デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
17款 栄一ノ序文・跋文 2. 個人伝記ノ部
○本草本節中ニ款項目トシテ収録セル伝記ニ掲載サレタル栄一ノ序文ハ省略ス。
■綱文

第48巻 p.165-178(DK480052k) ページ画像

明治44年――昭和6年(1911-1931年)

栄一、コノ期間ニ個人ノ伝記ニ寄セタル序文十七篇ニ及ブ。


■資料

岸宇吉翁 小畔亀太郎編 序明治四四年一〇月刊 【序 青淵渋沢栄一撰并書】(DK480052k-0001)
第48巻 p.165 ページ画像

岸宇吉翁 小畔亀太郎編  序明治四四年一〇月刊
  序
岸宇吉君は長岡の紳商にして六十九銀行創立者の一人なり、故を以て我第一銀行とは三十年来の交誼あり随て余と私交も浅からす、毎に理財の問題に関しては余の説を信し第一銀行の経験に鑑ミ営業の進歩を計り行運順暢の誉れあるは、君の勤勉倦まさるに原因せり、蓋君は人と為り質実にして義に厚く由来保守主義を執り自重して軽進を戒しむるといへとも、其一たひ必須を感するに当ては断乎として開進の方針を取るに躊躇せす、昨年余は東京女子大学の為め北越地方を巡遊し長岡に至り君と面晤せしに当時微しく健康の勝くれさる所ありしも、尚能く周旋の労を吝ますして余か旅行に便利を与へられたり、別に臨ミ余は慇懃に調護摂生を勧め健安を祝して分手せり、詎そ料らむ、後二ケ月ならさるに其齢余に一歳の長を以て忽然幽界の人となれるは、実に惋惜に堪へさるなり、然れとも其事蹟は地方商業界に存して人の記るす所と為り、今や君の伝記は有志者の手に由つて其事業と倶に朽ちさるの栄あり、玆に需に応して一言を述ること此のことし
  明治四十四年七月
                 青淵渋沢栄一撰并書
                        


矢野二郎伝 島田三郎編 序大正二年五月刊 【序 青淵老人識】(DK480052k-0002)
第48巻 p.165-166 ページ画像

矢野二郎伝 島田三郎編  序大正二年五月刊
  序
賢哲は道を開き巨人は勢を作り而して志士は時に乗す、試に五十年前の形勢を回想せは思ひ半に過くるものあるへし、矢野二郎君は炯眼時を視るの明ありて敏捷事に当るの能を有す、君か年甫めて十六、早く文明の空気を呼吸し進むて英語を学ひて泰西の新知識を広め、終身其行ゐの人後に落ちさるは時に乗するの志士にあらすして焉そ能く斯の如きを得むや、余か君を知りたるは今より三十八年前余か東京会議所頭取たりし時に在り、此際薩南の俊才森有礼君か米国に鑑ミ商業の学校を私設し、幾許もなく清国公使として赴任せむとするに当り其校の廃止に忍ひさるを以て、東京府知事大久保一翁君に商議し、知事より
 - 第48巻 p.166 -ページ画像 
会議所に諮りて之を承継せしめ、商法講習所と改称し君を以て其校長と為す、蓋し其英語に熟達し且夙に商工業経営の知識に富めるものあるか故なり、是に於て余は甚た君の其任に適するを喜ひ窃に其成功を期したり、爾来君は一身を犠牲として育英に従事し、学科の改正、校規の拡張等凡事重大なるものは毎に余の意見を問はさるなく、就中明治十四年七月講習所廃止の議東京府会に現はるゝ時の如き君は寝食を忘れて其存立を主張し、黽勉努力終に之を維持するを得たるは君か不撓不屈の精神能く狂瀾を既倒に回せりと賞せさるへからす、且夫れ当時我邦の教育たる政治法律に偏重にして実業を踈外し独り教授者間に於て之を好さるのミならす、其就学の生徒も亦之を嫌ふの風あり、然るに君の生徒を視ること宛も子弟の如く親切懇篤至らさる所なきにより、生徒も亦君を視ること父兄の如く、情誼渾厚和気靄然として学校猶良家庭の如き観あるは復た他に求めて得へからさるの特色なりとす是を以て校運月に進ミ生徒年に増し、終に朝野此商業学校を認めて文明教育の一要具と為すに至れるは実に君か多年尽瘁の効果と言ふへきなり、然るに君か稜々の気骨は人に因りて感情を異にし、初め森君と意気投合せしも後ちに井上君と相協はす、勤続二十年にして一朝勇退の已むなきに至れるは公私の為めに惜むへしといへとも、翻つて之を思へは亦功成り名遂けて身退くの一快事たるを失はさりしなり、而して其薫陶せられたる幾百人の人士は敬慕の念益厚く、君か謝世の後直ちに徹心会なるものを組織し永く君か恩徳を忘れさるを期し、近時又君の親友島田三郎君に嘱するに其伝を作るを以てす、頃日伝成りて序を余に徴す、之を一読するに叙事周密考証正確にして亦余蘊なく、殊に其東京高等商業学校の沿革を記述するに至ては著者亦身を其間に処するが如く懇到剴切、宛も矢野君に面して其諧謔の談奇警の言を聞くの感あらしむ、蓋し島田君の筆を以て矢野君の伝を作る藤田幽谷の太田錦城に於るか如く、真に史伝の好一対といふへし、余や矢野君と数十年の親交を存し公私事務の関係あり、欣然以て一言なかるへからす程伊川の言に曰く、哲人知幾誠之於思志士励行守之於為、此語移して以て君か生涯を評するに足る、宜なる哉其令名の永く後昆に存することを、之を序と為す
  大正癸丑一月下浣曖依村荘に於て
                    青淵老人識
                        


