つ各方面より広く集めらるゝに於て充分の力を尽され、其の家政の益々隆昌に赴くと共に其の蒐集の方法も日一日と進展して、集合したる貴重の美術品は終に一の館舎に陳列して尚余りあるもの多数となつたのであります。是に於て大倉男爵は種々熟慮せられて、斯く多数の貴重品を集め得たのは自己の趣味から致したことではあるが、此の美術品は国家の宝物であるから、之を大倉一家の私蔵とするのは本意でない、何とかして此の国家の宝物を公共的の物たらしめて、以て聖代に報ずる方法はなからうかと、大倉男爵の胸裡に種々の方法が画かれ、更に親友諸氏とも数回の協議を重ねられ、私も旧友の一人として之に参画し、結局此の大倉集古館が成立したる次第であります。而して今日より一般的に此の館を公開することになりましたに付ては、平素御交際を敦うする閣下諸君に先づ以て御一覧を請ふために、今日御案内を致したのであります。
 斯様の事情にて今日御臨場を乞ひましたが、生憎の悪天候にて御来駕を懸念せしに、御通知したる殆んど全部の尊臨を得ましたのは、如何に閣下諸君の美術品を愛する心の深遠なるかを察知せられて、設立者たる大倉男爵及び理事長たる阪谷男爵の代理として、又た大倉男爵の旧友たる私個人として、実に感謝措く能はざる所で御座います。
 以上は、私が両男爵の代理資格にて、臨場の閣下並に諸君に対して謝辞を述べたのでありますが、冒頭にも申上ました通り、私は設立者の友人として一言を添へ度いと思ふのであります。元来私は美術の趣味なくして、之に対する知識は皆無でありますが、斯かる貴重なる珍品を多数に蒐集して、玆に一大美術館を設立されましたのは、或る意味に於て我が帝都に一大美観を添へる事になりますから、縦令美術に何等の趣味と知識を有せぬ私も亦、喜んで厚く設立者に感謝しなければならぬのであります。
 蒐集された今日より之を見れば、左程と思はぬかも知れませぬが、其の玆に至る迄の経路を探究すれば、実に容易の事でないから、私は此の集古館に就て、唐の王勃が滕王閣序に、所謂四美具、二難並と云ふ秀句を以て本館の讚辞と致したいと思ひます。何を以て二難並すと云ふべきか、凡そ美術を好みて之を雄合せんとするも、仮すに歳月を以てせざれば大成することは出来ませぬ。然るに大倉男爵は、性来美術に趣味を有せられ、五十年の久しきに渉つて一意其の蒐集に尽力せられたのである。又縦令男爵に此の特志あるも之を集むるの資力なければ其の志を果す能はざるに、男爵は趣味と資力とを併せ有したるは実に二難を兼併したものと謂ふ可きである。又四美具と云ふは、此の帝都に於てかゝる多数の美術品を蒐集し、之を宏壮華麗なる一大館内に陳列するは、既に二美併有と称するに足ると思ひます。而して其の
 - 第47巻 p.456 -ページ画像 
陳列したる各品も往々にして玉石混淆するは世間の常事でありますが本館に於ては充分に之を精選し、華を抜き粋を採りて斯く大成したのは、一の美事と云ふ可きであります、又其の精選されたる美術品も兎角一に偏し易きものである。然るに本館の物品は千五六百年前の古物より現代の新美術に至る迄各年代を通じて之を集め、而して其の方面も東西洋の差別なく、一斉に網羅蒐集したるは、一美に値するものと思ひます。
 此の四美二難を具並したる大倉集古館は、如何に私の美術に趣味なき眼より見るも、国家社会の至宝であると賞讚するので御座います、是れ即ち設立者の友人たる渋沢の言であります。
 終に臨みて、再び設立者たる大倉男爵、理事長たる阪谷男爵に代り又た一個人の渋沢として、臨場を忝うしたる閣下並に諸君に対し深厚なる謝意を表します。(大正七年五月一日大倉集古館開館式に於ける演説「立志実伝大倉喜八郎」所載)


