デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.537-551(DK470129k) ページ画像

明治42年12月8日(1909年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、第七回昔夢会開カレ、徳川慶喜出席ス。栄一ハ渡米中ニテ欠席。


■資料

昔夢会筆記 渋沢栄一編 上巻・第一三八―一七二頁大正四年四月刊(DK470129k-0001)
第47巻 p.537-551 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  上巻・第一三八―一七二頁大正四年四月刊
  第七
      明治四十二年十二月八日兜町事務所に於て

図表を画像で表示--

       興山公           渋沢篤二   文学博士 三島毅君    法学博士 阪谷芳郎        豊崎信君    男爵        猪飼正為君        三上参次                     江間政発                     渡辺轍                     井野辺茂雄                     藤井甚太郎                     高田利吉 



○江間 ちよつと申上げて置きますが、これまで御伝記は小林庄次郎が始終引受けて居りまして、万事疑はしいことは伺ひつゝ筆を執つて居りましたが、今回からは其代りとして、こゝに陪席して居ります渡辺・井野辺・藤井・高田の四人が、力を協せて従事致しますことになりました、つきましては其調べ方も一調子に参りかねます、節目を立てゝ各分担することでございますから、随つて伺ひます事柄も前後色色になりまして、御煩はしくいらつしやいませうがどうぞ其御含を願ひます、即ち昨日御手許へ差上げて置きました書類が、其不審の廉でございます、尚其詳細は当人どもから直に伺ひますからどうぞ……、
 - 第47巻 p.538 -ページ画像 
○阪谷 一人質問してしまつてから、次の質問をするやうにしませぬと、仰しやる方でも仰しやりにくいし、書取る方でも書取りにくうございますから……、
○井野辺 後見職といふ御職掌について伺ひます、後見職と申します御職掌は、将軍家の後見《ウシロミ》をなさるもので、朝廷で申しますれば摂政の如き者に当ると思ひますが、将軍家に代つて、一切の政を御裁決になる御権能を持つて御出でになりましたのでございませうか、
○公 それは後見職の名義から言へば、さういふ風に相違ないが、併し其節の後見職はさういふ訳でないので、色々そこに事情がある、一体後見職・総裁職を置くについては、大原三位が勅使に立つて、島津三郎がそれに附いて来て、其勅命のことを三郎から議つた、議つた処が皆不承知なのだ、不承知で幾度も押返して、何分大原の言ふやうにいかなかつた、それで薩州人が、閣老方の登城・退散を途中で拝見致すと言つて、帯刀をして、あつちへ三人、こつちへ四人といふやうに出たのだね、それで此事が通らなければといふ意味を暗に含んで、早く言ふと嚇したやうなものだ、それでどうも困るとか何とかいふことで、それから段々其説が用ゐられるやうになつて、後見職も是非御受をするやうにといふことを、閣老から勅命といふものを達しになつたけれども元々幕府の方では、後見職や総裁職のあるのを望まない、然るに已むを得ずして、拠なくそれを聴かなければならぬといふ場合になつて、遂に御達といふものまでに運んだのだね、其節に再応御辞退をしたといふものは、昨日までは謹慎仰付けられて、まあ隠居といふのである、今度はひつくりかへつて後見といふのは、余り表裏反覆であるから、却てそれは御為に宜くない、どこまでも御断を申上げる、且は一同不承知を唱へると言つて辞退したが、それを御受をしなくては、朝廷に対して何分上を無視する訳で、申訳が立たぬからといふことで、とにかく御受さへすれば宜いといふことになつた、それで再三申上げたやうに、どうあつても御受をしなくては、今日纏まらぬといふまでになつて、已むを得ず御受をしたといふのが元の芽なのだね、それで後見職といひ総裁職といふけれども、こゝまでは言ふ、こゝからは秘密だといふものは、後見でも総裁でも話さない、そこで衝突したこともあつた、大体あの節の後見・総裁といふものは、唯の大老でもなければ何でもない、さう考へなければ能く分らない、
○井野辺 御用部屋の評議などは、纏まりました上で御前に申上げるのでございますか……、
○公 それは御用部屋で議すこともあるが、先づ早く言ふと、閣老なら閣老、目付なら目付、三奉行なら三奉行を召して、大概腹が極まつた上で……、
○井野辺 御相談で……、
○公 形は御相談だけれども、実は同意させて、後見・総裁の名前を出して行はう、さうすれば朝廷も何も仰しやらない、諸大名も御受をするのが宜からうといふ考のやうだつた、又閣老の秘密を守るのも無理のないことがある、総裁にしろ後見にしろ、本当に極秘密の何から何まで話せば、家に帰つて横井平四郎や家来に話すだらう、話せば世
 - 第47巻 p.539 -ページ画像 
