デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
8款 埼玉県関係 2. 埼玉県入間郡豊岡町公会堂
■綱文

第48巻 p.394-398(DK480126k) ページ画像

大正12年12月9日(1923年)

是ヨリ先栄一、埼玉県入間郡豊岡町公会堂建設費トシテ金千円寄付シ、是日、開堂式ニ際シ、祝辞ヲ送ル。昭和二年十月二十七日、栄一、右寄付ニツキ賞勲局総裁ヨリ表彰セラル。


■資料

御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第三八―三九頁大正一三年三月刊(DK480126k-0001)
第48巻 p.394 ページ画像

御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第三八―三九頁大正一三年三月刊
    十、寄附者芳名
  (一) 特別寄附者芳名
○上略
一金千円      東京市 子爵 渋沢栄一殿
○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK480126k-0002)
第48巻 p.394 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳           (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
昭和二年十月二十七日 自大正十一年七月至十五年十一月埼玉県営埼玉会館並同県入間郡豊岡町公会堂建設費及同県大里郡深谷町立商業学校設立費金九千円寄附ス、仍テ褒章条例ニ依リ之ヲ表彰セラル 賞勲局総裁


御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第三―五頁大正一三年三月刊(DK480126k-0003)
第48巻 p.394-395 ページ画像

御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第三―五頁大正一三年三月刊
    一、開堂式
 - 第48巻 p.395 -ページ画像 
大正十二年十二月九日(日曜)は豊岡公会堂の開堂式挙行の当日で、町内には朝から一種の祭礼的気分が漲つて居た。数発の煙火が勇しく晴やかな響を伝へると、はや挙式の時刻が念頭を支配して心に落ち着きがない。午後になると町民は誘ひ交はし伴ひ合つて、打ち揚がる花火を見ながら会堂へ会堂へと向つた。来賓を乗せた二台の自動車が表玄関に横着けになる頃には、前庭も後庭も人を以て埋められた。第一振鈴に依つて町民一同の入場が始まると、さしもに広き会堂も全く余席を残さぬ程の盛会である、第二振鈴で来賓の着席が終り伊東助役が挙式を宣すると、場内は厳粛その者となつて咳一つする者もない。繁田町長が静々と進んで壇上に現はれると一同は起立して敬意を表するやがて民心作興に関する詔書は荘重にして朗らかな音声を以て捧読せられた。森厳の気は愈々加はる。捧読が終り一同が座位に復すると町長は再び登壇して式辞(後章参照)を朗読した。
野村助役より建築委員を代表した工事経過の報告があつて後、元田埼玉県知事及び日下入間郡長の祝辞があつた。
渋沢子爵は当日特に臨席して一場の御訓話をなさる予定であつたが延期となつて、態々渡辺得男君を派遣し祝詞を寄せられた。又粕谷衆議院議長からも祝詞を伝達せられた。
以上の外、県郡の名誉職や官公各団体の代表者より祝辞があり演説があつて後、厳粛にして而も和気に富んだ式が閉ぢられたのである。此の日一般来会者には紅白の祝餅と印刷物の土産が配付せられた。且つ余興の煙火は会衆の目を喜ばせ、夜に入りては黒須畑中組の寄附にかかる仕掛花火が人気を呼んで祭礼気分を一層濃厚にしたのである。


御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第一五―一七頁大正一三年三月刊 【四、祝辞 (渋沢子爵)】(DK480126k-0004)
第48巻 p.395-396 ページ画像

御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第一五―一七頁大正一三年三月刊
    四、祝辞 (渋沢子爵)
埼玉県豊岡公会堂新築成リ、本日ヲ以テ開館式ヲ挙行セラル、慶賀ニ堪ヘザルナリ、回顧スレバ予ハ六・七十年前先人ニ随従シ、業ヲ以テ毎年一回黒須・扇町谷地方《(屋)》ヲ往来セシガ、当時ハ微々タル一農村ニ過ギザリシニ、今ヤ賑殷ナル市街トナリ、此公会堂ノ建設ヲ見ルニ至レルハ、固ヨリ盛世ノ余沢ナルベキモ、亦以テ地方人士ノ勤勉ニ依ラズンバアラズシテ、町長繁田武平君以下当事者ノ経営其宜シキヲ得タル結果ナルベシ、予ハ繁田君トハ其厳父以来数十年ノ交誼アリテ、時ニ或ハ予ノ主張スル道徳経済合一説ニ就テ談論晷ヲ移シタルコトアリ、故ニ其地其人倶ニ因縁ノ浅カラザルヲ覚ユルナリ
思フニ町村ハ国家ノ根柢ナリ、国力ノ充実ハ町村ノ発展ニ俟タザルベカラズ、而シテ町村ノ発展ハ個人ノ富力ニ頼ラザルベカラザルヤ論ナシ、今此公会堂ハ豊岡町ノ人心一致ノ結果ニ成レルモノナレバ、将来有益ニ之ヲ利用スルト共ニ同心協力シテ更ニ新事業ヲ興起シ、以テ国力ノ隆昌ニ資セラレンコトヲ期シテ待ツベキナリ
人或ハ言ハン、此公会堂ハ地方ノ現状ニ比シテ規模大ニ過グト、夫レ或ハ然ラン、然リトイヘドモ本町ノ人士将来益精励シテ、他日其富力一層増進セバ、見テ以テ之ヲ小トスルニ至ラン歟、是レ予ガ深ク繁田君及地方人士ニ翹望スル所ナリ、遥カニ一言ヲ寄セテ以テ祝辞トナス
 - 第48巻 p.396 -ページ画像 
  大正十二年十二月九日
                    子爵 渋沢栄一

