デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
1節 記念事業
8款 静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会
■綱文

第49巻 p.89-98(DK490028k) ページ画像

大正15年10月2日(1926年)

是日栄一、芝増上寺ニ於テ執行セラレタル、静寛院宮五十年法要ニ参列ス。十一月十七日、当会解散ス。


■資料

静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書 第二―五頁刊 【一 緒言 男爵 阪谷芳郎記】(DK490028k-0001)
第49巻 p.89-90 ページ画像

静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書
                       第二―五頁刊
    一 緒言
○上略
八月十九日清水組と工事請負契約を締結す。爾後委員長及実行委員諸氏は、時々工事進行の模様を視察監督す。
八月二十一日御法要に関し注意すべき事項十九ケ条を書し、参考として増上寺に送附す。之は専ら御法要当日に関する事項にして、本会直接の任務にあらず、故に単に参考に供するに止めたり。
十月一日より御法要三日間、余は委員長として出席し、第一日は第一番に焼香し、宮の御墓に参拝す。第二日は委員長の資格を以て御追悼文を朗読し、第三日は宮の御生母橋本氏の墓に参詣す。
十一月十七日発起人諸氏を東京銀行倶楽部に招請し、余は委員長として巨細に収支の計算を報告し、実行委員諸氏の尽力を述べ、責任の解除を得たり。星野錫氏は発起人を代表し、又本多浄厳氏は増上寺を代表し、何れも感謝の挨拶ありて、玆に本会事務の終了を告げたり。
回顧すれば本会設置より御法要当日までの期間短少なりしに拘らず、修理工事完成して堂宇に荘厳を加へ、御儀式の偉観を増大し、数十万の参拝人に満足と強き印象とを与へ、延て国民の思想、就中女子教育上好影響を及ぼしたるは、顕著の事実にして、素より宮の御賢徳と、増上寺関係の明僧知識の御法要執行宜きを得たるに由ると雖も、本会の尽力亦与りて少しとせず、而して本会の諸事円満迅速に進行したるものは其因なしとせざるなり。
其第一は宮に対する国民の同情深厚なりしことにて、寄附金は頗る円満に申込あり、就中婦人界の同情厚く、貴婦人、女学校関係者、其他一般婦人の好意の発露著しく、一例を挙ぐれば、故和田豊治氏母堂、及同氏夫人の如きは、進んで金三千円を寄附せられたり。
次には関係者一同が殆ど献身的に尽力せられし結果にして、即ち渋沢子爵は工事の遅延を恐れ、寄附金不足の場合は自ら負担すべきに付、速に之が進行を図るべしと言明督励せられたることにて、之が為め実行委員は直ちに工事に著手することを得たり。
又東京府会議員、東京市及区会議員、東京商業会議所議員、各区長及各書記長等諸氏は、委員長の書面に接し、大に其趣旨を市民に普及することに尽力せられ、又河井弥八氏は貴族院各派の代表者を説き、右代表者の名を以て華族全般に賛助を求むるの勧誘状を発し、中村藤兵衛氏は衆議院議員間に大に勧誘に力められたり。又実行委員植村澄三
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郎氏の如きは半途病気に冒されしも、臥床するに至るまで勧誘に奔走し、就中、徳川家一門に向て特別の同情を表せらるゝ様勧説せられたり。又同委員星野錫・山本留次・阿部吾市・増田明六・槙忠一郎の五氏は、各方面の交渉、勧誘状の印刷発送、寄附者の勧誘等、一般に渉り頗る尽力せられたり。就中増田氏は右の外会計を、槙氏は庶務を担任せられ、頗る繁忙を極めたるを以て、慰労の方法に付て考慮すべしとの議起りたるも、両氏とも固辞せられたるに依り、本会は両氏の好意を記録に存することゝせり。
工事請負人清水組其他が、昼夜兼行、忠実事に当り、事務員・職工・人夫に至るまで、皆其最善を尽したることは特に記さゞるべからず。又工学博士伊東忠太氏の大体に於ける設計監督、佐々木技師父子の熱心なる設計現場監督の、工事進行上重大なる功労は忘るべからず。
其他実行委員たると否とを問はず、各方面に於ける諸氏の尽力は一々枚挙に遑あらず。而して道重大僧正を初め、本多浄厳、神林周道の諸氏等、増上寺側の本会に与へられたる間接直接の尽力亦尠からざるも増上寺は本会の後援を受くるの地位に立たるゝを以て総て之を省く。終りに臨み、余は特に実行委員諸氏の名を玆に記し、諸氏に対する委員長としての感謝の意を表す。
 工学博士 伊東忠太   池貝庄太郎  星野錫
      植村澄三郎  山本留次   槙忠一郎
      増田明六   阿部吾市   平塚広義
  大正十五年十一月三十日 委員長 男爵 阪谷芳郎記