渋沢栄一 日記 大正二年(DK480052k-0003)
第48巻 p.166 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年          (渋沢子爵家所蔵)
一月八日 晴 寒
○上略 矢野二郎伝ノ序文ヲ修正ス、起稿ヨリ最後ノ修正ニ至ルマテ都合三回ノ浄写ヲ為ス、夜十二時ニ脱稿スルヲ得タリ○下略
一月九日 曇 寒
○上略 昨夜脱稿セシ二様ノ序文ニ修正ヲ加フ○下略
  ○中略。
一月十九日 晴 寒
○上略 矢野二郎伝ノ序文ヲ揮毫ス○下略

 - 第48巻 p.167 -ページ画像 

若尾逸平 内藤文治良著 序大正三年九月刊 【序 青淵老人識】(DK480052k-0004)
第48巻 p.167 ページ画像

若尾逸平 内藤文治良著  序大正三年九月刊
  序
幕末対外の秕政は尊攘の志士をして慷慨扼腕せしむると共に、一方販鬻者をして一攫千金の念を起さしめ、通商貿易を以て身を立て家を興したるもの枚挙に遑あらす、若尾逸平翁の如きは其巨擘といふを得へし、翁は甲斐の僻邑に生れ幼より辛酸を嘗め、青年の頃は負販を以て行商の生活を為し、壮時に及ひ資を積み家道日に進むに当り横浜の貿易蒸々日に騰るの勢ありしかは、翁乃ち蚕糸を輸出し綿糖を輸入し、明治維新の後に於ては各種の合本事業を経営し、国運と共に駸々相進ミ巨万の富を致して陶猗を凌くに至る、然れとも居常身を慎ミて聊も驕泰に居らす、而かも其親戚故旧に厚くして能くこれを賑恤す、是れを以て人望常に翁に帰し、明治の初めに当り甲府総町戸長と為り、県会議員となり、甲府市長と為り、貴族院議員と為る、所謂家富ミ業昌へるものなり、加之天吉人を相けて九十有四の高齢に躋り、蓋棺至誠を以て称せらるゝに至る、人生此に至て毫も遺憾なしといふへし、余は掛冠の後商工業を倡導するに際して始て翁と交り、其尋常に卓越するを見て之を欽慕すること久し、殊に翁か曾て朝鮮に向つて其業を開くことを企図して余に来議することありしに、余は其時機に適せさるを切諫して其挙を中止せしめし如きは翁の深く感激する所となりて、爾来翁は毎に友人に対して余の忠愛なることを称賛して已まさりき、此一事を以てするも翁か平生事を処する苟もせすして、人の諫を用ふる流るゝが如き襟度雅量あるを推知するを得へし、今や翁眷愛の諸子相謀つて其伝記を編するニ当り序を余に請ふ、乃ち喜むて平素翁に対する所感を書るすこと斯の如し
  大正甲寅秋日函嶺小涌谷客舎に於て
                    青淵老人識
                        


河野守弘翁伝 上野啓三郎石川宰三郎著 序大正五年三月刊 【序 青淵老人識】(DK480052k-0005)
第48巻 p.167-168 ページ画像

河野守弘翁伝 上野啓三郎石川宰三郎著  序大正五年三月刊
  序
客年十一月 (印)
今上陛下御即位の大典を挙けさせられ 皇徳雨露の如くにして河野守弘翁も亦贈位の恩栄に浴し枯骨為めに肉するに至る、因て縁故の有志相議り記念として一会を設け翁の詳伝を編成し、且つ其著下野国誌を再刷に付し余に国誌の題字と詳伝の序とを請はる、余は翁と一面の識なく又其経歴をも詳かにせすといへとも、翁の外孫甲田顕三君とは文字の交誼あるを以て其事を記述して以て序と為さむと欲す、蓋し顕三君は文久二年正月安藤閣老を坂下門外に要撃し事ならすして斃れたるものなり、而して余の親戚尾高長七郎も亦其謀議に参与せしか、故ありて其事を共にするに至らさりき、越て数月余は顕三者の死を悼惜して聊か其幽魂を慰籍するの微意を以て、遺稿春雲楼詩集を上梓して之を世に公にせり、此際余は君の小伝を作りて詩集の首に叙するに当り一事の余か心を刺激して今猶忘るゝ能はさるものあり、何そや顕三君
 - 第48巻 p.168 -ページ画像 
母堂の言是なり、曰く、嘗て聞く義に仗りて節に殉するは烈士の行なりと、吾児も亦烈士たるを得るに似たり、其一死の如き復た何をか憾ミむやと毫も悲泣哀惜の状なかりき、其壮烈実に懦夫をして立たしむるに足る、謂ふへし斯母ありて斯子ありと、今や翁の伝記を見るに及むて初て知る、顕三君の母堂は即ち翁の女なることを、是に於て乎更に斯父ありて斯女ありの感を発せさるを得さるなり、況や顕三君の懐にせし斬奸状と称するものは翁の筆に成りたるに於ておや、因て以為く、顕三君の精神は外戚の家系に感奮し加ふるに翁の薫陶之を養成したるものなりと、果して然らは顕三君殉節の事を以て翁の伝記の序と為すもの、豈翁の意に背くと謂はむ乎
  大正丙辰七月
                  青淵老人識 


