デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
7款 滝野川町関係
■綱文

第48巻 p.368-371(DK480115k) ページ画像

大正7年12月(1918年)

是月栄一、滝野川町役場新築費トシテ金五千円ヲ寄付ス。仍ツテ同八年十一月十一日紺綬褒章ヲ下賜セラル。


■資料

渋沢栄一 日記 大正七年(DK480115k-0001)
第48巻 p.368 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年         (渋沢子爵家所蔵)
三月六日 雨 朝来降雨寒威厳ナラス
  ○本文略ス。
(欄外記事)
 山下○亀三郎氏ノ宴会ニ於テ井上公二氏ニ会見シタルニ付、滝野川町役場ノ事ヲ内話ス
  ○中略。
三月二十九日 夕雨 朝晴タレトモ午後ヨリ曇リ夕方雨、夜ニ入ルモ降リ続キタリ
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、後三・四ノ来客ニ接ス○中略 有馬助役来リ町役場ノ新築ニ付寄附金ノ事ヲ談ス○下略
  ○中略。
四月十三日 雨 終日雨降ル気候寒シ桜花風雨ノ為ニ散乱ス
午前六時半起床入浴朝飧例ノ如クシテ後、有馬氏来リ町役場新築ノ事ヲ談ス○下略


竜門雑誌 第三七三号・第五七頁大正八年六月 滝野川町役場開庁式(DK480115k-0002)
第48巻 p.368 ページ画像

竜門雑誌  第三七三号・第五七頁大正八年六月
○滝野川町役場開庁式 府下滝野川町は近年著しく発展をなし、従つて町役場の狭隘を感ずるに至り、過般来工費四万四千余円を投じて改築工事中の所、愈竣工せるを以て六月八日午前其開庁式を挙行せるが当日は来賓千余名に及び、越部町長の式辞、有馬助役の報告に次ぎ、寄附者の表彰あり、終つて青淵先生の発声にて万歳を三唱し午後散会せる由なり


東京府民新聞 大正八年六月五日 滝野川全町民公共心の結晶 町役場の新築全く竣りて三日間に亘る開庁祝賀の催(DK480115k-0003)
第48巻 p.368-370 ページ画像

東京府民新聞  大正八年六月五日
    ○滝野川全町民公共心の結晶
      町役場の新築全く竣りて
        ○三日間に亘る開庁祝賀の催
□寄附金七万五千円 一度び我が町役場の新築が町民の寄附に依つて完成さるべき議起るや、先づ渋沢男は五千円、古河男は壱万円の寄附を以て敷地買収費に充つべきを申出られ、次いで町民有力者率先して或は数千円乃至数百円の寄附を申出で、忽ちにして町民の愛町心は昂まり一致協力の美を発揮して、玆に金七万五千余円の巨額を算するに至り、新築工事は予定の通り進捗して去月廿八日全く請負業者より引継ぎを了したり、今其の
□新庁舎 を見るに木造スレート葺タイル張及び石造煉瓦造り和洋折
 - 第48巻 p.369 -ページ画像 
衷風の二階建にして、総坪数二百六十坪に近く、本館の階下は事務室の大広間にして会計・庶務・兵事・戸籍等一々部門を分ちて何人にも明瞭簡単に所用を弁じ得ることゝし、後方には町長室及び応接室を設け、別に平家建ての宿直室・食堂・使丁室及び便所の設けありて、階上は其大広間を議事堂に当て、第一より第四までの応接室及び委員会室・使丁室等完備せり、其構造の清楚堅牢なるのみならず、設計者が各地に出張視察して其長所を取り一切の精粋を蒐めたるものなれば、実に理想的建築物と称するも敢て溢美ならず、其倉庫及び電灯・電鈴排水・防火等の装置は採光通気の衛生的設備と相俟つて当路者の頗る苦心せる所なりと聞く
□三日間の祝賀 以上の如き理想的庁舎の魏然として町の中央に聳ゆるを観るの時、町民は無上の快感を覚え、又直接是れが新築に与れる町当局者の喜びは蓋し想像以外なるべし、最初は落成祝賀会の如きも大々的に挙行せざる方針なりしも、町民有志中には特に祝賀会費として指定寄附を申出づるもの多々あり、之がため
▽八日午前十時よりは盛大なる開庁式を挙げ、約八百名の来賓を迎へ越て
▽九日午前十時よりは十円以下の寄附者を招待し、午後よりは本町自治制実施三十年祝賀会を開き、席上にて
□功労者表彰 式を挙げ、左の諸氏に町会及び町長より表彰状並に記念品を贈呈せり
  飯塚造酒蔵氏  (元助役村議)
  清水正之助氏  (村会議員)
  西山音五郎氏  (村議元収入役)
  小野沢幾太郎氏 (村議郡議)
  保坂平三郎氏  (前村長郡村議)
  野木隆歓氏   (前町長郡村議)
尚ほ十年以上勤続の吏員としては
 有馬浅雄氏(現助役)・森川音三郎氏・泉川清氏・西山満太郎氏
の四氏表彰せらるゝ筈なり、更に工事に功労ありし請負者宇田川秀次郎氏、工事監督農事試験場技師吹井健三郎氏、有馬助役・野木収入役へは町長より、又町会よりは越部町長に対し感謝状を贈る筈なり
▽九日夜間は同町新旧町公事関係者全部を網羅して組織せし町友会の祝賀会を催す予定なりと
▽十日午前五時よりは村社及び准村社に報告祭を行ふため、越部町長は大祭の例に準じて幣帛料を献じ町内各字を巡り、一方町内四校の各小学校生徒三千五百名は各校より旗行列をなして町役場前に万歳を三唱し、祝意を表する事となれり
□各町内の催 以上の如く破天荒の一大祝賀会を挙ぐることゝなりたる為め、西ケ原の大通りは云ふまでもなく、全町悉く国旗提灯を掲げ或は山車を曳き、花火を打揚げ、囃神楽の催しなどあり、十二分に公共心の発露と一致協同の美挙を記念せしむる考へなりと
□渋沢男の揮毫 此の新議事堂を飾るため有馬助役は男爵青淵翁の墨痕を乞ひたるに「敬事而信」の四大文字を与へられ正面懸額とせらる
 - 第48巻 p.370 -ページ画像 
□町長・助役の謙譲 以上の大事業を理事者として完成せし越部町長は「全く町民諸君の熱誠なる愛町の精神に依て出来したものです、此信任に対し、私の責任は益重大に感じます、此報恩を如何にして酬ひんかと寝食も忘るゝ位であります」と語られ、又有馬助役は「十年親しんだ旧役場との別離の情は、一方新庁舎に入ることの責任重大なことゝ思ひ合せて無量の感があります、今回の事も町長及議員諸氏の信任された其精神が働かしめたので決して自分の働きではありませぬ」と頗る謙遜して語られたり
□名誉の人 此工事を完成したる同町建築業宇田川秀次郎氏は少壮前途有為の士にして、永く記念すべき建築物と共に君の栄誉も亦永長に伝はるべし


