デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2023.3.3

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
6款 大阪市公会堂
■綱文

第48巻 p.353-358(DK480111k) ページ画像

大正7年11月17日(1918年)

是ヨリ先、大正五年十月岩本栄之助逝ク。是日、大阪市公会堂落成奉告祭挙行セラル。栄一祝辞ヲ送ル。


■資料

中外商業新報 第一〇九七〇号大正五年一〇月二四日 ○岩本栄之助氏自殺 六連発の一弾急所を外る(DK480111k-0001)
第48巻 p.353-354 ページ画像

中外商業新報 第一〇九七〇号大正五年一〇月二四日
    ○岩本栄之助氏自殺
      六連発の一弾急所を外る
大阪市公会堂建設の為に百万円を投じて天下の耳目を聳てしめたる堂島の花形仲買岩本栄之助氏は、廿二日午後七時頃堺筋なる本邸奥の
△茶室に於て 黒紋付仙台平袴の盛装に左手には念珠を懸け、右手に六連発の短銃を握りて其銃口を咽喉に当て一発ドンと火蓋を切りしに弾丸は急所を外れ左首筋より後頭部に貫通したり、不意の銃声に駆付けし家人は主人が鮮血の中に苦悶せるを見て取るものも取敢へず直向側なる稲葉医師及回生病院の和田博士を迎へて応急手当を加へしが、前記の如く弾丸幸ひに
△急所を外れ 居るを以て多分生命は取止むべく、即夜其筋よりの臨検あり、自殺原因等に就いて調査する処ありしが、主なる原因は同氏が昨年来終始売方針にて一貫し来りしに拘はらず、株式は奔騰に奔騰を重ぬるより漸くにして店運悲境に陥り、為に流石の氏も中途買方に一変せんとせしも従来の行掛上夫も出来ず、先月島徳蔵氏其他北浜の有力者が尽力にて一時整理を見たるが、又々昨年の奔騰に遭遇して窮状更に
△一層を加へ し結果なるべく、当日は日曜の事とて同店員一同は松
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茸狩を催し、同店相談役たる栗山氏も同氏に同行を勧めしが之を断りて家に止まり、市内の親戚を歴訪してそれとなく最後の暇乞をなし、帰途三越にて紀念の撮影をなして帰宅し、来月が臨月なる夫人を対手に四方山の物語りをなし共共に睦しき夕食を認め、食後居間に入りて罫紙五枚に遺書を認めたる上、前記茶室に入りて覚悟の自殺を遂げんとしたるものなり、急報に依りて親戚知己は参集し目下善後策を講じつゝあるが
△北浜市場に 於ける氏の建玉は東株・商船等取交ぜ三千株内外に過ぎざるも、客筋の買注文に全部向ひしもの頗る多き模様なれば、従つて其債務は百万円を越ゆ可しと云ふ、併し此報市場に伝はるや氏に対して同情するもの尠からざるやうなれば、客側に於て騒ぎ立てざる限り案外整理も早くつく可きかと、事情斯の如きを以て市場には格別の影響を見ざるべく、或は同情相場を出して廿四日は多少の安値を見んかと云ふものもあり(大阪電話)


中外商業新報 第一〇九七四号大正五年一〇月二八日 ○岩本氏逝く 治療遂に効なし(DK480111k-0002)
第48巻 p.354 ページ画像

中外商業新報 第一〇九七四号大正五年一〇月二八日
    ○岩本氏逝く
      治療遂に効なし
去る二十三日夜自殺を企てゝ果さず爾来自宅に於て加養中なりし岩本栄之助氏は、其後の経過捗々しからず二十六日回生病院に入院して
△第一回手術 を受け稍安静を得たる模様なりしが、廿七日朝猪子博士は菊池回生病院長・和田ドクトル其他立会の上第二回手術を行ふ事となり、先づ午前九時嗽を為さしめたる所、二回目の水を吐かんとするに際し水は全部傷口に流入して出でざるより、氏は非常に苦しみ烈しき咳を為したる為め動脈切断し夥しき出血あり、種々手当を加えたるも効なく遂に同十時十分永眠せり、享年四十歳、氏は
△先代栄蔵氏 の二男にして明治三十九年家督を相続せり、早く東京高等商業学校を卒業して新智識を以て仲買の実務に当り、更に渋沢男等と共に米国に遊び各地の実業を視察し、大阪株式市場に於ける智嚢として重んぜられ、資産に於ても人望に於ても第一流の仲買として活躍し、嘗て取引所委員長たりし事あり、其為人侠気に富み義気あり、又自信の強き事は其売買上の方針常に終始一貫決して中途変更せざるを見ても知るべく
△其成功の大 を為す半面に於て又今回の如き失敗の大なる所以も玆にありしが如し、又先年取引所問題の起るや卒先して其改善の実行に当り大いに尽す処あり、猶曩に大阪市公会堂建設費として百万円を寄附せるが如きは世人のよく知る処なり(大阪電話)


