デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
1款 徳川慶喜公伝編纂
■綱文

第47巻 p.634-648(DK470134k) ページ画像

明治44年4月6日(1911年)

是日、渋沢事務所ニ於テ、第十二回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK470134k-0001)
第47巻 p.634-635 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
一月二日 晴 寒風強シ
午前八時半起床、先ツ脚湯ヲ行ヒ、後朝飧ヲ食ス、腹部快方セサルヲ以テ、今日ヨリ全ク流動物ノミヲ食スル事トス、食後数多ノ年賀来客ニ褥中ニ在テ接待談話ス○中略 公爵伝記ノ草稿ヲ読ム○下略
一月三日 快晴 寒
 - 第47巻 p.635 -ページ画像 
午前八時起床スルモ腹部平愈セス○中略
公爵伝記ノ草稿ヲ読ム○下略
一月四日 晴 寒
午前八時半起床、腰湯ヲ為シテ後褥中ニテ朝飧ヲ食ス、蓋シ腹部ノ病未タ愈ヘサルニヨル○中略 公爵伝記ノ初稿ヲ読ミテ、修正ヲ要スル処ニハ意見ヲ記入ス○下略
一月五日 小雨 寒
午前八時起床、腰湯ヲ行ヒ褥中ニテ朝飧ヲ食ス、後伝記初稿ヲ熟読シテ、修正ヲ要スヘキ場処ヘ其事ヲ記入ス○下略
一月六日 晴 寒
○上略 午後二時午飧シ、堀井医師来診ス、下剤ヲ服セシモ充分ノ効ヲ見ルニ至ラス、午後ヨリ御伝記初稿ヲ読ミテ処々修正ノ意見ヲ記入ス
○下略
  ○中略。
一月八日 曇 寒
○上略 午飧後公爵伝記ヲ読ム○下略
  ○中略。
一月十日 曇 寒
○上略 午前九時起床、病稍愈ヘタルニヨリ今朝ハ入浴ス○中略 夜ニ入リテモ尚揮毫シ、十時頃ヨリ公爵伝記ヲ読ム○下略
  ○中略。
一月十五日 曇 寒
○上略 午飧後皆川氏ノ病ヲ訪ヒ、種々慰藉シテ帰宅ス、公爵伝記ヲ読ム
○下略
一月十六日 晴 寒
昨夜又腹瀉セシニヨリ朝来半身浴ヲ為シ、褥中ニ於テ摂養ス○中略 終日臥床中ニ在テ伝記ヲ読ム○下略
  ○中略。
四月六日 晴 軽寒
午前七時半起床、半身浴ヲ為シテ朝飧ス、後来人ニ接ス、十時事務所ニ抵リ事務ヲ処理ス、午飧後昔夢会ヲ開キ、徳川老公其他一同来会ス彰明会ノ事ニ関シテ談話ス、午後三時会ヲ閉シ、後囲碁会ニ移リ、六時半夜飧シ、九時過散会ス、豊崎・稲葉・三上・萩野、其他ノ諸氏来会ス


昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第四五―七五頁 大正四年四月刊(DK470134k-0002)
第47巻 p.635-648 ページ画像

昔夢会筆記 渋沢栄一編  下巻・第四五―七五頁 大正四年四月刊
  第十二
      明治四十四年四月六日兜町事務所に於て

図表を画像で表示--

   興山公      男爵   渋沢栄一 子爵 稲葉正縄君        渋沢篤二    豊崎信君    法学博士 穂積陳重    猪飼正為君   法学博士 阪谷芳郎            男爵            文学博士 三上参次            文学博士 萩野由之  以下p.636 ページ画像                  江間政発                 渡辺轍                 井野辺茂雄                 藤井甚太郎                 高田利吉 



○藤井 元治元年三月に、御前が禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮を御拝命になりました際、特に御内願がありまして、文久二年以来御就任の後見職を御辞退なされました、其節老中の方に於きましても、後見職の御辞退といふことには、寧ろ同意を致して居つたやうにも見えまするのでありますが、何かこれには深い御事情でもありましたことでございませうか、
○公 あれは別に事情といふ程のこともないけれども、早く言ふと、京都に居て関東の方のことは、どうも少し届きかねる、又関東の方でも予て後見は余り望まぬのだ、それで関東の方では、丁度宜いからここで御免になるが宜からうといつたやうな訳、こつちでは何分江戸のことを京都に居て一々遣るといふ訳には事実いかない、双方持合つて何の議論なしに済んでしまつたのだ、
○藤井 あの時薩州や越前などは種々な評判を致して居ります、
○公 それはある筈だ、薩州などの方には、ちよつと向きが悪いのでそれは其筈だ、一体の事実は何も別にこれといふこともない、
○藤井 次を伺ひます、やはり子年の正月に、将軍家が御上洛になりまして、二十一日と二十七日とに公武合体の有り難き勅諚を戴かれ、それから二月十四日に又御参内になりまして、二十七日の勅諚に対する御請書を御差出になりました、其御請書の中に、「横浜鎖港之儀は既に外国へ使節差出候儀に御座候得ば、何分にも成功仕度奉存候得共云々」といふ御文面がございます、そこで、「奉存候得共」といふ其字が、確に横浜を鎖港するといふ意味を表はして居ないといふやうな御詰問が、十五日に朝廷から御前に仰出されました、其時松平春岳・島津大隅守・伊達伊予守なども同じく参内致しまして、御簾前で俄に大隅守などが開国説を主張致しましたので、非常な御激論となつて、其日の朝議は甚だ不首尾に終つたかの如くに思はれます、其翌日が、先年伺ひました尹宮様の御屋敷での御前の御激論となつたやうでございますが、其十五日の朝議に、さういふ御議論のあつたといふことが、種々込入つて居るやうに思はれます、伝ふる所に依りますと、横浜鎖港といふことは、今一応確めて戴きたいといふ、御前からの尹宮を通しての御内願の如く見えるといふ説もありまするし、又此度の請書に横浜鎖港のことを確に申上げないのは、これは幕府が参予の諸大名に諮らずして出したのであるから、今一応朝廷から参予の意向を確めて見やうといふ考から、此御詰問といふものが出たのであるといふ説もありまするが、どちらが事実でございませうか、
○公 細かなことは、どうも今はつきりと記憶もないが、一体此節のことは、今言ふ通り、大隅守の方では俄に開国説に変つた、そこで昭徳院様御上洛前に……、先頃も確か話したやうに覚えて居る……、板倉・井上・水野・酒井雅楽などいふ者が皆衆議を尽して、今度御上洛
 - 第47巻 p.637 -ページ画像 
になれば、必ず薩州が開国説を立てる、此前の御上洛には長州に攘夷のことで迫られ、今度行つて又薩州の開国の方に附くといふことになつて見ると、幕府といふものは、少しも一定の見識がないといふことになる、今度行つても、容易に薩州の開国説に従ふことはならぬといふことが、御上洛前に関東で評議があつたのだ、それで決して薩州の開国説には同意せぬといふ、ほゞ腹を据ゑて出たのだ、其時は酒井雅楽・水野和泉が御供をして、そこで御上洛になつて見ると、果して薩州から開国説が出た、其前に私の方へも其事を申込があつた、それから私は同意したのだ、誠に御尤だ、出来ない攘夷をするの、出来ない鎖港をするのと言つて、実は朝廷を欺くやうなことになる、それよりはもう国の為に開く方が宜いといふ説に同意したのだ、それから御用部屋へ出て、薩州から斯う斯ういふことを申込んだが、如何にも薩州の説が尤だ、こゝでさつぱりと攘夷だの鎖港だのといふことは止《ヤ》めて国を開くといふことにしたら宜からうといふことを、酒井・水野に言つたのだ、処が二人とも、それは御上洛になる前に関東で評議をしてたとひ薩州から其事を申立てゝも、それには従はぬといふ約束をして来たのだから、今更それに同意することは出来ぬといふ論だ、成程それは尤だけれども、併し尤なことにも同意せぬといふ筋はあるまいと言つて、大議論があつたのだね、処がどうあつても鎖港を止めぬ、開国といふことはならぬといふことを、酒井も水野も押張つて言ふのだ私も負けずに論じて見たが、併し大君の思召もあるであらうから、いづれ伺つた上でといふことに結局なつて、伺つた処が、どうも今更薩州の説に従ふといふのは宜くない、やはり使節も立てたくらゐだから鎖港の処は是非成功するやうにといふことに極まつたのだ、幕府の方にはさういふことがある、又薩州の方では、長州が前かた出来ない攘夷を以て迫つたから、今度は薩州が出て、それをひつくりかへして、断然開国といふことにしやうといふ、薩州には薩州の見込がある、こつちは又それに同意してはならぬと考へたのだ、それでどうしても片が附かず、愈薩州の説に従つて国を開くといふことになれば、酒井