デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

8章 軍事関係諸事業
2節 軍事関係諸団体
3款 社団法人海軍協会
■綱文

第48巻 p.623-625(DK480171k) ページ画像

大正6年10月3日(1917年)

是日栄一、築地精養軒ニ於テ挙行セラレタル当会創立発会式ニ際シ、名誉会員ニ推薦セラル。


■資料

男爵目賀田種太郎 松本重威編 第七二二―七二六頁 昭和一三年六月刊(DK480171k-0001)
第48巻 p.623-625 ページ画像

男爵目賀田種太郎 松本重威編  第七二二―七二六頁 昭和一三年六月刊
 ○第九章 貴族院議員及枢密顧問官時代
    第十五節 海軍協会
 海軍協会は初め大日本海軍協会と称し、大正五年十二月二日発起人会を華族会館に開き、目賀田先生を座長に推し、仮趣意書・宣告、並に仮規約を議定し、尚多くの有力者を発起人に網羅することの申合せを為したるが、其の宣告せられたる趣意は左の六項であつた。
 一、帝国の擁護には、優勢なる海軍力を要すること。
 二、海軍の発達は、商工業の発達を促進し、且つ之を助長するものなること。
 三、海路の交通杜絶せば、商工業の枯渇すべきは勿論、領土の防衛亦不可能に了るべきこと。
 四、古来海国にして、海軍力を完整せずして、其の国運を興隆せしめたるもの、未だ曾て之れあらざるのみならず、海防不整備の結果は、遂に其の国を衰滅せしむるの否運に際会するを免れざること。
 五、海国々民は、為政者に対して、国家必要の程度に海軍力を完整維持するの後援を為し、且つ之を督励すべきものなること。
 六、海軍力の完整及び維持問題は、厳に政争の外に超絶すべきものなること。
 大正六年四月十二日、築地水交社に於て発起人協議会を開き、創立に関する諸般の順序方法等を協議し、創立準備委員十六名を挙げ、先生を其の委員長に推し、先生の意見に依り、先づ外国の実例を調査することゝし、(一)外国に於ける海軍協会と其の会員数、(二)協会の基本金高、(三)協会員の範囲、(四)協会の目的及び事業に就いて、準備委員之れが調査を分担すること、尚進んで多数の有志者を勧誘すること、且つ資本家の同情援助を求むること等を決議した。尋で五月廿三日、外国の実例調査の結果を発起人に報告すると共に、先生は左の要領を附記せられた。
  国家が海軍を扶持するは、汎く国民的協力に待たざるべからず、之れが為に海軍協会を組織するを要す、蓋し其の事業広汎に渉り、我帝国の現状に於ては、網羅すべき範囲頗る大なり、乃ち爰に外国の範例を報告し、後日の大成を期す。
 斯くて六月に至り、創立準備委員は広く勧誘状を発送して、発起人を募らんとするに際し、先生は突如として其の発送を第三十九回臨時
 - 第48巻 p.624 -ページ画像 
帝国議会の閉会後まで延期せざるべからざるやも知れずと告げ、且つ自ら同準備委員及び委員長の辞任を申出でられた、其の理由は知友より次の如き勧告があつたからである。
 一、独逸の海軍協会は、独逸帝国自ら主働者と為りて今日の盛を致せり、我国に於ても海軍協会を起すには、此辺の考慮なかるべからず。
 二、我国の情弊として、従来往々陸海軍反目の傾向あり、海軍協会を創立せんと欲せば、先づ陸軍の感情を緩和する方法を講ぜざるべからず。
 三、本協会は政府之を喜ばず、政府之を喜ばざれば、其の大を為す能はず、故に暫く時機と形勢とを観望するの要あり。
 四、貴族院議員中、本協会の事業に賛成する者尠からざるも、早く自己に相談あらざりしとて、不満の口吻を漏す者あり、故に発起人たるべき勧誘を為すに就きても極めて慎重の考慮を要すべし。
 先生以上の事、皆悉く条理ある好意的忠言なりとせられ、熟々以為らく、是等に対する準備は、従来吾等に於て全然之を欠いた、今より其の準備を進めんとするも、到底短時日の能くする所でない、且つ斯かる準備を欠ける海軍協会は、仮令成立するも小規模無勢力たるに止まるであらう、尚又余が本協会に関与せしに対し、非難の声を聞くやうであるから、旁々以て辞するに若かずとせられたのであつた。是に於て準備委員の間に大恐慌を来たし、頻りに留任を請ふたのであるが先生の辞意頗る固く、遂に六月廿四日を以て、辞任理由書を発起人一同へ送付することゝなつた。