静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書 第一六―二一頁刊(DK490028k-0002)
第49巻 p.90-91 ページ画像

静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書
                       第一六―二一頁刊
    六 御法要招待状
謹啓 高堂益御清福珍重不斜奉賀候、陳者今回
静寛院宮五十年御法要に際し、奉修道場修理後援の御趣旨より特に多大の御援助を辱し、御蔭を以て天井其他道場の荘厳完備致候段厚く御礼申上候、就ては来る十月二日午前十時当山大殿に於て御法要謹修仕候条、御家族御同伴御差繰御参拝被成下度此段御案内申上候 敬具
             静寛院宮五十年御法要奉賛会長
  大正十五年九月二十五日     大僧正 道重信教
        殿
追て御参拝の節は三門右側通り御成門(黒門)口より御入り受付へ本案内状御示被下度候
    七 御法要次第○略ス
    八 御追悼文
恭しく惟れば
静寛院宮贈一品内親王の盛徳大功は吾が国民の毎に渇仰賛嘆を忘るゝ能はざる所、金枝玉葉の御躬を捧げて君国の艱難を匡済し玉ひ、維新変革の際死を賭して一門の危急を救助し江戸の生霊を靖安し玉ふ、苟くも日本国民として現代の隆運を謳歌するもの、誰か酬答の志なくして可ならんや、矧や東京の市民として特に恵沢に荷負する甚深さに於
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てをや、加之宮の貞烈仁慈は千秋に亘りて吾国民女子の亀鑑と仰ぐ所頽廃漸く兆し女子教育の帰趣動《(趨カ)》もすれば混沌たらんとする時に際して清範宏謨を宮に則り奉るもの実に切なるを見る、今や宮の五十年の台忌に丁り、霊廟奉仕の本山増上寺に於て奉賛の法要を修し奉るに丁り道場の工事未だ完からず、荘厳を欠き崇敬を失するの恐頗る甚しきより、是に於てか有志相謀りて本会を起し普く朝野の縉紳を勧誘して其完成に力め、赤誠集る所真情と合せて今や斧斤急卒に功を収め、玆に聊か報恩酬徳の一端に供し奉るを得たり、嗚呼御遺徳の及ぶ所夫大なる哉、今や盛徳の光被する所奉賛の声海内に溢れ、徳教に及ばすの効果特に著しく、延て外世界に女徳の儀表を示すに至らんとす、鑽仰何ぞ堪んや、謹て辞を捧げて奉賛の衷忱を表す
  大正十五年十月二日
        静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会
                委員長 男爵 阪谷芳郎


(増田明六) 日誌 大正一五年(DK490028k-0003)
第49巻 p.91 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一五年   (増田正純氏所蔵)
十月二日 土 晴                 出勤
前十時増上寺ニ於ける静寛院宮五十年法要ニ参列す
静寛院宮の救世的御事績ハ歴史の示す処なるが、此法要ニ際し菩提寺たる増上寺は、震災以来頽廃極ニ達し惨状黙視すべからさる状態にあり、玆ニ阪谷男爵委員長と為り、実行委員として植村澄三郎・星野錫・山本留次・阿部吾市・槙忠一郎・増田明六の六氏を設け、同寺修繕費予算五万五千余円の寄附金を醵集せしむ、六氏ハ斯くして手分けを為し有志を訪問し予定の資を得、同寺を修繕して本日の法要会場ニ充てしめたる次第なり
法要は頗る荘厳にして若槻総理・岡田文相・粕谷衆議院議長・東京府並市知事、長・東京府会同市会議長並阪谷委員長の弔辞あり、又前記諸氏並徳川家達公・同御家族及渋沢子爵其他参会者の焼香あり
法要の執行ニ付てハ十月一日及二日・三日の三日ニ亘り毎日午前八時午後十時《(前)》・午後二時と三回施行され、其都度参拝者数千人に達せりと云ふ、宮の市民より払はるゝ感謝の意の如何に大なるかを想像する事を得べし○下略