間に流布してしまふ、其辺の懸念も閣老の方にないでもない、片方の方を考へて見ると、強ち無理とばかりも言はれぬやうな傾がある、
○井野辺 政事総裁職などは、幕府の総理大臣の意味でありませうが総理大臣だけの実権は御持ちになつて居らぬのでございますか、
○公 実権は持つて居らぬ、
○井野辺 唯形式だけでございますか、
○公 唯形式だけだ、是非置くと仰しやるから、それを置いてこちらの都合になるやうにといふ訳だね、
○井野辺 どうも越前家の記録を見ましても、老中の権力が非常に強いやうで、御前や春岳侯の御意見も、行はれぬことが屡あつたやうでございますが、
○公 さう、都合宜くいつた時には、出て極めてくれろと言つて極める、それで宜いと言へばそれで極まつてしまふ、不都合なことはなかなかさうはいかない、
○井野辺 一体後見職を設けてある時代は、将軍家の御親政とは申されぬと思ひますが、さういふ有様でございますと、やはり事実は御親政でございませうか、
○公 御親政といふ訳ではないのだね、
○井野辺 やはり御前が政を御聴きになるといふ訳ではございませうが……、
○公 形の上ではさうであるが……、
○江間 文字から申しますと、総裁は政治の総裁で、読んで字の如く総ての政治も裁決する、御後見は将軍様御一身上、総ての御行状を御世話申上げるといふことに見えるやうでございますが、事実上に於きまして、後見職と総裁職が文字にあてはまらぬので、さまざまな説も出るのでございますが、唯今の御話で能く分りました、
○公 あからさまに言へばさうである、
○江間 何さま余り文字に拘泥せずに、一時都合上からあの御役が出来たと見る方が、分り易いやうに存じます、
○公 困ることがある、あなたは後見職だ、老中や何かの仕方に不承知なら、罰してしまふとか引かせてしまへば宜い、さうして断然とやらねばいかぬと人から言はれるのだね、けれども勢ひさうはいかないのだ、それに誠にどうも困るのだね、又どうも大分話が漏れる、総て今日は斯ういふ評議があつたといふことが速に漏れる、銘々家に帰つて話すだね、話すと其者が又知つた者と文通するとかして、ずつと広がつてしまふ、又中にはどうも知らなければならぬこともある、それは公明正大といふけれども、それも事と品に依つて、秘密にしなければいかぬことが必ずあるものだが、それで閣老や何かの方で秘すといふのも、斯ういふことが漏れるといけないといふ懸念があるのだね、
○井野辺 文久二年の閏八月、幕府で改革を致します時に、参勤交代のことや何かでございますが、其事の評議が纏まりましたので、板倉閣老が将軍家に申上げて御親裁を仰いだといふことが、越前家の記録に見えて居ります、直接に老中から将軍家の御親裁を仰ぐといふことが出来るものでございませうか、一旦御前の手を経て将軍家に申上げ
 - 第47巻 p.540 -ページ画像 
なければならない制度ではあるまいかと思ひますが……、
○公 事に依ると、後見・総裁を経ずに、ぢきに行くこともあるが、先づそれはないのだね、
○井野辺 あつたとしますと異例でございますか、
○公 あつたとすると異例だ、殊に参勤交代などゝいふ重いことを閣老から持つて行つて御親裁といふ、さういふことはない、それは不同意だと同意させるやうにはするけれども、これは不同意だからといつて、閣老がするといふやうなことはない、
○井野辺 さやうでございますか、越前家の記録には見えて居ります
○公 それはない、殊に参勤交代などゝいふことは、それはどういふ事情があつても、後見といふ名目もありするから、それは出来ない、
○井野辺 出来ない事情とは心得て居りますが……、其前に色々御評議がありまして、さうして板倉閣老から将軍家の御親裁を仰いだといふことになつて居ります、
○阪谷 私どもが内閣に居ります時分には、何の事件でも天皇の御裁可を請ひます書附には、大臣が十人居りますから十人が署名致します同意をすると書判を致します、十人名前が揃ふと、それを総理大臣から侍従長の方に送りまして、侍従長が御前へ持つて行つて御裁可を受ける、其時に御質問がありますと、大蔵省のことでありますれば私が出まして、斯く斯くでございますと申上げる、それで宜しいと仰しやいますと、そこで御署名があります、それで其事が極まります、幕府の時分にはやはり……、
○公 やはりさうだ、老中なら老中の方で同意して後見・総裁に話をする、後見・総裁もそれで宜からうと言へば、それから申上げる、それを別にちよつと申上げるといふことはない、
○阪谷 御書判がございますか、
○公 書判までゝはない、別に名前も書かない、一同評議に列したが一同同意でござる、後見・総裁にもこれを以て同意だといふことになれば、又さういふやうな重いことになると、書かないこともない、其中評議に閣老の携はらぬ者があれば、誰々は不快故、此事は心得ませぬといふことにして申上げる、
○阪谷 今のは皆書判を取りますのでございます、それから天皇の御裁可が済みまして、それを官報に載せます時、もう一遍書判を取ります、其時は天皇の方が先に御判をなされます、最初に此度斯く斯くの事件が起つたについて、斯く斯く遊ばさなければなりますまいといふことについて申上げる時には、総理大臣なり私どもなりそれを持つて行つて、天皇の御判が済むと決します、決しましたものを書記官が写しまして、官報に出す時にもう一遍御判が要《イ》ります、其時は天皇の御判が先に据わります、天皇の御判ばかりで出す訳にいきませぬから、総理大臣と大蔵大臣が連署します、又大蔵大臣限り致しますことがございます、其官報に出す時に判をします者が責任を持ちます、幕府の時には定まつた形はございませぬか、
