デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
5節 新聞・雑誌・通信・放送
1款 新聞・雑誌 5. 福岡日々新聞三十五周年記念祝賀会
■綱文

第48巻 p.225-227(DK480059k) ページ画像

明治44年6月7日(1911年)

是日栄一、帝国劇場ニ於テ開催セラレタル、福岡日々新聞社三十五周年記念祝賀会ニ出席シテ祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK480059k-0001)
第48巻 p.225 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年        (渋沢子爵家所蔵)
六月七日 晴 軽暑
○上略 曾テ福岡日々新聞紙ニ於テ、帝国座ニ開催セル紀念会ニ出席シテ祝詞ヲ述フルノ約アリシニヨリ、四時頃帝国座ニ抵リ桂公爵・西園寺侯爵ト共ニ一場ノ祝辞ヲ演説ス、後余興トシテ演劇アルヲ一覧シ、午後九時帰宿ス○下略


福岡日々新聞 第九八六二号明治四四年六月八日 東京に於ける本紙一万号祝典 朝野の諸名士一千余名 光彩陸離たる帝国劇場(DK480059k-0002)
第48巻 p.225-226 ページ画像

福岡日々新聞 第九八六二号明治四四年六月八日
    ○東京に於ける本紙一万号祝典
        朝野の諸名士一千余名
        光彩陸離たる帝国劇場
  △帝国劇場の装飾
本社創立満三十五年及一万号記念祝典は、今七日午後三時より東京帝国劇場にて開催せられたり、初夏の薫風は濠の水を渡りて涼しく、会場たる帝国劇場は白堊巍然として聳え正面国旗数旒を交叉し、紅白段段幔幕を張り月桂樹の装飾を施し「福岡日日新聞三十五周年一万号記念祝典会場」と大書したる立札を掲げ、場の二階・三階等は杉葉及び草花を以て飾りたり数百の電灯は燦として眩き許りなり、舞台には福
 - 第48巻 p.226 -ページ画像 
岡日々新聞贈進の華々しき緞帳を引き準備既に整然たり、午後二時遊覧団員は場外に迫り定刻に至るを待ちつゝありしが、定刻門を開けば雪崩を打つて押寄せ夫々案内者に依て席に着きたり
  △重なる来賓
定刻前より征矢野社長、野田・富安・永江各重役・森田遊覧団幹部は会場玄関に出迎え、桂首相・平田内相・後藤逓相・奥大将・末松子・板垣伯・有馬伯・渋沢男・添田興銀総裁・尾崎東京市長・平山大博覧会長・原敬・松田正久・元田肇・大岡育造の諸氏・石本陸軍次官・若槻大蔵次官・仲小路逓信次官・平井鉄道院副総裁其他朝野の名士一千余名の来賓は踵を接して来着せるが、来賓の重なるもの左の如し
○中略
  △記念祝典開式
余興第一幕終ると同時に振鈴場内に響き渡れば劉喨たる「君が代」奏楽は場の一隅に起り、玆に本社祝典の式は開かれたり、式場は舞台を以て充て後面には紅白段々の幕を張り中央に卓二基を据へ、卓上には香高き紅百合の草花を置き装飾極めて瀟洒なり、式場には来賓桂公爵・西園寺侯爵・渋沢男爵を始め征矢野社長、野田・富安・古賀各重役整列し、征矢野社長は割るゝばかりの拍手に迎へられて壇上に起立し左の式辞を朗読せり
○中略
      渋沢男の演説○後掲ニツキ略ス
  △祝宴と余興劇
夫れより桂公爵の発声にて 天皇陛下の万歳を三唱して式を終り、同六時食卓を開き一同三鞭の盃を挙げ福岡日日新聞の万歳を三唱し、歓声場を圧し、和気靄々談笑湧きかへる裡、余興劇「振武軍」開幕報ぜらる、一同は再び観覧席に就き、劇は順次開演せられ「鬼一法眼」の派手やかなる、「浄瑠璃三上山」の斬新なる、女優の演ずる「西洋舞踏グラバドバレー」の花やかなる、配合極めて面白く、一同時の移るを忘れて十一時無事演了各自退散したるが、場の内外は歓声笑話語只管福岡日々新聞の成功を祝するの賞賛を以て満たされたり


竜門雑誌 第二七七号・第三九―四〇頁明治四四年六月 ○福岡日々新聞の紀念会に就て 青淵先生(DK480059k-0003)
第48巻 p.226-227 ページ画像

竜門雑誌 第二七七号・第三九―四〇頁明治四四年六月
  ○福岡日々新聞の紀念会に就て
                      青淵先生
 本篇は福岡日々新聞が六月七日午後三時より帝国劇場に於て三十五周年の紀念祝宴を開きたる際、青淵先生が実業家を代表して演べられたる祝辞の要領なり
閣下並に淑女紳士諸君、今日は福岡日日新聞三十五周年の紀念に当り私も玆に参列する光栄を得たるは誠に恐縮に堪へざる次第なり、既に祝詞として朝野の大政治家より御申述べが御座いましたので私の蛇足は殆んど不必要と思ひますけれども、而し新聞は単に政治家のみの必要ではなく商工業者との関係も最も大である、かゝる理由より私は御臨席の商工業者を代表するの資格はありませぬけれ共、敢へて私は僭越の罪を恐れず商工業者の見地より祝詞を述ぶることは其本分であら
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うと信じて玆に上つた次第で御座います、誠に私は明治二十八年頃九州に参上致しまして、当時此福岡日々新聞に御従事なすつた高橋君などにも御目にかゝつて御知己となりました、其時代に於ても既に一頭地を抜き論議実著にして報道機敏能く社会の耳目となり、各般の事物を代表されつゝある様に感じて居りました、其頃私は大に若松築港会計会社、若しくは筑豊鉱業鉄道会社の如き九州に於ける開発的事物に関係し、頗る此九州に対し僥望を抱いたのであります、維新以後四十四年我帝国各地の発達はお互に驚く程でありまして全体の国の上から考へて見ますれば、或は天佑幸福と申しても宜しい様に思ひますが、地図の上から見ますると誠に蕞爾たる西方の一小部分である、然かし其新聞と云ひ物産と云ひ総ての発達が廿七・八年頃と今日と比較すると非常の進歩である、往古或は熊襲とか或は薩摩隼人であると云ふ様な時代に比すれば、九州の発達は実に天佑と称すべく、九州は福岡日日新聞の発達に資する所大なると同時に、又福岡日々新聞が九州の発達に貢献した力は偉大なるものにして、即ち両々相待つて此盛大を致したものと申して決して私は過言ではなからうと思ひます。
今回福岡日々新聞が一万号の記念事業として、六百人の大団体を組織して本土・北海道を旅行されて昨今東京に着されたのであります、昔し長崎迄行くに水盃迄して三年・五年別れる様な思いをした事がありましたが、今日は一新聞の事業として此大旅行を愉快に且つ盛大に遂行せられましたことは誠に敬服の至に堪へんのであります、私は其盛挙に満腹の喜びを表し且つ実業家として所見を一言し、併せて一言爰に祝辞を申上た次第であります。