も水野も唯今よりすぐに辞職して、もはや出ないといふことになつたのだ、酒井も水野も出ないとなつて見れば、閣老といふものはない、それではたとひ私が何した処が、どうも出来ないことだからといふのでそれから、さういふ訳ならば仰せの通り承知した、それならば横浜鎖港といふことに御同意致しますといふことに極まつたのだ、薩州の方では何でも自分の説を強ひて遣らうとする、両方あるのだ、腹の中にそれがあるから、誠に混沌としてはつきりとしないのだ、しないけれども、実は御請書にも、「横浜鎖港之儀は」といふことが成程あつた、御請書にあれを書いたのを見ると、誠に済まぬのだ、朝廷から公明正大の御論の出た処へ、仰せの通りといはないで、「横浜鎖港之儀は何何」と、今読んで見てもなぜ此やうなことを言つたらうかと思はれるが、さういふ事情であつた、又朝廷の方では、薩州で開国といふがそれはどうも厭《イヤ》だといふ者があるのだ、併しそれを強ひて言へば又薩州も怖《コハ》し、さればといつて、攘夷を遣るといつて、それなら遣らうといふ訳にもいかず、さういふ訳だから、ちよいちよいしたことは色々ある
 - 第47巻 p.638 -ページ画像 
が、それは皆余波のことで、大体の根がさうなつて居るものだから、そこで議論が纏まらぬのだね、あれは確か大層長い御宸翰であつた、
○藤井 さう致しますると、十五日に朝廷から横浜鎖港云々といふことを仰出されましたのは……、
○公 能くは覚えないけれども、何でも御請書が出た後で、横浜港の儀はどうするといふやうな御尋があつたかと思ふ、既に横浜鎖港の儀は必ず成功致す積りでございますといつたやうな御請をしたやうに、仄に覚えて居る、きつとさうだとは言はれないけれども、どうも其やうに覚えて居る、
○藤井 文字の上ではさうなつて居ります、
○公 多分さうだつたと思ふ、
○藤井 十五日に御詰問の出ました際に、朝廷に於きまして、春岳・三郎などゝ御前と、非常な御激論がありましたやうに見えて居りますが、
○公 朝廷で議論をしたことはどうも覚えて居ない、つまり鎖港をするかといふやうな御尋があつたやうに覚えて居る、其節に、横浜鎖港の儀は是非成功致す積りでございますといふことは、言つたやうに覚えて居る、前に言つた通りのこつちの腹だから、確かさう言つたやうに覚えて居る、それから其後に尹宮で暴論を吐いたのは、確か其後だつたか……、
○萩野 朝廷で御評議になりましたことが、原市之進などの書きました所では、非常に大激論があつたやうに見えて居ります、
○公 朝廷ではそんな議論は……、どうも能く覚えない、
○萩野 伊達宗城の日記などを見ますと、余り激論らしくなく、平和の御相談であつたやうに見えます、
○公 愈鎖港をする積りかといふやうな御尋だつたか、是非横浜の鎖港だけは成功するやうにしろと仰しやつたか、そこは覚えないが、こつちでは横浜鎖港たげ《(だけ)》は是非成功する見込でございますといふことに確か言つたやうに覚えて居る、
○萩野 さやうに仰せられたらしうございます、市之進などは大変喜んで、水戸の方に報告をして居ります、
○公 それは少し飾があつたかも知れない、
○藤井 原市之進の書きましたものに依りますと、当時尹宮は御矯飾御壅蔽といふやうな御振舞があらしつたやうに見えまするが、実際そんな御振舞がありましたものでございませうか、
○公 どうも記憶がない、
○萩野 あの時に尹宮が御前の御気を引いて見る為に、ちよつと問を掛けて見たのであるといふやうなことから、大変揉めて居りますが、そこの処がどうも分りにくうございます、市之進の書翰は修飾を加へたものかとも見えますが、併し又其書翰に依らねば、事の筋道の分りませぬことも多々ございますので、捨て難い書翰でございます、事実は事実でも、仰々しく書きましたのでございませう、
○公 さうだらう、
○江間 尹宮から御下りになつて、さうして原に御逢ひ遊ばして大気
 - 第47巻 p.639 -ページ画像 
焔を御吐きなさる処は、見るが如く原は書いて居ります、
○公 二条城で水野・酒井と論じたのは、これはなかなか両方とも一生懸命に論じた、それから其事を板倉の処へ文通をした処が、板倉がそれだからどうも困ると言つて大層歎息した、決して何でも薩州の言ふことを聴くなといふことを決定して行つた訳ではない、尤なことは聴かなければならぬ、それを一も二もなく、何でも薩州の言ふことを聴かぬぞと取つてはどうも困ると言つて、板倉がひどく歎息したといふことを後で聞いた、国を開くといふ薩州の議論は誠に当然なんだ、然るに其当然なのを、こつちは横に是非鎖港を遣るといふのは甚だどうも……、
○江間 是非遣るといふのも、真実遣るといふ訳ではないのですな、
○公 真実遣る積りなら、それは又悪くともとにかくだが、前かたは長州の御蔭で、こんな攘夷だの鎖港だのが出来た、今度は又それを止めるとなつては、唯人に愚弄されるのだ、斯ういふ処から、後はとにかく、先づ聴いてはいかぬといふやうな訳だ、どうも仕方がない、
