デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
4節 史蹟保存
4款 西ヶ原一里塚旧蹟二本榎保存碑
■綱文

第49巻 p.324-330(DK490115k) ページ画像

大正5年10月22日(1916年)

是ヨリ先、東京府下滝野川町西ケ原道路上ニ存スル老木二本榎ハ、江戸時代ニ於ケル一里塚ノ旧蹟ナルヲ以テ、栄一及ビ滝野川町長野木隆歓等ノ発起ニヨリ、二本榎保存碑建設ノ企テアリ。是日除幕式挙行セラル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三二二号・第八六頁 大正四年三月 ○西ケ原の一里塚(DK490115k-0001)
第49巻 p.324 ページ画像

竜門雑誌 第三二二号・第八六頁 大正四年三月
○西ケ原の一里塚 東京近郷に於て一里塚の現存するものは、北豊島郡滝野川町大字西ケ原字上ノ台に在る滝野川の一里塚と唱へらるゝものゝみなり、同地は日本橋基点より二里の地点に在るに一里塚とは異様の感なきにあらねども、其の昔し江戸の日本橋を振出しとして一里毎に植樹したる為め一里塚とは呼びたるなれ、そも塚の上には三百余年の樹齢を重ねたる二株の大榎、鬱蒼として天を摩し、坐ろに慶長の昔を語るものゝ如く、炎熱燬くが如き暑中には旅人に取りて絶好の休憩所なりしが、先年市区改正の際、此の紀念すべき好地点を無下にも新道開鑿の為め取払はんとしたり、然るに青淵先生を首め土地の有識者が名勝老樹保存の名の下に斡旋尽力の結果、辛ふじて之を旧態の儘に保存して其の左右に新道を開鑿する事となりぬ、之を機として青淵先生・古河虎之助氏等は率先して寄附金を醵出し、右地域の周囲六百坪を購入して之を東京市に寄附したり、其の趣意は市に於て該地域を飛鳥山公園の一部として永久に之を保存せむことを希望するに在り、左れば市に於ても其の希望を諒とし、开を公園の一部に編入の手続を為したりとは洵に床しき事にぞある。


渋沢栄一 日記 大正四年(DK490115k-0002)
第49巻 p.324 ページ画像

渋沢栄一日記 大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
三月十七日 晴
○上略 三時東京市役所ニ抵リ、高橋助役ニ面会シテ○中略二本榎ノ事○中略
ヲ談ス○下略
   ○中略。
九月八日 晴
午前七時起床、入浴朝飧ヲ畢リ○中略 堀江伝三郎・榎本初五郎氏等来リ二本榎ノ事ヲ談ス○下略


竜門雑誌 第三三四号・第一〇六頁 大正五年三月 ○西ケ原二本榎由緒書(DK490115k-0003)
第49巻 p.324-325 ページ画像

竜門雑誌 第三三四号・第一〇六頁 大正五年三月
○西ケ原二本榎由緒書 府下西ケ原の古跡一里塚は曩に東京市に於て青淵先生等の希望に基き、以て之を飛鳥山公園の所属として永久に保存することとなりたる次第は嘗て本誌に記載したりしが、其の当時文学博士三上参次氏が青淵先生の依頼に依り特に寄せられたる「西ケ原
 - 第49巻 p.325 -ページ画像 
二本榎由緒書」及び書翰は左の如し
 拝啓 益御勇健に渡らせられ候御事大慶の至りに存じ奉り候、さて先日御話の西ケ原一里塚の略由緒書、別紙の通りに認め差上申候、尚詳細の事必要に候はゞ大日本史料第十二篇の二を御覧被下度候、右一里塚を撮影して大日本史料に挿入致し候は明治卅四年の事に有之、其後道路改修のため或は撤去せられんとするやの噂を承り候故驚いて由緒を記して当時の市長尾崎行雄君に贈り再考を求め候処、市長は予も最も保存に同感なれ共、市吏員中にはかゝる方面の事には無頓着なる人多きが故に気遣はし云々の返書有之、甚だ心配致居候処、閣下の一方ならざる御尽力により保存せられ候事と相成り、西ケ原に一段の風趣を加へ候は喜ばしき限りに御座候、尚碑文は飛鳥山のもの等をも御参考相成候て、立派に出来候やう切望の至りに堪へず候 敬具
  大正四年六月廿九日
                     三上参次
    男爵 渋沢栄一殿閣下