○公 形はあつても判然とせぬ、
○阪谷 さうすると書面が残りませぬな、後見職が御承知か御承知で
 - 第47巻 p.541 -ページ画像 
なかつたか……、御承知でなかつたと言ひ張ることも出来るのでございますな、何か書面がありさうなものですが……、
○公 書面と云つても奉書に書いたもので、名はない、
○阪谷 後見職が承知したといふ御証《シルシ》が何かありませうか、
○公 それは何もない、
○阪谷 御右筆とか書留役とかいふ者が証拠立てますか、
○公 極機密なものは、閣老がすぐに認めてさうして御覧に入れる、右筆にも秘すといふ場合にはさうする、さうでないことは右筆がちやんと書いて、書附を持つて来て御覧に入れる、
○阪谷 何か併しありさうなものですな、御裁可が済んだか済まぬか分らぬのでございますな、
○江間 もつと甚しいのは、幕府には辞令書がありませぬ、老中になりましても若年寄になりましても、辞令書を出されることがありませぬ、唯将軍が、例へば老中の筆頭が板倉だといふと、伊賀守同様に勤めろ、念入れて勤めろと御意のあるだけで、別に辞令書なしといふくらゐでございますから、果して何もありますまい、
○阪谷 書類の保存はどうするのでありませう、簡単な時分にはそれで宜しうございませうが、万機と称するくらゐでありますから、煩雑な時にはどうするのでございませうか、
○三上 それは各部の御右筆の留、目付の留といふものが訳山あります、
○公 先づ今の通りでも申合せて、其時には月番といふ者がある、月番といふと、一番下の人でもやはり上へ坐るやうになる、さうすると月番からして申上げるといふことになつて、評定のことでも月番が口をきく、月番でない者は滅多に口をきかずに、月番に任せて置く、斯ういふ訳になつて居る、それで自然初の人の月番の時には事が捗取るが、一番筆末の閣老が月番に当ると、事の運びが遅い、それで変なことをすると、上の閣老から、お前そんなことをすることはないと言つて小言を聞く、と言つて月番だからやる、けれどもそこでふん切りが出来ない、どうも遅いといふ気味がある、
○井野辺 御登城になりました時は、御用部屋へ御出でになつて御評議を御聴きになりますのでございますか、或は別に御詰所があつて、そこへ老中が参りまして御伺ひ致しますのでございませうか、
○公 本当は扣所といふものがあつてそこに居る、それで閣老始め総裁残らず評決したものを持つて来て、大君同様に後見に告げられる、それでこれは宜いとか、或はこれは悪いとか、御前に出て申上げてするとか、何とかいふのが当り前、又総裁もやはり少しく閣老とは何が違つて居るけれども、あの時分には事が多端になつて、そんなことをして居ては間に合はぬから、どうぞ御用部屋にすぐに来てくれといふことで、通知があるとすぐに御用部屋へ出る、御用部屋には総裁や閣老が坐つて居て、三奉行始め諸役人がそれへ出て評議をする、其時には斯ういふことゝいふことを黙つて聴いて居る、これは宜いとか悪いとか議論して、総裁に向つて今の議論はどうでございますといふ訳になる、総裁がどうとか斯うとかいふことになる、それから後見の方に
 - 第47巻 p.542 -ページ画像 
それが向いて来る、それで一同同意して、それなら宜いからさう極めやうといふと、御前を願つて申上げる、斯ういふ手続になる、
○江間 御側御用御取次といふ役がありますな、老中などから申上げますことは、あの手を経ずに直接に……、
○公 あれは昔はないのだ、御用御取次といふのは……、古い処は、用があれば閣老がぢきに出て申上げる、極昔の処は御手軽だ、御手軽だから閣老がずつと出て来る、何か用があるかといふやうなことで、すぐに御用を申上げるといふくらゐのことである、処がずつと後世になつては鄭重になつて、先づ閣老でも出ると、そこに散らばつた物を片附けるとか、次に扣へさせて置いて、程が宜い処で出るとかいふ訳になつて、何分おつこうなのだね、そこで御用御取次といふ者を拵へて、閣老が出て申上げべきことも、大したことでないことは御用御取次に頼んで、申上げてくれといふのである、これは立場が違ふからずつと持つて出て、何を遊ばして居らしつても、これは斯う斯う、そんなら斯う斯うと言つて済んでしまふ、閣老が出るとなかなかおつこうである、先づ唯今出て宜しいかといふことを伺ふ、少し待てとか、或は宜しいとかいふ訳で、出て御次に扣へて居ると、茵の上に御著座といふ訳で、出るといつても甚だおつこうである、それで御取次といふものが出来たのださうだ、それであれも誠に善し悪しで、どうも正直な人なら宜しいが、さうでないと、老中から言ひ付けられたことを、少し詞の工合で申上げるとどうでもなるものだから、それでどうもあすこに弊が生じて来て困る、
○江間 現に後の方でございますが、大久保越中守などが……、
○公 あれも最初は御目付に居つた者だが、御用御取次で取次をする者が、やはり御用部屋の中にはいつて評議に加はる、それで色々のことがあつて、どうも少し工合が悪かつた、