渋沢栄一書翰 野口弥三宛(大正七年)一一月一二日(DK480111k-0003)
第48巻 p.354-355 ページ画像

渋沢栄一書翰 野口弥三宛(大正七年)一一月一二日 (野口弥三氏所蔵)
○上略
本月七日附貴翰拝読、爾来賢台益御清適奉賀候、然者老生貴地公会堂○大阪市公会堂落成式ニ出席之事ハ先頃より両丹地方之人々よりも宮津・舞鶴等之一遊を勧誘せられ候旁承諾いたし候得共、其後各地之流行感冒ニ付親戚・医師共より切ニ忠告有之残念なから此際旅行延期仕候、御
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承引可被下候、公会堂ニ付而ハ再応被越申候も同様陳謝いたし候、御含可被下候、尤も明年春季之好時節ニ是非一巡之心組ニ付是又御承知被下度候
○中略
  十一月十二日
                      渋沢栄一
    野口弥三様
       梧下


渋沢栄一書翰 杉田富宛(大正七年)一一月一二日(DK480111k-0004)
第48巻 p.355 ページ画像

渋沢栄一書翰 杉田富宛(大正七年)一一月一二日 (杉田富氏所蔵)
○上略
老生も本月十七日ニハ大阪公会堂落成式ニ出席之積兼而心掛居候も、前陳風邪流行之為旅行見合候事と相成○中略
  十一月十二日
                      渋沢栄一
    杉田賢契
      坐下


渋沢栄一書翰 野口弥三宛(大正七年)一一月一五日(DK480111k-0005)
第48巻 p.355 ページ画像

渋沢栄一書翰 野口弥三宛(大正七年)一一月一五日 (野口弥三氏所蔵)
○上略
十七日之公会堂奉告式ニハ終ニ参列仕兼祝詞相送申候、委曲栗山氏より御聞取被下并而可然御伝声可被下候、右拝願如此御坐候 匆々不宣
  十一月十五日
                      渋沢栄一
    野口盟兄坐下


中外商業新報 第一一七二五号大正七年一一月一八日 ○大阪市公会堂 授受式 故岩本氏記念(DK480111k-0006)
第48巻 p.355 ページ画像

中外商業新報 第一一七二五号大正七年一一月一八日
    ○大阪市公会堂
      授受式
        故岩本氏記念
故岩本栄之助氏百万円の寄附に依りて建築中なりし大阪市公会堂は愈愈工事完成し、十七日午前十時より同氏遺族と市当局者との間に之が授受式挙行せられたり、先づ武津宮司祭主となりて修祓の式あり、永田理事長幣帛を献じ、武津宮司の祝詞に次で永田理事長より工事竣成の報告、辰野建築顧問より建築工事の概況報告あり、右終つて愈々授受式に移り寄附者故岩本栄之助氏嗣子善子(四さい)は、母堂てゐ子未亡人に伴はれ、親族総代栄三郎氏(故人の実弟)付添ひて場の中央に進み善子の手より市代表池上市長に公会堂鍵箱を贈りて目出度式を終りたるが、右の鍵は会場貴賓室の外側扉に用ふる鉄製のものにして檜柾の小箱に納め同じく檜柾の三宝に安置しありたり、来賓は林知事池上市長・宇都宮師団長以下約七百名に上り盛会を極めたり、猶当日渋沢男も列席の筈なりしが都合の為め下阪中止祝辞を寄せたり(大阪電話)
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渋沢栄一書翰 野口弥三宛(大正七年)一一月二一日(DK480111k-0007)
第48巻 p.356 ページ画像

