デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
15款 其他 5. 大隈侯八十五年史編纂会
■綱文

第48巻 p.94-100(DK480030k) ページ画像

昭和2年1月(1927年)

是ヨリ先大正十一年、大隈重信伝記編纂会設立セラレ、栄一ソノ顧問トナル。是月栄一、数日推敲シテ「大隈侯八十五年史」ノ序文ヲ撰ス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正一二年(DK480030k-0001)
第48巻 p.94-95 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
 - 第48巻 p.95 -ページ画像 
二月二十四日 雪 寒甚
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス、畢テ○中略 高須芳次郎氏来リ、故大隈侯爵ノ伝記編纂ニ付懐旧談ヲ為ス○下略


渋沢栄一 日記 昭和二年(DK480030k-0002)
第48巻 p.95-96 ページ画像

渋沢栄一 日記 昭和二年        (渋沢子爵家所蔵)
一月一日 快晴 寒威甚シカラス
○上略
日誌編成ノ後、客年来依頼ヲ受ケタル大隈侯伝記ノ序文作成ニ付テ、曾テ送付シ来レル原稿ノ修正ニ付テ種々ノ考案ヲ為ス
○下略
一月二日 快晴 寒威強カラス 昨日ト同シク天気朗晴ニシテ新春ノ気候近来稀ニ見ル天候ト云フヘキナリ
○上略 午後一時過、入沢博士・大滝氏・林氏等ノ医師来診、爾来ノ病状及経過ノ模様ヲ詳細ニ診査セラレ、現状ハ特ニ懸念ノ点ナキモ、尚数日ノ注意ヲ要スル旨ヲ告ケラル
病状右ニ述ル如クニシテ特ニ苦悶モナク、又食餌睡眠等ニモ異状ナキモ老衰ニ加ヘテ身心ノ疲労尚未タ回復セス、読書モ執筆モ意ノ如クナラス、僅ニ大隈侯伝記序文ヲ修成スルニ勉ムルモ全ヲ得ルニ至ラス、夜食後家人ト雑談シテ十時過就寝
一月三日 快晴 寒威昨日ヨリ減ス 引続キ好天美日ニシテ寒気モ厳ナラス新春ノ気候稀ニ見ルモノトス
○上略
客年ヨリ日ヲ限リテ修正ヲ督促シ来レル大隈侯伝記ノ序文ヲ調成ス、蓋シ明日ヲ以テ修正ヲ了スヘキノ約アレハナリ、午後モ引続キ勉焉漸ク薄暮ニ之ヲ了セリ○下略
一月四日 晴又曇 寒気昨日ト同 朝来少ク雲アレトモ風無クシテ寒威モ亦タ強カラス午後ヨリ快晴
○上略 又高田氏ニハ、頃日来努力セシ大隈侯ノ伝記ニ付スル序文ノ原稿ヲ清書シテ、直ニ之ヲ伝記編輯ノ担当者ニ送付スル事ヲ委嘱ス、後、書類ヲ調査シ又日記ヲ編成ス
○下略
一月五日 快晴 寒威厳ナラス 元日以来引続キ快晴無風近年ニナキ好天美日ナリ、時々曇天ノ事アルモ暫クニシテ朗晴新年ニ入リテ日々好天美日、而モ微風ダモナクシテ寒気モ亦強カラス
午前七時半起床、直ニ洗面及身体ヲ清ム、後朝飧ヲ取ル、昨夜マテニ再三調査セシ大隈侯伝記ノ序文原稿ヲ一覧シテ、更ニ二三ノ修正ヲ加ヘ電話ヲ早稲田ノ伝記編纂会ニ通シテ其交付ヲ督促ス○下略
   ○中略。
一月七日 曇 寒気昨日ト同シ 朝来雲陰復タ日光ヲ見ス、午後益幽鬱ニシテ雨ナラントスルノ天候ナリ
○上略 午前十時頃、大隈侯伝記編纂員森脇氏来訪、昨日送付シタル序文ノ事ニ付種々談話ス、右序文ハ、信常侯爵モ同意ノ由、伝言アリタリ
○下略
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一月八日 曇 寒気昨日ト同シ 朝来雲霧ハ多キモ雨ニ至ラス、風ナクシテ庭前頗ル幽静ヲ覚フ
午前七時半起床、洗面ト共ニ半身浴ヲ試ム、同時ニ身体ヲ清メ後朝飧ス○中略 高田氏来リテ、頃日来取扱フタル大隈侯伝記序文ノ事、及ハリス氏建碑ノ事、又ハ桃井可堂翁ノ碑文等ニ付種々ノ協議ヲ為ス○下略