○江間 あゝいふ役がありますと、仕事が機敏に行きまして大変便利でございませうが、其人を得るのに余程困難でございますな、
○公 さうだ、
○井野辺 春岳侯も御側御用取次に権力があるのを心配され、其権力を殺がうと計画されたことがございます、
○公 春岳の時の御側御用は、当人の最も信用した人だ、大久保は……、
○井野辺 万事御相談があつたやうに、越前家の記録に見えて居ります、
○江間 京都に御勤め中でも、大抵のことは大久保に相談になつて居ります、
○公 さうだ、全くさうだ、
○井野辺 春岳侯が御任用になつたのでございませうか……、初は大目付で外国奉行を兼ねて居たやうに思ひますが、
○公 さうだつたらうか、何でも大目付だ、
○井野辺 今度は幕府の改革のことについて、ちよつと御伺ひ致します、文久二年の改革でございますが、あれは後から見ますと、大原左衛門督が島津三郎を従へて関東へ下り、勅旨を伝宣しました結果であ
 - 第47巻 p.543 -ページ画像 
るかのやうでございますが、改革のことが始めて発布せられましたのは、文久二年四月十五日で、久世大和守が老中首座の時でございます尤も安藤対馬守は老中を罷めまして三日目か四日目になりますが、多分此事は久世大和守・安藤対馬守あたりの合議で、幕府を改革する議案が成立つて居つたことかと思ひますが、何か其事について御聞きになりましたことはございませぬか、
○公 別に聞いたことはない、私の聞いたのは島津・大原・久世、それから前話しする通り出たが、其前のことは能くはつきりと承知しない、それは其前にも改革する話があつたか知らぬが、何もそれは聞いたことがない、
○井野辺 それから文久二年の閏八月十五日でございますが、御前から板倉侯に御手紙を御贈りになりまして、登城を御辞退になつたことが越前の記録に見えて居ります、それは其頃幕府で計画致して居りました改革のことについて、御不満の点があらせられた為で、御手紙はこんな塩梅では、迚も改革などは出来るものではないといふやうな意味を、御認めになつたらしく思はれますが、実際さやうな御手紙を御贈りになりましたことがございましたらうか、
○公 一々どうであつたか覚えて居ないが、それは腹立つたこともある、色々あるが、どうもしつかりとは覚えない、
○井野辺 あの頃幕府の御評議に対して御不満で居らせられたといふことは、御記憶はございませぬか、
○公 別にさういふこともないやうに考へる、
○井野辺 其次には、例の参勤交代を廃しますることでございますが参勤交代を廃して大名の妻子を国に還すといふことは、早くから春岳侯の御意見で、安政年間でありましたか、阿部伊勢守に話されたことがございます、阿部伊勢守は、幕府制度の根本であるから、唯今廃することは出来ぬといふことでありました、それを文久二年になつて御実行になりました、一体春岳侯の御説は横井小楠の説に基きましたもので、小楠の説は小楠遺稿の中に見えて居りますが、それに依ると、幕府の勢力はもはや諸大名を制することは出来ぬ、それ故に大名の方で無断で妻子を国に還したり、或は参勤交代を怠つたりするようなことがあつても、どうすることも出来ない、それよりは寧ろそんなことのない前に其制を廃して、諸大名に恩を施すやうにした方が宜いといふ議論であつたやうに見受けますが、幕府であのことを断行致しましたのは、それと同じやうな理由でございませうか、
○公 一体あのことは島津三郎が、どうしてもこれからは全国の武備を十分に整へなければならぬ、船も拵へなければならぬ、それには何分費用も掛かるから、参勤交代といふものを寛いやうにしなければ、なかなかさういふ訳にはいかないと言つたといふことは、聞いたやうに覚えて居る、大原の著いた時に、さういつたやうなことがある、それに横井の説もあり、それで結局がもう参勤交代を緩めるといふことを、言ひ出すやうになつたのがいかぬとかいふやうな議論で、もうさうなつたならば、無理に引止めた処が何にもならぬ、断然とやる時には、たとひさうなつて居てもやるといふやうな議論で、それよりは寧
 - 第47巻 p.544 -ページ画像 
ろ緩めて、其代りにどうの斯うのといふ評議があつたのだね、結局あれは持耐へが出来ない、つまりそれであゝいふことになつたのだね、
○井野辺 あの頃実際に於て諸大名が色々のことに託けて、参勤交代などを怠つて居つたので、あの御触が出ても諸大名が喜ばなかつたといふことでございますが、さういふ事情がございましたでせうか、
○公 それはどういふものだらうか、けれどもあれで諸大名の方が強くはなつて居る、
○三上 会沢安が烈公様に申上げました詞に、大名を国に還した方が宜からうといふことを言つて居りますが、それは関係はありませぬか
○公 それは一向関係はない、
○三島 あれは大名の方の都合のやうになつて居つて、何分恩政のやうに聞えたのだが、実は幕府が持耐へられぬのですな、弛みの本でありますか、
○井野辺 塩谷宕陰・芳野金陵などの学者も反対でございました、
○江間 建議をして来た時に、それはならぬといふ力がなかつた、
○三島 外国を防いだり何かするに、諸大名に入費が要るといふことから来たのですな、参勤交代をする入費を銘々の藩に持つて行つて、攘夷の方に心を用ゐるといふ処から来たのですが、其実は多くの話から来たので……、