静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書 第三九―四三頁刊(DK490028k-0004)
第49巻 p.91-93 ページ画像

静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書
                        第三九―四三頁刊
    十三 附録
      一 増上寺に於ける御法要奉修の概況
芝岳の松影秋霞は淡く流れて、増上教寺の法堂には一朶の瑞雲が流れて居る。明治四十二年四月炎上した本堂は、二十年の歳月を閲し、国民の義金を集めて第一期の工事を完成したが、たまたま財界の変動期に際会したると、関東大震災の影響をうけて、天井・欄干等は未完成の儘に今日に至つて居たのである。「天井なき道場にて高貴の尊霊を祭祀するは、礼に於て欠くる所なきや」とは、宮五十年御法要奉修に就て道重法主より賛成を求めたる節渋沢子爵・阪谷男爵より発せられ
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たる注意の声であつた。勿論増上寺当事者に於ても、此の一事は夙に恐懼し又辛労する所であつたが、此際寄附金追募の挙に出づるが如きは、御法要の機会を事業完成に利用するとの世間の誤解を慮つて、甚だ心を痛めつつあつたのである。渋沢子爵は増上寺諸堂恢興の後援を意味する増上寺興勝会の副総裁であり、阪谷男爵は其の会長であるから、特に深く此事を憂慮し、本多増上寺建築局長をも招きて熟議の結果、東京市民が宮様から受けたる恩義に酬い奉る為め、全く増上寺との関係を離れ、純然たる市民有志の志として、宮五十年御法要の尊霊前に香華を献ずるの意に代へ、祭祀の礼を整へ尽くす範囲に於て、応急残工事を完成すべき臨時の会を設けることになり、そこで阪谷男爵・東京府知事・東京市長・同高級助役等の会合となり、更に銀行集会所に於ける有志の懇談会となりて、玆に静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会が生まるゝに至つたのである。
斯くて内々陣・内陣・外陣の格天井は張られて、檜の匂ひゆかしく漂ひ、畳・障子は新らしく、尊霊祭祀の荘厳具に備はり、法座自ら静寂森厳の光りを添へ、壇上の灯影静に初秋の気に揺れて、香華堂に薫ずるに至つた。尊牌を中心として、左右には各宮家を始め朝野諸有志の供物が厳かに備へられてある。特に一際眼をひきたるは、各女学校生徒より御供への御香華に代へて献備されたる、宮の御生涯を偲びまつる感想文であつた。大殿の左右には幾張かの天幕が張り詰められ、来会者の休憩接待に備へてある。また本堂前より三門に至る両側、三門を中心に、前方は大門まで、右は芝園橋、左は旧御成門に至る道路の両側には、一斉に高張提灯が建てられ、三門及本堂正面には、紫縮緬又は木綿の染抜き紋幕が繞らされ、来会者の通路に沿へる土塀は鯨幕を以て飾られてある。増上寺黒門を往来に出で、右折三門前電車道に沿うて左すれば、徳川家北霊屋の二天門がある。二天門から入りて文昭院殿の勅額門を過ぎ、直路、御霊屋拝殿前焼香所にて黙礼し、右折御仕切門を潜り、石段を上り、右折又右折、宮御廟の拝殿に達し、之を一匝して御廟門石段下仮設焼香所にて拝礼することになつて居る。三門下及黒門を入りたる所に受付所の設けあり、三門より入る線と黒門より入る線と合する所に、来会者の案内所が設けてある。此の案内所、受付に配置されて、来会者の案内、湯茶接待の任に当つたのは、淑徳高等女学校の女教員・女生徒であつた。斯くて十月一日より三日に亘る宮五十年御法要は盛大に挙行されたのである。
          *
第一日(十月一日)。午前十時、殷々たる梵鐘七下と共に法要の幕は開かれ、各女学校の学生陸続として到著す。軈て京都黒谷大本山金戎光明寺法主郁芳随円僧正、当座の大導師として百六十名の大衆を率ゐ昇殿、式は女学生合唱隊の奉讚唱歌に始り、讚唄、誦経、型の如く進みて、満堂粛然、稀れに見る森厳を極めたものであつた。
同日午後二時よりは、京都大本山百万遍知恩寺法主宮沢説音僧正を大導師として、午前同様の法会が営まれた。当日参列の女学校は神田・東京・山脇・日本橋・女子商業・実践・国華・武蔵野・佐藤・頌栄・桜蔭・日本・府立第六の諸校で、生徒総数五千余名、其他の参列者約
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八千と注せられた。
          *
第二日(十月二日)。此日は御当日の故を以て、特に初中後三時三回の法要が営まるゝことになつて居た。
午前八時よりの法要大導師は、壇林小石川伝通院貫主野沢俊冏僧正、午前十時の法要大導師は道重増上寺法主、午後二時より法要の大導師は、京都総本山知恩院門主山下現有僧正代理同山執事長岩井智海僧正であつた。
午前十時の法要には、特に若槻首相・牧野内府、徳川・粕屋貴衆両院議長《(粕谷)》、平塚東京府知事・伊沢東京市長・東京府市会議長・渋沢子爵・阪谷男爵を始め、朝野各方面の名流、市町村名誉職等、多数の参列あり、若槻首相・岡田文相・衆議院議長・東京府知事・東京市長・東京府市会議長・阪谷本会委員長等、各奉讚追悼文の朗読あり、森厳にして静粛なる空前の盛事と云ふべきものであつた。
当日参列の女学校は、麹町・鶴見・跡見・大妻・府立第一・同第三・同第五・三田・三輪田・錦花・荏原実科・上野・品川・目黒・精華・富坂・京華・東洋家政・成女・順心・女子学習院の諸校で、其外遥に大阪より上京せる夕陽丘・清水谷・大手前・天王寺各校の代表者、並に芝中学校生徒等、其数壱万五千、之に一般参列者を合せて総数三万を超ゆるの盛況を極めたのであつた。又女子学習院参列者中には、北白川美知子女王殿下の御姿を拝した。
此日本会員の参列者に限り、特に白菊の徽章を呈し、一見一般参列者との識別に備へ、同会実行委員諸君接伴に当つた。
          *
第三日(十月三日)。午前十時法要の大導師は、大檀林鎌倉光明寺貫主大門了康僧正であつて、午後二時よりの法要大導師は、大本山清浄華院(京都)法主大野法音僧正であつた。
当日参列の女学校は、淑徳・千代田・東洋・日出・浅草商業・牛込・岩佐・巣鴨家政・慈光・明徳等で、学生六千四百人、主として仏教主義の学校であつて、女子仏教聯盟の名を以て、「女貞」壱対を根附の儘御廟前に備へ、紀念植樹とした。
此の日は婦人団体の参列多数に上り、右女学校生徒を合せて凡そ二万三千と注せられた。
○下略