      △西ケ原二本榎由緒書
 慶長九年、幕府、東海道・中仙道・奥州街道等重要ナル道路ヲ修理セシメ、又日本橋ヲ中心トシ之ヨリ起算シテ一里毎ニ道ヲ挟ミテ堠塚ヲ築キ榎ヲ植エシメタリ、之ヲ我邦ニ於ケル一里塚ノ初トス、其榎ヲ用ヰシハ並樹ノ松ト混ズルヲ避クルト同時ニ、漢土ニ於テ槐ヲ用ヰシニ模セルナリ、蓋シ榎槐ハ根多クシテ塚ノ崩壊ヲ防グニ利アリト云フ、「好イ木」又ハ「余ノ木」ヲ植ヱヨト命ゼラレシヲ、当事者ガ聞誤リテ榎ヲ植ヱタリトノ説ハ信ジ難シ
 東京府北豊島郡大字西ケ原ニ現存セル一里塚ハ、旧藩府ノ官撰ナル新編武蔵風土記稿ノ豊島郡西ケ原ノ条ニ『一里塚。村ノ北日光御成道ニアリ、日本橋ヨリ爰ニ至ル迄二里』ト記セルモノ是ナリ、日本橋ヨリ第一里ノモノハ駒込追分町ナル中仙道トノ分岐点ニ在リ、即チ今ノ第一高等学校ノ門ト酒舗高崎屋ノ店前ト両側ニ在リシナリ、追分・西ケ原ノ両塚共往々江戸古絵図ニ見ユ
 尚詳細ハ大日本史料慶長九年是歳ノ条(第十二篇ノ二ノ八〇九丁以下)ニ見ユ、西ケ原ノ榎モ撮影シテ其条ニ挿入セリ


読売新聞 第一四一九七号 大正五年一〇月二三日 二本榎保存碑除幕式(DK490115k-0004)
第49巻 p.325-326 ページ画像

読売新聞 第一四一九七号 大正五年一〇月二三日
    二本榎保存碑除幕式
府下西ケ原にある古木二本榎は昔一里塚のありし旧蹟にて、現存せる物としては東京附近にては唯一の老木なるを以て、先頃より渋沢男・吉川男・野木滝野川町長等発起となり、奥田東京市長等の賛助を得てこれが記念碑の建設を企て居りしが、今回竣成せしを以て、昨廿二日午前十一時除幕式を行ひたるが、開会先づ発起人総代野木滝野川町長の挨拶に次で、有馬浅雄氏記念碑の除幕を行ひ、更に三上文学博士・奥田東京市長・井上東京府知事代理・渋沢男等の祝辞演説等ありて、式後渋沢邸に於て盛んなる園遊会を行ひたるが、記念碑に用ひたる石
 - 第49巻 p.326 -ページ画像 
材はもと江戸城の外郭虎の門の石垣に用ひたるものにて、徳川家達公題し、三上文学博士碑文を記したるものなりと


竜門雑誌 第三四二号・第八四―八五頁 大正五年一一月 ○滝野川一里塚保存碑除幕式(DK490115k-0005)
第49巻 p.326 ページ画像

竜門雑誌 第三四二号・第八四―八五頁 大正五年一一月
○滝野川一里塚保存碑除幕式 滝野川一里塚の二本榎が青淵先生を始めとし滝野川町長野木隆歓氏等の尽力に依り、東京市に於て飛鳥山公園の附属地として、永久に之を保存することに決したる次第は嘗て本誌に記載したりしが、之が紀念の為め予て彫刻中なりし「二本榎保存之碑」も愈々出来したるに依り、十月廿二日午前十一時より同所に於て盛大なる除幕式を挙行したり。滝野川小学生の君ケ代奉唱、町長の報告、奥田市長の祝辞、青淵先生の一里塚及二本榎保存に関する一場の演説あり、式後曖依村荘に於て園遊会を開きたる由。二本榎保存之碑は左の如し。
○下略