○井野辺 あの時長州の世子長門守が勅旨を奉じて関東に下向致しましたが、其折参勤交代の制を廃したが宜いといふことを建白したといふことが、忠正公勤王事蹟に見えて居りますが、さやうのことがありましたでございませうか、
○公 表向幕府へ建白したことは覚えないが、一橋の宅へ長門守が来て、覚書のやうなものを出したことがある、四五箇条もあつたと覚えて居るが、其中の一箇条に、是非攘夷をしなければならぬといふようなことがあつた、其中に参勤交代のことがあつたか能く覚えない、今考へると、丁度長井雅楽を退けて藩論が攘夷に一決した時分で、専ら攘夷を申立てゝ長井の開国説を打消したものかと考へる、
○江間 世子奉勅東下記といふ本がございます、それにあの時の消息が詳しく書いてあります、
○井野辺 防長回天史の中に見えて居なければならないのですが、見えて居ないのでございます、
○江間 ちよつと今思ひ出しましたが、島津三郎の参りました時には後見職を置き政事総裁を置く建白の大趣旨、それから長門守の参りました時には、例の五大老といふことを申出しはしませぬか、
○公 五大老といふことはあつたが、それは島津かと思つたよ、島津が五大老に倣つてどう斯うといふことで……、大原であつたか、何でも耳にある、
○三上 島津三郎といふので思ひ出しましたが、斯ういふことを聞いて居ります、あの時に勅使が下られて幕府に要求がある、それと同時に九条家から幕府に、表向はさうあつても、其通りされると御迷惑だといふことで、島津三郎と大原三位と、今度斯ういふことで下られるむつかしい注文もあらうけれども、それは宮中でも已むを得ず仰出さ
 - 第47巻 p.545 -ページ画像 
れたので、若し幕府で御受をすると御迷惑になると、斯ういふ九条家からの注意があつた、其書面は九条家にあるさうです、
○井野辺 それに似寄つたことがあります、和宮様の御生母の観行院から、あの時和宮様に御手紙があつて、今度は島津家の言ひ分を立てるについて、勅使が御下向になる、併し実際は島津家を慰める為であるから、其御積りでといふやうな意味で……、
○三上 其手紙を写して置いたら宜しうございませう、九条家にある……、
○阪谷 観行院の手紙は残つて居りますか、
○井野辺 手紙の文言はないので、大体だけ記してあります……、今一箇条伺ひます、文久二年八月七日に、御前と春岳侯と老中と御連署になつて、朝廷へ御書面を御出しになりました、其御文面は、今回の勅諚を遵奉して、従来の失政を改革し、公武一和の実を挙げるといふことゝ、春岳の上京は暫く御猶予を願ひたいといふことゝでございますが、其最後の方に至りまして、尚今後も思召の旨があれば御申聞けを願ひたいのであるが、時勢に於て行はれ難いことは、自然御断りを申すかも知れぬから、其事は御含みを願ひたいといふことが見えて居ります、尤も其以前の七月二十三日に、御前が春岳侯と御一緒に大原卿を御訪問になつて、大原卿から十箇条ばかりの難問が出ました時にも、それを一々御答弁になりました上で、やはり同様の御趣意を御述べになつて居りますが、其時勢に於て行はれ難いことゝいふのは、何か御意味があつて御申上げになつたのでございませうか、
○公 所謂攘夷だね、
○井野辺 鎖国攘夷のことでございますか、
○公 それは覚えて居るが、第一攘夷、攘夷の外でも、どうしても行はれ難いことは御免を蒙ると言つたことは覚えて居る、
○井野辺 さうすると、開国説でも朝廷へ申上げるといふ御考がございましたか、
○公 まだそこまでは行かぬけれども、総て出来ないことを仰しやれば御断りを申上げる、攘夷に限らぬ何事でも、そこが却つて公武合体の処であるといふ、確か考のやうであつた、
○井野辺 やはり重には攘夷のことで……、
○公 攘夷は最もであつた、
○江間 一昨々日東久世伯に伺ひました、九州の太宰府に四十五年ぶりで行つて来たといふ御話で、今ではもう知つて居る者はなくなつて残らず孫の代である、唯感慨が深いばかりで、一向昔のことを語るといふ興味もなかつたといふ御話、段々御話を続けまして、あの当時攘夷といふことが流行しましたが、攘夷は夷を攘ふといふことで、何でも眼色の変つた奴は、片端から斬殺してしまふといふのが攘夷の原則で、攘夷を大別しますと、水戸の攘夷、長州の攘夷、それから天子様の御攘夷と、斯う三つと見まして、水戸の攘夷などゝいふものは、私ども考へると本当の攘夷ではない、為にする所あつての攘夷、あなたはどう御考へなさるかと申し試みました処が、長州の攘夷もさうだよ何も攘夷をしたいといふ訳ではない……、して見ると攘夷といふこと
 - 第47巻 p.546 -ページ画像 
は、今日から忌憚なく申すと、反対党を叩き潰す看板である、さう言つても宜しい、併し其頃の七卿と言つた三条様始め、あなた方七人の方々が攘夷の発頭人、それが為に長州までも動き、伏見の役などがありましたが、此あなた方の攘夷は、為にする攘夷でありますか、単純な攘夷でありますか、私ども考へるに、三条様始めの攘夷は、これは単純なる攘夷で、どこまでも主上の叡慮を安め奉る為めの攘夷であると思ひますが、如何ですかと尋ねました、それは実際其通りであつた故に長州が攘夷をすると言へば、それは飛立つ程嬉しかつた、それから後、馬関であゝいふことをしてしまつて、京都で失策をして、それからあゝいふことになつて、能く考へて見ると、長州の攘夷は為にする所があつたのだ、其事が当時既に分つた、我々は徹頭徹尾叡慮を奉じて、攘夷さへすればそれで宜いのだと言はれまして、大笑になりました、