大隈侯八十五年史 同史編纂会編 第一巻・序第六五―七〇頁 大正一五年一二月刊 【序/昭和二年丁卯一月 渋沢栄一】(DK480030k-0003)
第48巻 p.96-97 ページ画像

大隈侯八十五年史 同史編纂会編 第一巻・序第六五―七〇頁大正一五年一二月刊
    序
 明治維新の隆運に乗じ、人材朝野に輩出し、俊秀特異の才能を以て各方面に尽瘁したるは、洵に聖代の祥事にして、古今稀に覯る所なり而して其萃に抜ける者を我が侯爵大隈重信君となす。
 余の始めて侯と相知れるは明治二年の冬に在り。爾来世態の推移と境遇の変遷とは数ふるに勝へずと雖も、其親交の毫も渝らざるもの実に五十余年に及べり。大正十年の冬、余が米国行に際して告別の為め侯を訪問したる時、侯は微恙に罹りて、平素の快談を得ざりしも、焉ぞ知らむ、翌年春、余が帰航の途中、溘然余を舎てゝ長逝せられむとは。今にして之を懐へば、真に悵然たらざるを得ざるなり。
 余は東京附近辟邑の農家に成長し、幼にして漢学を村塾に修め、少しく修斉治平の要を知れり。時恰も幕府の末造に当り、内には尊王攘夷の議囂々として起り、外には欧米列強の来りて和親通商を強要するあり、幕府の命脈朝夕を保つ能はざるの状況なりき。余は年少にして知見弘からずと雖も、夙に我邦の封建制度が国運の興隆を阻碍するを憂ひ、殊に当路有司の外交に軟弱なるを慨して、陰に画策する所ありしが、遂に家を去りて京都に流寓し、知友の誘掖に因りて一橋慶喜公に仕へたり。時に公は禁裏御守衛総督たりしが、幾もなく将軍徳川家茂の薨去に因り、懿親の関係より、入りて将軍職を襲げり。偶々慶応三年仏国に万国博覧会の開かるゝあり、公は其親弟徳川昭武を差遣して其式に臨ましめ、会畢りて仏国に留学せしむ。余は簡ばれて之に随行し、始めて欧洲の地を踏み、其文物を観て、聊か得る所ありしが、翌年王政復古幕府瓦解の大政変に遭遇して、昭武は留学の事を全うする能はず、余も亦空しく帰国するに至れり。是に於て余は断然意を政界に絶ち、少しく海外に見聞したる知識を応用して民業に従事し、聊か国家に貢献し、併せて旧主に報いむとし、静岡藩に説いて官民合資の一商会を発起せしが、事稍其緒に就くに際し、忽ち徴辟を蒙れり。然れども仕官は余が期念に違ふを以て、固く之を辞せしが、藩庁之を允さず、遂に命を奉じて大蔵省を勤務するに至れり。余が侯と相知れるは即ち此時にして、実に明治二年十一月の事なりとす。
 時に侯は大蔵大輔の要職を以て、百般の省務を統べ、鋭意庶政を規画せられ、専ら新知識を得て事務を開張せんとし、賢才を愛し、志士を礼し、余暇あれば之を其私邸に延いて、相与に時事を討論す。談熟すれば往々主客を忘るゝに至る。故に時人侯の築地の邸を呼びて梁山泊といへり。余既に侯の風丯を慕ひ、又其才鋒を識る。乃ち一日侯の邸を訪ひ、詳に所懐を陳べて解職の事を懇請す。侯緩頰之に接し、諄諄説きて曰く、子が官途を辞せむとするは、旧主の為に節を守らむと
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欲するものゝ如し。然れども王政は既に古に復し、前将軍は謹慎恭順一意唯天朝の命に服従するのみ。是れ子の熟知せる所にあらずや。今や我邦は百事革新の途に在り、子の外遊に得たる所を以て、之を其当職に尽すは、独り新政府に忠なるのみならず、亦旧主に報ずる所以なり。且つ子仔細に我が商工業の現状を視たるか。之を振興して欧米に対抗せしむるは、決して民力にのみ待つこと能はず、必ずや施政宜きを得て国力の発展に拠らざるべからず。故に子真に商工業の改進を企図せば、先づ大蔵省の制度を革新して、国家財政の基礎を鞏固にするを要す。蓋し老圃の種子を下さむとするや、必ず先づ其土を培養す。子既に沃土に入りて耒耜を手にす、 然るに今空しく種子を荷うて荒野に去らむとす、僕深く子の心事を憫まざるを得ずと。余平生人と談論するに、常に自信に強くして、時に或は執拗の譏を免れざりしも、今侯に対しては一々説破せられて一語の反駁すべきなし。嗚呼侯の雄弁と其識見の高邁とは、今世復た斯の如き人あるを得むや。是に於て余は感激措く能はず、遂に侯に許すに、驥尾に附して微力を致すべきを以てす。爾来一意省務に服事し、改正掛の主任として、凡そ租税の制度、財政の要務より、貨幣・金融・工業・運輸等に至るまで、常に侯の教示を受け、又之を論議せしことも幾回なるを知らず。越えて明治四年に至り、侯参議に栄転せられ、侯爵井上馨君之に代るや、余は之に属して従来の省務に従事せしも六年の夏、井上侯の辞職に際し、余も亦退官して、玆に始めて宿志を達し、商工業界の人となるを得たるなり。
 然りと雖も、民間経済の事豈容易ならむや。余の駑駘を以てして、能く其経営に大過なきを得たるは、一に侯の指導誘掖に由らずむばあらず。実に侯の偉才は、往く所として可ならざるなきも、我が財政経済の施設に至りては、政府と民間とを問はず、其規画指導に由らざるもの少し。侯の豊功偉績は、必ず之を簡策に勒して後世に伝へざるべからざるなり。今や侯薨じて纔に五年、早く既に伝記編纂の業成りて将に世に公にせられむとす。尨然たる大冊、侯の勲業を詳悉して復た余蘊なかるべし。古人の所謂天下の人をして、之を心に思ふが故に之を目に存し、之を目に存するが故に、之を心に思ふこと固からしむるものといふべし。夫の蘇東坡の潮州韓文公廟碑の冒頭に、匹夫而為百世師、一言而為天下法の語あり。余は侯を追想する毎に、此警句を思ひ起さゞるを得ざるなり。蓋し侯は多く台閣に在りて、時に或は大政を綜攬せられ、又能く人に対して多弁其説を尽されたれば、匹夫と一言とは其当を得ざるも、百世の師と天下の法とは、移して以て侯の賛辞に充つべきなり。因りて余は特に此一句を添へて、惓々の情を叙すと云爾。
  昭和二年丁卯一月
                  渋沢栄一識時年八十又八


