デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.530-537(DK470128k) ページ画像

明治42年10月11日(1909年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、第六回昔夢会開カレ、徳川慶喜出席ス。栄一ハ渡米中ニテ欠席。


■資料

昔夢会筆記 渋沢栄一編 上巻・第一二〇―一三七頁大正四年四月刊(DK470128k-0001)
第47巻 p.530-537 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  上巻・第一二〇―一三七頁大正四年四月刊
  第六
      明治四十二年十月十一日兜町事務所に於て

図表を画像で表示--

       興山公           渋沢篤二   文学博士 三島毅君    法学博士 阪谷芳郎                男爵        豊崎信君    文学博士 萩野由之        猪飼正為君        江間政発                     渡辺轍                     井野辺茂雄                     藤井甚太郎                     高田利吉 



○江間 昨日御次まで申上げて置きましたが、今日は二箇条ばかり御記憶のあらつしやる所を伺ひたうございます、あの長州征伐といふことを仰出されまして、将軍様が是非御進発にならぬではいけぬといふことは、あの時有志家の輿論でありました、御前なども其思召で、既に度々御書面もあり、それから永井なども御遣はしになつたかの御意でございました、あの永井の江戸へ下りますといふことは、書面では
 - 第47巻 p.531 -ページ画像 
見当りませぬ次第でございます、何かあるか知れませぬが……、全体あれは御内々といふやうな御使者に参りましたものでございませうか公然と御申付になりましたものでありませうか、
○公 あれは別に内々といふ訳ではない、永井は京都に居つた人で、委細を申含めて、是非御進発になるやうに申上げろと言つて、永井を下したまでのことで、内々といふ訳ではない、
○江間 其他に誰ぞ又御遣はしになつたことがありませうか、
○公 其他ちよつと記憶はない、会津の公用人、これも永井と一緒に下つたか、又別であつたか……、
○江間 確かあの時は小森久太郎といふ者が……、
○公 会津の使者にも、京都を立つ前に逢つて其事を申含めた……、よく彼方《アチラ》へ行つて其事が貫徹するやうに尽力しろといふことを申含めたが、それだけのことで、他にはちよつと覚はない、
○江間 すると小森は肥後守からの催促、永井は御前からの御催促で……、
○公 さうだ、
○江間 そこで其後に又会津が一度手紙を老中へ贈つて御進発を促したやうに覚えます、それから近衛様からも御書面を天璋院様の御側の老女に御贈りになりまして、天璋院様から将軍様へ御勧め申すやうにといふ意味で其周旋を御申遣はしになつたことがあります、其当時には薩州からも行きました、修理大夫の弟でございましたが、島津備後といふ者から天璋院様へ書面を差上げましたことが、或記録に見えました、けれども天璋院様も流石にあの時分の諸役人を憚られまして、遂に近衛様の書面といふものは、併せて其意味も将軍家へは御示しになることが御出来遊ばされなかつたさうでございます、又其当時に尹宮様から、津・芸州・久留米・肥後・薩摩、此五藩に内命がありまして、江戸の方へ下つて来て、すぐに幕府の有司に説いたのであります因循して機会を失つてはならぬから、是非にといふことを申上げた処が、これも遂に有司が用ゐぬといふ有様であつたさうでございます、それで私考へて見ますのに、かやうに京都から間接に御催促が頻に参つた動機はと申しますと、前回にちよつと伺ひました、御前が尹宮様へ御出でになりまして、かねがね朝廷の御沙汰といふことで、将軍を早く進発させいといふことに仰出されるであらうとの御内意に対せられまして、先づ御待ち下さい、朝廷を煩はし奉らぬでも、手前どもから一つ骨を折つて勧めて見ますからといふことで、一時御断りになりました、処が段々今の通り御申遣はしになりましても、書面も受けなければ、肝腎の御使者の言ふことも行はれないといふことになつて、機会が益逸してしまひます処から、其後又御参殿になりまして、もう此上は仕方がありませんから、御内沙汰ぐらゐは又願ふことになるかも知れませぬといふことを申上げて、御下りになつたといふことだけは、前回伺ひました、それで斯うなつて来ますと、近衛様から老女、尹宮様からどうと、今度は彼方へ向けて朝廷の方から頻に催促をなすつた、つまる処、願ふことがあるかも知れぬと言つて御下りになりました後です、もう仕方がないから、どうぞ御沙汰になるやうにといふ
 - 第47巻 p.532 -ページ画像 
御内願でも、御前から出ましたものでございませうか、
○公 そこは能く覚はない、判然と覚はないが、あつたかも知れない
○江間 何か願ふやうになるか知れませぬ、誠に困つたものでございますといふことが、宮様などの御耳にはいつた後でありますから、唯何ともないのに、それでは此方《コチラ》から遣らうと……、確にそんな御運動があらうとは思はれませぬ、殊に阿部豊後守が出て来ました時には、関白様から、早く帰つて将軍を出せ、委細承知しました、帰つてさういふことに致しませう、そこに至つて始めて朝命になるのですな、今の近衛様から人を以てといふことは、先づ幕府の注意までに御申遣はしになつた、斯う見て宜い、どうも私の考では、もう仕方がありませんからどうぞ朝廷から御沙汰の下りますやうに御願をするといふくらゐのことは、御口上がら、ありましたことだらうと思ひます、
○公 まああの時分の周旋方といふものは、江戸の方へ斯く斯くの用があつて参りますからと申上げると、此事は斯く斯くだから周旋をしたら宜からうといふやうなことは、毎々あることだ、或はさういふ御沙汰があつたかも知れないよ、
○江間 それから関東の有司が、強ひて将軍様の御進発を拒んで、其中にはどうかなるだらうといふやうな関東流儀で、あの大事を姑息にして置くといふのも怪しからぬ話ですが、どういふ訳であらうと、段段研究して見ますと、将軍様がすぐに御進発といふことは、格別議論はなかつたか知れませぬが、唯関東の憂ふる所は、将軍が御上京になると、前の通り京都に止められて、江戸へ御帰りなさらうとしても迚もいけない、先づ体の宜い人質のやうになつてしまふ、さうした時分には、関東の御威勢といふものは衰弱してしまふ、それでは御家の為にならぬといふやうな考から、頻に止めたのであらうといふやうに書きましたものがありますのですけれども、これは甚だ薄弱の考でございまして、どうも何か他に理由があるであらう、京都の方へも、いづれ永井が参りますにせよ、御書面の返事にせよ、何か申遣はしたに相違なからうと思はれますが、何か此外に御順延になります理由とも見るべきものはございませぬか、
○公 それは専ら役人どもの頭に、なに進発すると言へば、長洲は降参してしまふことは目に見えて居る、進発すると言ひさへすれば、もうそれで片附くと、斯う見て居たのが第一のやうだ、藩士などは一番軽蔑して居たものだから、なにあんなことを言ふけれども、進発と言へば、もうそれでべたべたと閉口してしまふといふ議があつたのだ、それだから先づ行つて、一つ向ふの様子を見るといつたやうなことがどうもあるのだね、
○江間 其有司中で、あの時の老中は残らずは記憶しませぬが、勝海舟の書きましたものに依つて見ますると、どうしても巨魁と見るべき閣老は、諏訪因幡守であるといふことを書いてございますが、成程あの人は祖宗の御法度といふ方の主義で、極《ゴク》おめでた主義の人のやうに私どもは見聞して居りますが……、
○公 さうだ、あれは其方の派の人だね、
○江間 誰ぞが関東の事情などを申上げました折に、どうもあの男が
 - 第47巻 p.533 -ページ画像 
どうしても承知せぬ、あれがなかなか納得せぬといふやうなことが、御耳にはいつたことはございませぬか、