(細田謙蔵)書翰 渋沢栄一宛(大正七年)七月二三日(DK470117k-0005)
第47巻 p.456-457 ページ画像

(細田謙蔵)書翰 渋沢栄一宛(大正七年)七月二三日 (渋沢子爵家所蔵)
拝啓 昨日ハ御苦労被下難有奉存候、特ニ毎々御厚擾被下悚謝之至ニ候、其節御依属ニ相成候集古館記原文改作両通別紙浄書差出候間御査収可被下候
大作寿序快読仕リ候、大体ニ於テ、面白出来居候ニハ感佩之至ニ御坐候、但字句間往々欠陥ヲ見認候儘、無遠慮ニ加筆仕候間可然御撿入可被下候○清水ノ文二通共不成文正タスヨリハ改正ノ方易シト存ジ、別紙改作仕候間御撿査御正シ願上候
大文並清水文大体ニおひて御同意ニ御座候ハヾ、今一応拝閲仕度、浄写之上御廻示可被下候、右要用ノミ得貴意候 匆々不悉
  七月廿三日                    謙拝
青淵公侍史
(別紙1)
    集古館碑               股野藍田翁撰
殖産興業以利家国。亦是丈夫之事業也。積而不知散。謂之守銭奴。散而無益于世。謂之浪費者。能積能散以資公益。謂之偉丈夫。若我大倉翁盖其人乎。翁少壮出郷。投身商海。日夜奮励。至老不休。遂能致今日之盛。其施為閲歴。載在余友三島氏所撰翁略伝碑中矣。頃日翁又挙積年所集蔵古美術品及陳列館其土地等時価凡八百万金。為財団法人。以五拾万金充其維持費。請知名之士為評議員及理事幹事。置館長以開鑑賞游娯之場。使子孫不得変更其揆。因欲樹石勒其事以伝于後。属文于余。方今遭遇昭代。乗運致富者千百何限。然不為守銭奴則為浪費者其志行若翁者能幾人。嗚呼翁従来資公益者不尠。今又有斯挙。以添都門一美観。可不謂偉丈夫乎哉。
(別紙2)
    大倉集古館碑記
古人曰、積而能散、又曰、道存利物、蓋古今積財者、不知散以利物、乃自私自悋、為衆怨之府者、十八九、所謂放於利而行多怨者、非邪、鶴彦大倉男、越人也、少壮入都、徒手業商貿、遷化居、遂能以貲財雄
 - 第47巻 p.457 -ページ画像 
乎海内、而安兮知足、用心公益、散而不悋、以其所以卓絶尋常商賈、而朝廷所以授崇勲栄爵也歟、明治之初、百度更革、棄故喜新、一時成風、即如古器陳玩、雑然充溢於骨董之舗、莫之或顧、或帰洋商手、流出海外者、亦不尠、男夙慨之、謂此皆良工名匠、所苦心経営、今乃如此、況使之帰外人手、委其褻弄、国辱亦大、奮然決志、投巨款購収、外及漢韓蒙蔵、靡不捜羅蒐輯、用心致力、前後肆拾余載、費財数百万金、所収参千余種、大而吉金楽石、精金美玉、中而奇書珍籍、断簡零墨、小而秦鏡漢瓦、半甎片石、莫不賅備、築集古館、蔵弆陳列、傍移幕府廃廟一宇、朝鮮景福宮遺材、以存古構、一入其中、陸離斑駮、千態万趣、触目爛然、有遊琳宮、而観海蔵之概、頃挙館及其基地五千歩附属棟宇庭園、並保存資金五十万円、為一大財団、以供公衆縦覧、因欲樹碑紀顛末、以告後人、徴余文、余曰、偉哉男之用心公益也、先是捐財者、不知凡幾、今又有此挙、可謂得散以利物之道矣、嗚呼使天下富豪傚男所為、而不甘於自私自悋、則福祉日加、余慶流於後昆、尚何招怨之有、故余作之記、嘉男之胸襟、青山白雲、治財能合古訓、併戒天下後世、黒風暗月、知積而不知散者云爾、
  大正六年十月
    宮中顧問官従三位勲一等文学博士 三島毅撰 時齢八十八



〔参考〕集会日時通知表 大正七年(DK470117k-0006)
第47巻 p.457 ページ画像

集会日時通知表 大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
十二月十九日 木 正午 大倉集古館評議員会(帝国ホテル)



〔参考〕集会日時通知表 大正一〇年(DK470117k-0007)
第47巻 p.457 ページ画像

集会日時通知表 大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
壱 月廿九日 土 正午 大倉集古館評議員会(大倉男邸)



〔参考〕渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK470117k-0008)
第47巻 p.457 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
一月二十九日 晴 寒
○上略 午飧後一時半大倉男爵邸ヲ訪ヘ、集古館ノ報告ヲ聴取ス、阪谷・石黒・股野諸氏来会ス○下略



〔参考〕集会日時通知表 大正一一年(DK470117k-0009)
第47巻 p.457 ページ画像

集会日時通知表 大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
九月十四日 木 正午 大倉集古館評議員会(帝国ホテル)