○井野辺 慶応三年四月に、朝廷では浪士の脅迫に依りまして、従来幕府に対して同情を持つて居りました議奏広橋大納言・六条中納言・久世宰相、並に伝奏野宮中納言、此四人の役を免じました、それと同時に、折から大坂に居りました英国人が、敦賀へ参ると申すことで、伏見街道を通行致しました、それが為、京都の公家たちは非常の恐怖心に襲はれた余り、万一京都に英国人の仲間でも潜伏して居るやうなことがあつては容易ならぬといふので、朝廷から薩州・因州・備前の三藩に京都を守護するやうにといふ御沙汰がございました、此両事件を御前が御聴きになりまして、これは非常な朝廷の御失態である、其儘にして置くことは出来ぬと仰せられて、四月十八日に二条摂政を御訪問になり、翌日にかけて徹夜の御厳談を遊ばされました、余程御厳しくあらせられたと見えまして、一部の大名の間には、大樹公が摂政邸で御不敬があらせられたとまでに伝へられて居ります、其時の御模様につきまして、何か御記憶に存して居ることがございますれば、御伺ひ致したいのであります、越前の記録がございましたから、御手許へ差上げてございます、
○公 成程敦賀へ行つたに相違ない、此時に薩州へ警衛を仰付けられたといふことがある、これはどうも今はつきりと言へぬけれども、少し記憶して居る、此敦賀のことについて警衛を仰付けられたといふのが、こればかりではない、何か外に意味合があつたと覚えて居るがねそれでこゝにもある通り、会津始めそれそれあるから、仰付けられるには及ばぬといふことを言つたのだね、何でも薩州の方では頻に警衛を望んだやうな塩梅だ、
○井野辺 当日二条摂政邸での御掛合の模様について御記憶のことはございませぬか、
○公 それは能く覚えない、
○井野辺 摂政に辞職を御迫り遊ばされたといふ説も伝はつて居るのでございますが、
○公 御止《ヨ》しなさるが宜いといふことは、言つたことを覚えて居る、
 - 第47巻 p.640 -ページ画像 
仄に夢のやうに……、幕府の方では迚も警衛は届かぬから、薩州へ仰付けらるゝが宜い、それには何かそこに趣意があつたやうに覚えて居るが、どうも今はつきり斯うだとは言はれない、唯御警衛ばかりでなしに、何かそこに意味があつたやうで、一統不承知であつた、
○江間 御止しなさるが宜いといふのは……、
○井野辺 さういふ失態をしたのは摂政の責任であるからといふので辞職を御勧告になつたのです、
○公 能く覚がない、
○井野辺 御前がさういふ風に仰せられますと、それでは私も止すが其代り大樹公も職を御引きになつたら宜からうと申されたといふことでありますが、
○公 そんなことは決してない、それは摂政の仰しやる御詞でもなし又こつちで言ふ訳もなし、我々の内輪で言ふことはとにかくだが、どうもさういふ処では言はぬ、多分拵へたのだらう、
○井野辺 専らさういふ噂がありましたものと見えて、伊達宗城などは、余り御前の御振舞が穏当でないから、御謝罪になつたが宜からうといふやうなことを、老中に向つて……、
○公 そんなにどうもひどい議論ではなかつたと思ふ、
○井野辺 同じく慶応三年でございますが、五月二十三日に、兵庫開港について勅許を願ふ為に御参内になりました、其時の朝廷の御評議の模様が、越前の記録に詳しく書いてございます、御手許へ差上げて置きましたが、其事について何か御記憶になつて居ることでもございますれば、御伺ひ申上げたいと存じます、
○公 一覧したが、成程そんなことがあつた、これは細かなことだけれども、此節の一体の大体を話さなければ分らぬ、此兵庫開港のことは、島津がもうあの時分には長州と密に合体して居たのだ、それで兵庫開港は勿論何も異議はない、なれども長州の御処置と共に行はれるやうにしたいといふのが薩州の論だ、それで越前・宇和島、皆薩州に同意したのだね、けれども兵庫開港の方は、開くとか開かぬとか言へばそれで済む、開くなら開くと決答すればそれまでの話、然るに長州の方は、寛大の御処置と言つた処が、寛大にも色々ある、罪のある者の寛大と、何もない者の寛大とは、同じ寛大にも差《シナ》がある、それで兵庫の開港と長州の処置とを二つ並べて、両方一緒にしなければならぬといふ理窟はないのだ、長州は長州の処置、兵庫開港は兵庫開港と別のものだ、けれどもあの時分に、もう薩州が長州へ同意したものだから、丁度幕府では兵庫開港で迫られて窮して居るから、それを一緒にといへば、それなら仕方がないから長州も宥してしまへ、斯ういふことにしやうといふのが、薩州の方の真の目論見だ、一体二つ並べてしなければならぬといふ理窟はないのだ、けれども本はそれなんだ、それで大蔵・伊達・島津、これがどうだといへば、開港はしなければならぬと斯ういふのだ、それでもう三人の兵庫開港の方の存寄はちやんと分つて居る、それからして島津も開港が宜しいと申したからといふことを朝廷へ申上げた、然る処が島津の方では、まだ言はぬといふやうなごたごたしたことがあつたが、それはもう断然と遣つて、外国人
 - 第47巻 p.641 -ページ画像 