竜門雑誌 第四五七号・第一―四頁 大正一五年一〇月 和宮様に就て 青淵先生(DK490028k-0005)
第49巻 p.93-96 ページ画像

竜門雑誌  第四五七号・第一―四頁 大正一五年一〇月
    和宮様に就て
                      青淵先生
 和宮様の五十年忌の大法要が芝の増上寺で、十月一日・二日・三日と三日間盛大に行はれました。之を機として増上寺の機関雑誌が「静寛院宮御法要記念号」を発行し、又桑原随旭と云ふ人は、「我国女性最高典型静寛院御事蹟」を発行し、更に婦女新聞も記念特別号を発刊し、其他各新聞や雑誌にも、此のお方の崇敬すべき点、女性として特に偉大であらせられたことを詳細報道して居りますから、御事蹟に就
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ては繰返し申上ぐることを避け、玆には別方面のことを話し度いと思ひます。
 和宮様の御廟は増上寺の徳川十四代将軍家茂公の廟側にありますがこれは徳川家へ御降嫁になつた御方である以上当然のことでありませう。此関係から増上寺の道重大僧正は、和宮様の五十年忌に当つて宮様の如き我国女性の最高典型とも申すべき方の御法要を是非盛大に取行ひ度いと云ふことで、之を阪谷男爵に相談せられた模様で、私にも「然るべく御願ひする」と云つて参りました。私としても是非完全に御法要が行へるやうに致したいものであると答へました。そして道重氏が云ふには、増上寺の本堂は、先年大方の寄附を仰いで立派に建築せられたけれども、天井とか、仏壇とか、畳とか、其他諸種の装飾とかは未だ完備して居ると云ふ訳でないから、斯かる大法要を奉修することが出来ない。と云ふて関係深い増上寺を措て他の場所で御法要を営む訳にも行かない。就てはどうかして増上寺の諸設備を完備したいとのことであつた。其処で之を整へる為めに後援会を組織し寄附金を集めることになつたのは、恰度二ケ月程前のことで、それから十月一日の御法要までには仕上げなければならぬと云ふ訳で、背水の陣と申しませうか、一つの目標を定めて寄附金募集にかゝり、徳川家の関係は勿論、当時の朝廷方の関係者等各方面に相談して、速かに寄附を得幸にも都合よく運んであの盛大なる御法要が首尾よく行はれたのは単に大僧正が安心したのみでなく天下の人が喜んで居る処であります。
 それに付けても想ひ起すのは、和宮様御降嫁の当時のことであります。それは恰度私が廿二歳の時であつたと思ひますが、未だ郷里に居た時代であります。当時御婚儀のことに就ては、私達百姓であつた為め、詳しくは知らなかつたが、所謂政略結婚で実に不都合なことである。悪く云へば公武合体の名に於て和宮様を道具に使つた訳であるとて憤慨して居りました。然しそれはそれとして、御下向は東海道には薩埵峠があるから此の「さつた」と云ふのが縁起が悪いと云ふので、東海道を避けると云ふ噂でありましたが、事実中仙道を御通過になりました。従つて中仙道の駅々では其の近傍の村落から人夫を賦役として出さねばならぬことになり、深谷の駅をお通りの折には私達も出ることになりました。処がこの人夫は初めは農間に出るので、相当の収入になり一種の権利として喜んで居たのでありますが、其の時分になつては呼値は変らぬけれども、度々の貨幣の改鋳で実価が下落し、為めに賦役に出ることは寧ろ迷惑に感ずる様になり、当時は一つの義務と考へる様になつて居りました。此貨幣の価値の下落と申すことはよくあることで、例へば明治初年の十円は此頃の百円にも匹敵する価値のあつたことなども其一つであります。
