デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
5節 新聞・雑誌・通信・放送
1款 新聞・雑誌 1. 実業之世界
■綱文

第48巻 p.209-219(DK480055k) ページ画像

昭和2年6月5日(1927年)

是日栄一、青山会館ニ於テ開カレタル「実業之世界」創刊二十周年記念講演会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第四六六号・第一〇一頁昭和二年七月 青淵先生動静大要(DK480055k-0001)
第48巻 p.209 ページ画像

竜門雑誌 第四六六号・第一〇一頁昭和二年七月
    青淵先生動静大要
      六月中
五日 実業之世界社創立二十年記念講演会(青山会館)


実業之世界創刊二十周年記念大講演録 同社編集局編 第一一〇―一二四頁昭和二年九月刊 【野依式と渋沢式 子爵渋沢栄一】(DK480055k-0002)
第48巻 p.209-214 ページ画像

実業之世界創刊二十周年記念大講演録 同社編集局編 第一一〇―一二四頁昭和二年九月刊
    野依式と渋沢式
 - 第48巻 p.210 -ページ画像 
                   子爵渋沢栄一
 御紹介を受けました渋沢栄一でございますが御覧の通り老人で、声も立ちませぬ。声を扶けて貰ふ機械があるさうですが、それに依つて話した例がまだないので、甚だ不慣れ故それを断りまして、地声の儘に愚見を陳情申上げます、何卒暫時御静聴を御願申上げます。(拍手)
 御紹介を載いた通り、野依君とは至つて古い縁故を有つて居ます。然らば私が野依君とどの様に意気の投ずる方面があるかと、皆さんが御考へになつて
      甚だ奇異の感があるかも
 知れませぬ、野依君と私の年は何分にも四十幾つ、私より五十近く歳下でございます。又野依君は操觚者を以て自ら任じ、其操觚者も若し批評するならば少し突飛な遣り方であると申しても決して過言ではなからうかと思ふのであります。
 之に反して私は筆を執る方の人間でなく、実業と云ふ言葉は穏当を欠き、間違つて居るか分りませぬが、先づ長い間銀行、其銀行も至つて古風な銀行を経営したのでありますから、殆ど其風格、地位から言ふたならば、右と左と、北と南のように相反すると云つて宜いと思ひます。
 私は亜米利加の人と能く話しますが、我帝国と亜米利加は大変に違ふ。亜米利加は広い国である、日本は狭い国だ、亜米利加は大きいが新しい国だ。日本は古い国で、亜米利加の隣国である。日本は帝国で亜米利加は共和国である、殆ど総てのものが皆違ふやうである。然らば此両国はどう云ふ辺に一致する所があるだらうかと云ふことを考へなければなりませぬ。是は大いにあると思ふ。即ち正義を重んじ、人道に依つて総てのことを処理して行くと云ふことに於ては私は決して差がないと思ふ。故に今申した通りに左右に極端に違ふて居つても、此正義人道と云ふ道だけは相一致するではないか、故に両国の親善は弥ましに進んで行かなければならぬ。又進むであらうと思ふ。(拍手)但し其間に時に亜米利加に向つて愚痴を言はなければならぬし、又先方から我々に向つて色々求める所がありませうけれども、併し今申しましたことは私は大なる間違ひではなからうと信じて居ります。
      今野依君が亜米利加であり渋沢が日本であるか
 どうかは分りませぬが、違ふと云ふ点は大変に相反して居りながら或一致点、所謂霊犀相通ずる所ありと云ふに至つては、即ち二十余年間の今日まで親しく御交りをして居つたと云ふことは虚偽でもなければ、又お互に迎合したのでもありませぬ事を何卒御了察を願ひたいと思ひます。
 一体、野依君のように世間から誤解されて居る人は余り多くありません。早や口で元気よく卓を叩いて論じたりするので、一見如何にも粗暴のやうでありますが、永く交際して見ますと、氏の真価が分ります。突飛のようでナカナカ緻密で、私どものお話し申した事なぞでも一字一句ゆるがせにせず、忠実に書綴られる事なぞナカナカ感心してをります。之は多くの方々も御存知でせうが、如何なる困難に出会ひましても
 - 第48巻 p.211 -ページ画像 
      屈せず撓まず奮闘努力
 せらるゝ段は、誠に当代に稀に見る人であります。二回も入獄しても少しも心持がヒネクレませぬ、人を疑ひませぬ。人を見れば泥棒と思はずに人を人として同胞として見ると云ふわけで、誠に正直でありますから、他人にだまされる事もありませう。自分が正直だから、他人の不正不義に対し真正直に腹立したり、筆誅を加へたりするから一部の人々から嫌はれるのでありませう。あれでナカナカ常識もあれば一種独得の愛嬌もあり知識に富んでをられます。もう一つ世間から誤解されるのは、余りに天心爛漫、露骨すぎるからでありませう。野依君の尤も美点は職務に忠実と云ふ事を唯一の生命として所謂成功失敗を眼中に置かず理想に進み、人生意気に感ずると云ふ方であります。此頃では仏教信者としてもナカナカ有名になられ、しかも元気衰へずやられる事も感心であります。嘗て私に野依を近づけぬ方がよいと忠告した人もありましたが、私は初めから野依君に見所があると思ひまして、明治四十二年の事でした。