渋沢栄一書翰 野口弥三宛(大正七年)一一月二一日 (野口弥三氏所蔵)
○上略
公会堂奉告式も都合能相済候由ニて、写真印刷物も御送被下万端結了之段慶賀此事ニ御坐候、明年春季ニ一遊心掛居候間、其節篤と巡視且爾来担当者諸君御骨折之事共緩々相伺、所謂懐旧談ニても相試可申と存候○中略
  十一月廿一日              渋沢栄一
    野口賢契坐下


竜門雑誌 第三六七号・第八九―九〇頁大正七年一二月 ○大阪公会堂落成奉告祭(DK480111k-0008)
第48巻 p.356 ページ画像

竜門雑誌 第三六七号・第八九―九〇頁大正七年一二月
○大阪公会堂落成奉告祭 故岩本栄之助氏が百万円の私財を投じて大阪市に寄附せる大阪市公会堂は、大正二年六月起工以来五年四ケ月の工程を終へて今回全く竣成せるにより、十一月十七日、其落成を故人に奉告すべく、玆に荘厳なる落成奉告祭を挙行したるが、当日は朝野知名の士六百余名参会して儀式いと厳かに執行され、会堂授受の鍵は故人遺愛嗣子善子嬢の紅葉の如き手より、池上大阪市長の手に渡されたりと云ふ。斯くて式後食堂に於て大宴会を開き、永田仁助氏の挨拶に次き林府知事・池上市長・山口市会議長・中橋文相(代)・青淵先生(代)等の祝辞ありて満堂盛会裡に散会せりと云ふ。因に故人は明治四十二年渡米実業団の一員として青淵先生と共に米国巡遊中、父君の訃音に接して帰朝せられ、後所志を先考の霊に告げて其家産を公共事業の資に出捐せられしなり。而して右会堂の定礎式には青淵先生も態々西下臨席され、故人と共に組立終りし計りの大鉄骨の下にて宴会に列せられしが、氏は不幸にも今日の盛典を見ずして逝去せられたるは悼ましき限りにこそ。



〔参考〕青淵回顧録 小貫修一郎 高橋重治編 下巻・第一五二二―一五二五頁昭和二年八月刊 【○第二附録 諸名士の渋沢子爵観 渋沢さんのお陰で岩本君の志は遂げられた―附、財団法人設立について― 栗山寛一】(DK480111k-0009)
第48巻 p.356-357 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕明治大正大阪市史 同市編 第一巻・第六八三―六八四頁昭和九年四月刊(DK480111k-0010)
第48巻 p.357-358 ページ画像

明治大正大阪市史 同市編 第一巻・第六八三―六八四頁昭和九年四月刊
 ○第九章 文化及風俗
    三、公会堂
○上略
 中央公会堂 岩本栄之助はその父が株式仲買人となつてから四十有余年の刻苦勤労によりて一家をなした後をついだゝめ、その記念として遺訓に基き公共事業に寄附せんとの志を懐いて居た。折柄同氏は四十二年の秋、太平洋沿岸商業会議所の招待に応じ本邦実業家代表者の一人として渡米団に加はり、その縁により時の団長渋沢栄一に寄附金一百万円の使途を一任した。翁は帰朝後来阪して時の知事高崎親章、市長植村俊平を始め、名士十数名の会合を求めて之を発表し、且使途
 - 第48巻 p.358 -ページ画像 
の選定を謀つたが、衆議は公会堂建設の適当なるを認めた。かくて財団法人として経営することゝなり、四十四年八月十一日登記手続を了へ、大阪市に交渉して敷地を中之島公園旧公会堂の地に定め、建物設計は指名懸賞競技に付し、工学士岡田信一郎が之に当選した。大正二年三月九日地鎮祭を行ひ六月二十八日より工事に着手、七年十月三十一日竣成し、十一月十七日財団法人より大阪市に引継の式を了つた。
本堂の構造は耐震耐火にして、様式は復興式中の準バラデヤン式をとり宏壮優美、中之島の一偉観たるを失はない。総建坪数は二千三百九十一坪、一階に大会場、二階に貴賓室・大食堂・中食堂を設くるの外尚各階及地下室に大小多数の室を置いてゐる。大集会室は優に三千人以上を容るゝ事が出来る。
○下略