西村勝三翁伝 西村翁伝記編纂会編 序大正一〇年一月刊 【序 青淵渋沢栄一識】(DK480052k-0006)
第48巻 p.168-169 ページ画像

西村勝三翁伝 西村翁伝記編纂会編  序大正一〇年一月刊
  序
余か西村勝三君と相識るに至れるは明治七年にして福地桜痴居士の紹介によれり、時に君は製靴製革の業を創設せられしも、世用いまた広からす経営頗困難なりしかば、余は第一国立銀行頭取として金融上多少援助の労を取りたる事あり、ついで余が東京会議所の会頭となるや君も亦其副会頭となり日夕相見て事を議り、かの養育院の経営、瓦斯局の新設、商法講習所の創始等、会議所の為したる幾多の事業は概ね相共に審案熟議して之を施設したるなり、余か君と膠漆の交を締するに至れるも亦此際にありき、君は夙に本邦工業の発達を以て国富を増進せむと企図し、製靴製革業の外硝子・耐火煉瓦等各種の新事業を起して鋭意之に当られしも、屡挫折して数奇なる運命は君を苦境に陥れたること一再ならす、明治十二年の頃に及ひ君の担当経理する桜組の営業損失多くして負債償却の途を得す殆と破産に瀕したる時、君は至誠を以て各債権者に其内容を披瀝せしかは、余も亦君の真摯なる態度に同情し其中間に介立して債務の整理を図り、幸にして各債権者の容るゝ所となりて破綻の厄難を免かるゝを得たりき、爾後十数年君の耐忍勤勉と時勢の進運とにより各種の事業大抵成功し、旧債を整理して之を完済し得たるは実に天の善人に慶する所以なるへし
明治四十年の一月余は君か病篤きを聞き品川の邸を訪ひしに、君は余か手を執りて従来の友誼を感謝して後慇懃に品川白煉瓦会社の後事を託せられしは、今尚ほ昨の如く音容髣髴耳目の間にあるを覚ゆ
君資性温厚にして情誼に深く、且つ事を為すには必す国家観念に立脚して自己の利害に重きを置かす、世人か躊躇逡巡せる間に於て本邦空前の事業を創め、能く万難を排して遂に成功を贏得たり、君は実に言論理想の士にあらすして実践躬行の人なりしなり、されは我邦工業の進歩発達が君に負ふ所大なるは余の贅言を俟たさるべし、今や友人門下の諸氏君の伝記を編纂して世に公にせむとす、想ふに此挙や独り君を不朽ならしむるのミにあらす現代の企業家に対しても其規箴を提供するもの多きを疑はす、玆に数十年来の交誼を略叙して以て序文と為す、文に臨ミて往事を追懐し転感慨に堪へさるものあり
 - 第48巻 p.169 -ページ画像 
  大正九年十二月
                     青淵渋沢栄一識
                           


渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK480052k-0007)
第48巻 p.169 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十一日 曇 軽寒
○上略 西村勝三氏ノ伝記ニ対スル序文ノ原稿ヲ草ス○下略
  ○中略。
一月十三日 曇 寒
○上略 西村勝三氏伝ノ序文原稿ヲ調査ス○中略
夜食後西村勝三氏伝ノ序文ヲ揮毫ス○下略
  ○中略。
三月十五日 晴 軽寒
○上略 西村直・大沢・藤村三氏、西村勝三氏伝記成本ヲ持参シテ序文ノ事ヲ謝セラル○下略


初代片倉兼太郎君事歴 足立栗園編 序大正一〇年刊 【序 青淵老人識】(DK480052k-0008)
第48巻 p.169-170 ページ画像

初代片倉兼太郎君事歴 足立栗園編  序大正一〇年刊
  序
蚕糸界の成功者にして生前の知己たりし片倉翁の伝記成るを告く、余之に対して一言の辞なかるへけむや、抑も我国貿易の大宗たる生糸が今日の隆盛を致したる所以の者は、要するに明治初年以来官民心を一にし力を合せて斯業の改良進歩を謀りたる為に外ならす、而して野に在りて最も力を致したるは先つ指を片倉翁に屈するは何人も之を首肯する所なるへし、回顧すれは余や生を埼玉県の僻村に稟け、幼より父母の膝下に在りて養蚕製糸の事を練習して、夙に斯業に多少の趣味と経験とを有したり、されば余の欧洲より帰朝して職を大蔵省に奉し伊藤・大隈等の諸先輩と相議するや、主として産業方面に力を致し、特に蚕糸に就ては専ら意を注きて之が発達に勉めたり、富岡製糸場の今日ある全く其基礎を当時に据へ得たるものなりき
爾来余は銀行業者として傍ら殖産興業に志し、我国富裕の源を開くが為に画策する所多く、金融・運輸交通・保険及諸工業等あらゆる方面の事業に対して其発達に助力する所ありたり、而して此間特に貿易に資するあらむと欲して生糸・製茶等の輸出に利便を与へたり、此等の事たる余が平素他に公言して憚らず而して又心窃かに快とする所なり今や我国製糸王の称ありし片倉翁の事歴に就て、仔細に之を観察するに余を感動せしむる事少からず、就中其精励恪勤心を斯業に傾けて以て其大成を楽み、自他相利して終に我が国富の増進を裨補するに到りしは余の大に称讚して止む能はざる所なり、蓋し翁の如きは献身奉公至誠其業に尽瘁する者といふへきなり、余や生前翁と交際深からさりしも、今此書に拠りて翁の成功の徒爾ならさるを識れり、此事以て翁を世に紹介すべく、又以て此書を世上に推奨するに吝ならざる所以なり、庶幾くは後進子弟此書に依りて其立志処世の範を取り、常に翁の志に倣ふて事に従ふ所あらば其目的を達するを得べき歟
  大正辛酉秋日将に渡米の途に上らむとする前三日曖依村荘に於て
 - 第48巻 p.170 -ページ画像 
                    青淵老人識


渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK480052k-0009)
第48巻 p.170 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年         (渋沢子爵家所蔵)
三月二十五日 雨 寒
○上略 足立栗園氏来リ、片倉兼太郎ノ伝記ニ叙文ヲ托セラル○下略


靄渓遺響 古谷喜十郎編 序大正一一年二月刊 【靄渓遺響序 青淵老人識】(DK480052k-0010)
第48巻 p.170 ページ画像

靄渓遺響 古谷喜十郎編  序大正一一年二月刊
  靄渓遺響序
凡そ人の徳行は天稟より出つると雖も其修養の効亦与りて力あるものなり、蓋し孝悌謹恪恭倹精敏は百行の本衆善の生する所にして、之を拡充すれば独り其身を修め家を斉ふるのミならす、小にしては一郷一邑を善導し大にしては天下に普及するを得べし、我か埼玉県に其人あり靄渓繁田満義翁是なり、翁幼にして慈母を喪ひ継母に事へて至孝なり、郷人其徳を慕ひ翁の幼時病に罹るに当り皆神祇に祈りて平愈を求めたりと、孝感の及ふ所歎賞せさるへけむや、翁亦資性謙譲にして行に敏なり、常に力を生産に尽し就中養蚕製茶の業に精通して技能月に進ミ公益年に顕はれ、上は 朝廷の恩典に浴し、下は令聞を州里に弘め、所謂道徳経済相待つて全を得たるものと謂ふへし、此頃翁の遺稿編纂成り嗣子武平君来つて序を余に乞ふ、乃ち其略伝を一読して、文あり武あり躬行実践の高人たるを識り、以為く若し翁の如き人一国に一人を得は感化国内に及ふへく、一郷にして一人を得は感化数町村に及ふへし、其道徳経済の一致に裨補する所決して浅少にあらさるへし鄒叟曰く、道は邇に在り、而して之を遠に求む、事は易に在り、而して之を難に求むと、庶幾くは翁の郷党此遺稿を読みて翁の勤勉力行に学ひ、能く全人となるあらは豈敢て道を遠に求め事を難に求むるの要あらむや
  大正辛酉十月将に渡米の途に上らむとする前三日
                曖依村荘に於て
                    青淵逸人識
                     時年八十又二


大倉鶴彦翁 鶴友会編 序・第一―四頁大正一三年九月刊 【青淵渋沢栄一識】(DK480052k-0011)
第48巻 p.170-171 ページ画像

大倉鶴彦翁 鶴友会編  序・第一―四頁大正一三年九月刊
惟ふに明治大正の昭代は、我が帝国歴史上、振古未曾有の盛時にして一に明治大帝の聖徳大業に是れ因らずんばあらず。而して皇猷を賛翊し、奎運に貢献したる文武の勲臣宿老固より多し。乃ち実業界に於て亦然り、大倉鶴彦翁の如き、其の一人と為す。
予生れて草野に在り、結髪志を立て、尊攘の事に奔走し、褐を一橋府に釈き、偶々命を奉じて仏国に在るの際、故国滄桑の変に際す。此れより翻然身を実業に委ねんと欲するも果さず。明治六年挂冠の後、漸く素志を遂げ、始終一貫、以て今日に至り、聊か涓埃の微衷を竭すを得たり。而して故友凋落、其の当世に於て、同じく斯業に従事し、旧を語り新を談ずる者、寥々晨星も啻ならず、鶴彦翁の如きは、其の重なる一人と為す。
曩には翁来訪して曰く、本年不肖の馬齢八十八に達す。頃ろ鶴友会の
 - 第48巻 p.171 -ページ画像 
諸同人、胥ひ議して、世俗の所謂る米寿を祝せんが為めに、某の行歴を編し、以て知友に頒たんとす。子と相交る五十有余年、今日に於て某を知るもの、子に若くは無し、希くは一言を得て、以て栄と為さんと。予欣然として之を諾す。頃ろ更に来り促して曰く、書既に成る希くは約を履めと。顧ふに翁の行歴の卓々として伝ふ可きもの、翁の現在社会上に於ける位地、実業界に於ける勢力、之を語りて余りあり。予復た何をか謂はん哉。然りと雖も誼黙す可からざる者あり。翁や胆大気雄、心快手利、眼一世に空し。其事に当り、機に投ずるや、勇往邁進。而して艱難に処して、愈々奮ふ。其の今日の成功を見る、偶然にあらず。而して亦能く富を散じ、散ずるに其道を以てす。翁が教育に、美術に、慈善に、社会事業に其の巨資を喜捨したるが如きは、以て世間富豪者の範と為すに足るものあり。而して実業方面に於て、其の皇猷を賛翊し、奎運に貢献したるもの豈に多く文武勲業者の下に就かん哉。
古の聖人は、利用更生を以て、治国平天下の一大要務と為せり。封建時代、政権武門に偏重して、却て此の方面を閑却し、社会上実業家の位地を殆んど無視せんとしたり。然も財用誰に依りて通済する、富源誰に依りて開拓する、物資誰に依りて交換する。凡そ諸の武備、文教一として其用を富に仰がざるは無し。蓋し我が大日本帝国をして、世界列強の一に伍せしむるに到りたるもの、其の原因頗る多く、必ずしも実業にのみ限らず。然も亦た実業を以て、其重なる要素の一に数へざる可からず。是れ予が私言にあらず、蓋し天下の公論也。而して予が鶴彦翁と相与に一身を斯業に没投したる所以、職として此に存す。翁八十八歳にして、尚ほ矍鑠たり。予や翁より少き三歳、然も現に八十五、嗚呼吾儕壮心已まざるも、老驥伏櫪の憾を免れず。其の前業を恢宏にし、先成を拡充する、深く後来の君子に望む所あり。而して鶴彦翁の行歴、亦た其の活ける教訓たらずんばあらず。然れば則ち、此書豈に徒に鶴彦翁の為めに、米寿を祝するのみと謂はん哉。
  大正十三年九月九日
                   青淵渋沢栄一識


