公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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昭和5年10月(1930年)
是月栄一、当伝記ノ序文ヲ撰ス。
世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第一巻・序第一―五頁 昭和八年一一月刊 【序 会長 渋沢栄一】(DK480025k-0001)
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世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第一巻・序第一―五頁 昭和八年一一月刊
序
余が井上公と始めて相知るに至つたのは、実に明治三年の事であつて、爾来公の薨去の時まで大凡四十年間の久しきに亘り、その間互に処生の方向は相違したが、我が国財界の為に貢献せんとした精神に於ては些かも異なつた所は無かつた。今より六十年前公に知遇を辱うした時を回顧すれば、真に感慨の深いものがある。その頃公は大蔵大輔として廃藩置県後の我が国財政の大任に膺り、余も亦その部下の一員として、公からは忠実に能く働く者であると認められてゐたやうである。而して余が時に或事情から辞意を洩らした時などは、公から大いに慰撫せられ説得されて事なきを得たが、兎に角普通事務以外に種々厚情を辱うしたことは今尚記憶に新たなる所である。顧れば公の大蔵大輔時代は僅少の年月ではあつたが、廃藩置県後の事務処理に至つては真に驚嘆す可き偉大な力を振はれたもので、何事によらず即座に裁
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断し、総べての綱領は之を謬らず大綱を押へて勇往邁進されたのである。それであるから、細目に就いては後世から見て多少の論議は免れぬとしても、大体に於ては真に快刀乱麻を断つの慨があつた。余も亦その方法に範を取り、幸ひに成績を挙ぐるを得たのは、これ偏に公の指導に依るものと信ずるのである。或時余は公に向つて次のやうな意味のことを尋ねた。「之を箱に入れようと思ふのに、寸尺が延びてゐるから這入らないが、恁麼しませうか」すると公は、「それは曲げるなり、箱を破壊するなりして入れるが宜いではないか」と答へられた又或場合に事の指揮を請ふと、公は、「そんな事は一々訊ねずに、君自身の即断で宜いぢやないか」と叱られた。公の答はそれこそ実に当意即妙で、時には忿怒して小言をいはれたこともあり、又その小言にも公の何かの誤解から来たものもあつたが、要するに皆公の至誠から出たものと解して誤はなかつたと思ふ。
当時公は緻密なる思慮を以て機敏に財政の整理と殖産工業発展の途を講じて居られたのであるが、太政官の施政方針が往々にして公の為す所と相容れず、却つて財政をして益々紊乱せしめるやうな傾向があつて、常に意見の衝突を見るに至つた。その結果、公は予算論で辞表を出したのであるが、その際三条公は非常に公を信じて居られ、大蔵省は公の力に俟たねばならぬとして、辞意を翻さすべく、余の仮寓へ三たび駕を枉げられたことがあつた。それで余も公に向つてその事を伝言し、兎に角公は一旦辞意を思止まられたが、やがてまた公は余と共に、彼の有名な建白書を提出して同時に退職するやうになつたのである。
斯様にして余と公との交情は所謂水魚の交といつても過言でない程であつた。それから後、公の薨去まで永い間双方の間に少しの疎隔も生じたこと無く、勿論余は公から容易ならぬ庇護を蒙つた次第である一体余は長州の方には第一に伊藤公、次に公、それから山県公・桂公などに接近して種々と指導を受けたのであるが、公のやうに懇切に人情味を十分に加へて大鉄案を与へて下さつた方は無かつた。実に些細の事に至るまで気を附けられて能く行届いたものであつた。
要するに公は非凡の頭脳を有し、機を見るや敏、而も軽挙事を為すのではなく、その用意の周到なることは到底常人の企及し得べき所でなかつた。強ひてその欠点をといふならば、余りに世話を焼き過ぎるの感はあつたが、それも痛切な至情から出たもので、その結果時として利かぬ気と義侠心とを起して、時に非常な勁敵を作ることもあり、又忠実な味方を作ることもあつた。公は実に一面には非凡の豪傑であり、他面には緻密な事務官であると評すべきである。
今や公の薨去を距る十数年、而もこの大偉人の一生を飾るべき伝記の全きものが未だ世に出で無かつたのは、吾々の斉しく遺憾とした所である。然るに一昨年直接間接に公の懇情を蒙つた所謂縁故者各位と相謀りその御援助の下に、公の生涯に亘つた伝記を編纂して、井上侯爵家に呈し公の霊前に供へようといふことになり、伝記編纂会を組織し、余もその役員に列し、爾来専ら根本的資料の蒐集に努めてゐた。今やその第一期事業を了り、引続き次期の起稿に著手しつゝあるが、
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これ亦両三年の後には完成して、世に現れるに至るも近い事と思ふ。かくて余等は、公に対して報恩の一端をも致し、又公の事蹟の誤つて世に伝へられてゐるのを是正することにもなると信ずる。
こゝに聊か公に関する所感を述べて、以て序に代へる次第である。
昭和五年十月十五日
会長 渋沢栄一