○公 さういふことは別に聞かない、幕府一体に、物を費して親征するまでもない、唯進発すると言つて置けば、それで向ふで閉口して事が済むといつたやうなことがあるんだ、それに藩士を大変軽蔑して居るんだ、それでどうもいけない、
○江間 其引続きで、尾張老侯が総督で広島へ入らしつて、それで間もなくあゝいふ御取扱で済んでしまひました、其まだ済みませぬ少し前に、松前が老中になりまして、なりました翌日に長州行を命ぜられました、どういふ訳のものか、長州の方は御案内の通り稲葉閣老が専務であります、それに又松前が長州行を命ぜられました、其意味といふものは、水戸人の書きましたものに依りますと、幕府の有司は一時長州と媾和をする、将軍進発と発表すれば、御意の通り皆もう萎縮してしまふと思つたが、なかなか萎縮しない、総督が副将がと言つて、ぽつぽつ足を挙げて見ましたけれども、頑乎として居る、それに朝廷の方からは頻繁の御催促といふやうなことで、もう已むを得ませんから一時媾和を申込んで、其媾和使の意味で松前が長州行を命ぜられたのである、そこで松前は三日目に立ちまして、岡崎まで行きましたら長州の片が附いたといふ報に接しまして、それで済んでしまつたといふことが書いてあります、或は何かそんなことがあつたものでございませうか、
○公 それはどふいふものだか、事実如何のものだか……、此方から媾和をするといふのは如何のものだか、
○江間 それが実説として見ますと、如何にも唯故なく将軍様を御放し申すのが差支へるといふやうな、誠に薄弱の議論であらうかと思はれるのですが、よもやそんなことはなかつたのでありませうな、
○公 どうも全く様子を見て言へば、向ふの方から必ず謝《アヤ》まるといつたやうな考が大趣意のやうだ、
○江間 今一事伺ひます、あの武田伊賀の一条でございますが、あれが元治元年十月二十三日水戸を脱走して、段々に上方へ出て来ました結局は京都へ上つて御前に御目に懸つて、さうして歎願するといふ申立でやつて来まして、遂に美濃まで参りました時分に、あの党の中の鏘々たる三木左太夫・鮎沢伊太夫といふ二人の者が、美濃路から密に同行の者と途を異にして尾張に抜けまして、さうして十一月の朔日か二日の頃に、京都へはいつて潜伏したといふことがあります、そこで何しに二人途を異にして行つたかといふに、一同より先へ京都へはいつて居て、彼の地で何かの内訴等を致し、総ての周旋をする積りであつたやうに思はれます、両人のはいりましたことは明でありますが、其当時に何か内訴やうのことがありませぬでございましたか、
○公 其時に京都へはいつたといふことも、とんと聞かないことだよどういふことか、ちつとも知らぬことだ、
○江間 尤も此前月に、まだ水戸で頻に騒いで居る中に、京都では本国寺党の手からでもありましたか、会津の手代木を以ちまして、水戸の正義党の御処置の寛大といふことを内願しまして……、是非取次い
 - 第47巻 p.534 -ページ画像 
でくれといふことを頼まれたからといふので、会津の公用人から尹宮様へ申上げたことは確でございますが、さういふ工合にして段々彼方《アチラ》へ運動をして居ましたのですから、何か三木と鮎沢の行きましたことについては、御前へ内訴を申上げたかも知れぬと存じましたから伺ひました、
○公 ちつとも知らぬ、鮎沢・三木の来たといふことも少しも知らぬ
○江間 尤も三木・鮎沢は平素から御承知で……、
○公 それは知つて居る人だ、奸党といふ方ではないから、それは能く知つて居る、
○江間 其引続きで、結局加賀で降伏をしまして、巨魁を合せて三百五十何人といふものを斬罪にしましたのです、あれは今日から考へても、其時に身を置いて考へてもどうも酷に過ぎて居はしまいかと考へますが……、
○公 あれはね、つまり攘夷とか何とか色々いふけれども、其実は党派の争なんだ、攘夷を主としてどう斯うといふ訳ではない、情実に於ては可哀さうな所もあるのだ、併し何しろ幕府の方に手向つて戦争をしたのだ、さうして見ると、其廉で全く罪なしといはれない、それで其時は、私の身の上がなかなか危い身の上であつた、それでどうも何分にも、武田のことを始め口を出す訳にいかぬ事情があつたんだ、降伏をしたので加州始めそれそれへ預けて、後の御処置は関東の方で遊ばせといふことにして引上げたのだ、