 私の村は深谷の駅からは相当に隔つて居りますから、曾ては賦役に出る必要がなかつたのでありますが、前に申した様に賦役が義務となつてからは、人夫を出さねばならないことになり、私も駕籠をかつぐ訳ではありませぬが、宰領として出る手筈になつて居りました。然るに私は生憎と病気に罹り、どうしても出ることが出来なくなり、致し方なく、父が代つて参りました。何んでも二晩寝なかつたとかで、父
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は帰つて来て「随分苦しい思をしたが、又よい学問をした」と云ひ、且つ其の御婚儀が政略的でよくないこと、又斯様にして民を苦しめるやうでは幕府は実に宜しくない。などと申しました。是より先私は幕府の秕政を慨し、此有様ではならぬと始終申して居り、よく生意気だとて叱られたものですから、得たりと斯様に申したことを覚えて居ります。「私は病気であつたとは申せ働きもせず、然も貴方が御出下さつて幕府のよろしくないことを実感せられたのは、私として一挙両得でありました。実際幕府のやり方は不都合で、このまゝにして置く訳に参りませぬ。それであるから常に此事を慨いて居ります。」と大いに私の説の実際的に正しいことを繰返し話したことで御座います。
 和宮様御下向後の事は何も知らずに過しましたが、其の内私は一ツ橋の家来とならざるを得なくなり、全然境遇が変化したけれども、依然宮様のことは聞く機会がありませんでした。後になつて御様子を承りますと、内外多事の際早く家茂公に御死別になり、爾後極めて貞淑且厳然たる御行為に出でられたと云ふことを承知し、誠に何と申上げてよろしきやら、只々感心致すのみであります。
 要するに人は誰でも、よい境遇よい身分になりたいと希つて居ります。和宮様の場合を見ると、皇女としてお生れになり、孝明天皇の御妹君として尊崇せられ、御配偶は徳川第十四代将軍家茂公で、二つとない高位高官の方であります。仮令政略結婚とは申せ、一世の果報を集めた方と見ることが出来ませう。処が他の一面からこれを考へますと、世の艱難を一身にまとはれた方であつたと申すことも出来ます。と申すのは、公武の合体を名として或る人々の策略から、人情を無視し、此の御婚儀を御すゝめしたからであり、真に犠牲になられたからであります。
 維新当時のことを顧みますと、雄藩の意見は容易に一致しないと云ふ有様でありました。具体的に申しますと薩州の説には長州が賛成せず、長州の云ふ処には会津藩が全然反対すると云ふ次第で、全く融和することがなかつたのでありました。然るに慶喜公が第十五代将軍の職を継がれ、多少とも幕府改革の曙光が見へかけると、薩・長の如き雄藩の意見が忽ち一致して、幕府に向つて来るやうになりました。慶喜公は早くも此の形勢を御洞察になり、若し何所までも幕府が折れて出ない以上、天下は麻の如く乱れ、元亀・天正の有様を再び見るに至るであらう。然も四辺外国が迫つて居る時勢に斯くの如き騒ぎを惹起することは出来ぬ。此際大政を奉還するに如かずと決意せられ、慶応三年之を断行せられたのであります。これは宮様の問題とは別であるが、兎に角満足ではないまでも、日本が今日世界列強の一つに加はり進歩せる国家として見られるに至つたのは、維新当時間違がなく、其後の処置がよかつたからで、日本人として誇るべき点でありませうがそれは申すも畏い次第でありますが、明治大帝の御徳の然らしむる所であり、慶喜公なり所謂維新の元勲なりの所置のよかつた為めで、其の蔭には和宮様の御働も加はつて居ると申すことも出来るのでありますから、此宮様の大法要が立派に出来るのは、誠に結構なことと申すべきで、此程五十年忌の御法要が滞りなく盛大且厳粛に行はれました
 - 第49巻 p.96 -ページ画像 
ことは、さぞ尊霊もお肯き下さることであらうと思つて居ります。
                       (十月四日談話)