      野依君のため名古屋まで
 「実業之世界」の読者大会に出かけた事がありまして、今日まで交際して参りました。今日の野依君と今日の盛会を見まして渋沢も甚だ喜ばしい次第であります。
 今日は色々な講演がありました事と思ひますが、老人声の立たぬ者が、長いお話は申上げ兼ねますが、併し前の二十年の歳月はどうで、後の二十年の歳月がどうであらうと云ふような事なぞお話して、今日の記念として「実業之世界」がどうして斯くまで進歩したかを顧みると同時に、其他の事柄が如何であつたかと云ふ自己の方面に付いて聊か申上げて見たいと思ふのでございます。
      私は明治六年から銀行業者
 となつて、之を以て社会に、或は国家に対して報ひたい、又一方から云へば自分の栄達も之に依つて維持して行きたいと云ふ考へでありましたが、先づ其方面に於て唯々一意力を尽さうと考へた為めに第一銀行を拵へましたのは明治六年、大正十五年迄総計四十余年間勤《(五年)》めて参つたのでございます。で会社組織と云ふものも今日は皆実に至れり尽せり盛んになり、且つ大きくもなりましたが、しかし明治の始めは中々会社法もなければ、従つて其組立も至つて粗雑であり微々たるものでありました。而して斯様な事柄を個人一人でやるよりはどうしても共同的にやるのが宜からうと云ふのが其頃からの私の一つの意見、一つの主義でありました。今日の言葉で申せば民衆主義、民本主義、デモクラシーとでも申されませう、而して自ら唯々銀行のみを維持して居られませぬで、例へば種々の工業会社にも、或は運送のことにもホテルの事にも其他各種のことに関係致しまして、野依君との交りは此最も多く関係して居つた時に始まつたのであります。
      故に野依君から私は頗る攻撃され
 た事がありました。甚だ世を誤る渋沢であると屡々私に向つて忠告せられたことは私の耳にも這入つたのであります。唯今諸君に向つて野依君に対する苦情を訴へる様に聞えて甚だ可笑しいやうな話であり
 - 第48巻 p.212 -ページ画像 
ますが、二十年後の今日に於てどういふ有様であつたかと云ふことを申すのは、所謂野依君と渋沢は斯く違ふと云ふことを証明する一端になると思ふと申上げる次第であります。(拍手)丁度二十年ばかり昔でございます。とにかくまだ「実業之世界」の組織されない前であつた、即ち二十二年の昔でございますが、或私の懇親な御方が、野依君が渋沢が余りに各方面の六十以上の事業にも関係して世を誤るものであると云ふてるが、是は誤解であるから寧ろ直接会つて話したら宜からうと云ふので、私に紹介して呉れたのが野依君と交りをした始めであります。
 而して其時、先生の調子ですから、今日も尚ほ然り、実に短刀直入的で、何故斯く斯くの事業に関係する、お前が矢鱈に会社の発起に関係するから矢鱈に権利株製造の会社が出来るのだと云つたように、質問でなく数々を詰問的にお問がありました。私は之に対して丁寧な説明をしたと記憶して居りますが、漸く私の心事が段々分つたやうに私は思ひました。そして歳を経るに従つて大に渋沢を了解して下さるようになりました。
 爾来私は御覧の如く私自身は色々なことに関係して、何だか大金持にでもならうと云ふ為めであるかの如くに思はれませうが、普通から申せば当然さう云ふことに考へられませうが、私にはさう云ふことは出来ませぬ。夫程の才能はない。併し唯々商売人と云ふものを御維新以前の商売人たらしめたくない。所謂今日の
      欧米式の商人にさせたい
 と同時に資本の方法を個人々々にやるよりは、色々な御方が共同資本でやつた方がどうしても仕事に都合が宜いと思ふ所から、其方法を広めたいと云ふのが私の希望でありました。其処に何等の望みはないのでありますから、今に其考へが明瞭に分かるだろうと、私は思つて居りました。で私が色々なことに関係するのは、俗に言ふ慾張りと考へるならば、それは或は野依君が私を見誤つたと申して宜からうと思ひ、当時さようなお話を致した事でありました。二十年後の今日野依君は私を完全に理解して呉れたのであります。併し野依君の言ふ所にも一理ありますので
      明治の四十二年でございました
 私も年齢や時勢の事を考へまして、四十余の関係して居つた会社を僅か七つばかりに減じて仕舞ひました。是は丁度七十を境に致したのであります。丁度其時は日米関係の原因から亜米利加に旅行を致しましたので非常に宜く記憶して居ります。
 それから続いて更に前に申上たように、大正五年、ちようど七十七になりましたのを機会と致しまして全く算盤関係をはなれ第一銀行の頭取迄も止めて仕舞ひました。爾来ちようど十年幸ひに健康が保ちますから、算盤から放れましても国民の務めは絶たれぬと云ふ主義から今日亜米利加や支那に対する国民外交とも申すべき国交上の関係、若くは又社会奉仕とも申すべき事柄に、多少の微力を致して居ります。今日でもたまには会社のゴタゴタの仲裁なぞも持ち込まれる事もあります。で斯様に
 - 第48巻 p.213 -ページ画像 
      野依君と私との関係から
 いたしまして色々な事を申す必要はありませぬが「実業之世界」の二十年記念に於て玆に此事を申上げるのは、渋沢は事実斯うであつたと云ふことを弁明せしめる好機会を得しめたと私は思ひます。(拍手)