○阪谷 併し伊藤公爵や井上侯爵やの話を聴いて見ると、馬関の戦争などは、長州が本気の攘夷のやうであります、今の攘夷を餌にして幕府に迫らうといふやうなことは、或は後には其考があつたか知らぬがなかなか馬関の砲撃の時分には、悪くすれば伊藤公爵・井上侯爵・首がないのですからな、
○江間 水戸にしましても、末々の者は単純の攘夷ですが、所謂操り人形で、其人形使ひ即ち隊長株の心術は、ちと怪しうございますな、
○三島 何でも打払はなければならぬといふことを、遂には名にするやうになつて来た、
○公 攘夷にも幾通りもある、
○三上 水戸が余程変つて居ります、
○阪谷 条約勅許・開港といふことを幕府に迫らうといふ処で、幕府が開港論になつたから、それぢや反対に行けといふことであつたが、末流の処は真面目に一生懸命にやつた、
○江間 ちよつと伺ひます、永井主水正が近藤勇などを長州に連れて参りました、あのことを長州人の中原邦平といふ者が話しました筆記がありますが、それで見ますと、周旋の為に連れて行つて、長州へ入込ませて、周旋を名として防長内の景況を調べさせる意味のやうに見えますが、それならばもう少し人の選抜方もあつたらうかと考へます然るに御案内の通り、近藤を始め人斬り屋の方で、迚も巧な周旋などといふことの出来る人物ではないかのやうに考へられます、それに色色の役名を加へて、自分の家来にして連れて参つたのでありますが、絶対的向ふの長州から謝絶してしまひましたから、それ切りでございましたが、あゝいふ人物を連れて行く永井の考といふものは、少しく非常手段を帯びて居らぬかと思はれますが、其時長州の謝絶に対して二の槍を入れるのに窮して、永井はそれでは困るぢやないか、実は此事は将軍家に申上げて、御許可を得て来たのだからと申したさうでありますが、連れて行きました人が人でございますから、やはり内心の極意は非常手段を含んで居て、重な大将株、たとへば高杉晋作に逢つて置いて、機会を見てやつてしまへとか何とかいふことは、固より明言は出来ませぬけれど、あの時分の状態から考へて見ますと、何だか
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怪しく思はれますが、何ぞ此時の消息の御耳に入りましたことはございませぬか、
○公 新選組を連れて行くといふやうなことは、聞いたやうに覚えて居るが、どこといふ深しいことは覚えて居らぬ、新選組を連れて行くといふことは聞いたよ、
○江間 自分の護衛に連れて行くのなら適当でありますが……、
○阪谷 長州へですか、
○江間 さうです、永井が長州へ派遣したいと申入れました人々は、近藤内蔵助……、これは勇の変名で……、武田観柳斎・伊藤甲子太郎・尾方俊太郎、此四人で、孰れも京都の壬生浪士、即ち新選組の強の者でありまして、永井が京都で遽に召抱へた家来であると申したさうでございます、そこで役名は、近藤が用人、武田が近習、伊藤が中小性尾方が徒士、此四人を長州に派遣したいがどうかと申しました処が、応接役の宍戸備後助が、それはどういふ訳で長藩に御遣はしになるのか、弊藩の疑惑を解く為に御遣はしになるのでありますかと問ひました、いや別に疑惑を解くといふ訳ではない、此四人を派遣して懇談をさせたならば、幕府の事情も能く分り、長州の事情も能く分つて、互にこれまで阻隔したことが融和するかも知れぬと答へました処が、宍戸は体よく謝絶してしまひまして、此事は遂に其儘になつたと書いてございます、
○公 それは聞いたやうに思ふ、会津の方で新選組の者を長州へ探索に入れて、探索の者が帰つて来て、そこはかやうかやうといふことはないかい……、新選組の者を会津の方で入れて、そこで探索した処が、其探索した処の趣はかやうかやうであつたといふことは、私は聞いたやうに覚えて居る、
○江間 それは成程ありましたでございませう、現に薩州の高崎猪太郎、あれなども藩の命令で参つたのですが、長州の状態を詳しく調べました、芸州からさう言つて寄越しました書面がございます、さすがに能く調べて居りますな、あゝいふ風に諸藩からもはいつて居りましたから、会津などは別してやつたことゝ思ひます、
○公 それは話に聞いた、何がどうだ、こゝがどうだといふことは、聞いたことはどうも覚えて居るやうだ、
○高田 それでは私から御伺ひ致します、万延元年に烈公様が水戸で薨去になりましたが、烈公行実や鈴木大の日記などに拠りますと、誠に急な御病気で、八月の十五日に御胸痛が再発して、其夜の中に薨去になつたやうでございますが、さやうでございますか、
○公 さうだ、
○高田 其時順公様は江戸に御出でゝございましたが、大層御歎きになりまして、どうかして御生前御慎解といふことになさりたいといふので、輪王寺宮様、或は久世閣老などに、御嘆願になりましたといふことが書いてございますが、又水戸見聞実記などを見ますと、烈公様の御病気は以前からのことでございまして、段々御悪くなるものでございますから、八月の上旬に、貞芳院様から輪王寺宮様に御書面を御遣はしになりまして、どうか御慎解になるやうに御執成に預りたいと