青淵先生公私履歴台帳(DK480115k-0004)
第48巻 p.370 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳            (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
大正八年十一月十一日 大正七年米価騰貴ノ際救済ノ為金壱万円、同年十二月東京府北豊島郡滝野川町役場新築費及同八年二月埼玉県大里郡八基村図書館建築費金壱万五千円寄付ス依テ大正七年九月十九日勅定ノ紺綬褒章ヲ賜ヒ以テ之ヲ表彰セラル



〔参考〕青淵回顧録 小貫修一郎 高橋重治編 下巻・第一五三四―一五三六頁昭和一一年八月刊 【○第二附録 諸名士の渋沢子爵観 渋沢子爵と滝ノ川町 有馬浅雄】(DK480115k-0005)
第48巻 p.370-371 ページ画像

青淵回顧録 小貫修一郎高橋重治編  下巻・第一五三四―一五三六頁昭和一一年八月刊
 ○第二附録 諸名士の渋沢子爵観
    渋沢子爵と滝ノ川町
            元滝野川町名誉助役東京府会議員参事会員 有馬浅雄
 我国の宝である渋沢子爵は、本年齢米寿に達し、今尚矍鑠として国家の為め、日夜御尽瘁せられつゝある。而して其の功績の偉大なるを見、子爵の日常を見聞するならば、誰しも奮起せざるを得ないのであります。
 渋沢子爵に対しては、夙に諸賢、口を極め筆を揃へて、その高徳を賛へられてゐる、私も勿論それを嬉ぶものであります。敢て玆に一文を捧ぐる所以であります。私共の生れぬ先き、子爵は明治十二年の頃より、飛鳥山に居を構へられてゐました。当時今の電車道は三間半の狭道で、役場前の如き萩・山吹が繁茂し道を蔽ふてゐて暗闇坂と称し追褫すら出たと云ふ事です。其の頃よりの滝野川町の御住民であるから、子爵は能く町の事情には精通せられてゐました。又吾が町が早くに其の存在を全国に知られた事も、又子爵が住民になられたからだと思ひます。
 そしてこの御繁忙の子爵が小さい一農村で有つたにも不拘、何時も吾が町自治の為めには相談に心良く御面会の時間を与へて下され殊に親切に御指導せられたのであります。自分は明治四十一年四月から大正十四年十月迄十八年間、町の枢機に参与し特に子爵の御教示と御援
 - 第48巻 p.371 -ページ画像 
助を得た事が多かつたのであります。今の電車道の改正も阪谷東京市長時代に拡張せられ長尾電気局長の時に電車が敷設せられ又吾町名所の一里塚の保管も奥田東京市長の時に確立しました。
 是皆子爵の特別なる御尽力の賜であります。殊に現在の町役場が全国町役場中に誇る建築であると云ふ事は、町民多数の愛町精神の発露であつた事は勿論であるが、頭初敷地の買収に子爵並に古河男爵及び越部町長がなかつたならば到底成就出来なかつたのでした。之れには私が其の衝に当つてゐたので、能く其事情を知つて居りましたが故に過言では有りません。そして本町が今や人口九万を算し、全国第三位の町(第一渋谷、第二西巣鴨)として誇り得らるゝ様に成つたのも、子爵の大小となく町の為め御親切御熱心に御援助せられた事が、其の大半を成して居ると思ひます。
 只だ近来急激に発展した町である故に、多数の方々は官権に依り、今日を為したが如く見られるが、東京市とは違ひ、郡部町村の発展並に之れに伴ふ施設と言ふものは、殆ど其の町理事者の苦心努力と、篤志者の非常なる援助に依るものである事を、知つて戴きたいのであります。
 如上に依り渋沢子爵の如き物質に於て精神的に於て本町の為め多大の御尽力を下された方に対しては、愛町精神の上に各自の人格を構成するの上に於て其の功績を賛へ、以て感謝の辞を献げると言ふ事は人として町民として当然の事であると思ふのであります。殊に私の如く公私共に御厚意を受けた者は終生其の御高恩を忘る事が出来ません。只だ私は子爵の御長寿を祝し、益々御健在ならん事を祈るものであります。