御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第二六―三四頁大正一三年三月刊(DK480126k-0005)
第48巻 p.396-397 ページ画像

御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第二六―三四頁大正一三年三月刊
    八、渋沢子爵の懇情
世界的の偉人渋沢子爵が渺たる我が豊岡町に対して深厚なる懇情を寄せられつゝあることは、吾々町民として深く感銘すべき事である。今その厚情の一・二を挙げてみよう。
豊岡公会堂が竣成したので、予て多大なる寄附を賜つた関係から、其謝礼と報告とを述べ併せて開堂式に賁臨を懇請すべき目的を抱いて、繁田町長は十一月廿八日王子飛鳥山邸を訪れた。子爵は痛く喜ばれて早速快諾を与へ且つ自動車の道順までも尋ねられた上「思ひ廻らせばはや六・七十年の昔話になるが、黒須・扇町屋へは藍の商売向で度々出掛けた事がある。又先年弘道会の講演でお邪魔に上つた事もある。それらの事が恰も走馬灯の如く胸裡に現はれて来るが、満義翁とは懇意の間柄であつたから其郷里とも自ら親みが深い。であるから是非共出向いて一場のお話をしてみたく思ふ。」
と語られて堅く約束を結ばれたのである。
子爵は極めて御多忙なるおからだであり且つは御老体の事でもあるから、地方へお迎へするといふことはとても得難き望みである。然るに忽ち快諾を得たのであるから、繁田町長は万鈞の重荷を一時に卸した様な気持で子爵邸を辞し、脚の運びも軽やかに丸の内なる事務所を訪れると、渡辺得男君は待ち受け顔に迎へて「只今王子から電話が掛つて豊岡行の事を承つたが、目下子爵は体力旺盛であるけれども、咽喉部に弱点がある。田舎の暖房設備のない所で談話をされることは禁物だ、事務所が折角の御企望を妨害する形で甚だ相済まぬ次第ではあるが、今申す通りであるから是非共君の力で延期になる様取計つて貰ひたい、吾々が此の事を言ひ出すと直ぐ撃退せられるから、機を見て子爵に面会して宜しく取なして呉れ給へ」といふ挨拶であつた。是を聞いて町長は恰も油揚を鳶にさらはれた様な失望を感ぜぬでもなかつたが、懇情から出た子爵の快諾や、真情から出た周囲の希望を思ふと、又誠意を以て之に酬いなければ《(いけ脱カ)》ないと感じた。乃ち更に十二月六日上京して、事務所に於て子爵に面会して其意味を申上げると、子爵は一笑に付して
「なに大丈夫、その心配は無用だ。」
と言つて飽くまで臨場する意向であつた。町長はその懇情を感佩しながら、来春暖和の候まで御来町の御猶予ありたい由を懇請した。
「それでよいか、町の諸君に対して済まぬ様な事はないか。」
と子爵は幾度も繰り返して念を押されたが、切なる願に
「では来春三月頃まで待つて貰はう、さうなれば誠に好都合だ。」
と漸く承認せられたので町長はやつと安心した。凡て大家・名士を招聘するにはその応諾を得るに非常な骨折をなすのであるが、是は快諾の延期に非常な苦心を要した。是に言ふべからざる純情が存在することを味はなければならないのである。
 - 第48巻 p.397 -ページ画像 
斯く話が一決すると子爵は其場に於いて渡辺君を呼び寄せ祝詞の作成を命じ且つ其大要をも言含められた。同君は開堂式当日祝詞を擁して来町し、代読するに当つて冒頭的の挨拶を述べられた、其言に曰はく「此地方は子爵が六・七十年来縁故の深い所であるのみならず、子爵と繁田満義翁とは、特別の懇誼があり、且つ翁の子息繁田町長が、地方自治の為めに尽瘁せられつゝあることを深く共鳴されて居る。先年繁田町長から、公会堂建築の計画を話出された時、子爵は大に賛意を表して『それは単に町の為ばかりではない、県の為めにもなるから是非遂行するがよい。夫れには経費を要することであるから、自分も口ばかりの共鳴では済まされない。多少の援助として寄附をしたいものだ。』と言はれた。然るに繁田君は『是は町の仕事であるから町以外の者からは一切貰はぬ主義である』由を述べられた。之を聞いた子爵は『自分は豊岡の出身ではないが埼玉県の出身だ。此意味を以つて是非収めて呉れ』と頼む様に申されたのである。斯様に縁故の深い土地なり公会堂であるから、子爵は万障を排して臨場せらるゝお考であつた。」云々
以上の言説に依つて子爵が如何に深い懇情を寄せられつゝあるか明かである。凡そ寄附は貰ふ方から百拝して懇願するもので、呉れる方から受納を依頼する者ではない。然るに是は世の常例に反することが斯くの如くである。
快諾猶予の懇請と寄附受納の切望とは、何と現代に於ける珍話美談の好一対ではないか。


