デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
16款 成瀬仁蔵墓碑
■綱文

第49巻 p.261(DK490087k) ページ画像

大正10年10月(1921年)

是月栄一、成瀬仁蔵ノ墓碑ノ撰文並ニ揮毫ヲナス。


■資料

成瀬先生伝 桜楓会編 巻頭写真昭和三年四月刊 【成瀬仁蔵君墓碑 渋沢栄一撰并書】(DK490087k-0001)
第49巻 p.261 ページ画像

成瀬先生伝 桜楓会編 巻頭写真昭和三年四月刊
  成瀬仁蔵君墓碑 正二位大勲位公爵 西園寺公望題額
 成瀬仁蔵君は篤信力行彊志事を成すの人なり。余の君と相識れるは往年君が本邦に女子大学を起すの志を立て余に賛同を求めたる時に在り、余は君の達観と熱誠とに感孚して後援を約諾し、爾来二十有余年常に往来して微力を致すを惜まざりしに、今や其人逝きて老友墓誌を撰す。嗚呼哀い哉。君は旧山口藩士成瀬小左衛門の長子、母は秦氏、安政五年周防吉敷に生る。少弱にして父母を喪ひ、孤独克く学に勤め歳十九、山口師範学校を卒業して小学教育に従事す。蓋し君が孤独にして苦学せしは長じて堅忍の人と為るの性を養ひ、君が師範黌に修学せしは他日教育家となるの因を為したるものなり。君夙に本邦に女子高等教育を興すの切要を感じ、明治十一年大阪に梅花女学校を創め、後又新潟に女学校を興し、同二十三年女子教育を研究せんが為めに米国に赴き、居ること四年にして帰朝し、大に女子大学教育の急務を唱へたるも、時論未だ之を容れず、或は之を不急とし、或は之を不要とす、君毫も屈せず、有力者を訪ひて反覆力説、肯諾を得ざれば息まず竟に巨資を募集して明治三十四年日本女子大学校を東京目白台に建設す、是れ実に本邦に於ける女子大学の権輿なり。爾来刻苦経営幾んど二十年、更に拡張して綜合大学と為さんとするの時に当り、不幸病に罹り、大正八年三月四日遂に易簀す、享年六十有二。其病篤きに当り君自ら起たざるを知り力めて講堂に上り、生徒を集めて訣別し、遺嘱するに大学組織の完成を以てす、聴く者皆涙に咽びて感奮せざる莫し四方亦響応して校資頓に増殖し、校基益々固きを加ふ、君の終始一貫身を献げ心を尽すこと此の如し、嗚呼一生一業を成す、既に人の難んずる所、況や世論を排して一大事業を創刱するをや、君は実に本邦教育史に一新紀元を開始したるの人なり。君の死や女学興進の為めに惜むべしと雖も、其の人亡くして其の事存し、而も其の志を継ぐ者あり君以て瞑すべきなり。
  大正十年十月
          正三位勲一等子爵 渋沢栄一撰并書