世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第五巻巻末付録・第六―一三頁 昭和九年九月刊(DK480025k-0002)
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世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編
第五巻巻末付録・第六―一三頁 昭和九年九月刊
世外井上公伝記編纂経過
○上略
会長渋沢子爵は昭和六年十一月十一日薨去したので、爾後会長は之を欠き、阪谷男爵を委員長として会長の事務を処決することとした。
なほ委員には左の如く嘱託増員する所あつた。
鮎川義介 昭和三年六月七日
藤田四郎 昭和六年十二月八日
而して幹事浅田徳則氏が昭和八年三月逝去のため、鮎川義介氏を幹事となし、編纂事務の進捗を図つた。
編纂員のこと
伝記編纂に関する職員を左の如く定めた。
一、相談役 渡辺世祐 岡百世
二、編纂主任 堀田璋左右
三、編纂員 鈴木重瓊麿 椙杜吉次
岩本益夫
四、庶務会計掛 江森匡一
外に補助員として、速記者浜野嘗一、写字生林興一郎・升田静乎、タイピスト野口操子・渋田ナツ等を置いた。なほ外交史料蒐集を富田義詮に依頼し、又編纂補助として昭和七年に至りて中川明四・山地久雄を雇うた。
展覧会のこと
かくして久しく翹望せられてゐた公の伝記編纂事業は愈々着手せられた。而して同年十月五・六の両日、昭和ビル二階に於て展覧会を開催し、井上侯爵家所蔵の世外公に関する資料を主とし、諸方面の各家所蔵の有益なる出品を得、その陳列品数百点に及んだ。この催しは伝記編纂上益する所多かつたのみならず、世の明治史研究者に資する所少くなかつた。
編纂経過のこと
編纂着手以来、事業は予定の如く進捗し、第一期間に於て伝記の骨子となるべき史料は大概之を蒐集し得た。而して第二期即ち昭和五年度・六年度に於ては、編纂員は各分担を定めて専ら草稿を整へ、その傍ら所要の史料蒐集に従事した。なほ第三期の昭和七年度に於ては、更に新史料を捜索して前草稿を修補した。渡辺・岡の両相談役は毎月会合して編纂を厳重に督励し草稿を修訂して、玆に予定期日内に原稿四千頁の世外井上公伝を完了することを得た。
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資料提供並に談話者
世外井上公伝の編纂に着手して以来、その完了に至るまでの間に資料を提供せられた諸家は七十余箇所、編纂員が就いて談話を聴取した諸氏は百二十余名の多きに達した。玆に一々その芳名は掲げないが、篤くその厚意を鳴謝する次第である。
印刷のこと
以上の如くにして昭和八年三月に至り世外井上公伝の原稿が略々完了したので、三月末日を以て編纂員並に同補助員等を解嘱した。而して世外井上公伝は之を五巻に分冊して約一箇年の予定を以て印刷に付することとし、鈴木重瓊磨・中川明四の両名をしてこれが校正の事務に当らしめ、渡辺・岡両相談役に於てその監督指導をなすことになつた。かくて昭和ビルデイング内に於ける事務所を閉鎖し、三井家の好意により麻布区笄町一七二番地三井集会所内の一室を借受けることとなり、之に移つた。而して印刷製本については内外書籍株式会社をして之に当らせることにした。原稿は既に完了したとはいへ種々不備なる点があつたので、之を印刷に付するに先だち、新たに得たる資料の補修、誤謬の訂正、文体用語の統一、内容の精粗繁簡の整備等をなすの要があつたので、四月下旬より之に着手し、その甚だしきは稿を新たにした節もあつた。かくして一巻の修訂が成るに従つて之を印刷せしめ、渡辺・岡両相談役は親しく修訂に当つたのであるが、その間に予期せざる日子を要した。なほ同年末に至り秋保親之・岩瀬仁太郎の両名を雇うて校正の補助をなさしめた。
侯爵井上勝之助君略伝の編纂
印刷製本の進捗中、更に公に関する資料を得、而もそれが勝之助君及び末子夫人に関係した所のものが多かつた。君夫妻はこの編纂については非常な助力と便宜とを与へられてゐたが、昭和四年十一月三日に君は薨去せられたので、公の事績を増補する意味を以て、昭和九年に入りて侯爵井上勝之助君略伝を編纂して第五巻の附録となすことになつた。依て怱々の間に更に資料を蒐集して稿を起した。かくて八月に至り世外井上公伝全五巻の完成を見るに至つた。
経費のこと
編纂の経費は第一回委員会決議に基づき、取敢へず三井家より一時立替支出によりて事業に着手したのであつたが、爾来五年間に約金拾壱万余円也を要し、その後印刷を始めるに当り、事務諸経費並に内外書籍株式会社への印刷補助交付金を併せて、前後六年五箇月間に於て約金拾参万余円也の支出を要した。而して之に対する出資者諸賢の芳名は左の如くである。
これ等の諸賢は、曾て公に親炙して居られた関係から、今日迄に特に好意を寄せて本会の事業達成に援助せられた。この外に今後尚ほ本会の事業に御援助を賜はるべき方もあるべきことと思ふ。これ等の多大なる高誼によりさしも錯雑困難なる公の事歴を、玆に漸く纏め得たることを深く感謝して已まぬ所である。
今や世外井上公伝の編纂を完成し、之を馨公・同夫人並に勝之助君同夫人の霊に捧げて報告をなすと共に、編纂経過を略記して、その始末を明かにする次第である。
昭和九年八月三十日
井上馨侯伝記編纂会
○当伝記ハ昭和八年十一月ヨリ九年九月マデニ菊版全五冊トシテ、内外書籍株式会社ヨリ発行セラル。