デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
2款 楽翁公伝編纂 付 楽翁公関係資料刊行 付、楽翁公関係資料刊行 [3]楽翁公住吉奉納百首和歌書写
■綱文

第48巻 p.19-20(DK480007k) ページ画像

昭和2年5月(1927年)

是月栄一、松平定信(楽翁)ノ詠草「住吉神社奉納百首」ヲ書写シ、「楽翁公住吉奉納百首和歌」ト題シテ石版印刷ニ付シ、知人ニ頒布ス。


■資料

楽翁公住吉奉納百首和歌贈呈状(DK480007k-0001)
第48巻 p.19 ページ画像

楽翁公住吉奉納百首和歌贈呈状       (財団法人竜門社所蔵)
(印刷物)
拝啓 益御清適奉賀候、然ば今般東京市養育院に於て楽翁公祭を挙行するに当り、渋沢子爵自ら筆を執り、故公詠草の内の住吉神社奉納百首を書写し「楽翁公住吉奉納百首和歌」と題し印行致候に付ては、玆許一部呈上致候間御受領被下度候、右得貴意度如此御座候 敬具
  昭和二年五月
                      渋沢事務所


楽翁公住吉奉納百首和歌 渋沢栄一書 はしがき 昭和二年五月刊(DK480007k-0002)
第48巻 p.19-20 ページ画像

楽翁公住吉奉納百首和歌 渋沢栄一書 はしがき 昭和二年五月刊
(石版)
橘の花の薫にいとゞ昔の偲ばるゝ夏の始の五月中の三日松平楽翁公の忌日に、我が東京市養育院に於て今年も公の霊祭を営まむとす、公の偉大なる人格・事業、さては其善政の余沢に成れるこの養育院との関係につきては、去年の夏ものしたる村千鳥の緒言につぶさに述べたれば又繰りかへさむも要なかるべし、公の天授の才能は書画・詩文等何れの道にも蘊奥を極められたるが、中にとりわきて和歌に堪能なりしことは、たそがれの宿の名歌によりて夕顔の侍従と世に称へられたるにてもしるし、しかのみならず極めて速吟にして、或時侍臣に題を選ばしめて歌よむに題よみ上ると共に吟詠成り、果は侍臣等が出すべき題尽きてもだし居るを見つゝ、切りて出すだいのなければ言の葉の花のつぎ穂は咲くよしもなしと戯れられしことありと云ふ程なれば、一代の詠出はいといと許多なるべけれど、おのれ寡聞なる只公が自撰の三草集によりて其片鱗を知るのみなりき、さるに近頃公に住吉神社奉納百首の詠ありて其写本松平子爵家に蔵せらるゝと聞き、借り受けて打誦するにいと面白ければ、老筆もて書写印行して今年の霊祭の記念に同志の人々に分たむとす、此百首は巻の跋文にしるされたる如く、招月の住吉百首を得て同じ題をよまれたるものにして、晩年の詠なることは歌の言葉にて知らる、招月とあるは足利時代の歌人にて東福寺の僧正徹がことなり、公は此法師の歌をいたく愛でられそが家集草根集の中より一ふしあるもの千五百首ばかりを抄出し手づから細字に書き写して草露集と名づけられたり、其親筆の小冊子を故ありて己れ年頃秘蔵するも奇しき縁なれや、和歌の道には暗き己が歌のよしあし論はむは嗚呼のわざながら、公の詠歌は余ある才に任せ言葉をあやなし花を飾りたるものなきにあらねど、心ざす所の実法なるは言の葉のはかなき道の為ならぬと歌はれたるにも知られて、やがて正しき心の流露とも云ふべきか、試ミに此百首の中の歌につきて云はむに鷹狩の詠には民の歎をも手にとる仁心しるく、浦月の歌は公明なる心の表現と
 - 第48巻 p.20 -ページ画像 
も云ふべし、とりわきて巻の末つ方の三四首にぞ公の本領は表れたる老いても義に勇む矢たけ心の強さは述懐の詞に見え、失はれぬる新羅百済を惜しむ雄図の大なるは懐旧の詠にぞ知らる、仏の法も有るに任せてと云はれしを見れば、今の世の基督教とても教の道に取り入るべき心の寛さは知らるべく、神と君との恵をかしこみたる詞によりても敬神尊王の真心は明らかなり、詩三百一言以蔽之曰思無邪といへる論語の辞は、公の詠歌を評したるものと云ふを得べきか、いさゝか思ふ旨をしるしてはしがきに代ふるものなり
  昭和二年丁卯五月
                 渋沢栄一識  
   ○楽翁公住吉奉納百首和歌 一冊(石版)
    製本 和綴 美濃版
    紙員 二〇丁(内、表題紙一、はしがき四)
    表題紙 楽翁公住吉奉納百首和歌(栄一書石版)
    題簽 同右
    表紙 行成表紙


招月庵正徹小伝(DK480007k-0003)
第48巻 p.20 ページ画像

招月庵正徹小伝
(印刷物)
僧正徹、宇は清巌、本姓は紀氏、或は云ふ小田氏。東福寺に入り、仏照派の下僧と為り、東福寺の書記と為る。徹書記と称す。栗棘庵に居る。和歌を嗜み、詠出する所三万余首に及ぶ。而して自ら謂へらく、益なきなりと、尽く之を焚く。既にして悔い、復た詠ずる所二万余首之を草根集と号す。准后藤原兼良之が序を作る。年を経て復た堆を成す、之を草根続集と為す。嘗て其詠ずる所の和歌、諷世の意あるを疑はれ、山科に謫せらる。一草盧を結ぶ。初め室を栗棘庵中に構ふるや松月と号す。是に於て更に室を号して招月と曰ふ、蓋し追慕の意のみ和歌を以て友と為す。明年七月亡魂祭を詠じて曰く、「なかなかに、亡きたまならば、故郷に、還らむものを、今日の夕暮」と。事聞ゆ、其意を憐み、赦されて帰る。○中略 長禄二年五月寂す。年七十九なり。
(野史抄訳)
   ○右ハ半紙一枚ニ活版印刷サレ「楽翁公住吉奉納百首和歌」ニ添付シ頒布セルモノ。