銀行王安田善次郎 坂井磊川著 序・第一―二頁大正一四年九月刊 【序 子爵渋沢栄一】(DK480052k-0012)
第48巻 p.171 ページ画像

銀行王安田善次郎 坂井磊川著  序・第一―二頁大正一四年九月刊
    序
 磊川坂井又蔵君、頃日其著「銀行王安田善次郎」を携へ来りて、余に序を請はる。安田氏は勤倹力行の人にして、妙に致富の要訣を得、一代にして能く巨産を積めり。斯道の雄才、今代の陶猗といふべく、その経済界に寄与せし功績や甚だ大なり。然れども余は常に思へり。氏の材幹ありて、周孔の道を喜ぶこと猶陶猗の術に於けるが如くならば、更に氏を高からしむること幾許なりしならんと。著者の意蓋し亦氏の伝を藉りて、其長を揚げ短を貶し、以て世の富者を警醒するにあらん乎。果して然らば、著者の労や敢て徒爾ならざるべきなり。是を序となす。
  大正十四年二月
                  子爵渋沢栄一

 - 第48巻 p.172 -ページ画像 

川村利兵衛翁小伝 大谷登編 序大正一五年四月刊 【序 青淵渋沢栄一識】(DK480052k-0013)
第48巻 p.172 ページ画像

川村利兵衛翁小伝 大谷登編  序大正一五年四月刊
  序 
余が川村利兵衛君と相識りしは今を距る四十余年の昔にして、君が大阪紡績会社に入りて商務担当者となられし頃なり、当時我邦の紡績業は工業界の変遷に目覚めし先憂の人士首唱して卒爾に之を創設せしも素より他に準拠すへき模範を得す、工務は勿論原棉の購入製糸の販売に至るまて総て先蹤なきにより人皆其処理に躊躇せしを、君は直情径行善を見て為すに勇むの気性を以て能く此難局に善処せられたり、是を以て大阪紡績会社は先つ君を支那に派遣して、同国に於る棉花の実況を視察せしめ、尋て印度に渡航して紡績工業の現状及ひ棉花購入の方法を調査し、拮据経営印度棉花輸入の途を啓き、爾来日に月に進展して以て今日に至れるなり、故に印度棉花の輸入に対して君が致せる貢献は、永く感謝の念を以て斯業界に記憶せらるへきものありといふべし
明治二十六年君は大阪紡績会社を去りて内外棉会社に入れり、此際同会社は社運甚だ振はず其営業困難なりしも、君挺身難局に膺り苦辛惨憺能く頽勢を挽回し、更に進ミて大規模の新工場を支那内地に創建するの積極方針を採り、奮励一番遂に此遠大の事業を達成したり、内外棉会社の今日の盛況あるは君が精力の結晶といふも誰か之を否認するものあらむや
之を要するに、君の生涯は棉業に始りて棉業に終れりと謂ふを得へし余は始め大阪紡績会社に於て君と会見し、其少壮の鋭気に接触して時に或は沈着を欠くの嫌ありしも、其論理の徹底的にして精神能く其事物に集中するを見て、此大胆にして且卓抜なる君が事業の必す成功すへきを予想したりき
君は年歯余に比して遥に少弱なりしを以て、余は紡績界の将来を君に嘱望すること大なりしも、想はさりき曩に其訃音を聞きて先つ人生の無常を歎し、今又知友諸氏の君が伝記を編纂して、余に其序文を請はるゝに当り更に無量の感慨なき能はさるなり、依て聊か所感を記して序文に代ふ
  大正十四年八月
                   青淵渋沢栄一識
                         