○江間 あの時は総大将が田沼玄蕃頭でございました、あの方から所謂処刑をするといふことについて、何人は遠島にするとか、何人は斬罪にするとかいふことは、別に御前の方へ御相談といふことはございませぬでしたか、
○公 それは相談はない、唯斯く斯く降伏したといふことを江戸へ言つてやつて、江戸からは、田沼玄蕃頭を上京させて御受取申すから、其事を申上げると言つて受取に来た、それで田沼玄蕃へ降伏した者を引渡した、それで此方は全く手が切れたのだ、そこで田沼が斬罪か何かにやつたと斯ういふ訳だ、
○江間 それで能く分りました、実は幕府と御前の御間柄が、ずつと意思が能く通じて、唯場所を異にして居るといふことに考へますと、是非御相談がなければならぬことのやうに思はれます、
○公 江戸の方では、武田が私等と気脈を通じて居ると斯う見て居るのだ、処で此方から何かいへば、そらといふ訳になるのだ、そこで余程どうもむづかしい、それで降伏するまでの手続はちやんと附けて、それそれ加州始めへ分けて預けた、で田沼玄蕃が受取に来るといふから、それを待つて、玄蕃が来た処で田沼へそれを引渡したのだ、御引渡し申す、受取つた……、それまでゝ此方の手は切れた、それから後の処置は田沼がやつたのだね、
○江間 あの時には確か民部様が総大将として、御前が御補助遊ばして御出張になりましたな、
○公 さうだ、連れて行つた、
○江間 これはもう済んでしまつたことですが、若し其時に、向ふも
 - 第47巻 p.535 -ページ画像 
禁闕へ上訴するとかいつて、威張つてずんずん出て来ますると必ず衝突する、衝突したら段々御諭しになりませうが、万一聴入れませなかつたら……、
○公 それはもう其時にあつたのだ、それで原市之進・梅沢孫太郎等を皆彼処《アスコ》へ連れて来た、即ち武田党の者だ、それで今度斯く斯くの訳で闕下へはいつて歎願するといふことだが、一体其者が罪のあるものか無いものか、何しろ情実はある、色々情実はあるけれども既に幕府の兵と戦つて見ると、どうも罪なしといふ訳にはいくまいといふ処でどうも仕方がないといふことになつたのだ、□□《スイジユン》もどうも情実もあり色々だけれども、幕府の兵と戦つて見れば、即ち幕府へ敵対をしたのだ、どうも情実はあるけれども、致し方がないといふことになつたのだ、それで私の考には、若しどうあつてもいかなければ、武田耕雲斎も知つた者だし、□□《スイジユン》をあげて申上げなければならぬとして説く積りであつた、さうして片をつけやうといふ見込で出たんだ、処がもうそれまでゝなしに、向ふから降伏するといふことだから済んでしまつた
○江間 あれは大変御前の御仕合せで……、
○公 むづかしい処だ、
○江間 もう一つ伺ひますが、海江田武次の実歴史伝といふものがあります、其中にちよつと面白いことがあるのです、日下部伊三次……水戸に居りました……、其日下部が、
 将に京師に赴かんとして一日一橋公に謁せしに、公又国詩を贈与せり、此時公は幕譴に触れ幽居中に在るを以て、其意を寓する所あるものゝ如し、曰く、
これは古歌のやうに覚えますが、
 後ついに海となるべき山水も、しばし木の葉の下くゞるなり、
かやうに書いてありますが、これを御記憶あらつしやいませうか、殊に御直筆だといつて、こゝに石版刷にしたものがあるのです、
○公 それはいつのことだらう、
○萩野 密勅を賜はる時の運動に出掛けましたので……、
○公 密勅の出た時は私は謹慎して居たらう、
○江間 さやうです、そこにもさう書いてございます、
○公 それはないやうだね、謹慎中どうも人に歌を書いて遣るなどゝいふことは決してない、謹慎は余程厳格であつたから……、
○猪飼 なかなか御謹慎中に御歌を賜はるなどゝいふことはございませぬ、君側の者でも、格別御話をしたこともないくらゐ、実に歯痒い程でございました、僅ばかり戸を御透《スカ》しで、御上下でちやんとなすつて、誰に御逢ひなさるといふこともないくらゐですから、物を御遣はしになるなどゝいふことは、決してないことゝ思ひます、君側に居つた者でも、さういふことに関係したことはないのです、御前に居つても無言で居るくらゐでした、