 左様に申しますと、渋沢の思ひ通りに実業社会の事は発達して来たか、日本の商業は英米流に成つて来たかとの質問があらうと存じます此に対しましては遺憾ながらマダ渋沢の理想通りになつて居らぬと申上げねばなりませぬ。
 特に私の主として経営しました銀行事業、唯今堀江博士が銀行に対しての色々の御説があつたやうでございますが、誠に忌はしい話で、実に私等は真に安んじて寝ることも出来ないと申したい位であります日本の事業、銀行事業に於きましても、其頃から申せば六十余年の歳月を経ましたので、もう少し成長した、もう少し鞏固になつたかと思ひきや、実に昨今の有様は情ないことではないかと甚だ痛嘆せざるを得ぬのでございます。(拍手)
 斯う申すと唯今の堀江博士のお説の中には多少攻撃論が御座いましたから、渋沢も堀江博士同様に銀行業者を攻撃するかと申す方も御座いませう。私は攻撃はしたくありませぬが、併し五十年を経過した銀行事業が斯の如き有様に迄なり、又畢竟斯んな有様が存在して居ると云ふことは、実に我々銀行業者として俗に
      死んでも死に切れぬ
 と迄言ひたいのでございます。(拍手)私は前に申した通り微力にして又慾望も甚だ乏しいので余り身代も多くありませぬ、且つ野依君から嘗て多少攻撃を受けましたが故に愚痴を申すのではありませぬが併しどうしても此国家の進歩といふものは経済と道徳とが共に進まなければいかぬと云ふことは、今日多弁を俟つ迄もなく諸君の御承知の如くであります。
 併し是は誰も皆口で言ふて心に言はぬのを私は憂へるのであります(拍手)此憂ひは独り我帝国ばかりではございませぬ。他の国々の有様を見ましても、或は基督教の様々なる道義を主として安心立命を得て居る国民も、どうも此経済問題になると方向を誤つて、道徳経済が合一に働くと云ふことが甚だ少いのであります。先般の欧洲大戦乱の有様を見ましても、亦現在の国と国との間を見ましても、経済は進んでも道徳は共に進まず、却つて逆に背馳すると云ふことが少くないのであります。斯の如きは実に真正な世界の平和を期する所以でない。で、どうしても
      経済と道徳と共に真に一致
 しなければ世界の平和は期し難いと云ふのが私の一家言でありますが、何卒之を一家言に終らせず、殆ど世界を通じて行はれる事たらしめたいと希望して居るのでございます。(拍手)
 東洋の方では道義を重んずると云ふ例に於て、例へば四書・五経等と云ふ古典に依つて見ましても宜く説いてあります。道徳上のことは所謂至れり尽せりに能く説いて居ります。唯々併し欧羅巴の説とは丁度消極と積極の差がございます。一例を申すと、人から受けた宜い心
 - 第48巻 p.214 -ページ画像 
持は必ず其有様を以て人に施せと云ふのが、基督教の馬太伝か何かに教へてございます。併し孔子になると「己れの欲せざる所人に施す勿れ」と逆に説いて居ります。自己に仕向けられて厭だと思ふことはそれを人に為してはいけない、基督教では人から受けて宜いと思つたことは必ずそれを人に施せ
      右から行くも左から行く
 も同じでございますが、さう云ふ風に教へて居るやうでございます東洋に於て私は僅かに知つたことではございますが、さう云ふ主義としては是は実際上道徳上に於ては西洋のに劣つて居らぬのでございます。唯悲しい哉、東洋にはどうも経済を完全に働かせると云ふ教へがない、今申述べました四書・五経等でも文物は立並べて色々評論はしますが、真正の経済論に至ると甚だ漠として説く所が分らぬやうである。故に道義倒れになつて居る所があります。即ち本当のことは分らぬやうになつて居る。
 然らば経済を高める方の教へはどうであるかと云ふと、詰る所国のことゝ総てのことが各自自己中心になり、悪くすると血を以て覆ふと云ふやうな有様になつて極端迄行くと遂に国と国と争はなければ已まぬと云ふことになる。斯の如きことは私の希望する知行合一ではないのであります。併し人類が行末迄此通りで進むでありませうか。私は希望し且つ信じますが、将来はどう云ふ人が出るか、どう云ふ有様になるか分らぬが、此道徳と経済は合一し得る場合が来るだらうと思ひます。而して其来る場合は何卒大日本帝国から第一に其実現を見たいと希望して已まぬのでございます。(拍手)
 まだ申上げたいことも色々ございますが、御聞きの通り声が甚だ疲れて参りました。申上げたことは殆ど何等要領を得ぬのでございます実は諸君にお話しやうと思ふ事は、ちようど「実業之世界」の二十周年記念であるから、野依君と私の経験の大変違ふと云ふ有様を皆さんのお聞きに入れると共に、二十年の間に自己は何をしたか、又野依君は進んだが[進んだか]、世の中は進んだかと申すやうなこと迄論及して御参考に供したいと思つたのでございます。併し其処迄声が立ちませぬから、詰る所私の未来の希望として多少申上げた道徳と経済と一致させたいと云ふ、之を見て死にたいと斯う考へて居るのでございます。何卒其点を宜く御諒察されんことを希望いたします。(拍手)
 何だか、野依式と渋沢式の題にそひませぬが、双方とも大変に違ふようで、実は一致する点のある事もお分りでございませう。それで御免を蒙ります。(拍手)