の方へ決答してしまつた、それで長州の処置は残つて居る、けれどもこれも長州が罪があるものか無いものかといふ処が極まらぬでは、寛大の出どころがない、処が薩州の方では、まるでもう罪はないものだから、官位も旧の通りに復し、総て先前の通りに入京もさせるが宜いと斯ういふ、又幕府の方では、さういふ訳にはいかぬ、大体がさういふ訳だ、それで使とか何とかいふことがあるが、斯ういふことは記憶がない、且枝葉のことで、大体がそれなんだ、片方は幕府で困つて居る開港へ附込んで、長州のことを唯済まさうとする、幕府の方は開港はしなければならぬ、長州の処置といふものは、先づ罪があるか無いかを糺して、罪があるとなつたら、罪のある上の寛大、無ければ無い処で寛大と、斯うしなければならぬといふのだから、どうも共にする訳にはいかぬ、且又二つ並べてしなければならぬといふ理窟はない、斯ういふので、島津の方では何でも共にしろといふ処を、もう皆開港でなければならぬといふことになつたものだから、それで済ましてしまつたのだ、其ごたごただ、此細かな、誰を使に遣つたの呼んだのといふことは一向覚がないが、大体はそれなんだ、
○井野辺 今一つ御伺ひ致しますが、民部様が清水家を御相続になりましたのは何か深い御事情でもあらせられましたのでございませうか
○公 あれは例の仏蘭西へ行くについて、清水家を相続したら宜からうといふ、それだけのことだ、又玄同の一橋に行つたといふのは、あれは尾州の慶勝からして、どうかどこへでも遣つてくれろと言つて、板倉などへは度々手紙を寄越した、それで尾州では出したい、片方は出たいといふので、それなら一橋へ遣つたら双方折合ふだらうといふので、それであれはあすこへ行つたのだ、別に何も理由はない、
○井野辺 初め玄同様が清水家へ御出で遊ばすことになつて居つたのを、途中から御変更になつて、其後へ民部様が清水家へ御出でになつたやうに……、
○公 民部を清水へ遣るといふことは、仏蘭西へ行くについて起つたことだ、最初は能く知らないが、さうであつたかも知れない、
○井野辺 民部様の御洋行のことをば、本国寺に居りまする水戸の者が、非常にやかましく反対を唱へますので、御前もひどく御困りになり、それでは民部を清水の方へ入れることにしやう、さうしたら本国寺の者も幾らか鎮まるだらうといふ思召で、御入れになつたといふ噂もありますが、何か其辺の、本国寺の者に対する御政策が含まれて御相続になつたといふことはございませぬか、其事が極まりまして以来本国寺の者が余りやかましく言はなくなつたといふことを書いたものがございます、
○公 あれは渋沢が能く知つて居る、私は少し胡乱だ、
○井野辺 最初民部様が会津の方へ御養子といふことでありましたがそれを民部様の御代りに余九麿様がいらつしやることになりました、
○公 確かさうだつた、
○井野辺 それは清水家を御相続になり、且つ仏蘭西へ御遣はしになる必要上から、御取消になつたのでございますか、
○公 民部が仏蘭西へ行くについて、あれは清水へ遣るが宜いといふ
 - 第47巻 p.642 -ページ画像 
ことになつたのだ、
○江間 会津の方の御断りといふのは、少し今の御考と違つて居るか知れませぬ、会津の方では、あの方を戴きたいといふ請願でありました、それをどういふ思召か知りませぬけれども、民部は御考があると言つて……、其時にはまだ西洋行などゝいふことは一向持上がらぬ時で、唯別な御事情で御断りになつたかと思ひます、
○公 はつきりとは言はれぬけれども、何でも会津の公用人が来て、余九麿を戴きたいとか何とか言つたやうに仄に覚えて居る、
○井野辺 会津の方では、民部様を御前が後に西丸へ御入れになる御考があるに相違ないと推測をしました模様で、大分あの取消を臣下の者が不平に思つて居るやうであります、それで肥後守も、あれは御舎弟でもあり、西丸と思召してゐらつしやるから、さういふ苦情を言ふものではないといふ説諭をして居ります、
○公 どうも能く記憶しない、
○江間 私がちよつと伺ひますが、政権奉還の時分です、あの前後の処で、福岡子爵が、後藤などゝ一緒に御前へ拝謁しまして申上げました時の経歴談を、先般或る会で聴きました、其速記は御手許へ差上げて置きましたから、御覧下さいましたことゝ考へます、私はあれを直接に聴いて居りましたし、尚又速記も熟読して見ましたが、どうやらと思ふ処が少々ございます、けれどもあれは福岡が目で見て心で考へましたことで、これは一説として置いて宜からうと思ひます、それで其外にあの当時を目撃しました者は、格別余計は無いのです、向ふから出て来ました者は格別としまして、御側に附いて居りました連中としては、松平越中守と板倉、其次に若年寄で永井、大目付で戸川伊豆松平大隅、目付で設楽岩次郎・榎本亨造・梅沢孫太郎、これと御前だけで、外に誰も現状を詳しく知つた者がありませぬ、全体こちらの方でどういふ考があつたかといい《(ふ)》ことにつきまして、ずつと以前ですが旧主越中守の存命中、私が出まして、あの時現場に貴所《アナタ》が御出でになつて居たのだから、大方詳しく御承知であらう、幕末史としては此辺のことは誠に必要なことで、巧《ウマ》く書かなければ工合の悪い処であるから、有の儘の御話を聴きたいと申しました処、如何にも尤である、現状はかやうであつたのだと委しく話をしてくれましたから、それを主として書く積りでありました、それで今の福岡などの話は、唯々主客の別のありますだけのことで、大同小異でございますから、これに関せずに、越中守が話して聴かせましたことを、唯今ずつと一応申上げます、それを御聴き下すつて、尚又御前が其時御覧遊ばした様子が、其他に何ぞございましたならば、それを御示し下さいますれば、大なる仕合でございます、そこで越中守の話の要領と申しますものは、二条の御城へ当日召出されました各藩の留守居別座の席へ……、
