デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
6款 大阪市公会堂
■綱文

第48巻 p.351-353(DK480110k) ページ画像

大正4年10月8日(1915年)

是日栄一、関西・九州地方旅行ノ途次、大阪市ニ至リ、中之島公園内ニ建設ノ大阪市公会堂ノ定礎式ニ列シ、栄一揮毫ノ文字ヲ刻セル礎石ヲ鎮メ、祝辞ヲ述ブ。


■資料

渋沢栄一書翰 明石照男宛(大正四年)九月一〇日(DK480110k-0001)
第48巻 p.351 ページ画像

渋沢栄一書翰 明石照男宛(大正四年)九月一〇日 (明石照男氏所蔵)
○上略
来月八日岩本氏公会堂之定礎式ニハ是非とも出席之積ニ候
○中略
  九月十日
                      渋沢栄一
    明石照男様
        拝復


渋沢栄一 日記 大正四年(DK480110k-0002)
第48巻 p.351-352 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
十月八日 晴
○上略 神戸支店ニ抵リ小憩十一時発ノ汽車ニテ大阪ニ抵リ野口支店長ノ出迎ヲ受ク、直ニ公会堂建築事務所ニ抵リ定礎式ノ打合ヲ為ス、十二時大阪支店ニ抵リテ午飧シ、二時半公会堂ニ抵リ定礎式ニ列席ス、定
 - 第48巻 p.352 -ページ画像 
礎ノ二字ハ先ニ揮毫セリ、大阪人士数百名ノ来会アリ、盛大ナル式典アリ、畢リテ宴会席ニ於テ一場ノ祝詞ヲ演説ス○下略


竜門雑誌 第三三一号・第七三―七五頁大正四年一二月 青淵先生西南紀行 随行員 白石喜太郎記(DK480110k-0003)
第48巻 p.352-353 ページ画像

竜門雑誌 第三三一号・第七三―七五頁大正四年一二月
    青淵先生西南紀行
                 随行員 白石喜太郎記
○上略 先生は一先第一銀行神戸支店に赴かれ小憩の後十一時二十分発の列車にて大阪に向はれぬ、大阪駅には野口弥三氏出迎へられ、同氏の先導にて直に腕車を叱して公会堂建設事務所に到る。事務所には岩本栄之助氏・栗山寛一氏等待受けられたれば、直に其案内にて事務所楼上に到り、窓外近く聳ゆる宏壮なる大鉄骨を望見せられ、其結構を賞せられて椅子につけば今日午後礎石の下に埋むべき鉛筐は先生の前に取出されぬ。其中に納めたる紀念銀板や、岩本氏の寄附に関する記録や、定款や、さては大正四年略本暦や、二十円・五十銭・一銭の各種硬貨や、当日発行の大阪朝日・大阪毎日両新聞紙や順次取上げられて目を通されたる後、午後の式に付て打合はせられ尚別室に於て兼て用意の素絹に向ひ「定礎」の二字を揮毫せられたる上、之を辞し第一銀行に赴かれ、態谷辰太郎・大川英太郎・野口弥三の諸氏と共に午餐をとられたる後、更に公会堂定礎式に列席の為め中之島に向はれたり。
      (三)公会堂定礎式
公会堂の板囲ひ東口に腕車を乗付くれば来賓已に大約来集し居りて、門内天幕張の休憩場は煙草の煙立ちこめ談笑の声頻りなりき。仰けば宏壮なる大建築は腰石・鉄骨等凡ての組立を終り、晴れ渡りたる秋の空に巍然として聳え、竣成後の壮観を偲ばしむるものあり、礎石は花崗石にして長さ三尺余、幅二尺余、高さ二尺なるが、建物の東南隅に吊上げられ、其表面には先程先生の健筆を揮はれたる「定礎」の二字の墨痕鮮かに仮額面となりて掲られたるを望みぬ。
礎石の前面に天幕張の祭壇を設け幣張廻らし真榊の神籬風に揺ぎて荘厳を極む、一方建物の中央に大天幕を張り周囲の柱は紅白だんだらの木綿にて巻き此処を宴会場に充てたり。
軈て役員来賓各自設けの席につけは式は定刻を少しく遅れて午後三時を以て開始せられ、斎主武津宮司祭員一同を随へて式場に入り、先づ大麻塩水行事の後降神の儀あり、献饌前白丁二人によりて舁き入れたる唐櫃より、此日礎石に納むべき鉛筐と定礎の際顧問たる先生の手にすべきハート型の銀鏝とを、三宝の上に取出して神前に供す、此間稍長きに役員席は西面して、折柄傾き初めし太陽の直射を受けたる役員諸氏は殊の外に眩しげなりき。
武津宮司祝詞を奏し終るや、理事長土居通夫氏右の鉛筐を受けて恭しく之を礎石内の穴に納むれば、武津宮司は更に鏝を捧げて之を栗山理事に渡し、栗山氏之を受け、辰野博士は顧問たる先生を導きて礎石の位置に進み、先生の右手に鏝を執りて手際好くセメントを鉛筐上に掩ひ終るや、日の丸の扇子を口に当てたる一人の石工の音頭により、法被姿の石工十数名寂びたる咽喉に木遣節を唄ひつゝ、徐々と礎石を引上げる針金鋼を緩め卸せば、礎石の上石は徐々と下り来り先生には之
 - 第48巻 p.353 -ページ画像 
に手を添へられ、其下り行く様を見守られたるが、軈て上下の石は吸付く様にピタリと合したり。斯くて武津斎主・大久保知事・池上市長来賓総代斎藤控訴院長・青淵先生・土居理事長・岩本栄之助氏の順にて玉串を捧げ、奏楽裡に撤饌、式を終つて宴会に移り、先づ土居理事長の挨拶に次いで先生は拍手に迎へられつゝ演台に立たれ
 自分は明治四十二年米国に遊べる際岩本氏と相会し、同氏より此百万円寄附の企てあるを聞き、帰来此事が実現し公会堂建設に決せるに就き顧問たるを求められしが、自分は東京に住む身を以て遠く大阪に於ける我邦稀有の事業にたづさはるは余りおこがましければとて一応は辞退したるも、岩本氏の母堂が氏に訓へて「大阪でお前はまださしたる根柢を持つてゐぬのに、余りに出しやばつて突飛な事を独断でやつてはいかぬ、よし企てるにしても先輩の教を聞くやうに」との言ありしとの事を聞き、且つ同郷の誼なればとて特に嘱せらるゝまゝ敢て此事業に関係し、更に其因縁を以て本日栄誉ある定礎の鏝を執るに至れるなり
と一場の挨拶をせられ、次に大久保知事の祝辞、栗山理事の答辞ありて午後五時二十五分、宴会を終り一先旅館松塚に到り休憩せられ、更に午後七時より岩本氏の招宴に臨まる、野口・明石の両氏随従せられ午後九時過帰宿せられたり。