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いふことを御頼みになりましたので、宮様は幕府の様子を御探りになりまして、幕府の模様も追々宜しいから、昨今の中には城内の御歩行ぐらゐは許されるやうになるのであらうし、尚近々の中に御慎解の御沙汰も出る様子であるから、此知らせを薬にして、十分御養生をなさるやうにといふ御返書を御遣はしになりましたが、不幸にして此御返書の著しまする前に、烈公様は薨去になつたといふことでございますが……、
○公 宮様に御願ひになつたといふことは、仄に聞いたやうに覚えて居る……、謹慎中のことで、どうもはつきりとは言ひかねるが、御願ひになつたといふ話は聞いて居る、
○高田 あの時、御前は御自身御出でになりませんでも、御使でも御遣はしになつたのでございますか、
○公 別にさういふことはない、烈公の御なくなりになつた時は、私はまだ慎中と覚えて居るが……、
○猪飼 確か御慎中でございました、麻上下を著けて御遥拝があらしつたやうに思ひます、
○江間 御慎中とあらつしやると、親御様の薨去でございましても、御悔みを仰しやるといふことも出来なかつたものでございますか、
○公 さうだ、
○高田 さう致しますと全く御急病で、前から御悪いといふことはなかつたのでございますか、
○公 御悪いといふことはなかつたが、胸痛があつた、十五日、丁度御夜食が済んだ処、今日も胸が痛い、今日の痛いのは非常に痛いがと仰しやつたが、それ切りであつた、それ切りすぐに御臨終になつた、
○高田 それから御葬送の時に、尾州・紀州・因州などは御名代を御遣はしになつたが、一橋公は御断りになつたといふことが、松宇日記に書いてございますが……、
○公 まるで断るまでにもいかぬことになつて居る……、慎中であるから、断ることにもいかぬ、
○三上 今の烈公様の御胸痛といふのは、余程以前からでございますか、
○公 これはずつと十年も前からだ、ちよつと庭などを御覧になつて居る時に痛み出すことがある、すると側の者が、体を極めて力一杯に握り拳を出すのだね、それをずつと押し附けて居る、あゝもう宜いと言ふと癒つてしまふ、
○三上 今日で申すと胃の痙攣とでも申しますか、
○公 いやどうも心臓のやうだ、御悪くなつたのは心臓の破裂でもしたのかと思はれる、どうもいつもにない今日の痛みはきびしいといつて、それ切りなのだから……、水戸の篤敬ね、あれがやはりさうだつたよ、心臓で折節胸が痛い、此くらゐの木の先に玉を拵へて綿を入れて、痛が起ると胸を押す、それが日光で……、今日は苦しいと言つてそれ切りだ、それを後で医者に聴くと、心臓の破裂だと云ふ、誠に同じだ、遺伝といふのでもあるまいが、能く似て居る、
○高田 其頃御前の御歌といふやうなものはございませぬか、
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○公 其時分詠んだ歌が二つ三つあつた、
○高田 御記憶はございませぬか、
○公 三つばかり覚えて居る、
○高田 御記憶のございますだけ伺ひたうございます、
○公
 泣く泣くもかりの別れと思ひしに、ながき別れとなるぞ悲しき、
 しばしだに君がをしへや忘るべき、我になおきそ露も心を、
 けふよりはいづくの空にいますとも、心はゆきて君に仕へん、
○高田 それから文久元年の末に、大橋順蔵が、久世・安藤の両閣老を斬り、輪王寺宮様を奉じて日光に拠り、攘夷の旗挙げをしやうといふ計画を致しまして、御前を其謀主に仰がうといふので、御近習番の山木繁三郎といふ者を説いて、書面を御前に上らせやうとしました処が、山木は一旦は承諾致しましたけれども、後に後悔しまして、御家老か何かに其事を訴へましたので、大橋の隠謀が露はれまして、翌年の正月十二日に捕縛せられたといふことでございますが、それについて何か御聞及びになつたことはございませぬか、
○公 それは其通りで、山木繁三郎に書面を持つて来て……、家内の実家《サト》が金満家だから、金も出来る、因つて斯く斯くの企であるといふ書面、山木もこれは容易ならぬことだといふので、用人まで其書面を出した、それで大橋順蔵、山木も共に吟味になつたが、山木の方はどう聴いてもそれだけのことで、容易ならぬことだから出したといふだけのことで、それですぐに赦されてしまつた、尤も余程手間は取れた
○高田 其年の八月に町奉行所で赦されて居ります、それから間もなく九月五日に、御前の御素読御相手を仰付けられて居ります……、唯それだけのことでございますか、
○公 それだけのことだ、
○三上 堀織部正の遺書は大橋が作つたのだといふことを、其頃から申しましたさうでございますが、
○公 一向知らぬ、
○三上 近頃専ら言ふのですが、大橋順蔵は何か余程沢山他人の為に書いたといふことであります、「ふるあめりかに袖は濡らさじ」といふ、横浜の女郎の歌といふものがございますが、あれも順蔵の門人か何かゞ作つたとか言ひます、何か証拠を見出したいと思ひますが……
○高田 坂下の時の斬奸趣意書は、大橋が書いたのだといふ説があります、