○公 それは十四日だらう、
○江間 十三日でございます、其席へ自分と板倉・永井と三人出席して……、これはまだ拝謁前のことです……、そこで越中守から先づ口を開いて、今般別紙の通り御書附を以て政権御返上のことを仰出された、依つて各これを聴聞せらるゝやうにと言つて、其御趣意の大要を
 - 第47巻 p.643 -ページ画像 
演説しました、すると板倉が又其尾に附きまして、御趣意仰渡されの趣について、何か意見のある者は、将軍家が御逢ひの上、親しく御聴き遊ばすから、遠慮なく申上げるやうにといふことを口達しました、これを聴きました諸藩の留守居ども、調べて見ますと人数が丁度五十人、越中守は定めし議論・質問・続々と出るであらうと考へて居つた処が、思ひの外一人もかれこれ言ふ者はない、唯非常の御大事であるから、速に本国へ申遣はして、藩論を承つた上で、改めて上申を致すでございませうと言つて、皆退散をしてしまつた、其中で御逢ひを願ひ出たのが、薩州の小松帯刀、土州の後藤象二郎、此二人であつた……、他に一緒に参りましたのが、福岡藤次と芸州の辻将曹の二人……松平大隅に質しました処が、此四人と私は思ふといふことでございました……、早速御逢ひになりますと、丁度将軍家は御上段の末まで、出御になつて、それから彼の四人の者は御下段の末の方へ平伏した処が、近う近うと仰しやつて、凡そ御座を去ること三尺ばかりの処まで御招きになりました、四人の者は恐る恐る膝行して、仰ぎ視ることも出来ない、そこで小松帯刀が一番に口を開きまして、さて今日仰出されました上意の趣は、恐れながら時勢御洞観の英断、千古卓絶の御見識である、誠に敬服の外はございませぬ、皇国の為に如何にも有難き思召であると存じます、併しかやうな美事は、とかく消え易いものでありますから、此の如く御英断の上は、速に今日でも御参内の上、御奏聞のことを願はしう存じますと、忌憚なく申上げた、すると後藤が語を継いで、唯今帯刀の申上げました通り、実に容易ならぬ御英断で天下の為に此上もない御盛徳であります、私ども三藩は申すに及ばず他藩でも此公明正大の御趣意に対しては、異論のあるべき筈はございませぬ、併し非常の御英断でありますから、朝廷に於ても容易に御取上が如何であらうかと存じますが、万々一御取上のない時分には、何と遊ばす思召でありますかと伺つた処が、将軍家は、予が一旦決心した以上は、如何にも存意を貫徹する考である、斯う仰せられまして、尚又其御趣意のある所を諄々と御弁明遊ばして、とにかく親藩・譜代の面々に諮詢をして、公議を経た上で奏聞するであらうと仰せられたのを承つて、四人は御前を退出したのである、越中守の話しました所は、かやうな訳でございました、其時に後藤が大変に威厳に恐怖して進退度を失ひ、非常に汗をかいて、かの平日の豪放に似合はぬことであるといふことを書きましたものがございますから、其辺も尋ねて見ました処が、後藤は小松と違つて、高貴の周旋に於ては甚だ不慣と見えて、成程少々畏縮といへば畏縮でもあつたらうか、後藤は丁度自分の坐つて居る前の処で、手の届く処に坐つて居つた、とにかく将軍家は極公明正大の開放主義であらつしやるけれども、陪臣に御逢ひになるのは始めてゞあるから、我々の方では誠に懸念で堪らなかつた、故に彼等の動作には始終目を著けて、もう一寸も遁さぬ積りで見て居つたから能く分つて居るが、如何にも額や頸筋の辺から胸のあたりへ掛けての汗といふものは、非常なものであつた、それで其当時から後藤の汗話といつて、時々同列の話頭に上つたことであると申しました、尚又大隅守に聴きました処が、これは座席の位置が遠うございますか
 - 第47巻 p.644 -ページ画像 
ら、どうも汗をかいたとか何とかいふことは一向見えなかつた、又御諭し中に、予が一旦決心をした以上は、如何にも存意を貫徹する積りであるといふ御詞は、私の耳にははいらなかつたと申しました、それから福岡の話の中に、拝謁を願つたのは、四人の外に備前で一人、宇和島で一人、此二人は別に拝謁をしたとあります、其申上げたことも我々同様であつて、御諭しも大同小異であるといふことがあります、これは私は始めて聴きました、此両人を別に御召になりましたことは御記憶があらつしやいますか、