静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書 第一四―一六頁刊(DK490028k-0006)
第49巻 p.96 ページ画像

静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書
                        第一四―一六頁刊
     五 道場修理工事の概要
      工事種別
一 大本山増上寺大殿天井新設工事            一式
一 同     脇壇仮設工事              一式
一 同     天蓋修理及釣込工事           一式
一 同     向拝軒樋及竪樋新設工事         一式
一 同     志納所新設工事             一式
一 同     落縁完成部分木口塗           一式
一 同     両妻非常口手掛新設工事         一式
一 同     背面殿司寮境防火設備工事        一式
一 同     履物掛新設               一式
一 御霊所三ケ所へ提灯建新作              一式
一 御成門廻土塀修築並生子塀新設工事          一式
一 御法要当日道場仮設登桟橋並参道整理砂利敷均工事等  一式
一 境内並大殿床下周囲整理               一式
一 其他雑工事                     一式
        以上
      起工及落成
  大正十五年八月十九日工を起し同年九月三十日落成す
      工事関係者
  顧問             工学博士 伊東忠太
  設計監督者      建築士帝室技芸員 佐々木岩次郎
  現場主任         建築士工学士 佐々木孝之助
  現場係                 竹下常信
  工事請負人    合資会社清水組代表者 清水釘吉
  樋銅物請負人              山本常次
  翠簾作製人               高田茂
          以上


静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書 第二一―三九頁刊(DK490028k-0007)
第49巻 p.96-98 ページ画像