中野礼四郎回答(DK480030k-0004)
第48巻 p.97-98 ページ画像

中野礼四郎回答              (財団法人竜門社所蔵)
拝啓 厳寒之候益御清祥奉欣賀候、陳は先日電話にて御尋ねの大隈侯八十五年史にある渋沢子爵叙文日附の件、小生風邪にて御尋ねの其日
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より寝込み御返事大延引申訳無之候、御尋ねの通り出版日附は大正十五年十二月廿五日に相成居り、子爵の叙文は昭和二年一月に相成居候が、内実は子爵には前以て叙文御願ひ致し居候も、何かの御都合にて製本の際までも我々の手に頂けず、已を得ず製本に着手候処間もなく叙文頂戴致し候次第にて、余人なれば其のまゝに致し置くべき筈に候も、子爵と侯爵とは生前特別の御関係も有之、渋沢子爵の叙文丈けは是非と存し追加印刷製本後の事とて、第一巻の初め序文の部に折込み追加致し候次第に候、小生所持の本も矢張左様折込に相成居候、貴下御所蔵の本も多分同様かと存候が如何、大正十五年十二月廿五日は大正天皇崩御の日に当り、翌正月は昭和二年に候間、一見多くの時日経過候様なるも、実際は一・二週間位後れ候丈けの事にて、製本に間に合なかつた丈けの事かと存候、延引ながら右返事如此に御座候 早々
  一月廿九日
                      中野礼四郎
    渋沢子爵伝記
          編纂所御中
   ○右ハ当資料編纂所ノ問合セニ対シテ昭和十八年一月二十九日付回答セラレタルモノナリ。