竜門雑誌 第三四四号・第三一―三五頁 大正六年一月 ○二本榎保存碑除幕式場に於て(DK490115k-0006)
第49巻 p.326-329 ページ画像

竜門雑誌 第三四四号・第三一―三五頁 大正六年一月
    ○二本榎保存碑除幕式場に於て
 本篇は昨年十月廿二日、二本榎保存之碑除幕式場に於ける青淵先生の演説なりとす(編者識)
 閣下。諸君。本日此二本榎保存之碑が出来まして、除幕式も相済み縁故深い三上博士の、御懇切なる御演説を拝聴したのを、一同有難く感謝致します。又東京府知事・東京市長・西閣下から、此挙に関して吾々にまで、御賞賛の辞を以て将来を祝福して下すつたことは、滝野川町の住民として、町長始め諸君と共に厚く謝意を表さなければならぬと思ひます。
 私は滝野川町の寄留者でございますけれども、明治十一年から此地に別荘を持つて居りまして、三十四年からは永住的に居ります為めに或る場合には町民諸君の中にも、近頃お越になつたお方々より、古く住居する者であります。故に本町に属することに対して、是まで何等尽力したことはございませぬけれども、事あつたならば、地方の為に尽したいと云ふの意念は始終蓄へて居ります。学校の建築とか、道路の修繕とか云ふやうなことに就て、多少のお力添をしたことはありますが、未だ何等地方の公益を為したことのないのを深く遺憾と致します。蓋し地方が不足のないゆえに、私の勢力を要さないと申して宜いのでございませう。然るに此の二本榎のことに就きましては、只今三上博士から、先々代の市長尾崎君にまでお話のあつたことを拝承しまして、私は何とかして保存したいものと考へたのでございます。阪谷氏が尾崎君に代つて市長となり、此道路を拡げることに着手した頃に姻戚の関係もございますから、是非三上君の御注意を満足させたいと思うて、阪谷氏に要望を致して置きましたけれども、多忙の為めに充分なる計画を以て頼み置きませなんだから、此広い道路は出来まして二本榎は保存されたが、古跡に値する有様はなかつたのである。諸君も御記憶の如く、此榎の下に一つの貸屋が出来まして、飴菓子でも売るやうなる有様であつた、又向ふの榎の根元には、薪が沢山に積んで
 - 第49巻 p.327 -ページ画像 
ありまして、一朝火でも失したならば、榎は直ちに類焼を受けると云ふ有様であつた、朝夕此樹下を往来する私には、甚だ違却したる感を起しました。玆に於て此二本榎を古跡の有様に保存する工夫はなからうかと、種々考案を致しまして、阪谷氏に協議致したところが、もしも当初より其意見で処理したならば何等かの方法もありしならむも、唯此樹を伐らぬと云ふだけで、其風致を添ふべき程の保存法は攻究をせなんだ。蓋し市も経費を厭ふと云ふからして御尤千万の事である。現市長閣下抔も此経費節約には鋭意お努めのやうでございます。けれども此二本榎にしては其時の儘では吾々が仏造つて魂を入れぬやうな感が致しまして、如何にしたら宜からうかと云ふ評議の末に、先づ樹下の土地を有志者で買収して、これを市に寄附したならば、市は飛鳥山公園の附属地として、永久の掃除も行届くやうにして行くであらうと云ふことを承りまして私は大に喜んで、速に同志を募りまして此土地を買入れ、滝野川市長と熟議して町長より市に出願して、飛鳥山公園附属地として、古跡たるに値する様に存置せしむることを望んだのでございます。同時に一歩を進めて、此道路が御覧の如く広くなつて其の割合には、滝野川の町並は、大厦高堂とまでにはいかぬから、自然道路が寂しいやうな感がする。願くば、此大道路に景色を添ふる為め、両側へ並木を植えると云ふことは、恰も此二本榎を保存して、昔を偲ぶ手段とも相成るであらう。但し松杉を植えたならば宜いかも知れぬけれども、他年繁茂して伐られぬと云ふ限もない、仮令伐れぬでも日光を覆ひ過ぎると云ふ憂があるから相当なる木を植えて戴きたいと云ふので、諸君の御覧の如く、妙義坂から王子町に接するまで、両側に桜の並木が植りましたのでございます。並木が出来ると同時に樹下にも相当なる設備を施して型なりとも公園の形式を存するやうに相成つたのでございます。さてさうなつて見ると之を斯く保存したと云ふことの事実を、将来に示す為には、勢ひ石碑様のものを以て、其事を記載して後年まで湮滅せぬやうにする必要が起りまして、即ち此二本榎保存之碑の玆に建設せられた所以でございます。碑の撰文は縁故深き三上博士にお願ひ申して種々御攻究の上に、最も親切に、深い趣味を以て記述せられたのであります。偖此碑文に付ては吾々は種々協議して、従来の建碑は多く漢文を以てする為め漢学のない者には、読み能はぬのを喜んで居る弊がある。現に飛鳥山の碑を一覧すると直に判ります、山の中央に青い石の碑があるけれども、滝野川町の人でも王子町の人でも其碑の文が読めたら私はお目に懸らぬ。(笑)誰にも読めぬ。第一に碑の文字が古篆である。小篆でも読めぬのに古篆で書いてある。而して其文章が四六文と云ふものだから少しも解りはしない。先刻も滝野川町長此碑をお覚ですかと尋ねましたら、石は見て居るが字は解らぬと言はれた。(笑)私が調べて見ました処では彼の碑は成島鳳郷と云ふ人の撰文で元文二年に徳川八代将軍の時に出来たものでありますが、前に申述べました如く誰にも読めぬから、何時のものやら判らずに居る。建てぬよりは宜いかも知れぬけれども、建つた効能は甚だ乏しい。故に吾々は再三考慮して寧ろ将来に解らぬものを建立するよりも誰が見ても解り得るやうにしたい。是を以て三上博士
