デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
2款 楽翁公伝編纂 付 楽翁公関係資料刊行
■綱文

第48巻 p.5-6(DK480001k) ページ画像

明治44年5月13日(1911年)

是日栄一、天明八年正月、松平定信ガ本所吉祥院ノ歓喜天ニ捧ゲタル願文ヲ書写シ、東京市養育院内ニ祀ル処ノ同公ノ神位ニ充ツ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK480001k-0001)
第48巻 p.5 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
五月七日 雨後半晴 軽暖
○上略
白河楽翁公ノ起誓文ヲ浄写ス、蓋シ養育院ニ寄附スル為メナリ、且其添書ヲ作リテ本院ト分院トニ各一通宛ヲ作リタリ○下略
   ○中略。
五月十三日 晴暖
○上略 午後一時半、巣鴨ナル養育院ニ抵リ楽翁公ノ紀念会ヲ開キ、江間政発氏ト共ニ公ノ施政ニ関スル行動ニ付意見ヲ述ブ○下略


竜門雑誌 第二七六号・第五八―五九頁 明治四四年五月 ○養育院の楽翁公祭(DK480001k-0002)
第48巻 p.5-6 ページ画像

竜門雑誌 第二七六号・第五八―五九頁 明治四四年五月
○養育院の楽翁公祭 東京市養育院及び同巣鴨分院にては例年の如く五月十三日午前十時三十分より、院の創設者たる白河楽翁公の記念祭を執行したり、出席者は院長たる青淵先生を始め田川市助役、松尾庶務課長、小川博士、川崎癈兵院長、小西盲学校長、其他百余名にして○中略 午後一時よりは更らに講堂に於て江間政発氏は、楽翁公学校時代より老中を勤めたるまでの逸事を講演し、次ぎに青淵先生の同公に関する講話ありたる後○中略 因に東京養育院の神位に充てられたる楽翁公の誓文及び青淵先生の「楽翁公心願書跋」は此程出来して同院の神位に供へられたる由なるが、其誓文及跋は左の如し。
    松平楽翁の誓文○次掲
    楽翁公心願書跋
 此誓文は松平定信公幕府の執政となられし後八ケ月を経て、天明八年正月二日本所吉祥院に祀れる歓喜天に捧げられし密封の心願書なり、公薨去十数年の後寺僧これを発見せしも、寺宝として秘蔵せしを以て世人未だ曾て此事ありしを知らざりしが、明治の初其寺の衰頽と共に世に出でゝ今は公の後胤なる松平子爵の家宝となれるなり抑も公は幕府の衰世に当りて出でゝ宰輔の職に就き、一身以て中流の底柱となり幕府の危殆を拯ひ、能く中興の隆治を致せしは固より天授の才識に因ると雖も、亦以て正心誠意不自欺の実学修養に職由
 - 第48巻 p.6 -ページ画像 
せずむばあらず、今此文を読みて当時を回想すれば、公の精神躍如として楮墨の間に溢れ人をして悚然として容を改めしむるものあり而して我東京市養育院の興る亦実に公が遠大なる遺法の余沢に基く所なれば、此文に対し誠を推して敬重の意を表すれば自ら公在天の霊相感応するを覚ふ、乃ち恭しく一本を摸写して之を本院の神位に充て、永く公の遺徳を諠れざらしめむとす。
  明治四十四年五月十三日  東京市養育院長
                男爵 渋沢栄一 謹書


楽翁公伝 渋沢栄一著 第一〇六―一〇七頁 昭和一二年一一月刊(DK480001k-0003)
第48巻 p.6 ページ画像

楽翁公伝 渋沢栄一著 第一〇六―一〇七頁 昭和一二年一一月刊
    第五章 施政の方針
○上略
 天明八年正月二日松平越中守義、奉懸一命心願仕候。当年米穀融通宜く、格別之高直無之、下々難義不仕、安堵静謐仕、並に金穀御融通宜、御威信御仁恵下々江行届き候様に、越中守一命は勿論之事、妻子之一命にも奉懸候而、必死に奉心願候事。右条々不相調、下々困窮御威信御仁徳不行届、人々解体仕候義に御座候はゞ、只今の内に私死去仕候様に奉願候。《(原註)》生きながらへ候ても、中興之功出来不仕、汚名相流し候よりは、只今の英功を養家の幸、並に一時之忠に仕候へば、死去仕候方、反て忠孝に相叶ひ候義と奉存候。右之仕合に付、以御憐愍、金穀融通、下々不及困窮、御威信御仁恵行届、中興全く成就之義、偏に奉心願候。敬白
○下略