○公 さうだつたかも知れない、何でも備前と宇和島に逢つたことは確に覚えて居る、これは別に議論も何もない、今の話の中で少し違つて居るかと思ふのは、最初に小松帯刀・福岡孝弟・後藤象二郎・辻将曹、それだけであつたか、其時に備前と宇和島の者も一緒ではなかつたかとちよつと覚えて居る、けれどもそれは別であつたか、そこははつきりしないが、何も議論はない、それでこちらが何か言つた、何と言つたか其事は忘れたが、帯刀の言ふのには、今日は誠に未曾有の御英断で、誠に感服仕つてござる、有難いことでござると言つて御辞儀をした、外の人も其通りだ、其時に板倉が少し席を進めて帯刀に、それについては何か考もあるだらうから、考があるなら、伏蔵なく御前にすぐにそこで申上げろ、斯う言つた、すると帯刀は板倉の方に向いて、それでは申上げて宜しうござるか、宜しい伏蔵なくと斯う板倉が言つた、それで帯刀が向ひ直つて言ふのには、将軍職御返上については、朝廷で御内議遊ばされただけでは、迚も天下のことを遊ばすといふ訳にまゐらぬから、衆職を召されて、とくと存意を御尋が宜しうござらう、それまでの処は、外国の事、並に国家の大事件、此二つは朝延で御評議を遊ばすが宜い、其他のものは、先づこれは前通り御任せになつて居る方が宜しうござらう、斯う言つたのだ、それは大きにさうだ、有難うござる、それきりで下つたのだ、
○江間 後藤は何も申しませぬか、
○公 何も言はない、唯未曾有の御英断で有難い、同様のことを何か言つて御辞儀をしただけだ、それでまあ引いてしまつたのだ、それから板倉に小松が逢つて言ふのには、今日は誠にどうも非常な御英断で有難い、唯今からすぐに御参内、其事を申上げられるやうにしたい、斯う言ふのだね、そこで板倉が、それは尤至極だが摂政始め御出でがないのに、どうも今すぐに御参内といふ訳にはいかぬ、いづれ明日御参内の上申入れる、手続を経なければいけないから……、それならそれで宜しうござる、どうぞ速に申上げるやうに……、其節に板倉が、併し若し又御聴済にならぬやうなことがあつては困るから、お前たちが行つて周旋して、御聴済になるやうにしたい、斯う板倉が言つて帰した、さうして板倉が側へ来て言ふのには、どうもあゝ性急では困る……、もう其時は夕刻である……、斯う斯ういふことに申置きましたそれはそれで宜いといふことで、其日は済んでしまつた、そこで小松などが行つてあちらへ吹込んだので、参内をして申上げた時に、いづれ衆職を召して衆議を尽された上であるから、それまでの処は、外国の事・国家の大事は朝廷で致す、其他の事は、これは前の通りに心得
 - 第47巻 p.645 -ページ画像 
よといふ御書附が出た、それは小松帯刀が言つた通りのものが出たといふ訳だ、それで衆職を召されて大評議があらうといふ処が、それが無くつて、九日かに非常の大御変革があつて、それから復古してどう斯うといふことになる、さういふ訳だ、
○江間 福岡の話に依りますと、其席で小松なり後藤なりが何か申上げた、さうすると御前から、後の二人は何か説はないかといふ御汰沙があつた、すると板倉が、これは両人同論でございますから、別に申上げることはございませぬと執成したので、そこで自分たちは辛うじて何も言はずに済んだのであると申すことでございました、
○公 そんなこともあつたか知らないが、大体今の通りだ、福岡も何か帯刀同様のことを言つたのだ、もう議論も何もない、政権返上をするといふ書面を帯刀に内々見せて、一同がそれを承知して居るから、承知して居る者が、そこへ出て何かの議論の言ひやうがない、悪いといふなら議論の言ひやうもあるが、其通りであるのに議論の言ひやうがない、有難うござるとか、結構でござるとか言ふだけのことで、議論はない訳だ、併し非常の御英断とか、或はどうとかいふ讚め辞はあつたかも知れない、
○江間 越中守の申します処では、彼等に対して其御趣意を御演達遊ばしたのが、誠にどうも御見事で、実に流暢な御弁舌であつて、其当時はすつかり覚えて居つたけれども、どうも年取つた故か忘れたといふことでございます、
○公 何か言つたよ、私も覚えては居ないが、
○江間 あすこで御演達遊ばした時は、あの御趣意の書附がありますから、あれを砕いて御諭しになつたものでございませう、
○公 それはさうだ、
○江間 これが越中守の話に依つて書きました図でございます、(第一図を出す)
○公 これは此通りだ、唯板倉なにかは左にならなければならぬ、なぜ覚えて居るかといふに、こゝに小松帯刀が居る、板倉がこゝから出て、こゝへ進んで云々と言つた、これはこつちではない、それでこゝに入側がある、入側のこゝに並んで居たのだらう、こゝへは出て居ない、大隅だのなんといふ者は、こゝへは顔を出さない、何しろ板倉などはこつちに居る、(第二図参看)
○江間 これは各藩の留守居を集めました時の概略を書きましたものです、其時には御出座にはなつて居りませぬ、(図略す)
○公 これは能く承知しない、
○江間 其時出ました者の中には、渋沢男爵は大分御知合ひがあることゝ思ひますが、
○渋沢 どうも余り無いやうです、
○江間 宇和島は誰でございますか、
○公 どうもちよつと思ひ出せぬ、まだ若い男だつた、