大隈侯八十五年史 同史編纂会編 第一巻・序第五八―六四頁 大正一五年一二月刊 【大隈侯八十五年史編纂顛末/大正十五年十一月 市島謙吉・中野礼四郎識】(DK480030k-0005)
第48巻 p.98-100 ページ画像

大隈侯八十五年史 同史編纂会編 第一巻・序第五八―六四頁大正一五年一二月刊
    大隈侯八十五年史編纂顛末
 竜嘯けば気雲と成る。国運勃興の気運に乗じて人材の輩出するのは東西青史の同じく示す所であるが、我が明治維新の際の如く高才逸足の士の盛であつたことは、前古未だ曾て其の例を見ない所である。而して我が大隈侯の如きは蓋し其の傑出せるものゝ一人であらう。
 侯は多角多面の才能を懐いて、夙に欧米の新知識に触れ阻嚼せる所が頗る多かつた。時恰も維新の風雲に会して、弱冠既に名声を天下に馳せ、官は遂に台位に上り、遐齢また八十五歳に達し、幕末から明治大正にかけて、創業より守成、在朝と在野と、常に其の在る所に重きを為し、政治・財政・外交・教育等時事として与らざるは無かつた。其の交遊の広きは史上稀に見る所であつた。
 然れども侯は嘗て「政治は吾生命なり」と云はれた様に、自ら任ずる所は政治に在りて、その生涯は全く此に終始して居る。彼の憲政上に於ける諸般の進歩発展は論なく、六十年間の政変に伴ふ機微の消息や、政争に絡む種々の隠れたる事情等、政界表裏の事柄にして、侯の伝記に織り込まれぬものが幾何あらうか。殊に教育の先覚者として、思想の先駆者として、文化の宣伝、民衆の指導等、苟も我が国をして世界の進運に後れざらしめる事業には、政余の全力を挙げて之に用ひられた。其の成果に就ては世自ら定評もあらうが、今是れ等の事蹟を其の背景環境より詳述し来れば、之を分てば各々一篇の明治大正に於ける政治史、財政史、外交史、教育史、文化史ともなり、之を綜合し大成すれば、其のまゝ我が国の近代史の観を為すであらう。
 今侯の伝記を叙せんとして其の史料を通観すれば、実に蒼茫際なき大自然の山河あり、平野あり、海洋あり、湖沼ありて、錯綜其の美を
 - 第48巻 p.99 -ページ画像 
成せるが如く、其の大観を展望する事さへ容易の業ではない。之を跋渉し之を踏査して、其の奥を窮めんことは、決して短才の徒の短日月を以て能すべき所ではない。且つ丈夫の事業は棺を蓋うて始めて定まるもので、世の毀誉褒貶や追慕哀傷の情の平衡を得るのは、是非とも墓木の栱なるを待たねばならぬ。加之事或は国交上に渉り、或は周囲の人々に連る所ありて、顧慮斟酌、直筆し難きことも猶ほ尠くない。此等の諸点よりして、侯の薨後直に親近者の手に由りて伝記の稿を起すは記述の完成を期する所以ではない。
 されど規模雄大、事業複雑なること侯の如くにして、終生一字をも書き遺さなかつた人の史料蒐集は、其の多くを僚友又は昵近者の記憶に徴せねばならぬ。然るに侯は既に蒼松の凋むに後れた人で、其の最も華々しき活動時代たる明治の初期に於ける、公私の事を共にした人人は、今は大抵世を去り、存せるものは寥々たる晨星の漸く光を失はんとするの有様で、一日の躊躇遷延をも許されない状態に迫つて居る喪服の涙未だ乾かぬ侯の五十日祭に伝記編纂の端を発したのは、誠に已むを得ざるに出でたのである。