古河市兵衛翁伝 五日会編 序大正一五年四月刊 【序文 青淵渋沢栄一識】(DK480052k-0014)
第48巻 p.172-173 ページ画像

古河市兵衛翁伝 五日会編  序大正一五年四月刊
  序文
明治の革新は単に王政の復古に止らず国民挙て国運の隆興を期し、凡そ経世の要務より社会日常の瑣事に至るまで、皆其智識を世界に求めて採長補短の実を挙げ、駸々乎として長足の進歩を為し、以て今日に到達したるなれば、其間五十余年の歳月は短しとせず、又此現下の状態猶未た完全の域に達せざるも、之を幕政時代に対比すれば実に雲泥霄壌の観なくむばあらず、而して其今日あるを得たるは、維新以降政事・経済其他の各方面に偉人傑士輩出して、挺身奮励能く其本能を発
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揮したるに帰因せずむばあらざるなり、現に我が古河翁の鉱山業に於るも亦此一因と云ふを得べし、翁は京都に生れ家貧にして少年の時より幾多の艱苦に遭ひ、年十八雇傭として遠く盛岡に移住し、養家の緑故によりて小野組の店員となり、後小野組糸店の主任として大に鉱山業及各種の商業を経営したり、余が翁と相知るは明治二年の冬大蔵省に奉職したる後なりしが、相逢ふて一見旧の如く、爾来時々其諮問に応せしことあり、明治六年余は退官して第一国立銀行を創立したるにより、業務上の関係よりして更に親密の度を加へ常に翁の事業に助力したり、蓋し小野組は当時三井組と並び称せられたる豪商なりしが、其本店金融部の蹉跌より明治七年の冬に至り俄然破綻の悲運に陥りたれば、余は職掌上大に其処置に苦心せしが、翁は糸店の主任にして本部金融の衝に当れるにあらざりしも、自ら奮て善後の方案を講究し自己の私財をも提供して、第一国立銀行をして損害を免れしめたるは、志操高潔にして徳義を重ずる者にあらざれば、安ぞ能く此に至らむや是に於て余は翁の誠実を感せざるを得ざるなり、翁は此厄難に遭遇したるも意気毫も沮喪せず、小野組破産の処分稍其緒に就くを見て徒手空拳を以て草倉足尾等の銅山経営に着手したれば余は終始之に応援し殊に足尾銅山に対しては翁の請ふに応して、相馬家と共に匿名組合を組織して其資金を供給したり、翁が此足尾銅山に着手するや当時経験ある鉱業家は之を危険視して暴挙と評せしも、翁は固く信する所ありて毫もこれに顧念せず孜々として其業を進め、遂に今日の隆昌を見るに至りしなり、亦以て翁の活眼達識を想見すへし、翁は貧困に成長せしにより学問界の人にはあらざるも、鉱山の経営には非凡の能力を有し、足尾銅山着手の後余は翁の勧誘に従ひ共に鉱山の実況視察の為に坑内を巡覧せしが、暗黒裏にある坑道各所を上下して心中危険と不愉快とを感ずるのミなりしに、翁は一巡の後各方面の状況を指摘して各部の担当者に訓示し、其良否得失を断案すること恰も掌を指すが如し余は実に翁の鉱業に対する天才を認識するを得たり、然りと雖も翁の天才は決して鉱業の一途に限るにあらず、天若し永く其健康を維持せしめば、他の方面にも之を発揚して明治の商工業界更に一大光輝を見るべかりしを、追憶すれば転た感慨に堪へざるものあり、幸に後継者の勤恪精励能く事に従ふて其遺業の年を逐ふて益々進展するを見るは余の欣喜措く能はざる所にして、翁も亦地下に甘心すべきなり、古人曰く、知者事を創め能者述ふ、一人にして成るにあらざるなりとは、這般の事実を道破したるものといふへき歟、想ふに翁の素志は国家の隆興にありて一身の富貴にあらざりしなり、是を以て翁の没後 朝廷其功績を録せられ嗣子虎之助君を華族に列して男爵を授けらる、翁の光栄も亦大なりといふへし、頃日五日会の諸子翁の伝記を編輯して来りて余に序を請はる、余其挙を喜で翁と親交の梗概と之に対する所感とを叙述して序文に代ふると云爾
  大正丙寅三月
                   青淵渋沢栄一識
                      時年八十又七
                          

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渋沢栄一 日記 大正一五年(DK480052k-0015)
第48巻 p.174 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
三月三日 晴 寒
○上略
本日ハ曾テ委托ヲ受タケル、第一銀行五十年小史ノ序文及古河市兵衛氏伝記ノ序文修正ノ筈ナリシモ、腹案完ヲ得スシテ脱稿ニ至ラス
○下略


ジョン・アール・モット 土居誉雄編 序・第三頁大正一五年三月刊 【序 子爵渋沢栄一】(DK480052k-0016)
第48巻 p.174 ページ画像

ジョン・アール・モット 土居誉雄編  序・第三頁大正一五年三月刊
    序
 宗教界の人は概むね精神的にして、高遠なる理想を懐き、温雅なる情操に富めりといへども、事を為すに当りて、快刀乱麻を断つが如きは、到底望むべからず、されど、我がジヨン・アール・モツト博士は然らず、博士は頭脳透徹にして、理智に明かなるを以て、事を処すること極めて敏捷にして着々其事業を成就し、一般宗教家とは全く其趣を殊にせり。是蓋し、博士が一世に景仰せらるゝ所以にして、所謂精強博敏とは、博士の如き人をいへるなるべし。
 玆に、博士の講演集を上梓するに当り、予に、序を徴せらる、乃ち平生感ずる所を卒直に記して責を塞ぐといふ。
  大正十五年三月
                   子爵渋沢栄一


東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編 序・第三―四頁大正一五年六月刊 【序 東京慈恵会副会長 子爵 渋沢栄一】(DK480052k-0017)
第48巻 p.174 ページ画像

東京慈恵会総裁威仁親王妃慰子殿下御事蹟 東京慈恵会編
                      序・第三―四頁大正一五年六月刊
    序
 故本会総裁威仁親王妃慰子殿下が、無告の人々に深き慈愛の御心を注ぎたまひ、本会の事業を拡張して、救療の徹底を期せられ、幾多の𥕞礙を意とせられず、熱心に御尽力ありし御事蹟は、申すも畏き極みなるが、それにも増して忘るる能はざるは、本会の前途に就きて御配慮ありし深遠なる御心事なり。殿下は夙に世運の進歩に鑑みて、慈恵事業の一層必要なるべきを察したまひ、本会の資産を金弐百万円となし、其の基礎を鞏固ならしめんと思召され、屡々これを御物語あらせられし御声、今尚、耳底に存するを覚ゆ。爾来国運は年を重ねて発展し、生活は月を追ひて複雑を加へ、慈善救済の施設を要すること益々急にして、光栄ある歴史を有する本会の任務愈々重く、今更の如く、殿下の御深慮の辱さを痛感するに至れり。併かも未だ、其の御遺志を実現する能はざるは、ひとり殿下の尊霊に対し奉りて恐懼に堪へざるのみならず、本会の事業の上より見るも、亦遺憾これに過ぐべからず今此の御事蹟を編述するに当り往事を回想して感慨窮り無く、天下の志士仁人が深く思ひを之に寄せて、殿下の御遺志を翼成せられんことを庶幾ふの情、最も切なるものあり。由つて聊か所感を記して以て序となす。
  大正十五年五月
           東京慈恵会副会長 子爵 渋沢栄一