 - 第49巻 p.328 -ページ画像 
に請ふて成べく解り得るやうに書いて戴いたのが、即ち此碑文でございます。博士は深く此等の点にお留意下すつて、其文章の末尾には只今御演説にもありましたやうに、樹木は千年経つと霊が生ずる。此二本榎はまだ千年経たぬから、充分なる霊は生ぜぬかも知れぬが、後々は必ず生ずるに違ない。若し霊が生じたならば、吾々の今日の心配を喜んで此町内の人々には必ず福を与へて呉れるであらうと言はれてある。併ながらそれは急に望む訳には行かぬ事と私は思ふのである、而して若し是と反対に此樹を虐待して、或は樹下に薪を積んだり、又は毀損をしたならば、福を与へる程の霊ある榎は、必ず禍を下すであらう、故に滝野川町民は別して、此樹に対して将来を祝福致したいのでございます。又此碑の石に付ては、只今市長の御祝辞にもあつた如く吾々は色々考へて見ましてどう云ふ碑が宜からう、どう云ふ石を撰まむと、一方には経費節約の点もあつたが単に経費の関係よりは、寧ろ縁故あるものを用ゐたいと云ふので、虎の門の土台石を市より頂戴して以て、碑の石としたのであります、蓋し虎の門の建築も、慶長年間であるとすれば二本榎の慶長九年とは接近したるものと思はれます、而して樹木に千年で霊があるならば、石にも霊があると云ふことは、三上君に伺つたら、何か故事があるかも知れませぬ、石と雖も千年経つたら霊ありとするなれば、木石共に徳川家の為めに用ひられたるものであるから、其霊も相共に相談して、是からは永く此滝野川に保存されるを幸福のことだと云うて、吾々が今日斯の如き尽力を喜んで、吾々に福を与へて呉れるに相違ないと思ひます。(拍手)
 序でながら更に一事を申上げます。只今飛鳥山の碑のことを述べましたが、元来何れの地方でも成べく其土地の美景又は便利等各其特長を発揚すると云ふことは、其地方住民の務である。是は文明の度の進む程其仕方が緻密になり、巧妙になりて雅致もあり学理にも適ふといふ様に勉めねばならぬと思ふ。但し楊樹に注連を張つたり榎に絵馬を掛けたりする迷信的行為は私は好みませぬ。けれども古い歴史ある場所に就て、或は樹に或は石に、相当なる理由を以て其湮滅を防ぐと云ふは文明人のせねばならぬことである。試みに王子権現と飛鳥山とを一例とせむに、七百年に近き昔に豊島左衛門尉と云ふ人の神社であつつたが、長い歳月を経て頽廃したのを寛永の十一年徳川三代の将軍が造り更へたのである。其時までは飛鳥山神社と王子の権現とは二つ別れて居たのを寛永の再築に当りて、飛鳥山だけは単に公園となつて神社をば王子権現に合祀したところが、徳川氏の数代を経る間に、又々之が荒廃に属して、即ち元文二年八代将軍が大に心配して、飛鳥山の公園を拡げ、神社には修理を加へ、其祭典の儀式をも厳かにした。其時に建立したのが前に述べた読めぬ石碑である。此読めぬ石碑の為めに其事実が地方に能く伝つて居らぬけれども、兎に角飛鳥山の公園も今日は東京の名勝となつて居る。林国満と云ふ人が、寛政の初めに飛鳥山十二景と云ふ書を著して、名所の風致を賞讚して居ります。斯の如く名所に値する土地に此二本榎を加へたのでありますから、王子なり、滝野川なり、東京なる大都会に接近する所の勝地として、決して恥しくなからうと思ふのでございます。私は前に述べました如く、四
 - 第49巻 p.329 -ページ画像 
十年に近く此地に別荘を持つて居りまして、十数年以来住居しますけれども、滝野川町に対して何等貢献を致しませぬが、幸に此二本榎の為めに聊かながら力を尽すことが出来て、今日此保存碑の除幕式に、市長閣下の尊臨を得、縁故深い三上博士其他地方の諸君が斯の如く多数お集りになつて、共に此挙を喜んで下さると云ふのは此上もない一身の光栄と同時に、此上もない愉快の事でございます。今日此式を終りますと、私の別荘の庭園で粗末なる園遊会を開きまして、其処に模擬店の取設けを為し、且つ余興なども備へて、諸君の一日の歓を御尽し下さるやうなる趣向になつて居ります。蓋し是も私の長くお世話になる滝野川町の諸君に対する謝意を表する為めでございます。どうぞ緩々と園内の御散歩をお願ひ申上げます。玆に謝辞と共に喜びを申述べましたのでございます。(拍手)