〔参考〕紹介状往翰(一) 【雑誌「実業之世界」新年号推薦状 子爵渋沢栄一】(DK480055k-0003)
第48巻 p.214-215 ページ画像

紹介状往翰(一)            (渋沢子爵家所蔵)
    雑誌「実業之世界」新年号推薦状
                   子爵渋沢栄一
老生が実業之世界社々長野依秀一君と二十年来別懇の間柄である事は満天下の皆様の御承知の事でせう、その野依君の主宰する雑誌「実業之世界」が昨年十月号より定価五十銭を三十銭に値下げ内容を思ひ切り改善し、而かも紙数は五十銭の時と同じであると云ふ破天荒の事を
 - 第48巻 p.215 -ページ画像 
断行したので、メキメキと恐しい勢で発達して参つた事は、二十有二年間毀誉褒貶紛々たる野依君の人物と「実業之世界」の生命を見込んで、大いに同情を続けて来た老生としては、実に他人事ならず喜んで居ります。然るに、昭和三年正月号の「実業之世界」が特に非常によく出来て居るので、老生は確信を以て満天下の同胞諸君へ御愛読をおすゝめします。
老生の申すことがウソか真実かは、諸君が書店で実物を御覧になれば分ります。何さま、内容が非常に良い上に、紙数が平常号の倍近くもあつて値段が平常号と同価の三十銭と云ふのですから、余り安さにはタダタダ驚くの外はありませぬ。
(別筆)
[昭和参年一月七日大阪毎日新聞掲載



〔参考〕世界の驚異国宝渋沢翁を語る 子爵渋沢栄一翁頌徳会編 第二七二―二八六頁 昭和四年一二月刊 【○諸名士の観た渋沢翁 二十三年間の関係を述べて渋沢翁の人物を解剖す 野依秀市】(DK480055k-0004)
第48巻 p.215-219 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕紹介状往翰(一)(DK480055k-0005)
第48巻 p.219 ページ画像

紹介状往翰(一)            (渋沢子爵家所蔵)
(控)
拝啓 益御清適奉賀候、然は本書持参の野依秀一君は実業之世界社長に有之熱心努力致居、二十年来懇意に致居候人に候処、今般尊台に拝願の義有之候由にて御紹介致候様申出候に付ては本書相付候間、参趨の節は寸時御引見被下御差支無之範囲に於て願意御聴取被下候はゞ仕合に御座候、右御紹介旁如此御座候 敬具
  昭和二年九月六日            渋沢栄一
  男爵 平沼騏一郎殿  児玉謙次殿
     梶原仲治殿   小倉常吉殿 以上各通
     各務鎌吉殿   瀬下清殿