 侯の伝記編纂に多くの艱難の伴ふべきは始より予期した所であつたが、明治初年より十四・五年までの叙述には、容易ならぬ苦心を要した。蓋し侯の閲歴中最も多端にして光彩を放ちたるは此の期間であつた。毀誉交々至り、往々世上の疑惑の的となつたのも此の時である。而して侯の平生を知れる先輩の最も少いのも亦此の際である。侯の自叙伝「昔日譚」の如きものも無いではないが、未だ語りて詳なりとは云ふを得ぬ。之を史料に求め之を古老に訪ひ、悉く事実に本づき、寃は雪ぎ誤解は正し、公平にして些の私情をも交へず、専ら其の真相を闡明するに勉めたが、顧みて猶ほ遺憾なきを得ぬ。更に起稿の困難なりしは、侯の事業は其の交渉せし人々の余りに多方面なるが為に、事蹟の明晣を求めて力を背景描写に用ふれば、自然に一般歴史の姿となりて個人伝記の体を失ふに至り、環境の叙筆を略すれば事の源委の明ならざる恐がある。詳略按排の工夫は実に編者をして経営惨憺たらしめた所である。
 全篇凡そ二千七百頁、執筆者の労苦は想ひ遣るさへ痛々しさに堪へぬが、先輩の校閲また非常な熱誠を傾注されて、為に稿を改むこと概ね三回、時に或は五・六回にも及び版を易へ印刷を更めたるものさへ少くない。当事者の努力は実に其の最善を尽せりと謂ふべきである。然れども猶ほ必ず材料採集の不足、選択鑑別の疎漏もあり、考察の正鵠を失へるものも多いであらう。殊に昵近者によりて編述されたる為め、自ら其の好む所に偏するを免れぬ点もあらう。是等は我等監修の責を負へる者が先づ自ら慊とせる所、校閲者に在りては尚更であらう別して第三者より観れば、指斥すべき幾多の瑕疵を見出さるゝであらうが、此の如きは一に監修者の力足らざるに由るもので、如何なる非難も甘受する所である。侯の伝記の大成は之を後日に待つべきものなることは、既に前述せる所である。本書は惟々諸種の資料を其の滅びざるに及んで整理し、他日具眼の士の出でて椽大の史筆を揮はれんことを希求するのみである。敢て陳呉を以て任ずる所以でもない。
 - 第48巻 p.100 -ページ画像 
 顧ふに大正十一年二月二十八日、侯の伝記編纂の議始めて成り、直に故波多野敬直子を推して会長と為し、監修には我等両人が指名せられ、編纂顧問執筆者の人選皆定まり、即日資料蒐集に着手し、越えて四月十六日には侯の旧友門下の親近者二十余名を会して、編纂方針其の他の要綱を評決し、遂に五月下旬に至りて事業其の緒に就くを見たのである。爾来毎月幾回となく編纂会を開き、鋭意励精、年余を経て纔に一部の脱稿を見んとする時、忽ち大震災に遇ひ、尋で会長易簀の不幸を悲んだが、事業は毫も之が為に支障頓挫を来すなく、執筆・監修・校閲・印刷、皆順調に進捗し、遂に今玆十五年の秋に至りて完成を告げた。費す所実に五歳、決して短しとは云へぬが、此の間顧問として、特に尽力せられたる渋沢子爵、校閲者として絶えず懇切周到なる指導を与へられたる武富時敏氏・矢野文雄氏・久米邦武氏・高田早苗氏・箕浦勝人氏・尾崎行雄氏・犬養毅氏・大隈信常侯等の労は言辞の能く尽す所ではない。特に門外不出の秘録を貸与して編纂を助けられたる諸家の厚情と、本事業の経営に多大の力を寄せられたる坂本嘉治馬・増田義一両氏の厚意とは深く銘記すべきところである。而して終始執筆に任ぜられたる高須芳次郎氏には特に感謝せざるを得ぬ。又当初執筆に当られたる相馬由也氏、事務一切を処理せられたる森脇美樹・中田謙吾二氏の労の如きまた深く謝せざるを得ぬ。
  大正十五年十一月
                       市島謙吉
                            識
                       中野礼四郎
   ○本書ハ菊判全三冊、第一巻八七二頁、第二巻七三〇頁、第三巻八九二頁、計二四九四頁ナリ。