○江間 坂下の一件には、大橋が関係して居るやうに見えますが、全く何も関係はないさうであります、唯趣意書を書きましたゞけださうです、あれは水戸と長州の結託上から来て居るので……、
○三上 幕末に将軍家のことを、大君と言はうか、王と言はうかといふ議論があつたといふことでございますが、どういふことでございますか、
○公 どうも大君大君と言つたが、あれもどういふ処からなのだか、それは私ども知らぬのだ、仏蘭西のロセスはマゼステーと言つた、マゼステーといふのは何のことかと言つたら、これは帝といふことに当
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る、それはどうも帝ではいけない、英の公使はハイネスと言つた、ハイネスといふと、私は何か知らぬが帝ではないので、いはゞ其下に位する者で、閣老でもない……、
○阪谷 皇族に当ります、
○公 英の公使はハイネスと言ひます、どうしますと言ふから、私は外国語は知らぬが、帝といふことを言つてはいかぬ、ハイネスといふのが宜からう、それならばもう一向子細ない、処が閣老あたりは、どうもハイネスと言つてはいかぬ、やはり仏公使の言ふ通り、どうしてもマゼステーといふことにしたいと言ふのだ、それで私はそれはいかぬ、京都に帝といふ者があるのだからいけない、色々論があつたが、英公使の話をする際にはハイネス、仏公使はマゼステーと言つた、大坂などでやはりマゼステーと言つた、英の方はさうでない、大君といふことはどういふ何か、私も知らぬけれども……、
○阪谷 今皇室では、ハイネスは殿下と訳します、マゼステーは陛下エキセレンシーが閣下になつて居ります、それで私どもが話をしますと、公使がエキセレンシーと言つて話をします、皇族が御出でになるとハイネス、陛下はマゼステーと申上げます、あれは何ではございませぬか、大君の上の人があるならば、其人々と応接したいといふことを申しはしませぬか、
○公 それは言つた、最初ペルリ、ハルリス、あれらの時分に其事を言つたね、やはりマゼステーと言つたんだらう、日本の帝といふことを言つた、処が日本では将軍といふ者があつて、総て政治はそれに任せてあるから、それと談判をしなければならぬと言つた、けれどもどうも解けない、何だか分つたやうな分らぬやうな風であつた、段々と長い中に、日本では斯ういふ訳といふことが分つたらしいのだね、それでやはり江戸で条約取替せといふことになつた、一体がむづかしかつた、どうしても向ふでは分らなかつた、帝といふ下にあつて、どうもそれがはつきりしない、
○阪谷 それで向ふの方では両頭政府と名づけまして、幕府は政権を持つた大頭だといふことを申しました、民部公子に渋沢が御供をして参りました節に、向ふでは丁度伏見宮殿下・小松宮殿下が御廻りになつたのと同じく、ハイネス即ち皇族の扱をしました、渋沢の書きました航西日記を読んで見ますと、大した向ふの迎接で、それは皇族で扱つて居ります、それが丁度それで宜い訳になります、将軍様の弟に御当りになりますから、向ふでは大切なる御客でございます、両頭でありますから、京都が一つの頭、江戸も一つの頭……、
○三島 大君と言ふと、「おほきみ」といふ詞であるから、易に「武人為于大君」といふことがあるから、丁度幕府で、「武人為于大君」といふことで、其辺から来たのでございませう、
○三上 新井白石の言ふ所は、日本国主源家宣といふと、京都の天子と紛らはしい、大君と言ひますと、日本では大君が将軍といふ意味で使つて居つても、朝鮮では王族の一つで、皇族外の者ださうでございます、それで朝鮮の方で日本王と言つても不敬でなくつて、対等の交際が出来るといふので、遂に王といふことに致しましたけれども、そ
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れは一代だけで、後は大君といふことになりました、
○江間 近頃よくあつちこつちで故老の話を聞くことがありますが、先年史談会で水戸の小瀬某と申します老人が話を致しまして、慎徳院様が小金の御鹿狩の時に、御前に金の采配を御授けになつたとか、御浜御殿で御前に、将軍家といふものは丸袖の襦袢は著ぬものだと仰しやつたとかいふことを、さもさも見て来たやうに話しましたが、東湖の門人で八十何歳の老人だといふのですから、如何にも本当らしく聞えますけれども、其頃此老人はまだ一介の書生で、そんな処へ出られる身分ではないのですな、
○公 御浜御殿での話は、まるで形のないことだけれども、あゝいふ話の伝はつた種はあるのだね、一体幕府では、男が十五になればもう一人前だけれども、十五までは子供だから大奥へも出ることが出来たのだね、それで私が始めて登城した時だから、確か十一の時だつたと覚えて居るが、御伽の外山岩太郎を連れて、五十三間の菊の御花見へ出たことがある、其時岩太郎は下ざま風の裄の長い襦袢を著て居たものだから襦袢の袖が著物の下からちらちら見える、そこで上ざまの短い袖を見なれて居る女中どもが、お前の袖はどうも長くて見ともないからといつて、剪刀を持つて来て岩太郎の襦袢の袖をぶつぶつと切つてしまつたことがあつたが、慎徳院様がどう斯うといふのは、多分こんなことから聞き伝へ言ひ伝へたのに相違なからうと思ふのだね、