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古河潤吉君伝 五日会編 序大正一五年一二月刊 【序 青淵渋沢栄一識】(DK480052k-0018)
第48巻 p.175 ページ画像

古河潤吉君伝 五日会編  序大正一五年一二月刊
    序 
男爵古河虎之助君、頃日義兄潤吉君の伝を編成し携へ来りて余に序を請はる、余は潤吉君が英資を抱きて未だ全く実際に施する至らず空しく夭折せしを哀み今猶断腸の思あり、何ぞ其伝に序するに忍びむや、而も敢て之に序する所以のものは、壮時より君の生父福堂陸奥伯養父古河市兵衛翁と爾汝の交を訂し情兄弟も啻ならず、君亦父執の礼を以て余に事へられたる誼あればなり、君天資明敏気宇高邁、古河家に養はれて其家政に参するに当りて以為らく、創業は固より英傑に俟たざるべからざるも、守成亦決して容易の業にあらずと、年少蒲柳の質を以て日夕矻々労心焦慮至らざる所なし、其最も心血を注きたるは足尾鉱毒事件の善後策と、鉱山業の経営方法を改善して其基礎を確立したるの二要件にあり、余は君の着々敏腕を揮ふを見て、福堂伯の子たるに恥ぢず寧馨児倶に語るに足るべしと為し、古河翁の箕裘を継ぐ其人を得たるを喜べり、何ぞ料らむ天之に年を仮さず、忽焉として此有為の士を奪去らむとは、実に惋惜に堪へざるなり、然りと雖も古河の源泉混々として今日の隆昌を来せるもの君が守成の力与りて多きに居るといふを得べし、君亦以て瞑すべし、嗚呼伯と翁と前後吾れを棄てゝ逝き、少壮君の如き亦既に泉下の客となる、而して余頽齢将に米寿に躋らむとす、人生の無情真に感慨に堪へざるなり、故に余は此巻に対して憮然たるもの之れを久うす
  大正丙寅十二月
                   青淵渋沢栄一識


日下義雄伝 同伝記編纂所編 序昭和三年三月刊 【序 渋沢栄一識時年八十又九】(DK480052k-0019)
第48巻 p.175-176 ページ画像

日下義雄伝 同伝記編纂所編  序昭和三年三月刊
  序 
日下義雄君の伝記編纂成るを告げて余に序文を請はる、依て之を披閲するに、君の真摯高潔なる面目躍如として紙上に現れ風神尚生けるが如し、余は之に対し坐ろに生前の友誼を追懐して無限の感慨に堪へざるなり
君は夙に井上馨侯の知遇を得て其英国行に随従したり、余も亦大蔵省在官の時より先輩として侯を敬愛せるが故に、自ら君を知るに至りしも、君が官途に在りし間は未だ相親しむに及ばざりしが、其福島県知事として岩越鉄道の敷設に尽力せらるゝ頃、余は同鉄道敷設の発起人として数々君と会見する機会を得て漸く其人と為りを知り、君の退官後明治二十九年九月余が頭取たる第一銀行の監査役に推し、同四十一年八月更に取締役に薦め、爾来永く親交を重ぬるに至れり、君は第一銀行の重役として能く銀行の伝統的精神と経営の主義とを理解し、行運の発展に就て絶えず助力せられたり
回顧すれば明治三十四年の秋の事なり、伊藤・山県両公は井上侯に内閣組織を慫慂せられしかば侯之に応じ、若し余にして其内閣の大蔵大臣たることを承諾せば奮つて其任に当るべしと言はれ、為に芳川顕正楠本正隆等の諸氏は数々来訪して余に入閣を勧説せられたり、余は夙
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に意を政治に絶ちたりしも、両公の切なる勧誘と侯に対する情誼とによりて遂に之を固辞すること能はず、然らば第一銀行に諮りて幸に行務に妨げなしとせば敢て命を奉ずべしと答へ、直に君及び他の重役諸氏と協議せしに、皆一斉に之に反対せられしが、中にも君は余が第一銀行創立当時の事情より将来の利害得失を詳に論究し、至誠面に現れて其不可なる所以を断言せられしかば此に余の辞意は確定したり、君乃ち他の重役諸氏と共に伊藤・山県両公を訪ねて諒解を求め円満に局を結ぶことを得たり、而して井上内閣は之が為め遂に成立せざりしが侯は後日に至り当時を回想して却て組閣の成らざりしを幸とせられたりき、此一事君の公正にして思慮周密なりしを知るべきなり
君は汎く人を容るゝの雅量なかりしも情誼極めて厚く、莫逆の交を結べるものも亦鮮からず、殊に米国の碩学ビゲロー氏に対する友情に至りては本伝に詳述せられたる如く、人をして感激に堪へざらしむるものあり、嘗て余が渡米せる時ビゲロー氏が余の為に種々の便宜を図られたるは、余と君との交情を熟知せるが為にして、畢竟同氏の君に対する友情の発露と謂ふべく、而して更に之を換言すれば実に亦君の醇厚なる情操の反映に外ならざるなり
余既に君と交ること久しく熟々其人と為りを想ふに、君は蓋し盤根錯節に臨みて利刃を揮ふの士にあらずして、公明正大善を識りて必ず貫くの人なり、而して其人今や則ち亡し、伝成るに当り追懐の情禁ずる能はず、聊か所感を述べて以て序となす
  昭和三年三月
               渋沢栄一識時年八十又九
                       [img 図]印 [img 図]印