○江間 宇和島は都築ですか……、備前は花房ではございませぬか、
*欄外記事
[宇和島は都築荘蔵備前は牧野権六郎なりき
 - 第47巻 p.646 -ページ画像 
第一図

図表を画像で表示第一図

           ○公       (上段) ○松平越中守 ○板倉伊賀守 ○永井玄蕃頭 △小松帯刀 △福岡藤次 △辻将曹 △後藤象二郎 ○戸川伊豆守 ○松平大隅守 ○設楽岩次郎 ○榎本亨造 ○梅沢孫太郎       (下段) 



第二図 此図は公の御談話に依りて第一図を訂正したるものなり、されども人名席次の如きは公の子細に記憶し給ふ所にあらざれば尚正確のものといふべからず。

図表を画像で表示第二図

    (入側)    (上段)       ○公     (下段) △小松帯刀 △後藤象二郎 △辻将曹  △福岡藤次 ○松平越中守 ○板倉伊賀守 ○永井玄蕃頭 (入側) ○梅沢孫太郎 ○榎本亨造 ○設楽岩次郎 ○松平大隅守 ○戸川伊豆守 



○公 いや花房では……、
○江間 花房は若い人で、能く弁ずる人だつたさうですが、
○渋沢 花房義質は寅太郎と申して居りました、親が七兵衛、沢井といふのは花房と一緒に京都に出て居りました、
○江間 福岡の話の中に、今の二条様へ参りまして、二条様を説きました時分に、余程面白かつたさうで、幕府から奏聞になるから、速に御執奏になつたら宜からうといふことを申しました処が、なかなかさういふ訳にはいかぬ、そんなことを軽々しく奏聞して、万一間違つた時分には、私は公卿だから腹を切ることは出来ぬ、誠に困つた話だといつて、又少し延びさうになつて来ました、そこで小松が、いやさやうな訳なら、私ども十分心得がありますからと大きな声で申上げましたので、それに御懸念があつたものか、それぢや早速奏聞に及ぶからといふことになりました、それから帰つて来てから福岡が、私どもに心得があると言ひなすつたが、どういふ心得かと聴くと、小松は、いや何もないが、唯出来心であすこで力んで見たのだが、大変に利いたのだといふ話があつたさうで、そんな訳であつたものと見えます、
○公 文といふものは、真の事実を正直に書いたのでは面白くない、そこへ色々彩色を入れると、小さなことも大きくなる、
○江間 もう一箇条伺ひますが、大坂へ御下りの後に、朝廷から御召があつて、其頃に後藤象二郎に御逢ひ遊ばされたことがありますでございませうか、
○公 後藤象二郎は大坂へは来ない、来たのは中根雪江、尾州で田宮
 - 第47巻 p.647 -ページ画像 
か誰か来た、外には誰も来ない、
○江間 斯ういふことを書いたものがございます、大坂へ御下りの後朝廷から御召になつた、其事について後藤象二郎に御相談遊ばされた其時後藤の申上げるには、多勢御引率御上洛になります時分には、恐らくは又物議を生ずるであらうから、単騎御軽装で御入京遊ばされるのが、誠に然るべきやうに存じ上げる……、そこでこれを容堂に告げて、容堂の意見を伺ひました処が、容堂も大に喜んで、若し内府にして単騎御入京といふことになつたならば、自分は土州兵を以て死を決して護衛致しますからと言つて、自ら書面を認めまして、是非軽装で御上京といふことに申上げやうとした、そこで後藤が、其御使者にはどうぞ私をと請求しました処が、容堂が、どうもお前が行つては危いからと言つて、急に出しませぬ、果せるかな其事が忽ち洩れて、後藤は薩長の間に疑はれましたが、幸に弥縫に依つて免れた、さういふことが稍信ずべき記録にあるのです、
○公 するとそれは後藤が下坂する積りで下坂しないのだね、
○江間 其手紙を持つて行きませぬ其前です、
○公 後藤は来たことはない、
○江間 処が其時分の手紙だらうと思ひますものが、大久保一蔵、あの人の手にはいつて居る、けれどもさすが大久保ですから、結局まで決して見せぬ、後々一緒に遣りまして、後藤が何か我儘でも言ふと、それをちやんと持つて居つて遣られるので、頭が上らなかつたといふ説を、大久保に接近して居ました者から聞きました、幸に斯ういふ書附があります、これが事実あつたことですと大層面白いのです、
○公 いやどうも後藤の来たことはちつとも覚はない、中根雪江に尾州の……、

○江間 田宮でせう、
*欄外記事
 [尾州は田中国之輔なりき
○公 田宮ではないやうに覚えて居る、それとも田宮であつたか、何でも尾州から来た、
○江間 春岳侯も行きましたな、

○公 春岳も来ない、誰も来ない、
*欄外記事
 尾越両老侯は十二月二十六日下坂二十九日まで滞在し尾は不快にて登城せざりしも越は数回登城拝謁したる由越前の記録に見ゆれば是は御記憶の誤なるべし
○江間 極切迫しましてから春岳侯が……、
○公 いや来ない、春岳の来たことはない、私は逢はない、
○江間 どうも危いからというて、わざわざ護衛まで御附け下すつて漸く使命だけを達しました、尾州は参りませなかつたが、春岳侯は確に参つて居りますのです、

○公 来た覚がない、又春岳が何か用事があつたか、それも一向覚はない、来たことは覚えない、
*欄外記事
 - 第47巻 p.648 -ページ画像 
 (公御手記)
 大坂にて尾越両侯に逢ひたる覚なし
○渋沢 戸田大和守は……、
○公 これはもう度々来た、京都へ来たり大坂へ来たり、大坂にも暫く居つた、