 然るに幸にも先生は心機を一転せられ、本協会の創立急を要するの今日、我輩の辞任に依りて頓挫を来たすが如きは、国家の為に相済まぬ、成敗利鈍は暫く問はず、全力を注いで之に当るべしと決心せられたので、臨時議会の閉会を待たずして、大々的に発起人勧誘状を発送したる結果、九月に至り之を承諾せられたる人員五百五十名に達したるを以て、同月十八日築地水交社に発起人総会を開きて
  本会は、海軍、海運、其の他の海事知識を一般に普及し、併せて海軍力の完成維持に貢献するを目的とすること。此の目的を達せんが為の事業として、調査機関を設け、世界の海軍・海運・造船・漁業等の海産業、並に海洋文化をも包括する諸般の事項を調査研究し会報・雑誌・年鑑・著作等を刊行すること。旦つ毎年五月廿七日の海軍記念日を以て、本会主催の下に各地に集会を開き、海軍其の他の海事思想の鼓吹奨励に努むること
等の規約を議定し、畢つて役員の選挙に移り左の如く指名推薦した。
 名誉会長伯爵樺山資紀。副会長男爵目賀田種太郎。同海軍中将伊地知季珍。
 理事(イロハ順)岩崎達人。橋本太吉。千早正次郎。伯爵川村鉄太郎。竹越与三郎。山科礼蔵。町田豊千代。法学博士松波仁一郎。福永吉之助。寺垣猪三。工学博士須田利信。
 十月三日、築地精養軒に創立発会式を挙げ、徳川頼倫侯・斎藤実男・渋沢栄一男・大倉喜八郎男・近藤廉平男・住友吉左衛門男を名誉会員
 - 第48巻 p.625 -ページ画像 
に推薦し、本会創立趣意書・宣言・仮規約等を議定し、玆に本会の基礎を樹立したるを以て、爾来先生は専ら会務を主宰せらるゝと共に、海防・海事に関する世論の喚起指導に当られ、同年我が海軍に八八艦隊の建造計画あるや、先生は本会の名を以て「海軍充実に関する意見書」を、内閣総理大臣及び大蔵・海軍・農商務の各大臣に提出せられ翌七年一月機関雑誌「海軍協会々報」を発行し、後之を「海之日本」と改題し、同年十二月二日徳川頼倫侯会長に就任せられたる以来、会長を扶けて余勢の発展を図り、大正十三年末に至る迄の間に、神戸・大阪・広島・函館・名古屋・福岡の順序を以て、各支部を設立し、会員の数も亦非常に増加したのであるが、大正十四年五月廿日徳川会長薨去せられ、先生は副会長として霊前に左の弔詞を捧げられた。
  ○弔詞略ス。
 会長薨去後の先生は、再び自ら会務を主宰せられ、更生振興の方策に関して、屡々討議せられたる結果、其の第一着として、社団法人組織に改むることゝし、先生之れが設立委員長と為り、大正十五年一月六日、海軍協会定款許可申請書を其の筋に提出せられ、同月廿六日を以て、海軍及び逓信両大臣より許可の指令があつた。是に於て二月一日水交社に総会を開催し、委員長たる先生より、社団法人設立経過を報告せられ、畢つて役員の選挙に移りたるが、先生は此の機会を以て副会長を辞せられた。是より先、先生病あり、歩行困難なりしも、当日の総会には病を力めて出席し、人の肩に扶けられ、委員長としての責任を果されたる光景は、会員をして覚えず涙を催さしめたのであるが、海軍協会の今日の盛況を致せるもの、斯かる責任感に強き先生の力に俟つもの多大なりしを特筆せねばならぬ。



〔参考〕会員関係書類 【拝啓 来四月二十三日午後二時、京橋区築地水交社ニ於テ定時総会ヲ開催シ…】(DK480171k-0002)
第48巻 p.625 ページ画像

会員関係書類               (渋沢子爵家所蔵)
拝啓
来四月二十三日午後二時、京橋区築地水交社ニ於テ定時総会ヲ開催シ前年度事業及会計報告可致候間御来臨ノ栄ヲ得度、此段御案内申上候
                           敬具
  昭和二年四月十五日
               海軍協会々長 内田嘉吉
    名誉会員
     子爵 渋沢栄一殿