滝野川町制二十周年記念滝野川町誌 大島貞吉編 第七九八―七九九頁 昭和八年六月刊(DK490115k-0007)
第49巻 p.329-330 ページ画像

滝野川町制二十周年記念滝野川町誌 大島貞吉編 第七九八―七九九頁 昭和八年六月刊
    一里塚
 西ケ原養蚕糸学校の正門より王子飛鳥山の方面に向つて少しく行けば、道路の真中と側とに大小二本の榎が相向つて立つて居るのを見る古くは何れも樹齢三百年を経た大榎であつたが、其内一方だけ先年枯死したので已むを得ず若木を以て之れに代へ、他の一方のみが今尚旧観を保つて由緒を誇つてゐるが、是れぞ所謂一里塚なるものであつて慶長年中徳川氏の造つたものであるが、大正十五年所有者榎本初五郎氏は有志と共に渋沢栄一子爵に謀つて、附近六百坪の地と共に之を東京市に寄附し飛鳥山公園附属地として保存することゝなつたので、旧江戸城の外廓虎の門の巨石を得て碑を建てた。
 碑文は三上文学博士の撰になり、書は阪正臣氏筆を執り、題額は徳川公爵之に当り、大正十一年三月八日史蹟名勝天然記念物として内務大臣の指定を受けた、榎の大さは左の通りである。
 右方 周囲 一丈三尺七寸 高さ 六丈五尺(先年枯死す)
 左方 周囲 一丈二尺 高さ 五丈
 一里塚の由来、及び是れが今日道路の真中にある理由は、この木の下にある石碑の文に依て明らかであるから、今それをこゝに掲載することにした。
    二本榎保存之碑 公爵徳川家達題
 府下北豊島郡滝野川町大字西ケ原に、幹太く枝茂りて緑蔭地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり、之を二本榎と云ふ。是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして、日本橋元標を距ること第二里の所なりとす。往昔群雄割拠の世、道路久しく梗塞せしが、徳川氏覇府を江戸に開くに当り、先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植え、里毎に塚を置き、塚には榎を植ゑしむ。之を一里塚と云ふ。然るに年を経て塚多くは壊れ、榎も亦斧鉞の厄を免れず、今存するもの甚少し。二本榎は実に其存するものゝ一なり。先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり、一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが、幸にして市の当時者、学者故老の言を納れ、塚を避けて道を造り、以て之を保存せんとの議を
 - 第49巻 p.330 -ページ画像 
決したり。法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び、将来土地の繁栄と共に車馬轥轢、老樹の遂に枯損せん事を慮り、滝野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり、男爵渋沢栄一君最も之に尽し、篤志者の義捐を得て、周辺の地を購ひ、人家を撤して風致を加へ、以て飛鳥山公園の附属地となせり。阪谷市長職を去るに及び、現市長奥田義人君亦善く其事を継承す。今玆工成りて碑を建てんとし、文を予に嘱せらる。予嘗て大日本史料を修め、慶長九年の条に於て一里塚の由緒を記したる事あり。又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり、乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し。惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく、以て国民の分野を卜すべし。幕府治平を講ずるに当り、先づ施設せる所のもの、今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは、実に渋沢男爵、両市長、町長及び諸有志者の力に頼れり。老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん。後の人亦諸君の心を以て心となさば、庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん。
  大正五年六月
                 文学博士 三上参次撰
                      阪正臣書


北豊島郡総覧 北村竜編 (第一版)滝第二四頁 昭和六年三月刊(DK490115k-0008)
第49巻 p.330 ページ画像

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