○江間 日下部が、かやうなものを戴いて来た、御目に懸つて来たと言つたのでありませう、其時のことを海江田が記憶して居つたのかも知れませぬ、
○阪谷 枢密顧問の海江田ですか、
 - 第47巻 p.536 -ページ画像 
○江間 さやうです、自分で書いたのではありませぬ、話をして人に書かせたのです、
○公 併し此書はどこか自分で書いたやうな覚がある、
○江間 それは御謹慎中でなく、外の時に拝領したやうなものではありませぬか、
○阪谷 さうでせう、時が違つたのを記憶違ひでせう、
○公 いづれにしても謹慎中に遣つたことはない、或は又外の人に遣つたのかも知れぬ、どうも自分の書いたやうな処がある、
○江間 其頃一橋様といふ御名前は、総て有志の間に望を属されて居つたので、御目に懸つて御歌を拝領したといふことになりますと、履歴上余程日下部其者が重みが附きますやうになりますから、利用したのでありませう、
○阪谷 どこかで其歌を又頂戴したものと思はれる、短冊は真物だが御謹慎中に日下部に遣つたことはないと仰しやると、日下部がこれを利用したものとすれば、其当時有志奔走の状況を見ることが出来る、
○渡辺 御前が日下部に拝謁を賜はつたことがございますか、此時の外にでも……、
○公 全く無い、
○江間 日下部は一書生です、それがすぐに一橋公に御目に懸つて、色々御意を頂戴したといふのは怪しい話です、
○三島 昔階段のある世の中に、一書生が拝謁・御歌頂戴などゝいふことはないことだ、
○公 昔薩摩の人に逢つた時に困つたことがある、話をしても言ふことがちつとも分らぬ、向ふでは一生懸命しやべるけれども、少しも分らぬ、何とも答のしやうがない、唯ふんふんと聴いたけれども、善いとも言はれず悪いとも言はれず、甚だ困つた、
○阪谷 御使者にでも来たのですか、
○公 やはり国事のことで‥…、
○江間 京都での御話ですか、
○公 確か京都だつた……、小松でも海江田でも吉井でも、それは話が能く分るが、其人のはちつとも分らなかつた、薩摩人の次に詞の分りかねるのは肥後人だ、これはどうも余程分らぬのがある……、外国人が日本語で話をするのも実に閉口する、彼方の詞だと分らぬと言へば向ふも止《ヨ》してしまふが、日本語で話すのに分らぬとは言はれぬ、向ふが一廉出来る積りで得意に話すのを、分らぬではどうも気の毒で、あれには誠に困る、
○阪谷 駿府の方へ御退去になりましてからは、別に国政上のことにつきまして申出ました者はございませぬか、
○公 少しも……、
○阪谷 あの時世でありますと、もう一遍御出掛を願ひに行きさうなことが沢山あつたやうですが、
○公 誠に昔のことを知つた人がなくなつたね、四五人寄つて其時分の困り話でもすると余程面白いが、さつぱりなくなつたね、
○江間 さやうでございます……、昭徳院様御上洛の時に、場所は失
 - 第47巻 p.537 -ページ画像 
念致しましたが、松か何か御手植になつて、宿屋で珍重して居る趣でございますが、あの頃そんなことは珍らしいことであつたでございませうが、御前の御手植なんといふものはございませぬか、
○公 どうも無いやうだ……、植ゑたことは二三度あるが、静岡では無いやうだ、
○江間 あの水戸にあらしつた時分のことですが、御上りになる御膳の上の御百姓、あれは御子供衆まで皆附きましたのですか、
○公 あれは烈公の御趣意で、残らず一つづゝ附いて居る、被り笠を百姓が仰向にして持つて居る、それが膳の上に載せてある、自分の食べる前に、飯を五粒なり六粒なり取つて其笠の上に置いて、さうして御飯を食べる、農は国の本といふことを、子供や何かに教へる御趣意のやうだ、
○江間 それを先刻御話しました展覧会に、誰か摸造したのがあるのです、摸造では有難味が薄いのですが、御手許に本当のがございますまいか、
○豊崎 それはありませう、
○萩野 好文亭でそれを摸造して居ります、
○公 本物は青銅で、烈公の御書判がちやんと押してある、