神野金之助重行 堀田璋左右著 序・第一―四頁昭和一五年二月刊 【序 青淵渋沢栄一】(DK480052k-0020)
第48巻 p.176-177 ページ画像

神野金之助重行 堀田璋左右著  序・第一―四頁昭和一五年二月刊
    序
 旧友神野金之助君は夙に名古屋地方に於て銀行・会社の業務を経営せられ、又商業会議所議員を初め、幾多公共事業の委員に挙げられ、名古屋市の公務は概ね君の関係せざるなし。
予は銀行業を同じくしたるの故を以て君の名を知りたれども、土地相隔たれるを以て会見の機稀少なりしに、明治四十二年八月、予が渡米実業団長として彼地に渡航せし時、君も其一行中にあり。団員五十人許、行程四箇月の間、君は曾て一度も不満を訴へしことなく、人も亦一語の君を非議するものなかりき。是に於て予は君の常人にあらざるを知れり。頃日、令嗣金之助君、君の伝記を寄せて序文を求む。予之を読みて愈々君の偉人なるを知れり。
 君は青年の頃より農業の国家を富ます所以なるを思ひ、鋭意田畝を買収して新田を開発し、其経営するところ愛知・三重・岐阜の三県に亘れり。かくて経営宜しきを得て、其家産を興すと共に、小作人の保護指導につとめ、神社・寺院を興隆し、小学校を建設し、信用購買組合を設くる等、精神的にも物質的にも尽瘁する所甚だ大なり。君又常に篤く仏教を信じ、慈善公共事業の為に財団法人神野康済会を興し、基本金四拾万円を寄附せるが如き、其一端を見るべく、日露戦役の際
 - 第48巻 p.177 -ページ画像 
には貴族院議員を以て勲四等に叙し、旭日小綬章を授けられ、又産業上の功を以て勅定藍綬褒章を賜はり、後正六位に叙し、卒するに臨みて従五位に叙せられたり。又以て君が国家社会に貢献する所の大なるを見るべし。君天性至孝、其土地買入のため東西に奔走するや、常に父母の木像を奉じて出で、朝夕礼拝懈らず、家に帰れば先づ仏前に奉告し、而して後に妻子と語るを常とす。恩賞を拝せし時も亦同じ。其親に事ふること生前に異ならずといふ。是れ実に君が平素の行動勤恪にして篤敬なるを証するに足る。
 嗚呼君が公私の行為皆以て一世を矜式するに足る。今や世人知識に偏して敦厚を欠き、利己の行為一世を風靡するの際、人々此伝を読みて、潤屋の富は潤身の徳に本づくことを暁らば、此書の公刊せらるゝ実に天下の鴻益ならん。
 此偉人を伝して不朽を謀るもの、蓋し亦此意に外ならざるべし。予は曾て君と業務を同じくし、又旅行して眠食を共にし、今又其遺績を詳にして、其言行の世益を広むる所以なるを識り、喜びて此序を作る
  昭和六年三月
                   青淵渋沢栄一


我等の知れるスペリー博士 スペリー博士追想録編纂委員会編 序・第三―四頁昭和六年七月刊 【追憶 渋沢栄一】(DK480052k-0021)
第48巻 p.177-178 ページ画像

我等の知れるスペリー博士 スペリー博士追想録編纂委員会編
                     序・第三―四頁昭和六年七月刊
    追憶
                   渋沢栄一
 スペリー博士と握手した時の感じは博士の五本の指からその誠心が溢れて、私の指に伝はり、私の胸奥に直流するやうであつた。故に博士と握手して、其温顔を眺めただけで言葉を交へるまでもなく十分互に理解し得る程であつた。
 由来学者とか専門家とかいふ人々は兎角其専門の方面に没頭し勝の為め世間との接触を嫌ひ、社交には至つて疎いもので、野人礼にならはずなどと言つて粗野を衒ふ傾きがないでもないが、スペリー博士は世界的の学者であり、エヂソン翁に継ぐ発明家として推奨されたにも拘らず進んで人と交り、円満快活に振舞つたことは注意すべきことであらう。スペリー博士と二十五年間手を携へて働いたカルヴイン・ダブルユー・ライス博士は
 「私は二十五年間博士の後輩として博士の下に働いて随分博士に面倒を懸けた事もあつたが、一度も博士に叱られたとか博士の疳癪に触れたとかいふやうな経験を持たない。博士は真に典型的の紳士である。」
と言うたことがあるが、実にスペリー博士を語る文字によつて描かれた絵(word painting)であると思はれるのである。
 宏量快活な博士は人生の大問題たる国際親善、世界の平和に深き感触を有たれ、超人種的人類愛は常に博士の胸中に溢れて居つた。聞く所によると一昨年の万国工業会議を日本に開いたのはスペリー博士の発意によつたもので、其動機は各国特に米国の有力者に日本に於ける工業の実際と文化の発達の現状を目撃せしめん為めであつたと云ふこ
 - 第48巻 p.178 -ページ画像 
とであつた。斯くて徐ろに彼の日本に取つては勿論、米国に取つても恥づべき一千九百二十四年の排日移民法修正の気運を促進せしめんと期したとの事である。
 私は今年九十二歳の老人である為め、今日に至るまで各方面の知友や年若き人々などに先だたれて常に齢長ければ悔多しの感があつたが今スペリー博士の逝去を偲ぶに当つて、特に同様の感があり、長大息を禁じ得ないのである。