静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会報告書
                       第二一―三九頁刊
    九 収支計算書
      収入の部
一 金五万四千拾六円也      有志参百四拾七名の寄附金
一 金弐拾参円五拾弐銭      銀行当座預け金利息
  合計金五万四千参拾九円五拾弐銭
      支出の部
一 金四万七千弐百九拾円四拾七銭  工事請負人清水組払
   金参万六千六百五拾九円六拾銭   大殿天井新設工事
 - 第49巻 p.97 -ページ画像 
   金壱万六百参拾円八拾七銭    志納所新設外二十件工事費
一 金壱千八百円四拾銭      樋銅物請負人山本常次払
   金壱千八百円四拾銭       銅製軒樋・竪樋調製費
一 金七拾五円          翠簾請負人高田茂払
   金七拾五円           翠簾調製費
一 金参千四百円         工事設計者佐々木岩次郎払
   金参千四百円          工事設計・監督・現場の費用
一 金参百九拾九円        各種印刷費東京印刷会社払
   金百七拾四円          趣旨書・各種書翰等印刷費
   金弐百弐拾五円         本会報告書調製費
一 金参百参拾四円五拾弐銭    諸雑費渋沢事務所其他払
   金百六拾壱円四拾七銭      郵税・収入印紙
   金百七拾参円五銭        筆耕料其他諸雑費
一 金参拾弐円参拾弐銭      銀行当座預金借越利息
   合計金五万参千参百参拾壱円七拾壱銭
収支差引残金七百七円八拾壱銭   増上寺へ寄附
    十 寄附金者氏名表
○上略
 二、〇〇〇、〇〇 子爵渋沢栄一殿   二〇〇、〇〇 渋沢兼子殿
   一〇〇、〇〇   渋沢敦子殿    五〇、〇〇 渋沢美枝子殿
    五〇、〇〇   渋沢鄰子殿    五〇、〇〇 渋沢竹子殿
    五〇、〇〇   渋沢登喜子殿
○下略
    十一 増上寺へ寄贈書
拝啓 益御清適奉賀候、然は今般静寛院宮五十年遠忌御法要奉修の浄業を翼賛し、報恩記念の為め有志相謀り特に後援会を組織して、貴山大殿天井其他左記目録の通修理仕候に付ては、其全部に収支差引残金相添御寄進致候間御受納被下度候、此段得貴意候 敬具
  大正十五年十二月十四日
        静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会
                委員長 男爵 阪谷芳郎
    大本山増上寺住職
    大僧正 道重信教殿

    大本山増上寺大殿天井其他修理工事目録
一 大本山増上寺大殿天井新設工事          一式
一 同     脇壇仮設工事            一式
一 同     天蓋修理及釣込工事         一式
一 同     向拝軒樋及竪樋新設工事       一式
一 同     志納所新設工事           一式
一 同     落縁完成部分木口塗         一式
一 同     両妻非常口手掛新設工事       一式
一 同     背面殿司寮境防火設備工事      一式
一 同     履物掛新設             一式
 - 第49巻 p.98 -ページ画像 
一 御霊所三ケ所へ提灯建新設            一式
一 御成門廻土塀修築並生子塀新設工事        一式
一 御法要当日道場仮設登桟橋並に参道整理砂利敷均工事等
                          一式
一 境内並大殿床下周囲整理             一式
一 其他雑工事                   一式
  本会収支差引残金七百七円八拾壱銭
          以上
    十二 増上寺の謝状
 拝啓 益御清適奉賀候、然は今般静寛院宮五十年遠忌御法要報恩記念として左記目録の通貴会より御寄附被成下忝く受納仕候、仍て当山記録に載せ永遠に御芳志を記念可致候、右領収証に併せ深く感謝の意を表し候 敬具
  大正十五年十二月十五日  東京芝公園
               大本山増上寺住職
                 大僧正 道重信教
 静寛院宮五十年御法要奉修道場修理後援会
    委員長 男爵 阪谷芳郎殿
    (目録略)



〔参考〕(増田明六) 日誌 大正一五年(DK490028k-0008)
第49巻 p.98 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一五年     (増田正純氏所蔵)
十一月十五日 月 晴               出勤
○上略
本日の来訪者
佐々木孝之助 増上寺工事ニ関する件
○下略
  ○中略。
十一月十七日 水 晴               出勤
○上略
正午同処に於ける静寛院宮五十年奉修道場修理後援会の発起人及実行委員会ニ出席
○下略
  ○中略。
十一月廿七日 土 晴               出勤
一時半静寛院宮法要後援会の事で星野錫氏ニ面会種々打合ハセを為す
○下略
  ○中略。
十二月廿一日 火 曇               出勤
○上略
本日の来訪者と其要件
○中略
5、木村淳君 清水組事務員にて静寛院宮御法要五十年道場修理写真帖の件
○下略