御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第一九―二四頁大正一三年三月刊(DK480126k-0006)
第48巻 p.397-398 ページ画像

御慶事記念豊岡公会堂 埼玉県入間郡豊岡町編 第一九―二四頁大正一三年三月刊
    六、工事経過報告開堂式当日建築委員総代
『千里にゆく者は三月糧をあつむ』と申す如く何事にも準備が必要であります。大正元年即ち今より十二年前に、繁田町長より建設の議を発表された公会堂は千里の旅どころではない。従つて三月糧をあつむる位の準備では手が下されません。何事にも先立つものは資金であります。町当局者は夙に資金の造成に心を留め、十有余年に渉る町長報酬の殆んど全部は其の中に投ぜられて是が根となり本となりました。且つ世界の大戦当時経済界の勃興に伴ふ臨時収入金がその中に積立てられてから、金額は段々と増加して、偏に時機の到来を待つて居りました。同十年十二月第一回の公会堂新築調査委員会が開かれ、設計構造・時期・経費・場所等について熟議を凝らし爾来種々調査や研究を重ぬるうち、畏くも皇太子殿下御成婚の御儀が十二年の秋季に於て行はせらるゝ様御治定になりましたから、御慶事の記念として公会堂を建設すべく町全体の意志が一致し、愈々実行期に這入つたのであります。建築費予算も町会一致の協賛で通過し、敷地の選定や購入も滞なく済んで、設計書に基き大正十一年十二月十一日工事請負の入札を行ひ、豊岡職工組合に落札しました。工事に着手して以来吾々当事者は固より、工務員も補助員も皆我が家を建築すると同様の意気込で立ち働きました。豊岡職工組合は『此工事を他に奪はるゝ様では名折だ。仮りにも工事に不正があつてはならぬ』と労銀などには目を留めず励
 - 第48巻 p.398 -ページ画像 
みました。あの大震災に何等の障碍も受けずに工事が進んだものは、如上の誠意が天に通じた結果とも申しませう。工程は予定通り進捗しましたが、只震災に依つて御慶事が御延期になりましたのは誠に恐懼に堪へぬ次第であります。
工務の大要を摘記すれば
  一、大正十一年十二月廿六日 地鎮祭挙行
  二、同年同月二十七日 水盛り施行
  三、同十二年六月六日 上棟式
  四、同年十一月三十日 竣成
  五、工事日数 二五二日
  六、構造 大会堂 六〇坪 書記室 六坪二五 来賓室 五坪 守衛室 三坪七五 応接室 七坪五 玄関(二ケ所) 四坪、三坪 図書室 六坪二五 中二階 一四坪 事務室(二室) 七坪五、六坪 廊下 二二坪二五 土間七坪五 附属舎(湯呑所 四坪 便所 四坪 土間 四坪二五)
  七、工事関係者
     監督      埼玉県建築技師 浜名源吉
     設計者     川越市     関根平蔵
     建築請負人代表 豊岡町     小林鉄五郎
     屋根工事請負人 豊岡町     八木信太郎
     建築委員(専任)内村嘉七    原島茂七
         (同) 水村金次郎   鈴木兼吉
             石川幾太郎   田代巻三郎
             長谷部兼三   小沢民蔵
    町長 繁田武平  助役 野村平吉 助役 伊東豊吉
今回の建築事業を見渡して考へると、第一に準備の長かつたことが目につきます。長い間の準備があつたがために斯かる大事業を果すに当り少しの異論もなく苦痛も感ぜずに済みました。第二には心の一致であります。『町のため』といふ語は自ら一の標語となつて金を出すにも人足に出るにも鶴嘴を執る者も斧を振ふ者も、皆『町のためだ』といつて励みました、是は我が町の子々孫々に伝ふべき美事であらうと思ひます。
  大正十二年十二月九日